仮面の警告
ルーカスの非番の日であった。
空は高く澄み渡り、差し込む陽光が、部屋の埃を金色にきらめかせていた。
だが、ルーカスの心は、晴れやかな空とは裏腹に、どんよりとした厚い雲に覆われていた。兄サイラスの存在が、鉛のように重く、思考の上にのしかかっていた。
兄の真意を知りたい。その手がかりを、掴まなければならない。
焦燥感に駆られた彼は、父ギデオンが王宮へと出仕し、屋敷が静まり返ったのを見計らって、そっと自室を抜け出した。向かう先は、父の書斎。あの部屋ならば、兄の最近の動向を示す報告書の一つや二つ、残されているかもしれない。
だが、彼のその淡い期待は、書斎へと続く長い廊下の入り口で、あっけなく打ち砕かれることとなった。
そこに、まるで壁のように、一人の老人が静かに佇んでいたのだ。
この屋敷の全てを取り仕切る執事、ウォルターであった。
「ルーカス様。どちらへ行かれるので?」
その声には、何の感情も含まれていない。ただ、事実を確認するための、事務的な響きだけがあった。
「……いや、少し、散歩を」
「さようでございますか。ですが、この先は旦那様の書斎でございます。旦那様は、誰であろうと許可なく立ち入ることは許さぬ。と、固く申し付けておられます」
ウォルターは、一歩も動かない。その目が言い訳の奥に隠した本心まで見透かしているように、ルーカスは思えた。
ルーカスは、引き下がるしかなかった。この屋敷では、父の命令は絶対であり、ウォルターはその忠実な番犬なのだから。
ルーカスは踵を返し、自室へと戻ろうとした。その時だった。
「違う! このランプじゃない! もっとキラキラしたやつを持ってこいって言っただろ! この役立たず!」
廊下の中庭に面した窓から、甲高い癇癪の声が飛び込んできた。
見れば義弟のノエルが、数人の侍女へ腕を振り回して喚き散らしている。彼の足元には、無残に割れたガラス製のランプの残骸が散らばっていた。
「もうすぐ、お友達を呼んで、すごいサロンを開くんだから! みーんながびっくりするような、一番すごい飾り付けにしなくちゃいけないんだ! 分かったら、さっさと探しに行けよ!」
侍女たちは、青ざめた顔で「申し訳ありません、ノエル様」と繰り返しながら、震える手でガラスの破片を片付けている。
(……またか)
ルーカスは、足を止めた。
何も、変わらない。
あの広場での大惨事も、この屋敷の歪んだ日常の前では、まるで遠い国の出来事のようだ。
ルーカスは、誰にも気づかれぬよう静かにその場を離れた。胸の中に、冷たく、そして重い虚無感が広がっていくのを感じながら。
その夜であった。
ルーカスが自室へと戻ろうと、長い廊下を歩いていた時のことだ。
廊下の突き当り、大きな窓の前で、一人の男が佇んでいた。
灯りもなく、ただ、窓から差し込む冷たい月光を浴びて、その輪郭だけが静かに浮かび上がっていた。
「――兄上……!?」
音もなく、気配もなく、そこに佇んでいたのは、兄のサイラスだった。
ルーカスの心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
「近頃、お前の外出が多すぎるようだ」
感情を削ぎ落とした、静かな声であった。その声は、廊下の冷たい空気と共鳴し、まるで氷の刃のように、ルーカスの肌を突き刺した。
「……兵士の仕事にも、非番はあります。僕がどこで何をしようと、兄上の知ったことではないはずです」
気づけば、反発の言葉が口をついて出ていた。大切な『木漏れ日亭』での日々を、この兄にだけは脅かされたくなかったのだ。行き先がカフェであることを知られているはずはないが、外出そのものを咎められること自体が、彼には耐え難い介入に感じられた。
サイラスは、ルーカスの言葉に反応を示さない。
ただ、その凍てついた瞳で、弟の姿をじっと見つめている。
「……先日の騒動もあり、王都の治安は悪化している。証拠品の一部も、まだ見つかってはいない。捕らえた実行犯の他にも、共犯者がいるのかもしれない。」
(証拠品……あの香炉のことか)
ルーカスは、内心の動揺を悟られぬよう、必死に無表情を装った。
「お前が父上の息子であるという事実は、どうあっても消せん。父上を快く思わぬ、伝統派の残党に狙われぬとも、限らんだろう」
そして、サイラスは言った。
まるで、判決を言い渡すかのように。静かに、冷ややかに。
「身の安全のためだ。しばらくは、王城と屋敷の往復に留めておけ」
それは弟を案じる警告のようでもあり。
そして、その自由を縛り付ける、冷酷な命令のようでもあった。
ルーカスは何も答えられなかった。
サイラスはそんな弟の返事を待つでもなく、す、と身を翻す。そして、ルーカスとすれ違うと、何の音も立てずに、廊下の闇の中へとその姿を消していった。
後に残されたのは、窓から差し込む、あまりにも冷たい月光と、呆然と立ち尽くす、ルーカス一人であった。
彼の心の中で、反発心と拭いきれない疑念が、黒い渦を巻いていた。
(兄上の思い通りになど、なるものか)
警告の真意が何であれ、この息苦しい家にこれ以上閉じ込められるのは、絶対に嫌だった。
ようやく手にした、温かい居場所。
そしてささやかな自由。
それはたとえ兄の命令に背いてでも、ルーカスが自らの手で守り抜かなければならない、最後の砦であった。




