【第12話】冷えた胃袋と、深夜1時の出汁のにおい
神崎ホールディングス本社ビルの三十四階、専務執務室の窓の外では、東京の夜景がすでに深夜の深い帳に沈んでいた。
無機質に並ぶオフィスタワーの明かりは疎らになり、眼下を走る首都高速道路のテールランプだけが、赤い光の川となって途切れ途切れに流れている。
カタカタ、カタ……ッ。
静まり返った部屋に、乾いたキータッチの音と、マウスのクリック音だけが響く。
デスクの中央に置かれた薄型モニターの右下には、無情にも『0:42』というデジタル時計の数字が表示されていた。日付はすでに金曜日から土曜日へと変わっている。
「……クソが。足元を見やがって」
低く毒づいたのは、デスクの脇にある応接ソファにだらしなく身体を投げ出していた副社長の成瀬拓真だった。
普段の軽薄な笑みは完全に消え去り、緩められたネクタイは曲がり、ワイシャツの袖は肘まで乱暴にまくられている。手元に散乱しているのは、先ほどまで行われていた北米系投資ファンドとのクロスボーダー買収案件に関する修正契約書のドラフトだった。
「土壇場で特別解約条項の料率を二パーセント上乗せしてくるとはな。親父さん……会長の息のかかった保守派の役員どもも、待ってましたとばかりに騒ぎ立てやがって。『創専務の独断専行が招いた危機だ』だとさ。虫酸が走るぜ」
「……言わせておけばいい。向こうの真の狙いは手数料の引き上げじゃない。買収後の統合プロセスにおける主導権争いだ。明日……いや、今朝の九時までに、法務の吉高と協議して対案のスキームを固める。成瀬、お前はもう上がれ。月曜の朝までにシンジケートローンの組成計画を修正しておいてくれればいい」
創は視線をモニターから外すことなく、氷のように平坦な声で返した。
その顔色は、蛍光灯の白い光の下で土気色に沈んでいた。
週明けの月曜日から始まった新規プロジェクトのトラブル。
相手方ファンドの代表交代に伴う突如の条件変更、それに便乗した社内反対派の突き上げ、連日の徹夜に近い緊急ミーティング。
火曜日から今日に至るまで、創の平均睡眠時間は二時間を切っていた。
ズキ、と左のみぞおちの奥で、鋭い針で突かれたような鈍痛が走る。
創はキーボードを打つ手を止め、無意識にスーツのベストの上から左脇腹を強く押さえつけた。
「……おい、創。お前、大丈夫か? 顔色が完全に死人だぞ」
成瀬がソファから身を起こし、眉をひそめて創の顔を覗き込んできた。
創のデスクの片隅には、昨日の夕方に秘書が買ってきたコンビニの三角サンドイッチが、ビニール包装の口を半分だけ開けられた状態で放置されていた。
乾燥して黄色く変色し始めたレタスと、油分の浮いたハム。
その隣には、口をつけられて冷え切ったブラックの缶コーヒーが二本。
「……少し、胃が痛むだけだ。いつものことだ」
「いつものこと、で済むツラじゃないだろ。そのサンドイッチ、一口しか齧ってねえじゃねえか。何か胃に入れろ。血糖値が底を突いて倒れるぞ」
「受け付けないんだ。……水ですら胸焼けがする」
喉の奥に、酸っぱい胃液がせり上がってくる感覚。
口の中は砂を噛んだようにパサつき、何かを食べようと想像するだけで、胃壁が引き攣るような拒絶反応を示していた。
二十代前半から患っている慢性的な胃炎。過度のプレッシャーと不規則な生活が重なると、決まってこうして内臓が悲鳴を上げる。
普段なら、デスクの引き出しに常備してある強力な胃酸抑制剤を冷水で流し込み、痛覚を麻痺させて仕事を続けるのが常だった。
だが、今夜に限っては、薬のシートを破る気力すら湧かなかった。
「……成瀬。もういい、今日のところは解散だ。あとは俺が一人で確認しておく」
「おいおい、一人で抱え込むなって……」
「お前の顔を見ていたら、余計に胃が痛む。帰れ」
冷淡に言い放つ創に、成瀬は呆れたように両手を上げた。
「へいへい。悪うございましたよ。……創、タクシー呼んでやるから、お前もさっさと帰って寝ろよ。あの屋敷、今は前と違って、帰っても息が詰まることはないんだろ?」
成瀬が何気なく投げかけたその一言が、創の胸の奥に小さく波紋を広げた。
(……息が、詰まらない家、か)
成瀬が去り、完全な静寂に包まれた執務室で、創は椅子の背もたれに深く頭を預けた。
天井を見上げる。
瞼を閉じると、どっと押し寄せてくるのは、疲労と、そして――苦い記憶だった。
* * *
前世の記憶――いや、創自身にとっては、まるでつい先日のことのように生々しい、結婚当初の記憶。
老舗和菓子舗「佐竹堂」の救済と、祖父の遺言条項のクリア。
利害の一致だけで結ばれた、愛のない政略結婚。
顔合わせの料亭で、佐竹栞という娘が浮かべていた表情を、創は今でも鮮明に覚えている。
