銀色の髪
ごつごつとした石畳に背中を打ち付け、ルーカスは激しく咳き込んだ。
薄暗い路地裏。鼻をつくのは、カビ臭い湿った土の匂いと、生ゴミの腐敗臭。そして何より、彼の右手から漏れ出してくる、人の心をざわつかせる不吉な瘴気。
握りしめた香炉は、まるで呪われた心臓のように、ドクドクと禍々しい脈動を続けている。
(……まずい。このままでは、僕まで完全に飲み込まれる)
頭が割れるように痛い。心の奥底から、黒い怒りの感情が、這い上がってくるのが分かる。
助けを呼びたいが、声が出ない。「こんな狂気のるつぼの中心まで、誰が助けに来てくれるというのか。
絶望が、彼の心を支配しかけた、その時だった。
「――大丈夫!?」
天から降ってきたかのような、明るく、そして必死な声。
はっと顔を上げると、路地の向こう側から、二つの影がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。
息を切らしたリネットと、カイだった。
「リネット!? カイ!? なんで、ここに……!?」
予想外のことに、ルーカスは二人を呼び捨てで呼んでしまった。それに構わず、二人はルーカスのそばに駆け寄った。「店に、野良猫が血相変えて飛び込んできたんだよ! 尋常じゃねえ鳴き方で、こっちの方を指して騒ぐもんだから、こりゃただ事じゃねえって、慌てて飛び出してきたんだ!」
ルーカスは力を振り絞り、香炉をリネットへと差し出した。
「これを!」
暴走する香炉の禍々しい気を前にしても、リネットは少しも怯まなかった。彼女はそれをしっかりと受け取ると、その場にしゃがみ込み、目を閉じて精神を集中させ始める。
だが、事態は一刻を争った。
「おい、まずいぞ! 町の奴らがこっちになだれ込んでくる!」
カイの鋭い声。
見れば、広場での殴り合いに敗れた者や、逃げ場を求める者たちが、雪崩を打ってこの狭い路地裏へと流れ込もうとしていた。このままでは、鎮静化に集中しているリネットが危険に晒される。
「――僕が、壁になります!」
ルーカスは即座に立ち上がり、カイの隣に並んだ。
「はっ、上等だ! 一人より二人の方がいいに決まってる!」
二人は肩を並べ、自らの体を張って、狂乱した群衆の前に立ちはだかった。
「ぐっ……!」
「おらあ、こっちに来るんじゃねえ!」
怒号を上げ、なだれ込んでくる人々の圧力は、想像を絶するものだった。二人は肩を組み、必死に踏ん張るが、じりじりと後退させられる。
その時。
後ろから来た男に突き飛ばされ、ルーカスの身体が、ぐらり、と大きく傾いた。
「危ねえ!」
カイが咄嗟にルーカスの腕を掴む。だが、その反動で、今度はカイの背中が、背後で集中していたリネットの肩に、ごつん、と強くぶつかってしまった。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に、リネットの身体が前のめりになる。
その衝撃で、彼女の茶色の髪が、大きくずれた。
――そして、ルーカスは、見た。
茶髪のウィッグの下から現れたのは、まるで溶かした月光を紡いだような、息をのむほど美しいプラチナブロンドの髪だった。
長い、長い、銀色の髪。
それが、路地裏に差し込むわずかな街灯の光を浴びて、きらきらと、非現実的な輝きを放っている。
(……え?)
それは、ルーカスが知っている快活な看板娘、リネットの姿とは、あまりにもかけ離れていた。高貴で、神秘的で、そしてどこか、近寄りがたいほどの気品を漂わせている。
呆然とする彼の前で、リネットは少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、すぐに真剣な表情に戻ると、香炉に向かって、最後の一言を、はっきりと告げた。
「――大丈夫だよ! もう、怒らなくていいからね!」
するとどうだろう。
それまで禍々しい瘴気を放っていた香炉から、ふわり、と、まるで春のそよ風のような、爽やかで清浄な風が吹き出した。
その風は、路地裏を抜け、広場全体へと広がっていく。
その風に触れた人々は、まるで憑き物が落ちたように、次々と正気を取り戻していった。
「……あれ? 俺は、何を……?」
「痛え……誰だ、俺を殴ったのは……!」
広場を支配していた狂気は、嘘のように霧散していく。
その機を、サイラスが見逃すはずもなかった。
「今だ! 騒動の首謀者どもを確保しろ!」
彼の的確な指示が、ようやく正常に機能し始めた騎士たちに飛ぶ。広場は、急速に秩序を取り戻し始めていた。
「お嬢、今のうちだ! 帰るぞ!」
カイの声に、ルーカスははっとする。
「二人は気づかれないうちに! 僕も持ち場に戻ります!」
ルーカスの声に、リネットはずれたウィッグを慌ててかぶり直し、悪戯っぽく片目をつむった。その顔は、いつもの、ルーカスが知っているリネットだった。
ルーカスは路地の奥へ駆け去るリネットたちを見送り、ルーカス自身は逆に路地の外に出ると、何食わぬ顔で急いで本来の任務――人々の誘導をする兵士たちの列へと、戻っていった。
だが、彼の脳裏には、先ほどの銀色の残像が、焼き付いて離れなかった。
その夜。
ルーカスは自室のベッドの上で、眠れぬ夜を過ごしていた。
兄の、不可解な行動。
そして垣間見た、リネットの神秘的な本当の姿。
事件は終わった。だが、彼の心の中にはこれまで以上に大きく、深い二つの謎が、確かに残されたのだった。




