【第10話】休日帰宅の衝撃。「我が家がリゾートカフェになっている」
十月十九日、土曜日の午後二時過ぎ。
秋晴れの澄み渡った青空の下、黒塗りのハイヤーが神崎邸の重厚な鋳鉄製ゲートをくぐり抜けた。
「専務、本邸に到着いたしました。週明け月曜のお迎えは何時にいたしましょうか」
「……月曜は朝八時十五分で頼む。週末はもう車は使わないから、休んでくれ」
運転手に短く告げ、神崎創は後部座席から降り立った。
仕立てのよいネイビーのセットアップスーツに身を包み、手には薄型の本革アタッシュケース。その出で立ちは、土曜の昼下がりだというのに平日と何一つ変わらない完璧なビジネス仕様だった。
普段の創であれば、土曜日のこの時間帯に自宅へ戻るなどあり得ないことだった。
神崎ホールディングスにおいて、創が背負っている責任は重い。国内外の新規買収案件のデューデリジェンス、週明けの取締役会に向けた資料の精査、提携先銀行の役員とのゴルフや会食――仕事中毒と揶揄されようが、スケジュール帳の空白を埋め尽くすことこそが創の生きる術であり、何より、冷え切ったあの広大な生家で過ごす時間を一分一秒でも減らすための防衛本能だった。
それなのに。
(……なぜ、戻ってきてしまったんだ)
見上げる本邸のファサードを前に、創は自嘲気味に小さく息を吐き出した。
午前中、本社ビルで予定していた投資銀行とのミーティングは正午きっかりに終わった。普段ならそのまま丸の内のオフィスに戻り、深夜まで残務処理に没頭するところだった。
だが、オフィスのデスクに座った瞬間、副社長の成瀬拓真が残していった毒のある言葉が、耳の奥で鮮やかに蘇ってしまったのだ。
『創、お前さ。それ、フラれたんじゃないのか?』
『あの子が三億持ってさっさと別の男のところへ行く背中を見送る羽目になっても、俺は慰めてやらねえからな』
馬鹿馬鹿しい。
成瀬の軽薄な煽りに乗せられるなど、経営者として三流の極みだ。
自分と栞の関係は、あくまでビジネスライクな契約結婚。互いのプライベートに干渉せず、生活リズムを完全に分離するという『生活ガイドライン』には、創自身が納得してサインをしたのだ。
彼女が一人でどう過ごしていようと、夫である自分が気にする筋合いはない。
だが――。
婚姻届を提出して、まだ一週間も経っていないのだ。
形式上の政略結婚とはいえ、週末に夫が一度も顔を見せないというのは、対外的な体裁としても、同居人としてのマナーとしてもいささか礼を失しているのではないか。
そう、これは『夫としての最低限の体裁』を保つための行動だ。
決して、深夜に小鉢に肉を盛ってくれたあの笑顔が気になったわけでも、今朝の静まり返った自室でふと覚えたいわれのない寂寥感に突き動かされたわけでもない――。
頭の中で幾重にも張り巡らせた見苦しい言い訳を抱えながら、創は玄関ポーチの石段を上がり、電子錠のリーダーに指をかざした。
ピピッ、と解錠音が鳴り、分厚い防音扉を引く。
ひんやりとした無機質な空気が迎えてくれるはずだった。
創が物心ついた頃から、この神崎邸のエントランスは常にそうだった。磨き上げられた大理石の床、天井の豪奢なシャンデリア、だが人の温もりなど微塵もない、まるで高級ホテルのロビーか霊廟のような、張り詰めた静寂。
ところが――。
「……ん?」
三和土に革靴を踏み入れた瞬間、創の眉が微かに動いた。
空気が、違う。
まず鼻腔をくすぐったのは、微かに、だが確かに漂ってくる、極めて香ばしいアロマだった。
深煎りの珈琲豆をハンドドリップで丁寧に落とした時に立ち上る、ビターで甘やかな薫煙。
さらに、その奥から運ばれてくるのは、爽やかな柑橘にも似たハーブの青い息吹。
そして――耳を澄ませると、吹き抜けの廊下の奥から、信じられない「音」が届いてきた。
ポロロン……シャラン……。
爪弾かれる乾いたナイロン弦のガットギターの音色。
軽やかで、少し切なく、だがどこまでも穏やかに跳ねるサンバのリズム。
ささやくようなポルトガル語のウィスパーボイスが、柔らかな空気の波となって廊下を伝わってくる。
(ボサノヴァ……?)
