孤独な告白
ジェラールの、静かだが有無を言わせぬ問いかけ。
それは、ルーカスがこれまでずっと、誰にも話すことなく心の奥底にしまい込んできた、重く冷たい箱を開けるための鍵だった。
彼は一度、きゅっと唇を結んだ。
この箱を開ければ、きっと後戻りはできない。自分の全てをさらけ出すことで、この温かい場所から拒絶されてしまうかもしれない。その恐怖が、鉛のように彼の喉を塞ぐ。
だが、彼の目の前には、ただ真摯に答えを待つジェラールの姿が、そして隣には、心配そうに彼を見守るリネットの優しい眼差しがあった。
大丈夫――きっと、この人たちなら。
彼は覚悟を決めると、震えそうになる声を必死に抑え、ゆっくりと、しかしはっきりと語り始めた。
「僕は……レーベダイド王国の宰相、ギデオン・ファビウスの次男として生まれました。ルーカス・ファビウスが、僕の名前です」
『ファビウス』という名前が告げられた瞬間、店の空気が再びぴんと張り詰めた。
カイの表情が瞬時に険しくなり、ジェラールの目にも、先ほどよりもさらに鋭い光が宿る。リネットだけは変わらない表情だったが、その手は無意識に、テーブルの下でぎゅっとスカートを握りしめていた。
ルーカスはその緊張感を肌で感じながらも、話を続けた。
「僕が五歳になるまでは……ごく普通の、貴族の子息だったと思います。兄のサイラスがが閣下の後を継ぐために学ぶ一方で、僕は兄の補佐役、あるいは……兄に何かあった時のための『スペア』として、厳しいながらも不自由のない教育を受けていました。優しい母もいました。病で亡くなってしまいましたけど……」
遠い昔の、温かい記憶。それを思い出すと、今も胸の奥がちくりと痛んだ。
「母が亡くなってしばらくして、閣下は後妻を迎えました。今の義母であるベアトリスです。そして、異母弟であるノエルが生まれ……僕の運命は、そこで大きく変わりました」
父ギデオンは、三人の息子たちに、それぞれの役割を明確に与えた。
長男サイラスには、自らの後を継がせ、宰相としての地位と権力を。
三男ノエルには、ファビウス家の莫大な財産の全てを。
そして、次男であるルーカスには――。
「僕の将来は、『ノエルの補佐役』と定められました。具体的には、ノエルに与えられるであろう領地へ行き、その経営を行うこと。そして、その利益の全てを、ノエルが王都で何不自由なく、好きなだけ遊んで暮らすための資金として献上すること。……それが、僕に与えられた役目でした」
淡々と語られる言葉の内容に、カイが「なっ……!?」と息を呑んだ。それはもはや、貴族の子息の役割などではない。生涯にわたって弟に富を搾取され続ける、ただの奴隷契約だったからだ。
「最初は……それでも、真面目に勉強しようとしたんです。領地経営について学べば、いつか閣下にも認めてもらえるかもしれない、と……」
だが、そのささやかな希望も、ノエルの嫉妬一つで、いとも簡単に打ち砕かれた。
「僕が兄と同じ教科書で勉強していることを知ったノエルが、癇癪を起こしたんです。『僕よりルーカスが頭いいなんて、絶対に嫌だ!』と。……その日を境に、僕は全ての勉強を禁じられました」
「……はあ?」
カイが、思わず間抜けな声を上げた。
「勉強しなきゃ、領地の経営なんてできるわけねえだろ!?」
「はい。でも、閣下の決定は覆りませんでした。僕は『勉強をしてはならない。だが、将来は領地を経営してノエルのために利益を上げろ』という、決して達成できない命令を課せられたんです」
そこからが、地獄の始まりだった。
権力と財産を約束されたノエルは、母ベアトリスと共に、増長の一途を辿った。彼らにとって、何も持たないルーカスは、その歪んだ自尊心を満たすための、格好の的だったのだ。
「食事の量は、少しずつ減らされていきました。『お前のような出来損ないに、高価な食事を与えるのは無駄だ』と……。たまに晩餐会で豪華な料理が出ても、僕の皿だけ質素なものに変えられました。それで僕が痩せ細っていくと、今度は『自己管理ができていない』と、僕自身の責任として、閣下に報告されるんです」
成長期に必要な栄養を奪われながら、成長できないことまで責められる。
「貴族として人脈を作ることは重要です。でも、僕は『ファビウス家の恥だから』と、同年代の子供たちとの交流の場に行くことを許されませんでした。それでいて、家に引きこもっていると、『友人一人作れない、付き合いの悪い無能だ』と罵られるんです」
