【第9話】寡黙な庭師・航と、テラスのキッチンハーブ園
秋晴れの澄み渡る陽光の中、ジャッ、ジャッ、と規則正しい足音を響かせて近づいてきた青年は、客間のテラスの前に敷かれた延段の端で足を止めた。
使い込まれたネイビーの作業着は、ところどころ草木のヤニや土で薄く汚れていたが、道具の手入れは行き届いており、腰に下げた革のホルダーには研ぎ澄まされた剪定鋏と植木鋏が整然と収まっている。頭には黒い手拭いをきりりと巻き、日に焼けた精悍な顔立ち。年齢は二十代半ばといったところだろうか。無駄な肉のない引き締まった体躯で、肩に担いだアルミの三脚脚立を地面に下ろすと、作業用グローブを外しながら深く頭を下げた。
「……こんにちは。植木の枝透かしに入らせてもらっています、庭師の早川です」
低く、抑揚の少ない無骨な声だった。
愛想笑いの一つもないが、その佇まいには長年自然と向き合ってきた職人特有の、静かで凛とした緊張感が漂っている。
早川航、二十五歳。
祖父の代から神崎邸の広大な日本庭園の維持管理を任されている造園会社の跡取りであり、若手ながらその腕前は当代随一と噂される植木職人だ。
何より特筆すべきは、創の父親であり、偏屈と冷酷さで社内外から恐れられている神崎ホールディングス会長・神崎宗一郎が、「あいつの鋏の入れ方だけは迷いがない。庭は早川の倅にすべて任せておけ」と唯一全幅の信頼を置いている男だということだった。
「庭師さん! ちょうどいいところに!」
唯が客間のガラス戸から身を乗り出し、バンバンと手を振った。
突然の気さくすぎる呼びかけに、航はわずかに眉を寄せ、困惑したように視線を泳がせる。その視線の先――先ほどまで昭和の密談部屋だった客間が、明るいリネンカーテンと北欧家具の置かれたリゾート風ラウンジへと劇的変貌を遂げているのを目撃し、航の瞳が一瞬丸くなった。
「唯、びっくりさせちゃ駄目よ。……早川さん、お仕事中に突然お声がけしてしまってごめんなさい。昨日からこちらでお世話になっております、間宮栞と申します」
栞はビーズクッションから立ち上がり、テラスの縁まで歩み寄って丁寧に頭を下げた。
航は慌てたように手拭いを外し、居住まいを正した。
「……あ、若奥様でいらっしゃいましたか。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。親方……父から、新しく奥様が越してこられたと伺っておりました」
「若奥様だなんて堅苦しい呼び方はなさらないでください。ただの栞で結構ですよ」
栞がふわりと微笑むと、航は視線をわずかに落とし、無表情を保ったまま小さく一礼した。
その警戒するような硬い態度から、栞は察した。
――ああ、この人は『富豪の家に嫁いできた若いお嬢様』に、ろくな思い出がないんだな、と。
実際、航の胸中には警戒心があった。
神崎家の親族の夫人たちや、出入りの名家の令嬢たちから、過去に何度も理不尽な注文をつけられてきた苦い記憶があるのだ。
『庭をイングリッシュガーデン風にして一面にバラを植えてちょうだい』『冬でも満開になる見栄えのいい外来種の花を敷き詰めて』といった、日本の風土や日照、水はけを一切無視した見栄え重視の我儘。そしてひと月も経たずに枯らしては、「庭師の腕が悪い」と理不尽に詰られる。
目の前の新しい若奥様も、客間を派手に模様替えした勢いで、テラスの花壇に流行りの観葉植物でも植え散らかしたいと言い出すのではないか――航の引き締まった口元には、職人としての防衛線が引かれていた。
「それで……若奥様。何か、こちらのテラスの植栽にご不満でもございましたでしょうか」
冷徹とも取れる淡々とした問いかけ。
しかし、栞の口から飛び出した相談内容は、航の予想を斜め上から木っ端微塵に打ち砕くものだった。
「不満なんてとんでもないです。日当たりも風通しも最高で、羨ましいくらいの場所です。……ただ、あそこの細長い花壇、ずっと使われていなかったようで土が痩せてしまっていますよね。もしご迷惑でなければ、あそこを料理に使える『キッチンハーブ』のスペースに再生できないか、ご相談したかったんです」
