二つの使命
兄の意図は分からない。
だが、自分が助かったという事実は、確かだった。
呆然と立ち尽くすルーカスの目の前で、広場の混沌は、なおも勢いを増して広がっていた。
彼は岐路に立たされていた。
一つは、兵士としての任務に戻ること。壁際に追い詰められ、怯えている人々を安全な場所へ誘導する。それは、正しい行いだ。上官の命令を遵守し、目の前の無力な人々を救う。誰からも非難されることのない選択だろう。
だが、もう一つ。
ルーカスの脳裏には、あの革鎧の男が香炉を傷つけた瞬間の光景が、焼き付いて離れなかった。
(あの男を、あの香炉を止めなければ、この事件は終わらない!)
元凶を放置したまま避難誘導にあたっても、それはただの対症療法に過ぎない。狂気は次々と伝染し、被害は拡大し続けるだろう。
安全な道か、危険な道か。
命令に従うか、自らの判断を信じるか。
(どうするべきだろう……?)
ルーカスの心に、レーベダイドの民ならば誰もが幼い頃から聞かされる、有翼の獅子様の教えが蘇る。
『真の勇敢とは、困難から逃げぬこと。己の身の安全よりも、守るべき民の安寧を優先すること』
(安全な道を選ぶのは、簡単だ。でも、それで救えるのは、僕の目の前にいる数十人だけ。……でも、あの香炉を止めれば、この広場にいる、全ての人を救えるかもしれない)
そして何より。
(あの香炉だって……望んで人々を巻き込んだわけじゃないはずだ。あの男に、悪用されているだけなんだ。なら、僕が助けてあげなくちゃ)
決断は、一瞬だった。
彼の心は、迷いを振り払った。
「こっちの方が、きっと……!」
彼は誰にともなく呟き、再び狂気の人波の渦へと身を投じた。
だが、その決意をあざ笑うかのように、現実の壁はあまりにも高く、そして皮肉な形で彼の前に立ちはだかった。
「邪魔だ、どけえっ!」
「俺が先だ!」
憎悪に目を血走らせた人々が、互いを突き飛ばし、殴り合う。ルーカスはその間を縫うようにして進もうとするが、狂った群衆の流れは、まるで激流のように彼の行く手を阻んだ。
そして、その激流をさらに複雑にしていたのが、他ならぬ兄サイラスの的確すぎる指揮だった。
「第一隊は前へ! 中央の暴徒を演台から引き離せ! 第二隊は左右に展開し、人の壁を作れ! 民衆を広場の外へ逃がすな、パニックが市街地全域に広がるぞ!」
サイラスの命令一下、統率された騎士たちが馬を巧みに操り、人の流れを分断していく。それは、混乱を収束させるためには最善の策だった。だが、その結果として生まれた巨大な人の壁は、中心部へ向かおうとするルーカスにとって、乗り越えようのない物理的な障害となったのだ。
「くっ……!」
焦りが、彼の冷静さを少しずつ奪っていく。彼は無理やり、人の壁の隙間に体をねじ込もうとした。
「押すな!」「危ないだろ!」
その行動が、さらなるパニックの火種となる。ルーカスの周囲で、数人の民衆がバランスを崩し、将棋倒しになりかけた。悲鳴と怒号が、耳のすぐそばで渦を巻いていた。自分の行動が、かえって事態を悪化させてしまった。その事実に、彼は歯噛みするしかなかった。
さらに悪いことに、サイラスの騎士隊も、もはや限界に近づいていた。
「気を確かに持て! 我らは獅子の牙たる王の騎士だ! その誇りを忘れたか!」
サイラスの叱咤が飛ぶ。だが、絶えず吹き付ける香炉の風は、屈強な騎士たちの理性さえも確実に蝕み始めていたのだ。
「前進だと言っている! なぜ後退する!」
「申し訳ありません、サイラス様! ですが、あの男が……!」
命令を聞き間違える者。敵意に満ちた目で、鎮圧対象であるはずの貴族を睨みつける者。香炉の風に当てられた軍馬が、興奮して前足を振り上げ、いななき始める。統制は、もはや崩壊寸前だった。このままでは、治安を守るはずの騎士隊が、新たな狂気の火種になりかねない。一刻の猶予もなかった。
(早く……! 早く、あの男を見つけないと!)
ルーカスは、人をかき分けるのではなく、人波の圧力に身を任せ、流されるようにして広場の中心部を目指した。時折、誰かの肘が脇腹に入り、誰かの足が彼の足を蹴りつける。だが、彼は歯を食いしばり、ただひたすらに、あの革鎧の背中を探し続けた。
その姿は、混沌の中心近くにいた。
革鎧の男は、もはや理性を失っていた。彼は片手に持った香炉を振りかざしながら、もう片方の手で、目についた貴族に殴りかかっていた。
「お前だ! お前が、俺を嘲笑っただろう!」
「ひいっ! やめろ!」
「うるさい! 偉そうにしやがって! 俺が不幸なのは、全部お前たちのせいだ!」
香炉の影響で、彼自身の内にあった不満や怒りが、完全に暴走しているのだ。
ルーカスは、その光景を見て、確信した。
(……あの香炉は、きっと泣いている)
香炉に住む妖精が傷つけられた相手は、皮鎧の男だけだ。なのに、持ち主である男の怒りを増幅させ、周囲の人々の怒りを増幅させ、そして、自分自身の悲鳴さえも、増幅させている。
だからこそ、止めなければならない。
この男のためにも。そして、利用されているだけの、哀れな妖精のためにも。
ルーカスは、好機を待った。
男が、別の誰かに殴りかかろうと、大きく腕を振り上げた瞬間。彼の背後から、巨大な人の波が、ぐわり、と押し寄せてきた。
(――今だ!!)
彼は、その巨大な圧力に、自らの体重を乗せた。
それは、もはや彼一人の力ではない。広場に渦巻く、数千人の狂気のエネルギーそのものだった。
「ぐおおっ!?」
背後から、予測不能のタイミングで突き飛ばされた男は、たまらず前へとつんのめる。
その瞬間、彼の右手から、香炉が飛び出して宙を舞った。
スローモーションのような光景の中、ルーカスは必死に手を伸ばす。
指先が、冷たい金属の感触を捉えた。
(……掴んだ!)
だが、安堵したのも束の間。香炉を掴んだ彼の身体は、人の波に成すすべなく揉みくちゃにされ、押し流されていく。
「がはっ……!」
息ができない。意識が遠のきかけた、その時。
彼の身体は、まるで人ごみの中から吐き出されるように、近くの路地裏へごろんと転がり込んだ。
全身を打ち付けた痛みで、ルーカスは咳き込んだ。
だが、その右手には、いまだ不吉な風を漏らす香炉が、確かに握られていた。
彼は一人、この騒乱の元凶を、その手に確保したのだ。
しかし、周囲に味方は誰もいない。彼は、狂気の嵐の中で、完全に孤立していた。




