確かな居場所
ファビウス邸の食卓は、相変わらず冷たい空気が支配していた。
義母のヒステリックな声。義弟の我儘な叫び。そして父の氷のような沈黙。それらは何一つ変わらない。その日の夕食も、ルーカスは些細なことでノエルの機嫌を損ねた罰として、食事を抜きにされた。
だが、今の彼の心は、もう凍えてはいなかった。
空っぽの胃袋は確かにつらい。でも、彼の心は満たされていたのだ。
思い浮かべるのは、前の非番の日に訪れた『木漏れ日亭』の温かい食卓だ。自分が市場で目利きした新鮮な野菜で作られた、ジェラール特製の滋味深いスープ。リネットさんが「美味しいね!」と笑いかけ、カイが「お前もちゃんと食えよ」とぶっきらぼうにパンを分けてくれる。
あの場所と、あの笑顔がある。
そう思うだけで、この家の冷たい闇も、空腹のつらさも、不思議と耐えられる気がした。
心にともった温かな光は、彼の日常を少しずつ、しかし確実に変えていった。
王城での兵士の任務も、以前はただの苦役でしかなかったが、今は違う。「仲間たちの『目』になる」という明確な目的がある。それだけで、重い鎧の感触も、城壁を吹き抜ける冷たい風も、どこか誇らしく感じられた。
一番大きな変化は、彼の視野が広がったことだった。
これまでは自分のことで精一杯で、周囲のことなど気にする余裕もなかった。だが今は、巡回ですれ違う兵士たちの顔を、一人一人、しっかりと見ることができる。
(あの人は、いつも剣の手入れを欠かさないな。きっと真面目な人なんだろう)
(そういえば、あの先輩は、故郷に手紙をよく書いていると話していたっけ)
これまで風景の一部でしかなかった同僚たちが、一人一人の人生を持つ「人間」として、彼の目に映り始めたのだ。
その日の昼休憩、詰所はストーブの熱気と、男たちの汗の匂いで満ちていた。ルーカスは、壁際で一人、黙々と古い革鎧の手入れをしていた年かさの兵士――バルツのそばに、そっと近づいた。
「バルツ先輩、お疲れ様です」
彼はお茶を入れたカップを差し出しながら、少しだけぎこちなく声をかける。
バルツは無骨な手つきでそれを受け取ると、少しだけ驚いたように片眉を上げた。
「おう、ルーカスか。どうした、殊勝じゃねえか」
「いえ……いつも、お世話になっているので」
「はっ、気色の悪い。何か裏があるんじゃないのか?」
軽口を叩きながらも、バルツはカップにふうっと息を吹きかけて、美味しそうに一口すする。
そして、彼はじろじろと、値踏みするようにルーカスの顔を見つめた。
「……そういやお前、最近、顔つきが穏やかになったな」
「え?」
思いがけない言葉に、ルーカスは目を瞬かせた。
「前はもっとこう……いつも何かに怯えてるっつーか、自分のことでいっぱいいっぱいって感じだったがよ。今は、肩の力が抜けたっていうか……何か、いいことでもあったのか?」
その、何気ない一言。
だがその言葉は、ルーカスの胸に、温かな衝撃となって突き刺さった。
(……見ていて、くれたんだ)
誰も自分のことなど気にしていない。そう思い込んでいた。だが、この無骨で、口の悪い先輩は、ちゃんと自分の変化に気づいてくれていたのだ。
「……すみません。僕は、今まで、自分の殻に閉じこもってばかりで……先輩たちのこと、ちゃんと見ていませんでした」
彼が素直に頭を下げると、バルツは「なんだそりゃ」と照れくさそうに頭を掻いた。
「別に、いいってことよ。誰にだって、そういう時期はあるもんだ」
その時だった。
「全員、いるか!」
詰所の扉が勢いよく開き、屈強な体つきの部隊長が、一枚の羊皮紙を手に、険しい顔で入ってきた。
「午後の任務に変更が出た。至急伝達する」
詰所の空気が、一気に引き締まる。
「貴族街の第六区画にて、怪現象の報告が多発している。本来、市街地の治安維持は都市警備隊の管轄だが、事態が長期化しており、応援の要請が出た。本日より、我々の部隊も交代で、当該区画の夜間巡回任務に加わる」
貴族街――本来、王城の守護を専門とする自分たちには、縁のない場所だ。よほどのことなのだろう。
若い兵士の一人が、おずおずと手を上げた。
「あの……怪現象、といいますと?」
「うむ。『夜な夜な、どこからともなく、たくさんの囁き声が聞こえる』そうだ」
部隊長は、忌々しげに続けた。
「ある家のメイドは『奥様の悪口が聞こえた』と言い、別の家の執事は『旦那様の隠し事が暴露された』と訴えている。どうも、その区画に住む使用人たちの、日頃の噂話や愚痴が、ごちゃ混ぜになって聞こえてくるらしい。気味が悪いということで、『幽霊騒ぎ』と呼ばれているそうだ」
(……囁き声。貴族街。複数の人間の、感情が混じり合った声)
そのキーワードの数々が、ルーカスの頭の中で、即座に一つの答えへと結びついた。
(これは、妖精憑きの暴走だ……! 間違いない!)
おそらく、複数の人間の感情や記憶を、無差別に拾い上げて拡散してしまうような性質の妖精なのだろう。だから、噂話や愚痴となって聞こえるのだ。
彼は、ぎゅっと、自分の拳を握りしめた。
リネットさんたちが探している妖精。そして、それを鎮める手伝いをするのが自分の役割。
――これは、ただの任務じゃない。僕が、仲間たちのために果たすべき、『仕事』だ。
ルーカスの瞳に、これまで宿ったことのない、静かに、しかし燃えるような使命感の火が、確かに灯った瞬間だった。