「……キッチンハーブ、ですか?」
航の片眉がピクリと跳ね上がった。
「ええ。バラや珍しいお花を植えたいわけではないんです。お料理の香り付けや、お茶に使える実用的な植物を育てたくて。……一番欲しいのは、肉料理の臭み消しに欠かせないローズマリーとコモンタイム。それから、土鍋ご飯やお刺身に散らせる大葉と、食後のお茶用のミントです」
すらすらと並べられた植物の名前に、航の職人としての観察眼が光った。
「……大葉は一年草ですが、ミントやローズマリーは宿根草、多年草です。特にミントは地下茎の繁殖力が異常に強い。あのような仕切りのない地植えの花壇に直接植えれば、数ヶ月で他のハーブの根を食い尽くして全滅させますよ」
「はい、存じております!」
栞は何の淀みもなく、朗らかに頷いてみせた。
「ですからミント類は、土に直植えするのではなく、素焼きの深鉢に単独で植えて、鉢ごと土の中に埋め込むかテラスの隅に独立して置きたいんです。それからローズマリーも、料理に使いやすい立性の品種と、冬場の乾燥に強い品種を選びたくて。土壌も、元々が日本の弱酸性の土ですから、苦土石灰を少し梳き込んでアルカリ性に傾け、水はけを良くするためにパーライトや軽石を三割ほど混ぜる必要があるかな……と考えていたのですが、素人の知識なので、プロの早川さんのお知恵をお借りできないかと思いまして」
「…………」
航は絶句した。
日照条件の把握、一年草と多年草の区分、地下茎による侵食のリスク管理、さらには地中海原産のハーブが好むアルカリ土壌への改良配合に至るまで――完全に、土を触り慣れている人間の知識だった。
「……若奥様。失礼ですが、ご自身で畑を?」
「実家の和菓子屋の裏庭で、職人さんたちのお昼ご飯用のお野菜や、餡の風味付けに使う紫蘇や柚子を少し育てていただけですよ。でも、土を触るのが大好きなんです。植物は、手をかけた分だけ、香りと味で返してくれますから」
栞が目を細めて土壇場を見つめる横顔には、お嬢様の見栄など微塵もなかった。
土と命に対する、純粋で深い敬意。
それを見た瞬間、航の表情から張り詰めていた頑なな鎧が、音を立てて剥がれ落ちていった。
「……分かりました。お任せください」
航の声から、事務的な冷たさが完全に消えていた。
代わりに灯っていたのは、確かな知識と熱意を持つ相手に出会えた職人の、静かな高揚感だった。
「ちょうど作業車の荷台に、神崎家の土質に合わせて独自に配合した完熟腐葉土と、軽石、有機石灰のストックがあります。苗木の手配も、懇意にしている信頼できるハーブ農家から、農薬を使っていない安全な株を今すぐ持ってこさせます。……下地作り、今日中にやってしまいましょう」
「えっ、今日中に!? 早川さん、今日はお庭のお手入れでお忙しいのでは……?」
「この客間の松の剪定は午前中で一通り目処がつきました。午後はこちらの土壌改良に充てられます。……何より、料理を美味しくするための庭造りなら、庭師として断る理由がありません」
そう語る航の口元に、初めて微かな、だが爽やかな笑みが浮かんだ。
横で見ていた唯が、「おっ、職人のハートに火がついたね!」と小さくガッツポーズを作った。
* * *
作業は驚くほどのスピードと手際の良さで進んだ。
航が軽トラックから下ろしてきたのは、園芸店に並ぶような安っぽい化成肥料ではない。何年もかけて広葉樹の落ち葉を発酵させた、森の奥深くの匂いがする真っ黒な完熟腐葉土と、赤玉土、そして通気性を極限まで高める軽石の粒だった。
「まずは、死んだ土を一度掘り起こして、ガラを取り除きます」
航が無駄のない動きでスコップを土に突き立てる。ザクッ、ザクッ、と乾いた土が小気味よく返されていく。
栞も黙って見ているはずがなかった。
麻のエプロンを締め直し、唯から借りた軍手をはめると、小さな移植ゴテを手にテラスへ降り立った。
「栞、本当に自分でやるの!? 爪汚れちゃうよ!」
「何言ってるの唯、土いじりこそ最高のリフレッシュじゃない! 早川さん、私も石拾い手伝います!」
「あ……若奥様、無理はなさらず」
