【第11話】「お邪魔でしたら部屋に戻りますが?」「……いや、そのままいろ」
まぶたの裏に焼き付いていた柔らかな光の残像が、ゆっくりと現実の輪郭を結んでいく。
間宮栞は、自分の口から滑り出た「もう、夜ですか?」という間の抜けた言葉の残響を耳の奥で聞きながら、呆然と目の前に立つ男を見上げていた。
濃紺の上質なセットアップスーツに身を包み、革のアタッシュケースを提げた長身の男性。
冷徹に引き締まった顎のライン、怜悧な光を宿した切れ長の瞳、整髪料で完璧に整えられた黒髪――紛れもなく、この神崎家の若き当主であり、契約上の夫である神崎創その人だった。
だが、その彫刻のように美しい顔立ちには、いつもの冷徹なポーカーフェイスの代わりに、見たこともないほどの激しい動揺と気まずさが色濃く張り付いていた。
(……あ、れ?)
栞は瞬きを三回ほど繰り返し、窓の外へと視線を泳がせた。
空はどこまでも青く澄み渡り、リネンカーテンを透かして降り注ぐ陽光は、眩しいほどに黄金色に輝いている。庭の金木犀の梢には小鳥が留まり、時計の針は午後二時半を回ったばかりだった。
(夜じゃない。全然、真っ昼間じゃないの……!)
急速に頭の中の霧が晴れていく。
やってしまった、と栞は心の中で舌を出した。
午前中に親友の唯と汗だくになって客間を大改造し、庭師の早川航とテラスにキッチンハーブを植え、手作りの白玉ぜんざいを振る舞って盛り上がった後――あまりの心地よさと満腹感に抗えず、「ちょっとだけ」のつもりでビーズクッションに身を投げ出したのが運の尽きだった。
気づけば二時間近くも熟睡し、あろうことか土曜日の昼下がりに帰宅した家主の前で、口を半開きにして寝ぼけた寝言を晒してしまったのだ。
だが、それ以上に栞の頭に浮かんだのは、純粋な疑問だった。
(どうして神崎様が、土曜日のこんな時間に家にいるの……?)
前世の記憶をひっくり返しても、神崎創が週末の昼間に本邸にいた記憶など一度たりとも存在しなかった。
彼は常に会社にいるか、ゴルフ場にいるか、あるいはどこかの高級料亭で財界の長老たちと密談を交わしているはずの男だ。前世の栞は、土曜も日曜も一人きりでこの冷え切った屋敷に取り残され、「夫は今日も私から逃げるように仕事をしているのだ」と胃を痛めて涙を流していたのだから。
その仕事中毒の権化が、なぜ。
思考を巡らせる栞の視線に、創が手に提げたアタッシュケースと、革靴の爪先が微かに後退りしたのが映った。
創の耳たぶが、ほんのりと赤く染まっている。
(……あっ)
栞は一つの結論に達した。
(そうか。週末だから、自分の家で静かに書類仕事をしようと帰ってきたんだわ。それなのに、開かずの客間だったはずの場所が勝手にリゾートカフェに改造されていて、見知らぬ居候がド真ん中で惰眠を貪っていたら……そりゃあ、誰だって絶句するし、不愉快にもなるわよね!)