あり得ない、と理性が混乱を来した。
神崎家の本邸で音楽が流れることなど、年に数回の格式張った親族パーティーで室内楽のカルテットを呼ぶ時くらいのものだ。普段はクラシックのレコード一枚すら許されない、厳格な静寂が掟の屋敷である。
父・宗一郎の怒号と、使用人たちの足音を忍ばせる気配だけが支配していたはずのこの家で、なぜ、南国の昼下がりのカフェのような音楽が鳴り響いているのか。
カツ、カツ、と自然と歩調が早まる。
アタッシュケースを提げたまま、創は音と香りの発生源を追って一階の廊下を進んだ。
リビングではない。キッチンでもない。
音は、一階の最も奥――南東の角に位置する、あの部屋から漏れていた。
(……開かずの客間か?)
かつて父・宗一郎が、政治家や財界の長老たちを招いて密談を交わすためだけに使っていた重厚な応接室。
宗一郎が本邸を離れて別邸で暮らすようになってからは、埃と陰鬱な空気が淀むだけの「死んだ部屋」として、創自身もここ数年、一度たりとも足を踏み入れたことのなかった場所だ。
重厚なマホガニーの引き戸の前に立つ。
隙間から、アコースティックギターの温かなアルペジオと、挽きたての珈琲の匂いがはっきりと漏れ出していた。
創は小さく息を吸い込み、真鍮のノブに手をかけた。
そして、音を立てずに、ゆっくりと扉を横へスライドさせた。
「…………っ!?」
その瞬間、創の視界に飛び込んできた光景に、思考が完全に焼き切れた。
扉の先に広がっていたのは、創の知る「神崎家の客間」ではなかった。
そこは――陽光が溢れかえる、見知らぬ異国のリゾートカフェそのものだった。
昭和の遺物のような埃っぽい深緑のビロードカーテンは、跡形もなく消え去っていた。
代わりに天井の高い窓枠を覆っていたのは、光をたっぷりと透かす、生成りとセージグリーンのリトアニア産リネンカーテン。南向きの広大なガラス戸は左右いっぱいに開け放たれ、秋の柔らかなそよ風を孕んで、カーテンが波のようにふわりと優雅に膨らんでは揺れている。
カーテンが揺れるたび、部屋の床に敷き詰められたサイザル麻のラグの上に、繊細な木漏れ日のような光と影のモザイクが描かれていた。
かつて部屋の中央で圧倒的な威圧感を放っていた、あの巨大な黒革の応接ソファセットは、部屋の最奥の隅へと綺麗に片付けられていた。
代わりに空間の主役となっていたのは、飴色のチーク材で作られた、三角形のヴィンテージローテーブル。
木目の美しい天板の上には、結露した細身のガラスタンブラーが一つ置かれ、中には琥珀色のアイスコーヒーと、カランと小さな涼やかな音を立てて溶けかける丸氷。その傍らには、革のブックカバーが掛けられた読みかけの文庫本が、伏せて置かれていた。
そして――何より創の目を奪ったのは、開け放たれたテラスの光景だった。
何年も手入れされず、枯れ草と痩せた土が放置されていたはずの石造りのテラスが、見事な「緑のオアシス」へと生まれ変わっていたのだ。
濃い緑の細い葉をピンと伸ばしたローズマリーの茂み。
可憐な小葉を揺らすタイム。
生き生きと手のひらを広げたような大葉の鉢。
そして素焼きのテラコッタ鉢から溢れんばかりに茂る、みずみずしいミントの群生。
風が吹き抜けるたび、テラスのハーブたちが一斉にさざめき、洗練されたアロマの薫風が、部屋の中へと途切れることなく流れ込んでくる。
ボサノヴァの爪弾く音色と、風の音、木々の葉擦れの音。
すべてが溶け合い、極上の調和を奏でていた。
(ここは……本当に、俺の家なのか……?)
