第一章 超一流サッカー選手と私 終
さらに時は流れ、島の取材期間の最終日を迎えた。
さくらは今日、
東京に幾つか存在する大きな陸上競技場の一つに訪れていた。
ここは高校生が全国大会出場を賭けた予選会などにも使われている、
地元では有名な競技場だった。
そして今日この球戯場では、
『江戸っ子触れ合いカーニバル』と銘打たれたマラソン大会が開かれており、
そのスペシャルゲストとして島も招待されていたのだ。
彼の活躍を見るのと同時に、
最後の取材を行うべくさくらもこの場所に来ていたという訳だったのだ。
ただ、
これは大会と言っても一周四百メートルの外周をグルグルと計二十五周する
という比較的小規模のイベントではあった。
それでもインドア派のさくらにはこんな体育会系のイベントに
参加出来る度胸もなく、
スタンドから島を含む各ランナーの走りを静かに見守っていた。
そして、競技が開始されてから間もなく二時間が経とうとしていた。
午前中から昼過ぎ程度までを予定していたイベントだったため、
夏の暑さはある程度軽減されているものの、
代わり映えしない風景の中で走り続けるのは決して楽な競技ではないのだろう。
ゴールしていくランナーは、皆苦しい表情を浮かべていた。
さくらは彼等の顔を見て、
本当に参加しなくて良かったと安堵し、
同時に今日ここに来る際に
「当日参加もOKらしいし、ついでにお前も参加して来いよ」と
ニヤニヤしながら言った比呂木を呪いたくなる衝動が
込上げてきたのが自分でも分かった。
当の島は既にゴールしている。
彼は肩にタオルをかけた状態で、
ゴール付近にいる役員と何やら話し合っていた。
当初の予定なら閉会式が行われている時間帯だったのだが、
出来るだけ多くの参加者がゴールしてから
閉会した方がいいだろうとの検討が行われた旨が、
さっき場内アナウンスからスタンドの人間に伝えられていたのだ。
それはおそらく島の進言だったのではなかろうかと、
さくらは推測している。
結局全参加者がゴールするまで閉会式の時間は繰り下げられたため、
予定よりも一時間以上も時間が延びたのだが、
それに対して不満を洩らす者は現れなかった。
閉会式終了後、さくらは場内のスタッフルームに足を運んだ。
もちろん、島に会うためである。
さくらが部屋のドアをノックすると、
この一週間ですっかり耳に馴染んでいた声で返事が聞こえてきたので、
入る前に一言「失礼します」と言ってから、さくらはドアノブに手をかけた。
部屋の中には、奥の長椅子で一人座る島の姿があった。
「お疲れ様です。よろしければ、こちらをどうぞ」
さくらはそう言って水の入ったペットボトルを差し出した。
「ありがとうございます。
お待たせして申し訳ありませんでした」
島はペコリと頭を下げてから、さくらか受け取った水を口に含んだ。
「いえ、そんなことはありません。
閉会式後のサイン会でも長蛇の列が出来ていましたし、
今日のことが励みになった方も多いと思いますよ」
さくらが思ったままの感想を口にすると、
島は「だといいんですが」と言って小さく笑った。
結局、さくらが福井県の記事を調べたあの日から今日までの間、
例の寄付金についての話題を上げることは無かった。
それは、仕事上の自分の立場ではなく、
己の考えを全うして生きていこうとする島啓介という人間を尊重することに、
さくらが決めたからだった。
この間さくらが感じていたのは、
良い記事が出来ないことに対する後悔ではなく、
島啓介という自分の信じる道を行く人間に出会えたことに対する感謝だった。
今まで周りに流されるがままに生きてきた彼女にとって、
島の強い生き方はとても輝いて映り、
そういう生き方があることを教えてくれただけでもありがたかったのだ。
あえて心配事を上げるとすれば、
今回の取材結果を比呂木にどう報告するかだけなのだったが……。
比呂木の怒った顔を思い浮かべていたためか、
さくらは自分の顔が一瞬引きつったのが分かった。
島もそれに気付いたらしく、
何だか心配するような視線を送ってきた。
「どうかされましたか?」
「い、いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけなので」
はははと笑うさくらに対して、
島はまだ腑に落ちないような表情をしていたが、
それ以上詮索してくることは無かった。
ここは何か話題が変えたほうがいいだろうと思い、
さくらは口を開いた。
「あ、島さんはこの後のご予定はどうするおつもりなのですか?