契約上の取り決めでは「共有スペースの自由な使用」は認められている。
だが、それはあくまで「家主の生活を脅かさない範囲で」という暗黙の前提があってこそだ。
いくら吹っ切れて自分の機嫌を取る暮らしを始めたとはいえ、相手は一年後に三億円を振り込んでくれる最高の大口クライアント。無用な摩擦を起こして契約関係にヒビを入れるのは、プロの居候として二流のやることだ。
「失礼いたしました!」
栞はビーズクッションから俊敏に身を起こした。
寝起きの気だるさを瞬時にかなぐり捨て、床に脱ぎ捨ててあったパイル地のスリッパへと裸足を滑り込ませる。
「私の不手際です。お仕事からお戻りになられたのですね。お疲れ様でございます」
栞は手際よくチーク材のローテーブルの上へと手を伸ばした。
グラスの底に結露していた水滴を、麻のコースターでキュッと拭き取る。
読みかけのまま伏せてあった文庫本をサッと閉じ、栞の私物である薄型のノートパソコンとスケッチブックを脇に抱え込んだ。
「家主様が寛がれるスペースを、不法占拠してしまい申し訳ありませんでした。すぐに荷物をまとめて自室へ引き上げますので、どうぞこのお部屋はご自由にお使いください。あ、カーテンやテーブルが邪魔でしたら、後で絹代さんと一緒に元の位置に戻しておきますので――」
早口で事務的に告げ、ぺこりと頭を下げて創の脇を通り抜けようとした。
完全なる撤退態勢。相手に気まずい思いをさせず、自分もストレスを溜めないための、完璧にスマートな引き際のはずだった。
ところが――。
「待て」
低く、切羽詰まったような声が、部屋の空気を震わせた。
すれ違いざま、創の長い腕がすっと伸びて――栞のパーカーの袖口のすぐ手前、空気を掴むようにして止まった。
触れることはしない。だが、その切迫した制止の気配に、栞は思わず足を止めて振り返った。
「神崎様……?」
創はアタッシュケースを床に下ろし、ネクタイの結び目をわずかに緩めながら、激しく視線を泳がせていた。
その端正な顔立ちには、普段の冷静沈着なエリート専務の仮面が剥がれ落ち、ひどく不器用で、居たたまれないような焦燥が滲み出ていた。
「……いや。構わない」
「はい?」
「構わない、と言ったんだ」
創は喉の奥で一度息を呑み、言い聞かせるように言葉を継いだ。
「この部屋をどう使おうと……君の自由だ。今朝の覚書でも取り決めたはずだろう。屋敷の共有スペースは、君の好きに使っていいと言ったのは俺だ」
「それはそうですけれど……でも、神崎様がここでお仕事をされるおつもりなら、私がいては邪魔でしょう?」
「邪魔などと……そんなことは思っていない」
創は眉間を苦しげに寄せ、視線を窓辺のリネンカーテンへと逸らした。
「そもそも、この部屋は何年も使われていなかった死に部屋だ。埃が積もるだけの場所に風を通し、片付けてくれたのは君だろう。……俺が勝手に戻ってきただけだ。君が逃げるように立ち退く筋合いはない」
「逃げるだなんて、そんな大袈裟な……」
「頼むから、そのままいろ」
低く、どこか懇願するような響きを含んだその言葉に、栞は目を丸くした。
頼むから、そのままいろ。
前世の創なら、絶対に口にしなかった言葉だった。
前世の彼は、栞が同じ部屋にいるだけで息苦しそうに眉をひそめ、無言で踵を返して自分の書斎へ引き籠もっていたのだから。
栞は腕に抱えた文庫本とグラスを見つめ、それから目の前の男の顔を観察した。
嘘をついている様子はない。皮肉を言っているようにも見えない。
ただ、どうしていいか分からない大型犬のように、ぎこちなく立ち尽くしているだけだ。
(……ふうん? 本当に、居てもいいんだ)
なら、わざわざ二階の自室へ引っ込む理由もない。
あちらの部屋も快適だが、このサンルームの南向きの陽当たりと、吹き抜ける秋風の心地よさは別格なのだ。
せっかく作った極上の居場所を、遠慮して明け渡すなど勿体ない。
「……分かりました。では、お言葉に甘えて」
栞はあっさりと踵を返し、再びローテーブルの前へと戻った。
抱えていた本とノートパソコンをテーブルの上にトンと置き、グラスをコースターの上へ戻す。
そして、躊躇うことなく、あの巨大なネイビーのビーズクッションの真ん中へと、どすんと腰を沈めた。
――ふしゅうぅぅぅ……。
ビーズが心地よく身体のラインに合わせて沈み込み、栞の口から「ふう」と小さな息が漏れる。
