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獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完/続き準備中】  作者: 相野端摘
宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした

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銀色の髪

 ごつごつとした石畳に背中を打ち付け、ルーカスは激しく咳き込んだ。

 薄暗い路地裏。鼻をつくのは、カビ臭い湿った土の匂いと、生ゴミの腐敗臭。そして何より、彼の右手から漏れ出してくる、人の心をざわつかせる不吉な瘴気。

 握りしめた香炉は、まるで呪われた心臓のように、ドクドクと禍々しい脈動を続けている。

(……まずい。このままでは、僕まで完全に飲み込まれる)

 頭が割れるように痛い。心の奥底から、黒い怒りの感情が、這い上がってくるのが分かる。

 助けを呼びたいが、声が出ない。「こんな狂気のるつぼの中心まで、誰が助けに来てくれるというのか。

 絶望が、彼の心を支配しかけた、その時だった。


「――大丈夫!?」


 天から降ってきたかのような、明るく、そして必死な声。

 はっと顔を上げると、路地の向こう側から、二つの影がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。

 息を切らしたリネットと、カイだった。

「リネット!? カイ!? なんで、ここに……!?」

 予想外のことに、ルーカスは二人を呼び捨てで呼んでしまった。それに構わず、二人はルーカスのそばに駆け寄った。「店に、野良猫が血相変えて飛び込んできたんだよ! 尋常じゃねえ鳴き方で、こっちの方を指して騒ぐもんだから、こりゃただ事じゃねえって、慌てて飛び出してきたんだ!」

 ルーカスは力を振り絞り、香炉をリネットへと差し出した。

「これを!」

 暴走する香炉の禍々しい気を前にしても、リネットは少しも怯まなかった。彼女はそれをしっかりと受け取ると、その場にしゃがみ込み、目を閉じて精神を集中させ始める。

 だが、事態は一刻を争った。

「おい、まずいぞ! 町の奴らがこっちになだれ込んでくる!」

 カイの鋭い声。

 見れば、広場での殴り合いに敗れた者や、逃げ場を求める者たちが、雪崩を打ってこの狭い路地裏へと流れ込もうとしていた。このままでは、鎮静化に集中しているリネットが危険に晒される。

「――僕が、壁になります!」

 ルーカスは即座に立ち上がり、カイの隣に並んだ。

「はっ、上等だ! 一人より二人の方がいいに決まってる!」

 二人は肩を並べ、自らの体を張って、狂乱した群衆の前に立ちはだかった。


「ぐっ……!」

「おらあ、こっちに来るんじゃねえ!」

 怒号を上げ、なだれ込んでくる人々の圧力は、想像を絶するものだった。二人は肩を組み、必死に踏ん張るが、じりじりと後退させられる。

 その時。

 後ろから来た男に突き飛ばされ、ルーカスの身体が、ぐらり、と大きく傾いた。

「危ねえ!」

 カイが咄嗟にルーカスの腕を掴む。だが、その反動で、今度はカイの背中が、背後で集中していたリネットの肩に、ごつん、と強くぶつかってしまった。

「きゃっ!」

 短い悲鳴と共に、リネットの身体が前のめりになる。

 その衝撃で、彼女の茶色の髪が、大きくずれた。


 ――そして、ルーカスは、見た。


 茶髪のウィッグの下から現れたのは、まるで溶かした月光を紡いだような、息をのむほど美しいプラチナブロンドの髪だった。

 長い、長い、銀色の髪。

 それが、路地裏に差し込むわずかな街灯の光を浴びて、きらきらと、非現実的な輝きを放っている。

(……え?)

 それは、ルーカスが知っている快活な看板娘、リネットの姿とは、あまりにもかけ離れていた。高貴で、神秘的で、そしてどこか、近寄りがたいほどの気品を漂わせている。

 呆然とする彼の前で、リネットは少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、すぐに真剣な表情に戻ると、香炉に向かって、最後の一言を、はっきりと告げた。

「――大丈夫だよ! もう、怒らなくていいからね!」


 するとどうだろう。

 それまで禍々しい瘴気を放っていた香炉から、ふわり、と、まるで春のそよ風のような、爽やかで清浄な風が吹き出した。

 その風は、路地裏を抜け、広場全体へと広がっていく。

 その風に触れた人々は、まるで憑き物が落ちたように、次々と正気を取り戻していった。

「……あれ? 俺は、何を……?」

「痛え……誰だ、俺を殴ったのは……!」

 広場を支配していた狂気は、嘘のように霧散していく。

 その機を、サイラスが見逃すはずもなかった。

「今だ! 騒動の首謀者どもを確保しろ!」

 彼の的確な指示が、ようやく正常に機能し始めた騎士たちに飛ぶ。広場は、急速に秩序を取り戻し始めていた。


「お嬢、今のうちだ! 帰るぞ!」

 カイの声に、ルーカスははっとする。

「二人は気づかれないうちに! 僕も持ち場に戻ります!」

 ルーカスの声に、リネットはずれたウィッグを慌ててかぶり直し、悪戯っぽく片目をつむった。その顔は、いつもの、ルーカスが知っているリネットだった。

 ルーカスは路地の奥へ駆け去るリネットたちを見送り、ルーカス自身は逆に路地の外に出ると、何食わぬ顔で急いで本来の任務――人々の誘導をする兵士たちの列へと、戻っていった。

 だが、彼の脳裏には、先ほどの銀色の残像が、焼き付いて離れなかった。


 その夜。

 ルーカスは自室のベッドの上で、眠れぬ夜を過ごしていた。

 兄の、不可解な行動。

 そして垣間見た、リネットの神秘的な本当の姿。

 事件は終わった。だが、彼の心の中にはこれまで以上に大きく、深い二つの謎が、確かに残されたのだった。

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