指先を膝の上で白くなるほど握りしめ、自分と目が合うたびに息を呑み、まるで死刑台に送られる罪人のように肩を震わせていた。
『形式上の婚姻だ。君に妻としての義務を求めるつもりはないし、俺の私生活に干渉することも望まない』
あの時、自分はそう告げた。
それが、彼女の自由を奪わないための、自分なりの最大の配慮だと信じ込んでいたからだ。
神崎家のドロドロとした親族争いや、冷酷な父親の悪意から彼女を守るためには、自分と彼女の間に深い濠を掘り、一切の関わりを持たない「無関心」を貫くことこそが紳士的な誠意なのだと。
だが、現実はどうだったか。
屋敷に越してきた当初の彼女は、いつも怯えていた。
創が夜遅くに帰宅するたび、玄関の片隅やリビングのソファの影で、息を潜めて正座していた。
『おかえりなさいませ』と頭を下げる彼女の声はいつも震えていて、その瞳には『何か粗相をして怒られるのではないか』という怯懦の色が濃く張り付いていた。
それが――創には、耐えられなかったのだ。
自分は救世主のつもりでいたのに、彼女にとっては、自分こそが自由を奪い、恐怖で縛り付ける冷酷な支配者に他ならないのだという現実。
彼女のあの怯えた視線に晒されるたび、創の胸の奥には鉛のような罪悪感と居心地の悪さが募った。
どう声をかければいいのか分からない。
優しくすれば恩着せがましくなり、冷たくすればますます怯えさせる。
結果として創が選んだのは――「逃避」だった。
会社での残業をわざと増やし、終電を逃すまで執務室に籠もり、深夜二時、三時と、彼女が確実に寝静まった時間を見計らって泥のように帰宅する日々。
出張を口実にホテルを泊まり歩き、家に寄り付かないことで、彼女の視線から逃げ回っていた。
(……逃げていたのは、俺の方だったんだ)
暗いオフィスの中、創は両手で顔を覆った。
痛烈な後悔が、荒れた胃壁よりも深く、心臓を抉り出す。
彼女が怯えていたのは、神崎家の威光のせいだけではない。
夫である自分が、歩み寄る努力の一切を放棄し、「契約だから」「無干渉が配慮だから」と言い訳を並べ立てて、彼女をあの広大で冷え切った屋敷の中にたった一人で置き去りにしていたからだ。
彼女の孤独と恐怖を作り出した元凶は、他ならぬ自分自身だったのだ。
もし――。
もし、彼女があのまま怯え続け、自分が逃げ続け、互いに心を閉ざしたまま一年を過ごしていたとしたら。
彼女はどれほどのストレスと絶望を抱え、どのような結末を迎えていたのだろうか。
想像するだけで、背筋に冷たい汗が噴き出し、喉の奥がヒュッと引き攣った。
(取り返しのつかない過ちを犯すところだった……)
だが、今の現実は違っている。
なぜだかは分からない。
婚姻初夜の日、彼女は突然すべての遠慮と怯えを脱ぎ捨てた。
一人でA5ランクの肉を焼き、ビールを煽り、翌朝には完璧な『不可侵条約』を突きつけてきた。
死んでいた客間を陽だまりのリゾートに変え、テラスにハーブを植え、誰に媚びることもなく、自分の機嫌を自分で取って生きている。
彼女が自立してくれたからこそ、自分は救われたのだ。
彼女のあのカラリとした笑顔がなければ、自分は今でも、罪悪感と孤独の檻の中でもがき苦しんでいただろう。
「……帰ろう」
創は低く呟き、椅子の背からジャケットを手に取った。
机の上の書類を乱暴に鞄に詰め込み、パソコンをシャットダウンする。
深夜一時に帰宅したところで、彼女が起きているはずはない。
それでも――あの冷え切った牢獄だったはずの屋敷が、今は不思議と、自分を引き寄せる場所へと変わりつつあった。
* * *
迎車のハイヤーに揺られ、深夜の都心を抜けて港区の高級住宅街へ。
神崎邸の門をくぐり、車を降りた時、時刻は午前一時十五分を回っていた。
冷たい秋の夜風が吹き抜ける。
街灯の灯りに照らし出された本邸のシルエットは、相変わらず巨大で、無機質で、静寂そのものだった。
二階の寝室の窓はすべて暗く、当然ながら人の気配はない。
創はネクタイを緩め、疲れ切った足取りで玄関ポーチの石段を上がった。
指紋認証リーダーに親指を押し当て、カチャリと解錠する。
重厚な防音扉を、軋ませないように慎重に引いた。
暗闇と、凍てつくような大理石の冷気。
いつものように、音を立てないように忍び足で自室へ向かい、シャワーを浴びて倒れ込むように眠る――そのつもりだった。
ところが。
「…………っ?」
三和土に足を踏み入れた瞬間、創の鼻腔が微かに震えた。
空気が、冷たくない。
いや、玄関ホールの気温そのものは秋の夜気と同じはずだった。
だが、その空間の奥底から、ふわりと運ばれてきた「気配」が、あまりにも温かかったのだ。
それは、微かな、だが抗いようのない「匂い」だった。
(……これは……?)
