ささやかな抵抗
兄からの、謎めいた警告。
それは、見えない檻がさらに狭まるような、息の詰まる感覚をルーカスにもたらした。サイラスの凍てついた瞳が、まるで幻影のように彼の思考にまとわりついて離れない。監視されている。その事実だけが、冷たい現実として彼の胸に突き刺さっていた。
だが、その圧力が強まれば強まるほど、ルーカスの胸の奥で、小さくも鋭い光を放つ感情が、静かに形を取り始めていた。
(兄上の思い通りにもなるものか)
反発心、であった。
ただ耐え忍ぶだけの日々は、もう終わったのだ。ようやく手にした、あの温かな居場所と、そこへ向かう自由。それを、誰の思惑によっても奪われてなるものか。ルーカスは、この理不尽な圧力を跳ね返すための、ささやかな、しかし確固たる意志のこもった抵抗を試みることを決意した。兵士としての任務の合間に許される、わずかな自由時間。それを最大限に利用するのだと。
その機会は、数日後の昼下がり、思いがけない形で訪れた。
「おーい、ルーカス。すまんが、ちょっといいか」
「バルツ先輩? どうしたんですか、顔色が悪いですよ」
詰所の隅で道具の手入れをしていたルーカスに、気だるげな声をかけてきたのは、先輩兵士のバルツだった。彼は、ひどい頭痛をこらえるかのように、こめかみを押さえている。昨夜、同僚たちと飲み比べていたという噂も聞こえていたから、その原因は火を見るより明らかであった。
「俺はちょっと、頭がガンガンして動けそうになくてな。この落とし物を、持ち主の貴族に届けてきてくれんか? 場所は、お前も知ってる貴族街の南区画だ」
バルツが差し出したのは、銀糸で美しい刺繍が施された、上質な革手袋だった。
それは、ルーカスにとって、まさに天啓にも等しい申し出であった。
兄の命令に背くことなく、誰に咎められることもなく、堂々と城の外へと出られる公的な口実。これを、逃す手はない。
内心の小さな高揚を悟られぬよう、ルーカスは努めて真摯な、そして先輩を気遣う表情を作った。
「分かりました。大変ですね、先輩。ここは僕に任せて、少し休んでいてください」
「おお……悪いな、ルーカス。助かるぜ……」
ルーカスは心の高鳴りを押し隠し、あくまで心配そうに見せながら、そのお使いをうやうやしく引き受けた。
届け物のお使いは、思いのほか、あっさりと済んだ。
貴族街の屋敷の門前で身分を明かし、おどおどした態度の執事に革手袋を手渡すと、それだけでルーカスの「公務」は終了した。
だが、彼はすぐに城へは戻らなかった。
帰り道、彼はほんの少しだけ、決められたルートを外れて遠回りをしたのだ。
向かった先は、貴族街の喧騒から、平民街の活気へと景色が変わる道。その先には彼が焦がれる場所、『木漏れ日亭』がある職人街が広がっている。
ルーカスは道の途中で足を止め、目を閉じた。
遠くから聞こえる、鍛冶師が鉄を打つリズミカルな音。その隙間を縫うように、風が髪をやわらかく撫でていく。
その風に乗って、運ばれてくる気がする。微かな、しかし確かに知っている香り。
リネットが「ルーカスも好きでしょ?」と、いつも淹れてくれるカモミールの、蜜のように甘く柔らかな香り。ルーカスのささくれた心を、ふわりと解きほぐす。
カイが「汚れてると気分が悪いからな」と、ぶっきらぼうに言いながらも、毎日丁寧にカウンターを磨く時に使う、ミントの葉を潰した水の、清涼で爽やかな香り。彼の思考を、すっきりと冴え渡らせる。
そして、店の奥の厨房から漂ってくる、ジェラールが作る焼き菓子の、バターと小麦が焼ける香ばしい匂い。彼の空っぽの胃袋と、孤独な心を温かく満たす。
ここまで香りが届くはずはないと、分かってはいる。直接、店に入ることはできない。あくまで思いを馳せるだけだ。
扉を開ければ、きっといつものように「いらっしゃい」と迎えてくれるだろう笑顔を、今は見ることができない。
だが、それで十分だった。
彼らが今も、あの温かい場所で、変わらない日常を送っていることを感じる。それだけで、彼の心は春の陽だまりのような安らぎで満たされた。
それは、兄の冷たい支配に抗う、ルーカスなりのささやかな証だった。
彼のささやかな反抗は、成功したはずだった。
だが、職人街に背を向け、帰路についていたその時だった。
足元に、一匹の野良猫が、にゃあ、と鳴きながらまとわりついてきた。人懐こい三毛猫だった。
「どうしたの?」
彼が屈んでその頭を撫でてやっていると、猫はもっと撫でろと言わんばかりに、彼の膝にごろごろと頭を擦り付けてくる。
その、ほんの僅かな足止めであった。
キキィィッ、というけたたましい音。
何かがぶつかる硬い金属音と、バリバリと木が砕けるような破壊音。
馬の苦痛に満ちたいななき。
そして、人々の短い悲鳴。
少し離れた大通りから、何やら馬車が暴走でもしているかのような、ただ事ではない騒々しい物音が響いてきたのだ。
(……何だろう? 事故か?)
一瞬、そちらへ向かおうかという考えが、ルーカスの頭をよぎる。兵士として、見過ごしてはならない事態かもしれない。
だが、ルーカスはすぐにその考えを打ち消した。今は、先輩のお使いの途中。自分の管轄外の騒動に、軽率に首を突っ込むのは得策ではない。サイラスに、余計な疑念を抱かせる隙を与えるべきではなかった。それに、すぐに王都の警邏隊が駆けつけるはずだ。
ルーカスは猫に「じゃあね」と小声で別れを告げると、足早にその場を立ち去った。
背後で続く喧騒に、拭いきれない一抹の不安を覚えながらも。
そのときの彼は、まだ知るよしもなかった。
その背後の騒ぎが、やがて彼の日常を、再び、そしていっそう激しく揺るがす嵐の始まりになることを。




