闇夜の連携
作戦が決行されたのは、それから数日後の静かな夜だった。
貴族の壮麗な屋敷が立ち並ぶその一角は、昼間の華やかさが嘘のように、まるで墓場のような不気味な静寂に包まれていた。磨き上げられた石畳が、月の光を鈍く反射している。時折、闇から闇へと駆け抜けていく野良猫の影だけが、この街で唯一の生き物の気配だった。
そんな静寂の中を、二つの影がゆっくりと進んでいく。
王城の兵士であるルーカスと、その先輩、バルツだ。
「……しかし、気味の悪い話もあったもんだな、幽霊騒ぎとはよ」
バルツは、大きなあくびを一つしながら、面倒くさそうにぼやいた。
「ただでさえ夜の貴族街ってのは静かすぎるってのに、こんな噂が立ったんじゃあ、使用人たちも落ち着かねえだろうな」
「……そう、ですね」
ルーカスは、内心の緊張を悟られぬよう、当たり障りのない相槌を打つ。その間も、彼の五感は最大限に研ぎ澄まされていた。
(どこだ……? 囁き声は、どこから聞こえてる……?)
ルーカスとバルツは、まず貴族たちが使う表門が並ぶ大通りを二人で巡回する。その後、使用人が使う裏口につながる細い路地を分担して確認する、という手順になっていた。
異変が起きているのは細い路地の方だ。ルーカスは一人になった隙に路地を捜索する。リネットたちも、今頃は巡回の隙を縫って捜索しているはずだ。
「よし、ルーカス。俺はあっちの区画まで見てくる。お前はこっち側を頼む。何かあったら、笛を鳴らせよ」
「はい!」
予定通りだった。バルツの背中が角を曲がって見えなくなるのを確認すると、ルーカスは即座に耳を澄ませ、囁き声が最も強く聞こえてくる路地裏へと、音を立てずに駆け出した。
路地裏へ一歩踏み込んだ瞬間、ひやりと空気が変わったのを感じた。
『……あの方、最近羽振りがいいけど、どこかから賄賂でも受け取ってるのかしら……』
『……旦那様ったら、また夜中にこっそり、お酒を飲んでたわ……』
どこからともなく、くぐもった複数の男女の声が、ぼんやりと響いてくる。それは悪意というより、日々の生活の中で積み重なった、人々のささやかな愚痴や秘密の塊だった。
彼は神経を研ぎ澄まし、声が一番強く聞こえる方向へと、慎重に歩を進めていく。
(落ち着け……。どこだ? どこから聞こえてくる?)
彼は壁を伝いながら、ゆっくりと先へ進んだ。湿った苔の匂いと、どこかの家の厨房から漏れ出す残飯の匂いが混じり合って、鼻をつく。
闇に目が慣れてきた、その時だった。
生け垣の奥、枝葉の隙間で、何かが、ちかりと微かに光を返した。
(……あった!)
彼は、逸る心を抑えてそっと手を伸ばした。指先に、ひんやりとした金属の感触。慎重に取り出してみると、それは月光の下で、鈍い銀色の光を放っていた。
針と羽根の部分が歪んでしまった、妖精をかたどった繊細な作りのアンティークブローチ。
これだ。これが、囁き声の源だ。
ルーカスがそれを手に取った瞬間、ブローチが、ぶるぶると、まるで寒さに震える小動物のように、かすかに振動を始めた。
(……怖がってるのか?)
彼は無意識のうちに、ブローチを両手でそっと包み込んでいた。
そして、リネットがやっていたのを思い出しながら、できるだけ優しい声で、語りかけた。
「……もう大丈夫だよ。怖かったね。他の妖精もいるところへ連れて行ってあげるから」
その言葉が届いたのか、ブローチの震えがほんの少しだけ、おさまったような気がした。
同時に、彼の頭に響いていた不快な囁き声も、さっきよりは少しだけ小さくなっている。
だが、完全に暴走が収まったわけではない。早くこれを、リネットたちに渡さなければ。
彼女たちは今、貴族街の別の路地で同じく探しているはずだ。
(どうやって、連絡を……)
彼が焦り始めた、まさにその時だった。
「にゃあ」
足元で、不意に声がした。見れば、一匹の野良猫が、いつの間にか彼のそばに座り込んでいる。猫はまるで「こっちだ」と言わんばかりに路地の奥を見つめ、もう一度「にゃ」と鳴くと、ひらりと身を翻し、闇の中へ消えていった。
(あっちに……? まさか)
彼は半信半疑のまま、猫が示した方向へと急いだ。
角を曲がり、もう一つ先の路地へ。すると――いた。
はたして、その薄暗い行き止まりで、二つの人影が辺りを探っていた。
「リネットさん! カイさん!」
「ルーカスさん!」「やったな!」
三人は、小声で互いの無事を喜び合った。
「これを!」
ルーカスがリネットにブローチを手渡した、まさにその瞬間だった。
「おーい、ルーカス! そっちに誰かいるのかー!?」
路地の入り口の方から、聞き覚えのある野太い声が、鋭く響き渡った。
(まずい……合流の時間より早い! 先輩が何かを怪しんで見に来たんだ!)
三人の間に、絶体絶命の緊張が走る。
その時、行動したのはルーカスだった。
ルーカスは、有無を言わさぬ力強さで、驚くリネットとカイの背を、ぐいと物陰の奥――古いゴミ箱と壁の隙間へ押し込んだ。そして、自らは何食わぬ顔で、明るい声を作り、ゆっくりとバルツの方へ歩き出す。
「すみませーん! バルツ先輩!」
「おう、なんだ、お前か。今、誰かと話してなかったか?」
「いえ! 猫がゴミ箱をあさる音に驚いて、つい声を出しちゃいました!」
その言葉を裏付けるかのように、ルーカスが押し込んだゴミ箱の奥から、別の野良猫が「ふしゃーっ!」と威嚇の声を上げて飛び出し、あっという間に塀の上へと駆け上がっていった。
「なんだ、猫か。まったく、心臓に悪ぃな」
バルツは、ルーカスの言葉を微塵も疑うことなく、大きな手でがしがしと自分の頭を掻いた。
「気味が悪い囁きは、まだ聞こえるか?」
「いえ、今のところは、特に……」
「そうか。まあ、気のせいだったのかもな。よし、巡回に戻るぞ」
「はい!」
ルーカスは力強く返事をし、バルツの背中に続いた。
闇に紛れて消えていく仲間たちの気配を背に感じながら。
彼は、作戦の成功と仲間を守れた安堵を胸に、そっと息をついた。