創は思わず立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
香ばしい。
魚の骨と皮目を、強火でじっくりと焼き上げた時にしか生まれない、あの独特の香ばしい焦げ香。
生臭さは微塵もない。徹底的に血合いを取り除き、熱湯で霜降りにしてぬめりを洗い流した上で、遠赤外線で芯まで焼き締められた魚骨だけが放つ、極限まで澄んだ薫煙。
そして、その香ばしさを追いかけるように漂ってくるのは――。
濃口醤油と純米酒が、土鍋の熱でふつふつと煮詰まった、艶やかで甘辛い蒸気の匂い。
さらに、ピリリと鼻腔の奥を心地よく刺激する、針生姜の爽快なアロマ。
(……魚の、あら炊き……?)
創の記憶の引き出しが、勢いよく開かれた。
かつて京都の老舗料亭で、接待の席の最後に出された、あの名物料理。
新鮮な真鯛のアラを贅沢に使い、骨から抽出した濃厚な出汁だけで米を一粒一粒炊き上げる、究極の土鍋ご飯――。
なぜだ。
なぜ、深夜一時を回ったこの時間に、神崎家の本邸の廊下に、これほどまでに生々しく、食欲の中枢を直接鷲掴みにするような香りが満ちているのか。
――ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……。
静寂を切り裂いて、創の腹の奥底から、情けないほどの重低音が鳴り響いた。
さっきまで、水の一滴すら受け付けないと悲鳴を上げていたはずの胃袋だった。
コンビニのサンドイッチを見るだけで胸焼けを起こしていたはずの内臓が、この温かな出汁の匂いを感知した瞬間、狂ったように蠕動運動を再開したのだ。
胃酸が湧き出るのではない。
ただひたすらに、純粋な飢餓感が、五臓六腑を駆け巡っていた。
カツ、カツ。
革靴を脱ぎ捨て、客用スリッパに足を突っ込んだ創の足は、もはや自分の意志ではコントロールできなかった。
アタッシュケースを玄関ホールのコンソールテーブルの上に無造作に置き去りにし、吸い寄せられるように、一階の廊下の奥へと歩を進める。
暗い廊下を曲がる。
その先にあるキッチンの入り口。
曇りガラスの引き戸の隙間から、ぽつんと、柔らかなオレンジ色の光が漏れ出していた。
換気扇の低い吸気音。
そして、コトコト……プチプチ……と、分厚い陶器の中で何かが静かに呼吸しているような、微かな微かな煮沸の音。
創は唾を飲み込んだ。
喉仏が大きく上下する。
冷え切った指先を伸ばし、引き戸の真鍮の取っ手に触れた。
ガラガラ……と、静かに戸を滑らせる。
その瞬間、キッチンの温かな熱気と、鯛のあら炊きの濃厚な蒸気が、津波のように創の全身を包み込んだ。
そして――。
湯気の向こう側、ステンレスのアイランドキッチンの前に立っていた人物の姿が、創の瞳に飛び込んできた。
白い清潔な割烹着を身に纏い、後ろで髪をきゅっとお団子にまとめた栞だった。
彼女はコンロの上に鎮座した飴色の萬古焼の土鍋の前に立ち、鍋つかみを使って、重厚な二重蓋をわずかに数ミリだけ持ち上げていた。
立ち上る真っ白な蒸気を、手元で仰ぐようにしながら、真剣そのものの眼差しで鍋の中の「呼吸」を見極めている。
「……よし。お米が立ったわね」
満足げに小さく呟いた彼女の横顔は、深夜一時だというのに、生き生きとした生命の輝きに満ち溢れていた。