「栞でいいって言ったでしょう? ほら、これくらいの小石ですね!」
屈託なく笑いながら、泥だらけになって手際よく小石をバケツに放り込んでいく栞を見て、航の口元が再び緩んだ。
言葉は少ないが、二人の息は不思議なほど合っていた。
掘り返された土に腐葉土と軽石が混ぜ込まれ、ふかふかの団粒構造へと生まれ変わっていく。
土をすき込むたびに、乾ききっていたテラスに、雨上がりの森のようなみずみずしく豊かな大地の匂いが満ちていった。
午後二時を回る頃には、近隣のハーブ農家から届いた極上の苗たちがテラスに勢揃いした。
ピンと尖った濃緑の葉から力強い清涼感を放つ、立性のマリンブルー・ローズマリー。
小粒の可憐な葉に、繊細で甘みのあるスパイシーな香りを宿したコモンタイム。
葉先まで縮れがなく、掌ほどの大判で青々とした大葉(青じそ)。
そして航の助言通り、素焼きのテラコッタ鉢に単独で植え込まれた、鮮烈なメントール香を放つペパーミントと、柔らかな甘みを持つスペアミント。
鉢の配置一つとっても、航の美意識が光っていた。
日照の当たり方と、客間の窓から眺めた時の緑のグラデーション、そして何より「料理をする時に、キッチンからサッと手を伸ばして葉を摘み取りやすい動線」が完璧に計算されていた。
「……ふうっ! 完成ですね!」
栞が額の汗を手の甲で拭い、立ち上がった。
風がテラスを吹き抜ける。
その瞬間、新しく植えられたハーブたちがさざめき、ローズマリーの爽快なアロマとタイムの香ばしい薫煙が、客間のサンルームの中へとふわりと流れ込んできた。
土の温もりと、青い植物の息吹。
無機質だった神崎邸の石造りのテラスが、まるで南フランスの田舎町にあるオーベルジュの中庭のように、生き生きとした生命力に満ち溢れていた。
「……素晴らしいです、早川さん。思っていた何倍も素敵になりました!」
「いえ。栞さんの手際が良かったおかげです。土の混ぜ方、完全に玄人の筋でした」
航は少し照れくさそうに手拭いで首筋の汗を拭った。道具の手入れを終え、引き上げようとする航を、栞が慌てて呼び止めた。
「早川さん、ちょっと待ってください! 重労働をしていただいたのに、このままお返しするわけにはいきません。……お茶の用意をしてありますから、少し休んでいってください」
「いえ、滅相もありません。職人が長居をするのは――」
「遠慮しないで! お茶請け、今朝から仕込んでおいた私の自信作なんです。甘いもの、お嫌いですか?」
小首をかしげて見上げる栞の瞳に、航は抗う術を持たなかった。
「……いえ。甘いものは、嫌いではありません」
「良かった! テラスのテーブルでお待ちくださいね、すぐにお持ちします!」
栞は小走りでキッチンへ向かい、数分後、涼やかなガラスの器が載せられた角盆を手に戻ってきた。
テラスの木製ガーデンテーブルの上に置かれたのは、目にも鮮やかな一品だった。
「お待たせしました。『特製・冷やし白玉ぜんざい』です」
「……ぜんざい?」
航と唯が、同時に身を乗り出した。
ガラスの器の底に沈んでいるのは、漆黒の夜空のように艶やかな小豆の粒。
煮崩れてドロドロになった安物のぜんざいとは、一線を画していた。小豆の一粒一粒が完璧に原型を留め、皮は限界まで柔らかく煮含められているのに、破れ一つなく、ガラス越しに宝石のように澄んだ輝きを放っている。
そしてその上には、氷水でキュッと締められたばかりの、真っ白な白玉団子が三つ。
表面には瑞々しい水滴が光り、まるで打ち立ての餅のような、ふくよかな弾力を予感させていた。
仕上げに添えられているのは、先ほどテラスの花壇から摘み取ったばかりの、鮮やかなスペアミントの若葉が一筋。
「実家の佐竹堂のレシピなんです。丹波産の大納言小豆を、渋切りを三回丁寧にしてから、白双糖でじっくり炊き上げました。白玉粉も、新潟県産のもち米だけを使った一番粉を、お水ではなくお豆腐の水分だけで練り上げているので、冷やしても固くならずにつるんとした喉越しになるんですよ」
栞の説明を聞きながら、航はスプーンを手に取った。
