混沌の風
集会当日。
王宮前広場は、朝から異様な熱気が立ちこめていた。
伝統派の象徴である真紅の旗が、広場のあちこちで風にはためいている。その旗の下に集った数百人の貴族たちの顔は、皆、一様に強張り、これから始まる集会に備え、決意をみなぎらせていた
広場をぐるりと取り囲むように、数多くの野次馬の民衆が集まっている。彼らは、これから始まるであろう貴族たちの醜聞を期待する者、日頃の不満をこの機に晴らそうとする者、ただ面白半分で見に来た者、様々だった。
建物の屋根の上や、窓枠の隅では、王都に住まう野良猫たちが、まるで高みの見物を決め込むかのように、静かに眼下の喧騒を見下ろしている。
ルーカスは、広場の外周にずらりと並んだ警備兵の一人として、押し寄せる人の波を必死に押し返していた。
「危ないですから、下がってください! これ以上は前に進まないでください!」
だが、興奮した群衆に、彼の声はほとんど届いていない。彼の役目は、貴族と平民が交わらないようにするための、あまりに頼りない防波堤に過ぎなかった。
ルーカスの視線は、時折、広場の中心部へと向けられる。
ボルコフ伯爵が立つ演台のすぐ近く。一頭の白馬の上で、兄のサイラスが、氷の仮面を被ったかのように微動だにせず、群衆を睥睨していた。
(兄上は、この光景を、どういう気持ちで見ているんだろう……)
その冷徹な横顔からは、何の感情も読み取れなかった。
「聞け、同志たちよ!」
やがて、ボルコフ伯爵の朗々とした声が、広場に響き渡った。
「我らが愛するレーベダイドは今、異国の妖術によって汚され、堕落の一途を辿っている! 獅子様の教えを忘れた繁栄派どもは、目先の利益に目が眩み、国を滅びの道へと導こうとしているのだ!」
伯爵の扇動的な演説に、伝統派の貴族たちが「そうだ、そうだ!」「妖精憑きを追放せよ!」と拳を突き上げ、野次馬の民衆もそれに煽られて、ますます騒ぎが大きくなっていく。
ルーカスが、群衆の整理に追われていた、その時だった。
兄サイラスを見ていた、ルーカスの視界の隅、群衆の中に一人だけ明らかに異質な空気を纏う男の姿が映った。
日に焼けた肌。目の上を走る古い傷。そして、周囲の熱狂から完全に切り離されたかのような、冷え切った瞳。男は、使い古された革鎧を身につけていた。
(あの男は……? 貴族ではない。一体、何者だ?)
ルーカスがそう思った、まさにその瞬間。
男は懐から取り出した小さな石を、もう一方の手に隠し持っていた古びた香炉に、強く叩きつけたように見えた。
カキン、という乾いた音が、広場の喧騒にかき消される。
直後だった。
――突風が、吹いた。
香炉から、異様な匂いの透明な風が渦を巻いて立ち上り、瞬く間に広場全体へと吹き荒れたのだ。
その風が肌を撫でた瞬間、ルーカスの頭の中に、これまで心の奥底に無理やり押し込めてきた、黒い感情が一斉にあふれ出した。
(閣下が、悪いんだ! 僕を認めないあの人が! 兄上だってそうだ! いつも僕を見下して!)
憎しみ。妬み。怒り。それらが、彼の理性を麻痺させていく。隣にいる兵士が、邪魔だ。突き飛ばしてやろうか。いや、殴りつけてもいい。そうだ、そうしてやる。
彼が、無意識のうちに拳を握りしめた、その時。
「ニャッ!」
鋭い鳴き声と共に、ルーカスの頬を、何かが素早く掠めていった。
はっと我に返ると、いつの間にか建物の屋根にいた一匹のサビ猫が、ルーカスの足に両手を乗せ、そしてすぐに走り去っていった。頬に猫の爪で引っかかれた、かすかな熱が残る。
そして、ルーカスは気づいた。
(……今、僕は、何を……?)
隣に立つ同僚に、殺意にも似た感情を抱いていた自分。その異常さに気づいた瞬間、全身から血の気が引いていった。
そして彼は、恐る恐る、周囲を見渡した。
そこは、地獄だった。
「この売国奴めが!」
「お前こそ、時代遅れの穀潰しだ!」
「うるさい、黙れ! 俺の言うことを聞け!」
「ふざけるな! 殺してやる!」
さっきまで同じ旗の下で拳を突き上げていた伝統派の貴族たちが、今は互いの胸ぐらを掴み、罵り合っている。野次馬だったはずの民衆も、些細なことで言い争いを始め、殴り合いにまで発展している。
広場は、憎悪と怒号が満ちる、巨大な狂気の坩堝と化していた。
「うあっ!?」
正気を失った人の波は、容赦なくルーカスへと襲いかかった。彼はなすすべもなく突き飛ばされ、地面に強く背中を打ちつける。
(……潰される!)
無数の足が、彼を踏みつけようと迫ってくる。その時だった。
「怯むな! 隊列を組め! 群衆を東西に分断しろ!」
兄、サイラスの凛とした声が響き渡った。その声には、香炉の影響か、わずかな苛立ちの色が混じってはいたが、指揮は依然として冷静で的確だった。
その声に、我に返った騎士たちが一斉に動き出す。重装備の馬が壁となり、狂乱した人々の流れを、強引に左右へと変えていく。
そしてルーカスは気づいた。
なぜか自分の周囲だけ、人の波が不自然に避けているのだ。
騎士隊の動きは人の流れを変えて、結果として、彼の周りには奇跡的な安全地帯が生まれていた。
ルーカスは、呆然としながらも、何とか立ち上がった。
そして、混乱の中心で冷静に馬を駆る、兄の姿を見つめた。
混乱の中心は、ボルコフ伯爵がいる演台のあたりのはずだ。鎮圧するなら、あちらが先ではないのか。なぜ、最初に、優先度の低いはずの、この広場の外周部の混乱が収まったのだろう?
偶然か? それとも……?
サイラスの不可解な行動の意図を測りかねたまま、ルーカスは、騎士たちが作ったわずかな空間を利用して、よろよろと立ち上がった。
これは、ただ運が良かっただけなのかもしれない。
だが、彼の頭の片隅には、拭いきれない小さな疑問の種が、確かに植え付けられていた。




