嵐の前夜
『木漏れ日亭』で過ごす穏やかな時間が続く一方で、外の世界の空気は、日に日に険しさを増していった。
伝統派と繁栄派。水と油のように決して交わらない二つの派閥の対立は、王都全体の空気を不穏に、重く淀ませ始めていた。
ルーカスが王城の門で守衛任務に就いていたある日の午後。
一台の豪華な馬車が、城から出てきた別の馬車と鉢合わせになり、狭い馬車寄せで睨み合っていた。どちらも道を譲る気はないらしい。やがて、それぞれの馬車の窓から顔を出した若い貴族たちが、互いの派閥を象徴する色のハンカチをこれ見よがしに振りながら、互いに声を張り上げて罵り合いを始めた。
「いつまでも古臭い獅子様の栄光にばかり縋っているから、西方の砂漠化に手も足も出んのだ! 妖精憑きという即効性ある力があればこそ、穀倉地帯の壊滅という最悪の事態を食い止め、これしきの被害で済んでいるという現実を直視したらどうだ!」
繁栄派の象徴である緑のハンカチを振る貴族の主張に、伝統派の真紅のハンカチを持つ貴族が、顔を真っ赤にして反論する。
「目先の利益に目が眩んだ愚か者め! その妖精憑きとやらが、西の果てで何を引き起こしているか知らんわけではあるまい! 町五つを飲み込み、田畑の土を削り、今も呪いの雨を降らせ続けるあの『涙の沼』は、もはや人の住める場所ではないと聞くぞ! あれは危険すぎる、制御不能の力なのだ!」
「一部の失敗例を針小棒大に騒ぎ立てるな! 大いなる力には多少のリスクが伴うのは当然だろう!」
「その一部が、国を滅ぼすのだと何度言ったら分かる! 貴様らは、獅子様の教えである『正々堂々』を忘れ、安易な力に溺れているだけだ!」
「戯言を! 伝統だの教えだのと、腹の膨れぬ言葉を並べている間に、民が飢えることになっても良いと申すか!」
聞くに堪えない罵詈雑言の応酬。
結局、衛兵が駆けつけるまで続いたその醜い口論を、ルーカスはただ無言で見つめていた。
(……どっちの言い分も、一理ある。でも、どっちも、自分たちの正しさを証明するために、自分たちに都合の良い事実だけを切り取って、相手に投げつけているだけだ。本当の意味で、国や民のことを考えている人は、この中にいるんだろうか……)
ルーカスの胸に、黒く渦巻くような、嵐が近づいているという確かな予感があった。
その予感は、数日後に現実のものとなった。
王城の掲示板に、一枚の布告が張り出されたのだ。
『伝統派の筆頭、ボルコフ伯爵主催による、妖精憑き政策への抗議集会を、王宮前広場にて執り行う』
ついに、燻り続けていた火種が、公然と燃え上がったのだ。
集会の規模が大きいため、王城守備隊にも警備に協力するよう命令が下された。ルーカスも、その一員に名を連ねることになった。
ルーカスはその日のうちに、少しだけ早く帰らせてもらい、『木漏れ日亭』へと急いだ。
カラン、といつもより少しだけ重い音を立てて店の扉を開けると、リネットが心配そうな顔で彼を迎えた。
「ルーカスさん! 布告、見たよ……!」
「はい。それで、急いで来ました」
店の奥のテーブルでは、ジェラールが黙って腕を組み、カイは忌々しげに舌打ちをしている。いつもの穏やかな空気は、どこにもなかった。
ルーカスは、自分が知り得た全ての情報を、正確に仲間たちに伝えた。
「僕たちの部隊は、主に広場の外周警備を担当します。集会に集まった貴族たちと、周囲の平民たちが接触しないように、人の流れを整理するのが主な任務です」
そして、最も重要な情報を付け加える。
「集会の監視と、万が一の際の鎮圧部隊の指揮は、サイラス兄上が担当することになっています。ですので、広場の中心部は特に……危険です」
その報告を聞き終えたジェラールは、黙ってリネットの方へと向き直った。
そして、これまでルーカスが一度も聞いたことのない、真に迫った厳しい口調で、彼女に言った。
「リネット」
「……はい」
「いいね。当日は、決して、何があっても、広場に近づいてはいけないよ。危険だからね」
その瞳は、有無を言わせぬ強い光を宿していた。
ただでさえ暴動の危険がある場所に、少女を行かせるわけにはいかない。そして何より、彼らは、妖精憑きに深く関わるシルヴァの生き残りなのだ。その息子であるサイラスが指揮を執る場所に、リネットを近づかせるなど、命を捨てるも同然。ジェラールは、その危うさを誰よりも理解していた。
リネットも、ジェラールのただならぬ気配を察し、こくりと静かに頷いた。
「……うん。分かってる。お店で、おとなしくしてる」
そして、彼女は少しだけ悲しそうな顔で、窓の外、遥か西の空を見つめるように呟いた。
「西の果てで、ずっと怒っているあの子のことも……いつか、私が助けに行ってあげなくちゃいけないんだけどな……」
「その『いつか』のためにも、今は動く時ではない」
ジェラールの声は、どこまでも厳しかった。「いいね、リネット」
「……うん、ジェラール」
リネットはもう一度、今度ははっきりと頷いた。
リネットが素直に聞き入れたことで、ルーカスは、仲間たちを直接的な危険から遠ざけることができたと、心の底から安堵した。
だが、その安堵と同時に、彼の心には、サイラスへの拭いきれない不信と、言いようのない嫌悪感が渦巻いていた。
(兄上は、閣下の意向を受けて、集会を弾圧する側の人間なんだ)
あの醜い権力争いの、中心にいる存在。
自分にできることは、ただ一つ。
兵士として、この騒ぎに巻き込まれるであろう、何も罪のない街の人々を、一人でも多く守ることだけだ。
彼は、自らの鎧の胸当てをぎゅっと握りしめ、静かに決意を固めた。
運命の日は、もう目前に迫っていた。




