交錯する思惑
次の非番の日、ルーカスは朝一番に『木漏れ日亭』の扉を叩いた。
カラン、という軽やかなベルの音と共に、いつもの温かいハーブの香りが彼を迎える。
「おはよう、ルーカスさん!」
「よう。早いじゃねえか」
カウンターの向こうで仕込みをしていたリネットとカイが、笑顔で手を振った。ジェラールも穏やかな目で、「よく来たね」と頷いた。ロッキングチェアでは、王者の風格でレオンがあくびをしている。
自然な歓迎。その温かさに、ルーカスは思わず頬を緩ませた。
だが、彼が王城での一件――『幽霊騒ぎ』の詳細を皆に報告し始めると、店の穏やかな空気が、一瞬にして張りつめた。
「囁き声……貴族街第六区画……間違いない、妖精憑きの暴走だな」
ジェラールは腕を組み、険しい顔で目を閉じた。リネットさんの顔からも、笑顔が消えている。
「でも、どうやって回収するの? 貴族街なんて、昼間でも警備が厳しいのに……夜間巡回が強化されてるんじゃ、私たちみたいな平民がうろついてたら、すぐに捕まっちゃうよ」
リネットの懸念はもっともなことだった。平民と貴族の居住区は明確に分かれており、特に夜間、理由なく平民が貴族街に立ち入ることは、固く禁じられている。
作戦は、早くも暗礁に乗り上げてしまった。
重い沈黙が、店に落ちる。
その沈黙を破ったのは、ルーカスだった。
「……あの」
彼は、震えそうになる声を必死に抑え、三人の顔をまっすぐに見つめて、言った。
「僕も、その夜間巡回の任務に就くことになっています」
「「えっ!?」」
リネットさんとカイが、同時に驚きの声を上げる。
「兵士としてなら……僕は、貴族街を怪しまれずに歩くことができます。もし、僕一人で見つけ出すことができれば、それが一番安全です。もし見つけられなくても、巡回の交代時間や、警備が手薄になる場所を調べて……皆さんが安全に入れるルートを、僕が調べることもできます」
それは、公的な任務を、完全に私的に利用するという提案。見つかれば、ただでは済まないだろう。もしかしたら、兵士の職も、このささやかな自由すらも、失うことになるかもしれない。
だが、彼の心に迷いはなかった。
(怖い。でも、これは、僕だからこそできることなんだ)
初めて仲間たちの役に立てる。その思いが、彼の恐怖を上回っていた。
「ルーカス君」
ジェラールが静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
「君が危険を冒す必要はない。これは、我々の問題だ」
「いいえ!」
ルーカスは、思わず声を張り上げていた。
「僕の問題でも、あります! 僕は、この店の仕入れ係ですから! それに……僕だからこそ、役に立てることが、きっとあるはずです!」
その必死で、しかし揺るぎない眼差しを、ジェラールはしばらく黙って見つめていた。
やがて彼は、ふう、と息を吐くと、意外な言葉を口にした。
「……話は分かった。だが、即断はできん。少し頭を冷やそう。……ルーカス君、すまないが、いつものように市場へ買い出しに行ってきてはくれんかね? ちょうど、人参が切れそうだった」
それは、遠回しな拒絶のようにも聞こえた。
ルーカスは一瞬、表情を曇らせたが、すぐに「……わかりました」と力なく頷き、買い物かごを手に店を後にした。
カラン、と寂しげに鳴るベルの音が、彼の背中を見送った。
ルーカスが市場から戻ったとき、店の中では、リネットさんとカイ、そしてジェラールが、真剣な顔でテーブルを囲んでいた。彼が戻ってきたことに気づくと、三人は顔を見合わせ、ジェラールが代表して口を開いた。
「……ルーカス君。君の提案、受けさせてもらおう」
「! 本当ですか!?」
「ああ。君の覚悟、そして何より、仲間を思うその心を、我々は信じることにした」
その言葉に、ルーカスは心の底から安堵し、嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
「ありがとう、ルーカスさん! すっごく心強いよ!」
「へっ、やるじゃねえか。ちょっと見直したぜ」
リネットさんとカイも、笑顔で彼の勇気を称えてくれる。
その時、それまでロッキングチェアで全てのやり取りを見ていたレオンが、一度だけ、にゃあと鳴いた。それはまるで、「お前の働きに期待しているぞ」と、王が騎士を激励するかのような、威厳に満ちた鳴き声だった。
だが、その高揚感は、一本の冷たい声によってあっけなく打ち砕かれることになる。
夜、自室へ戻る途中、父の書斎の前を通りかかったルーカスは、中から漏れ聞こえてくる声に、思わず足を止めた。
父ギデオンと、兄サイラスの声だ。
好奇心からではなかった。ただ、胸騒ぎがしたのだ。
彼は壁に身を寄せ、息を殺して、その会話に耳を澄ませた。
「……以上の通りです、父上。伝統派どもの動向は、私が抜かり無く把握しております」
氷のように冷たい、サイラスの声。
「うむ。私の意向に背く者は、誰であろうと、容赦する必要はない。分かっているな、サイラス」
「は。父上の御心に背く者は、たとえ誰であろうと、私がこの手で排除しましょう。全ては、ファビウス家と、この国の安寧のため」
……兄上は、やっぱり。
ルーカスは、血の気が引いていくのを感じた。
伝統派を、排除する? それは、穏やかな言葉ではなかった。父の非情な計画に、兄は疑問の一つも抱かず、その忠実な駒として、冷酷に手を下そうとしている。
サイラスは直接手を下さなかっただけで、父と同じ側の人間なのだ。
ルーカスは、ぎゅっと唇をかみしめた。
そして一つの、燃えるような決意へと変わった。
(リネットさんたちのことは……僕らの『木漏れ日亭』のことは、絶対に、兄上にだけは知られてはならない)
サイラスは――敵なのだ。
彼はその冷たい事実を胸に刻みつけると、音を立てないよう、静かにその場を離れた。