もしかして、またトレーニング?」
「いえ、流石に疲れました。
今日はもう家に帰ってゆっくりしたいと思います」
そう返してきた島の顔は、
さくらが見てきた中で一番穏やかだったかもしれない。
あれだけ大勢の視線の前に、長時間さらされていたのだ。
きっと彼にも体力面だけではなく、
精神的な疲れが貯まっていたのだろう。
それが今の時間になって気持ちも解れ、
さっきのような表情を生み出した可能性はあった。
「なんだかそれを聞いて少し安心しました。
今日はゆっくりお休みになって下さい」
「ありがとうございます。そうします」
そう言って、島は再びペットボトルに口をつけた。
そんな島の姿を見ていると、
やっぱり彼も一人の人間なのだとさくらは改めて実感出来た。
彼は、世間で言われている感情を持たない機械のような人間ではなく、
様々なことに対して一喜一憂を感じる一人の人間なのだ、と。
そして、さくらがそんな感慨に耽っているということは、
彼女と島との時間に終わりが近付いていることに他ならなかった。
さくらは改めて背筋を直し、島の正面に真っ直ぐ立った。
「お忙しい中、本当にありがとうございました。
島さんとの時間は、私自身が色々なことに対して考えさせて頂く、
貴重な体験となりました」
そう言ってさくらは頭を下げた。
下を向いてしまったさくらには、
今の島の表情は分からない。
もしかしたら、突然の自分の言葉に唖然としているかもしれないと思った。
しかし、頭の上から聞こえてきた言葉はとても優しい温かみを含んでいた。
「こちらこそ、ありがとうございます。
特に親しい人間がいない自分にとって、とても楽しい時間でしたよ」
その言葉を聞いてさくらが頭を上げると、
そこに立っていたのは最初に感じた印象とはまるで違う、
ただ優しい雰囲気を纏った男性だった。
そして、その優しい男性は少し困ったように口を開いた。
「しかし、今回本当にお力になることは出来たでしょうか?
自分で言うのは何ですが、あまり社交性に自信があるほうではないもので……」
そう言ってバツの悪そうに視線を逸らす島を見ていると、
さくらはなんだか初めて自分の方が優位に立てた気がした。
今ならあのことについて教えて貰えるかもしれない。
そう思ったさくらは、思い切ってあることを聞いてみることにした。
「あの……、それでは最後に一つだけよろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
さくらは島に近付き、そっと彼の耳の傍に顔を寄せた。
「『Pause』のマスターって、一体何者なのでしょう?」
ほんのりと香る汗の匂いがした島から顔を離すと、
ニッと悪戯っぽく笑う彼の顔がさくらの目の前にあった。
×××
六月も終盤に差し掛かり、本格的な暑さが見え隠れしてきた頃、
ここ片桐出版では自社が手掛ける『ホームタウン』の入稿日が迫ってきていた。
そして、それはさくらにとって島と最後に会ったあのイベントの日から、
さらに一ヶ月近くが経つことを意味していた。
島の差し障りのないコメントや、
世間が彼に思い描いているであろうイメージそのものともいえる
トレーニング中心の日常風景を載せた記事は、
やはりと言うべきか、比呂木の苦言を誘うものではあった。
しかし、さくらのこれ以上彼を表現できるものはないという強い主張もあり、
結局は彼女の書いた内容のまま雑誌には記事が掲載される運びとなったのだ。
最後まで文句を垂れていた比呂木だったが、
最終的に上層部の了承を得てくれたのも、
実のところ副編集長である彼だったので、
さくらは何だかんだ言いながらも部下の意向を尊重してくれる
この男の思いには感謝しなければならないのだろう。
そして、そんな比呂木やさくらが居るこのフロアは、
社に泊まり込んで作業していた人間も多く、
ちらほらと髪の毛の寝癖が目に付くほど見るに耐えない状況だった。
さくらの目の前で怒号を上げている彼女も、そんな人間の一人であった。
「新谷先生!昨日までに仕上がるって仰ってましたよね?