機会を奪われたのに、結果が出ないと責められる。
全ての理不尽が、いつの間にか彼自身の「落ち度」にすり替えられていく。反論すれば、待っているのは義母からの折檻か、閣下からの冷たい侮蔑の言葉だけ。
その中でいつしか、ルーカスは父親を「父」と呼ぶことすら禁じられた。「閣下」と、血の繋がりを否定するように、他人行儀に呼ぶことが命じられた。
やがて彼は、何も感じないように、何も考えないように、ただ嵐が過ぎ去るのを待つだけの、空っぽの貝殻のように、ただ存在していた。
「……なんでだよ!」
それまで黙って聞いていたカイが、我慢できないといった様子で、テーブルを拳で叩いた。
「なんで家を出ねえんだよ! そんなとこ、いる必要ねえだろ!」
「……出られません」
ルーカスの答えは、静かだが、絶望的な響きを帯びていた。
「ノエルの言い分は、こうなんです。『無能で可哀想なルーカスを、優しいボクが家に置いてあげている』と……。閣下が、それを認めているんです。僕が出ていけば、ノエルは僕を虐げることができなくなる。だから、僕はあの家に縛り付けられているんです」
「母親の実家とか、頼れる奴は本当にいねえのかよ!?」
「母方の祖父母がご存命かも……僕は知りません。母が亡くなってから、交流は完全に断たれたと聞いています」
逃げ道のない、完璧な檻。
カイはそれ以上何も言えず、「……くそっ」と悪態をつくと、怒りを押し殺すように顔を背けてしまった。
ルーカスは、そんなカイの姿に少しだけ驚きながら、話を続けた。
「全ての努力を禁じられた結果、閣下は僕を『何もしていない無能』と判断しました。そして、『せめて私の目になれ』と、王城守護の下っ端兵士として、僕を城に放り込んだんです」
だけど、と彼は続けた。
「将来、ノエルのために領地を経営するという予定も、なくなったわけではありません。つまり僕は今……『勉強も人脈作りも一切できないまま、兵士の仕事をこなしながら、いつか領地を経営するための準備を整えろ』という、無茶苦茶な状況に置かれています」
「……」
もはや、店の誰も言葉を発さなかった。それは、あまりにも理不尽で、救いのない物語だったからだ。
そこで、ジェラールが初めて、静かに口を開いた。
「……その、『ノエルのための未来』を、君自身は受け入れているのかね?」
その問いに、ルーカスは、ふっと力なく笑った。それは、彼がこの場所に来て、初めて見せた諦念の笑みだった。
「……いいえ。いい気分ではありません。でも……もし領地に行くことになれば、あの家からは、出られます。閣下や、義母や、ノエルから……遠く離れられます。それだけが、僕にとって、唯一の救いです」
そして彼は、最後に、先日この店に来るきっかけとなった事件の真相を語った。
ノエルが、ただの気まぐれで妖精憑きを猫に投げつけようとしたこと。
自分が猫を庇った結果、暴走に巻き込まれたこと。
そして閣下が、ことの是非を問うこともなく、ただ「ノエルの役に立たないなら不要だ」と、自分をゴミのように切り捨てたことを。
全てを語り終え、ルーカスの口から、はあと、長いため息が漏れた。
それは、長年彼の心を縛り付けていた、重く冷たい鎖の最後の欠片が、ようやく砕け散ったような――そんな解放のため息だった。
長い、長い沈黙が、店を支配した。
「……最悪だ」
最初に沈黙を破ったのは、カイだった。彼は壁に背を預けたまま、吐き捨てるように、しかし誰に言うでもなく、そう呟いた。その声には、もはや敵意はなかった。ただ、行き場のない怒りと、圧倒的な理不尽に対する無力感が滲んでいた。
リネットは、黙ってルーカスの隣に寄り添い、そっと彼の震える肩に手を置いた。言葉はない。だが、その温かい手のひらから、「あなたは一人じゃない」というメッセージが、確かに伝わってきた。
その時。
にゃおん、と低い鳴き声がして、ロッキングチェアで眠っていたはずのレオンが、いつの間にかカウンターの上に飛び乗っていた。そして、唖然とするルーカスの頬を、ふさふさの尻尾で、ぽす、ぽすと優しく叩き始める。それはまるで、「よく頑張ってきたな」と彼を労っているかのようだった。
その光景を見ていたジェラールが、ようやく重い口を開いた。
彼の表情はまだ険しい。だが、その瞳の奥には、先ほどまでの鋭い警戒心とは違う、何か別の感情が宿っているように見えた。
「……信じがたい話だ。だが、レオン様もこうしていらっしゃる。そして何より、君の瞳は、嘘をついていないようだ」