栞は開け放たれたテラスの外を指さし、何気ない調子で創へと声をかけた。
「風が通って、すごく気持ちいいですよ。テラスに新しく植えたローズマリーとミントの香りが、ちょうど風に乗って入ってくるんです。……神崎様も、どうぞお掛けになってください。そちらのソファ、少し奥に動かしてしまいましたけれど、座り心地は変わらないはずですから」
「……ああ」
創は短く返事をすると、履いていた磨き抜かれたジョン・ロブの革靴を脱ぎ、部屋の入り口に用意されていた客用のスリッパへと足を滑り込ませた。
アタッシュケースを壁際に置き、セットアップのジャケットを脱いで、丁寧に背もたれへと掛ける。
ワイシャツの第一ボタンを外し、袖口のカフスボタンを外して二折ほどまくり上げる。
そして――。
創はおずおずと、部屋の隅へと追いやられた漆黒の本革張りソファへと歩み寄った。
チーク材のローテーブルを挟んで、栞の斜め対面。
恐る恐る腰を下ろす創の動きは、普段のスマートな役員然とした所作とは程遠く、まるで他人の家に初めてお邪魔した学生のようにぎこちなかった。
沈黙が落ちた。
部屋の中に響くのは、スピーカーから流れる爪弾くようなボサノヴァのギターの音色と、リネンカーテンが風を孕んで擦れ合うサラサラという微かな摩擦音だけ。
テラスからは、太陽の熱で温められた土の匂いと、爽やかなハーブの青いアロマが、途切れることなく流れ込んでくる。
(何を……話せばいいんだ)
創は膝の上に置いた両手を無意識に握りしめ、冷や汗が背筋を伝うのを感じていた。
仕事であれば、どんな百戦錬磨の企業買収相手であっても、最初の三分で主導権を握る術を心得ている。的確なアイスブレイク、数字の提示、相手の弱みを突く論理の展開。
だが、今の状況において、手持ちのビジネススキルのどれ一つとして役に立つものはなかった。
妻と、休日の昼間に、同じ部屋で二人きり。
それも、自分が「政略結婚の道具」として屋敷に閉じ込めたはずの妻と。
天気の話題を振るべきか?
それとも、今朝の『生活ガイドライン』について何か補足をすべきか?
あるいは、この部屋を改装した費用について、カードの限度額を気にする必要はないと言い添えるべきか?
いや、そもそも彼女は「私生活への完全不干渉」を求めていたはずだ。下手に話しかければ、「契約違反の干渉」として不快に思われるのではないか――。
ぐるぐると堂々巡りの思考に囚われ、創の神経は針の筵の上に置かれたように張り詰めていた。
前世の記憶があれば、創のこの苦悩は喜劇以外の何物でもなかっただろう。
前世のこの屋敷において、沈黙に怯え、必死に話題を探して空回りしていたのは、常に栞の方だったのだから。
『お仕事はお忙しいですか?』『今夜のお食事は何がよろしいですか?』『ネクタイ、新しいものをご用意しましょうか?』――そうやって、創の冷徹な横顔に向かって必死に言葉を投げかけては、短く冷淡な返答を突きつけられ、一人で傷ついていたあの日々。
だが、今の栞は――。
カラン、と涼やかな音が響いた。
栞は結露したグラスを手に取り、細いガラスストローでアイスコーヒーを一口啜った。
そして、テーブルの上の文庫本を手に取ると、挟んであった栞を抜き、何食わぬ顔で読書を再開したのだ。
一切の緊張感がない。
創の視線も、彼の放つ重苦しい沈黙も、気まずい空気すらも、まるで春のそよ風のように完全にスルーしていた。
ページをめくる、カサリという乾いた紙の音。
時折、クッションの中で体勢を変え、足を少し組み替えたり、首筋を軽く回したりしながら、活字の世界へと完全に没頭している。
創の存在など、まるでそこに置かれた観葉植物の鉢植えか、壁に掛けられた絵画の一つであるかのように――極めて自然に、背景の一部として受け流していた。
「…………」
創はぽかんと口を開きそうになるのを、辛うじて堪えた。
話しかけてこない。
顔色を窺ってもこない。
不機嫌そうに唇を尖らせるわけでもなく、ただ自分の時間を、自分のペースで、心底心地よさそうに楽しんでいる。
無視されているのではない、と創は直感した。
悪意のある無視であれば、もっと刺々しい拒絶のオーラが漂うはずだ。
だが栞から漂っているのは、春の陽だまりのような、どこまでも穏やかで無害な空気だった。
『そこにあなたがいてもいなくても、私の幸せには何の影響もありませんよ』という、圧倒的な精神的自立。