創は呆然と立ち尽くし、アタッシュケースを握る手の力を緩めた。
何百億の商談をまとめるエリート専務の頭脳をもってしても、目の前で起きている現実を処理しきれない。
自分が生まれ育ち、息を殺して過ごしてきた、あの冷酷で重苦しい神崎邸の片隅に、これほどまでに明るく、温かく、呼吸のしやすい場所が存在し得るなど、夢にも思わなかった。
そして――。
創の視線は、部屋の中央、サイザル麻のラグの上に転がされた、巨大なネイビーのビーズクッションへと吸い寄せられた。
「…………」
息が止まった。
そこにいたのだ。
この奇跡のような空間を作り出した張本人が。
間宮栞は、身体のラインをすっぽりと包み込む大きなビーズクッションの真ん中に深く身を沈め、完全な無防備さで眠りこけていた。
身につけているのは、今朝の凛としたブラウス姿とは打って変わった、着古した白いオーバーサイズの長袖カットソーに、柔らかなグレーのスウェットパンツ。
足元は裸足で、脱ぎ捨てられたパイル地のルームスリッパが、ラグの端にぽつんと転がっている。
長い黒髪は無造作に解かれ、クッションの布地の上に艶やかに広がっていた。
すやすやと、微かに胸を上下させる穏やかな寝息。
秋の柔らかな陽光が、レース越しのような木漏れ日となって彼女の横顔を照らしている。
白い陶器のような肌はほんのりとピンク色に上気し、長い睫毛が規則正しく微動だにせず影を落としている。
少しだけ開いた桜色の唇からは、今にも満足げな吐息が漏れてきそうだった。
何の警戒心もない。
誰の顔色も窺っていない。
神崎家の嫁としての重圧も、政略結婚の悲壮感も、微塵も存在しない。
ただ、自分の手で整えた最高に心地よい居場所で、美味しい珈琲を飲み、本を読み、陽だまりの温もりに包まれて、心ゆくまで惰眠を貪っている――一人の、幸福そのもののような人間の姿がそこにあった。
「…………」
創は、一歩も動けなくなっていた。
手にしたアタッシュケースが、酷く場違いで、重たい鉄の塊のように感じられた。
眩しかった。
その光景のすべてが、痛烈なまでに美しく、そして眩しかった。
創の二十八年間の人生において、「家」とは常に戦場であり、逃げ場のない檻だった。
幼い頃から父に完璧な後継者であることを求められ、成績が落ちれば厳しく叱責され、親族が集まれば誰が誰を蹴落とすかの腹の探り合いばかり。
この屋敷のどこにいても、息を抜くことなどできなかった。
だからこそ、自分自身を感情のない冷徹な機械に仕立て上げ、仕事に逃避することでしか自分を保てなかったのだ。
なのに、彼女は――。
わずか数日で。
誰に頼ることもなく、誰に文句を言うこともなく、ただ自分の手で埃を払い、窓を開け、風を通し、植物を植え、この冷え切った屋敷の片隅に、世界で一番温かい居場所を作り出してしまった。
(俺は……何を恐れていたんだ)
成瀬の言葉が、再び胸を衝いた。
『あの子は、お前の金にも愛にも最初から見向きもしてねえ』
『自分の機嫌は自分で取りますから、お気遣いなく!って自立してくれてるんだぞ』
その通りだった。
彼女は自分にすがりつこうなどとは露ほども思っていない。
自分が週末に帰ってこなかろうが、深夜まで残業していようが、少しも寂しがってなどいない。
彼女はただ、与えられた一年間という時間の中で、自分の機嫌を自分で取り、勝手に、圧倒的に幸せを満喫しているのだ。
安堵か。
それとも、敗北感か。
あるいは――そのどちらでもない、胸の奥底から込み上げてくる熱い羨望と、説明のつかない切なさ。
創は無意識のうちに、革靴の爪先を動かしていた。
その空間の温もりに、少しでも近づきたいと願うかのように。
ギィ……。
古い床板が、極めて微かな軋み音を立てた。
慎重に足を運んだはずだったが、静まり返ったサンルームの中では、その音はあまりにも明確だった。
ピク、と栞の長い睫毛が震えた。
「……ん……」
小さく喉を鳴らし、栞の眉が寄る。
クッションの上で身じろぎをし、顔にかかった黒髪を手で払おうとして――その手が、空中で止まった。
ゆっくりと、まぶたが持ち上がる。
眠気に潤んだ、澄んだ琥珀色の瞳。
焦点がおぼつかないまま、栞の視線が窓辺の光から、部屋の入り口に佇む長身の男の姿へとスライドしていった。
「…………」
二人の視線が、陽光の中で静かに交錯した。
創は息を呑み、固まった。
起こしてしまった申し訳なさと、他人のプライベートスペースを覗き見してしまった気まずさで、冷徹なエリート専務の顔がカッと熱くなるのを感じていた。
だが、栞の反応は、創の予想とはまるで違っていた。
彼女は驚いて飛び起きることもなく、慌てて身なりを整えることもなかった。
ビーズクッションに埋もれたまま、ふわあぁ……と、手元で愛らしくあくびを一つ噛み殺したのだ。
そして――。
まだ半分夢の中にいるような、とろんとした瞳で創を見上げると、寝起きのかすれた声で、ぽつりとこう言った。
「……あ。神崎様……? もう、夜ですか……?」
午後二時半の眩しい日差しの中で放たれたその間抜けな一言に、創の張り詰めていたすべての神経が、ぷつりと音を立てて脱落した。