え?後六時間で出来上がる?信用でません!
とにかく、今から向かいますので、引き続き作業を続けておいて下さい!」
天野はまだ悲痛な声を出している受話器を勢いよく叩き付け、
忙しく上着を羽織って外へと駆け出して行った。
さくらはその様子を見ながら、
軽々しく作家の担当になりたいなんて言ってごめんなさい、と心の中で謝った。
天野の後ろ姿が見えなくなったちょうどその時、
ピピッとさくらのテーブルに置かれた電話の内線ボタンが赤く点灯した。
さくらが受話器を取って「はい、矢作です」と言うと、
向こうから事務スタッフの声が聞こえてきた。
「お疲れ様です。事務の城井です。
矢作様にお客様がいらっしゃっています」
「お客さんですか?分かりました、直ぐに向かいます」
さくらはそう答えて受話器を置き、その客人に会うべく席を立った。
島の記事は既に出来上がっており、
比較的作業に余裕のあるさくらではあったが、
他の作業で忙しいことには変わりなかったため、
出来るだけ時間のロスはしたくなかった。
しかし、自分に来ている客を無下にすることは当然出来ない。
それよりも、
何故城井は誰が来たか教えてくれなかったことに対する不満のほうが
大きかったのだが、
とりあえず受付フロアへと足を運ぶことしにした。
そして、受付に到着したさくらの目に
見知った顔の男性の姿が目に飛び込んできた。
「島さん!ご無沙汰しています。
急にいらしてどうかなさったのですか?」
さくらは彼の元へと駆け寄りながら言った。
近くの窓から外を見下ろしていた島は、
さくらの声に気付くとゆったりした動作で体の向きを彼女の方に向けた。
「連絡もせずお呼びだてして申し訳ありません。
今日からまたスペインへ発ちますので、その前にご挨拶をと思いまして」
久しぶりに見た島は、始めて会った時と全く変わらない清閑な雰囲気だった。
さくらはここに来る途中、
受付で含み笑いを浮かべる受付の城井の顔に気付いていた。
彼女は自分を脅かそうとして来訪者を教えてくれなかったのだろうか、
それとも……。
さくらは変な想像をされていないか心配だったが、
今はとにかくちゃんと島に挨拶するほうが大切である。
「わざわざお越し頂いてありがとうございます。
こちらからお見送りにも伺わずに申し訳ありません」
さくらの言葉に対して、島はゆっくり頭を横に振った後、
すっと右手を差し出してきた。
「矢作さん、この度はお世話になりました。
またいつか、お会い出来る日を楽しみにしております」
予想していなかった島の登場と行動に対して、
さくらは中々思考が追いつかなかった。
だが、何故か熱くなり出した目頭のおかげで、
何とか冷静さを取り戻すことが出来た。
「こちらこそ、ありがとうございました。
日本でずっと応援しています」
情けない自分を見せまいと、
顔にグッと力を入れてさくらが島の右手を握り返すと、
島は小さく頷いてその手を優しく握り返してくれた。
やがて、握り合った二人の手はどちらからということも無く解かれた。
「では、また」島は握っていた手を今度は上にあげて言った。
「はい、いってらっしゃいませ」
さくらは島が居なくなるまで深々と頭を下げていたため、
彼が最後にどんな表情をしていたのかが分からなかった。
しかし、それは再び会う約束をした二人にとって大した問題ではないのだろう。
ただ、
次に会った時はもっとお互いの事を話し合えたらいいな、
と切に願うさくらであった。
とりあえず
第一章は終わりました。
読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。
残り三人の話も頑張って書いていきますので、
どうぞそちらのほうもよろしくお願いいたします。