(……不思議な奴だ)
創の強張っていた肩の力が、ほんの少しだけ緩んだ。
誰も自分に媚びてこない。
誰も自分に期待を押し付けてこない。
神崎家の後継者としての義務も、完璧な専務としての仮面も、ここでは誰も求めていない。
ただ、心地よい音楽が流れ、柔らかな風が吹き抜け、向かい側で一人の女が静かに本を読んでいる。
沈黙が、重たくない。
言葉を交わしていないのに、息苦しくない。
創はゆっくりと、黒革ソファの背もたれに体重を預けてみた。
深く沈み込むクッション。
鼻腔をくすぐるのは、埃の匂いではなく、テラスから運ばれてくる瑞々しい土とハーブの香り、そして挽きたての珈琲の芳香。
すうっ、と息を吸い込む。
肺の奥深くまで、何の抵抗もなく空気が満ちていく。
(……息が、できる)
創は心の中で、小さく呟いた。
二十八年間の生涯で、この神崎邸の敷地内で、これほど深く息を吸えたことがあっただろうか。
物心ついた時から、父の冷たい視線に怯え、使用人たちの値踏みするような目に晒され、親族たちの陰口に耳を塞いできたこの家で。
いつだって喉の奥が引き攣り、肩を怒らせ、張り詰めた糸のように生きてきたはずだったのに。
今、この瞬間。
自分は生まれて初めて、「自分の家で息が抜ける」という感覚を味わっていた。
創は膝の上で組んでいた指を解き、ソファの肘掛けに腕を置いた。
身体の芯にこびりついていた慢性的な疲労感が、陽だまりの温もりに溶かされていくように、じわじわと解けていく。
ふと、視線を前へと向ける。
柔らかな木漏れ日を浴びながら、熱心に文庫本のページを目で追う栞の横顔。
風が吹くたび、耳元からこぼれ落ちた一筋の黒髪が、白いうなじの上でさらりと揺れる。
時折、面白い記述に出くわしたのか、桜色の唇がふっと綻び、小さな笑みが零れる。
その無防備で、満ち足りた横顔から、創は目を離すことができなくなっていた。
(この空間を作ったのは……あいつなんだな)
胸の奥で、カチリと何かの歯車が噛み合う音がした。
成瀬の言葉が、今度は別の意味を持って脳裏をよぎる。
『誰にも依存せず、自分の機嫌を自分で取れる女なんて、そうそう巡り会えるもんじゃないぞ』
確かに、その通りだった。
彼女は自分にすがりつかない。
だが、彼女の作り出すこの圧倒的な多幸感と居心地の良さは――どうしようもない引力となって、創の冷え切っていた心を、確実に引きずり込み始めていた。
どれほどの時間が流れただろうか。
一言も会話を交わさないまま、三十分、一時間と、穏やかな週末の午後が溶けていく。
壁の掛け時計が午後四時を回り、庭の木々の影が長く伸び始めた頃、創のポケットの中でスマートフォンが短く振動した。
画面を見る。
秘書室からの連絡だった。
月曜朝一番に予定されている、海外ファンドとの買収交渉に関する最終ブリーフィングの招集通知。
週明けから、神崎グループの命運を分ける巨大なプロジェクトが、本格的に火蓋を切るのだ。連日の深夜残業と、熾烈な数字の叩き合いが待っていることは火を見るより明らかだった。
創は静かに立ち上がった。
スーツの上着を腕に掛け、アタッシュケースを手に取る。
「……栞さん」
低く呼びかけると、栞が本から顔を上げ、琥珀色の瞳を向けた。
邪魔をされたことを咎める風もなく、ただ「はい?」と小首を傾げる。
「邪魔をした。……珈琲のいい匂いだった」
それが、創の絞り出した精一杯の言葉だった。
栞は一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐにふわりと、花が綻ぶような自然な笑みを浮かべた。
「お粗末様でした。神崎様も、どうぞ良い休日をお過ごしくださいね」
完璧な、だが温かい挨拶。
創は小さく頷き、サンルームを後にした。
背後で、再びボサノヴァの爪弾く音色が優しく響いていた。
廊下を歩きながら、創は自分の胸の奥底に芽生えた、奇妙な渇望を自覚せずにはいられなかった。
週明けからの激務が、早くも重たいプレッシャーとなって肩にのしかかってくる。
だが――以前のように、ただ胃を痛めて逃げ場のない絶望に苛まれることはなかった。
なぜなら、彼の足は。
そして、彼の冷え切った心は。
無意識のうちに、早くも求めていたからだ。
この屋敷のどこかで、湯気を立てているはずの――あの温かな光の灯る場所を。