汗を流した後の身体に、冷やされたガラスの器の冷気が心地よい。
スプーンで、大納言小豆と白玉をすくい上げる。
持ち上げた瞬間、白玉がふるふるとスプーンの上で柔らかく身をよじった。
航はそれを、躊躇なく口の中へと運んだ。
「…………っ!」
航の喉仏が、大きく上下した。
まず訪れたのは、白玉の官能的なまでの舌触りだった。
つるり、と滑らかに唇を滑り落ちたかと思うと、噛んだ瞬間に歯を押し返すような、上品でしなやかな弾力。豆腐を練り込んだ効果か、粉っぽさは微塵もなく、噛み締めるほどにもち米本来の素朴で優しい甘みが広がる。
そして、それを包み込む大納言小豆の圧倒的な滋味。
甘い。しかし、舌に残る嫌な甘ったるさは欠片もない。
白双糖のキレのある甘みと、小豆の持つ力強い大地の風味が、完璧な調和を保っている。皮の存在を感じさせないほど柔らかいのに、噛むと中からほくほくとした濃厚な餡の旨味が弾け出す。
さらに、隠し味としてほんのわずかに加えられた粗塩のミネラルが、小豆の輪郭を鮮やかに際立たせていた。
最後に鼻腔を抜ける、添えられた摘みたてミントの清涼なアロマ。
「……美味い」
航の口から、掠れた声が漏れた。
無口な男が、一切の虚飾を交えずに吐き出した、魂の底からの賛辞。
「こんなぜんざい……今まで生きてきて、食べたことがありません。甘いのに、すっきりしていて、身体の中に染み渡るようだ……」
「わあぁ、嬉しい! ありがとうございます!」
栞が満面の笑みで両手を合わせた。
横で同じくぜんざいを頬張っていた唯も、目を見開いてスプーンを動かし続けている。
「ちょっと栞、これヤバすぎ! 白玉が飲める! 飲めるくらい滑らか! これカフェの看板メニュー決定じゃん! 絶対バズるって!」
「ふふっ、良かった。お豆腐で練るのがポイントなのよ」
航は無言のまま、最後の一粒の小豆まで丁寧にスプーンですくい取り、あっという間に器を空にした。
そして冷たいほうじ茶を一口飲み干すと、深く、深く息を吐き出した。
航は静かに立ち上がり、栞に向き直った。
その瞳には、単なる雇い主への敬意を超えた、職人同士の深い魂の共鳴が宿っていた。
「……栞さん」
「はい?」
「このハーブ園、絶対に枯らせません。俺が責任を持って、定期的に手入れに来ます」
航は力強い声で言った。
「それから……次は、料理に合う柑橘の苗木を持ってきます。庭の奥の土壌なら、トゲが少なくて実付きのいい本柚子か、無農薬で皮まで使えるリスボンレモンがよく育ちます。初夏には爽やかな実が楽しめますよ」
「本当ですか!? 自家製の柚子とレモン……! それでお菓子作れたら最高です!」
「ええ。任せてください。……美味いぜんざいをごちそうさまでした」
航は手拭いをきゅっと握り直すと、これまでに見たことのない、少年のように爽やかで眩しい笑顔を浮かべた。
そして脚立を担ぎ、軽やかな足取りで庭の木立の奥へと戻っていった。
「……へえぇ」
航の去り際を見送りながら、唯が面白そうに目を細めて呟いた。
「どうしたの、唯?」
「いやさ。あの早川さんって人、若手だけど業界じゃ『頑固で愛想のない職人気質』で有名なんだよ。うちのショップの造園の打ち合わせでも、一切妥協しなくて怖いくらいだったのに……あんな顔で笑うの、初めて見た」
唯はニヤリと笑い、栞の肩を小突いた。
「栞ってさ、本当に無自覚の人たらしだよね。朝は鉄の家政婦長を落とし、昼は頑固なイケメン庭師を胃袋で陥落させる。……この屋敷、一年経つ頃には全員が栞の信徒になってるんじゃない?」
「何言ってるのよ、失礼な! 私はただ、美味しいものを一緒に食べて、楽しく暮らしたいだけよ」
栞はカラカラと笑い、空になったガラスの器をトレイに乗せた。
秋風が吹き抜け、テラスのハーブたちが爽やかな香りを部屋中に届けてくれる。
柔らかな陽光が注ぐ北欧風のサンルーム。
心地よい疲労感と、満ち足りた静寂。
こうして、神崎邸の「死の客間」は、完全なる「至福のリゾート空間」へと生まれ変わったのだった。
――そして。
季節は巡り、穏やかな秋の週末が訪れようとしていた。




