【第13話】土鍋の呼吸。深夜の「真鯛のあら炊きご飯」
土鍋の二重蓋の小さな穴から、シュウシュウと細く勢いよく噴き出していた白い蒸気が、やがてふわりと柔らかく、穏やかな揺らめきへと変わっていく。
コンロの微小な青い炎の上で、四日市萬古焼の分厚い陶器が、まるで生き物のように小さく息づいていた。
プチプチ、パチパチ。
鍋底から微かに届くのは、余分な水分が飛び、米と出汁が極上の「おこげ」を形成し始めたことを知らせる、確かな合図だった。
「……よし。今ね」
栞はガスコンロのつまみを捻り、火を完全に止めた。
ここからが、炊き込みご飯における最も神聖な時間――「蒸らし」の十数分間である。
熱を限界まで蓄えた萬古焼の土鍋は、火を止めた後も内部の高温を維持し、米粒の芯までじっくりと旨味を浸透させていく。この時間を焦って蓋を開けてしまえば、せっかくの蒸気が逃げ、米の芯が残ってしまうのだ。
栞は麻の布巾で土鍋の蓋を包み込むように覆い、ほっと胸を撫で下ろした。
白い割烹着の袖をまくり直し、ステンレスの作業台に手をつく。
時計を見れば、午前一時十分を回っていた。
なぜ、こんな非常識な時間帯に、一人で土鍋ご飯など炊いているのか。
理由は単純明快だった。
(……だって、あんなに立派な鯛のアラをもらっちゃったら、料理人の娘としてじっとしていられるわけがないじゃない)
事の始まりは、今日の昼下がりだった。
ハウスキーパーの藤沢絹代が、保冷剤でしっかりと冷やされた発泡スチロールの箱を抱えて厨房へやってきたのだ。
『若奥様。豊洲の鮮魚問屋から、一本釣りの明石産天然真鯛が届きました。料亭用に身を卸した後の、頭とカマの部分でございます。料理長が「この頭なら極上の出汁が出るから、奥様に」と届けてくださったのですが……』
箱を開けた瞬間、栞の息は止まりかけた。
そこに横たわっていたのは、鮮やかな桜色の皮目に、澄み切った瞳を持つ巨大な真鯛の頭部だった。
エラの色は鮮血のように赤く、濁り一つない。カマの部分には、丸々と太った白身がたっぷりと付いていた。
普通の家庭なら持て余すような巨大なアラだが、老舗和菓子屋の賄い厨房で魚の骨から出汁を取る技術を叩き込まれていた栞にとっては、宝石箱以外の何物でもなかった。
絹代は『創様は今夜も深夜までお戻りになりませんし、私が冷凍保存しておきましょうか』と気遣ってくれたが、栞は首を横に振った。
『冷凍なんて勿体ないです! 獲れたての天然鯛は、今日のうちに骨の髄まで火を入れて出汁を取るのが一番美味しいんですから。今夜の私の夜食と、明日の朝食とお昼のおにぎりにします!』
そう宣言して、夜十時過ぎから下ごしらえを始めたのだ。
魚のアラ炊きは、下処理の丁寧さがすべての味を決定づける。
まず、兜割りにされた頭とカマに、満遍なく上質な粗塩を振って三十分置く。浸透圧で魚の余分な水分と生臭みを浮き上がらせた後、熱湯を勢いよく回しかける「霜降り」の工程。
白く縮んだ皮目をすかさず冷水に落とし、残ったウロコや血の塊、エラの付け根のぬめりを、指先とピンセットを使って流水の下で徹底的に取り除いた。
そして、ここからが栞のこだわりだった。
生のアラをそのまま出汁に放り込むのではない。魚焼きグリルの強火で、皮目と骨の表面にこんがりと香ばしい焼き目がつくまで、じっくりと素焼きにしたのだ。
余分な脂を落とし、骨の芯まで熱を通すことで、鯛特有の力強い香ばしさが引き出され、煮崩れも防ぐことができる。
鍋には、利尻昆布を一晩浸した極上の昆布水。
そこへ、焼きたてのアラを贅沢に投入し、弱火でことことと煮出すこと二十分。
濁りのない、黄金色に澄み渡った鯛のあら出汁。
その出汁を一度漉して冷まし、酒、三河本みりん、そして素材の美しい色を殺さない兵庫県産の薄口醤油で味を調える。
しっかりと浸水させて水気を切った山形県産の特別栽培米「つや姫」の上に、素焼きにした鯛の頭とカマを豪快に敷き詰める。
仕上げに、皮を剥いて極細に刻んだ黄金生姜の針生姜を、雪のようにたっぷりと散らし、土鍋の蓋を閉めたのだった。
(ふふっ。お米一粒一粒が、鯛の旨味を吸い尽くしてパンパンに膨らんでるはず……)
想像するだけで、胃袋がキュウと鳴る。
テラスのガーデンから先ほど摘んできたばかりの大葉と三つ葉をまな板の上で細かく刻みながら、栞は蒸らし時間のタイマーが鳴るのを今か今かと待ちわびていた。
その時だった。
ツン、と背中の空気がわずかに冷え、誰かの濃密な気配が背後に立った。
「……ん?」
換気扇の吸気音に紛れて、キッチンの引き戸が開く音を聞き逃していたらしい。
栞は何気なく振り返り――そこに立ち尽くしていた人影を見て、まな板の上で包丁を取り落としそうになった。
「うわっ……!? びっくりした……!」
胸元を押さえて後ずさりする。
キッチンの入り口、引き戸の前に立っていたのは、濃紺のスーツを身に纏った夫・神崎創だった。
カバンすら持たず、ネクタイを少し緩めただけの姿。
普段の怜悧で隙のないエリート専務の佇まいはどこへやら、その顔色は信じられないほど青白く、土気色に沈んでいた。
彫刻のように整った頬はげっそりとこけ、切れ長の瞳の下には、墨を塗ったような濃い隈が落ちている。
そして何より――彼の左手は、スーツのベストの上から、みぞおちのあたりを痛ましそうに強く押さえつけていた。
(……あ)
栞の脳裏を、前世の記憶が雷撃のように貫いた。
あの立ち姿。
あの青白い肌。
そして、無意識に胃を庇うように丸まった背中。
(前世の私と……まったく同じだ)
過度の重圧、極限の睡眠不足、そして冷え切った孤独の中で、自分の内臓が音を立てて崩壊していったあの日々。
胃の奥を針で抉られるような激痛を抱えながら、誰にも弱音を吐けず、ただ痛みに耐えて立ち尽くしていた前世の自分自身の姿が、目の前の男に完全にオーバーラップした。
創は、引き戸に手をかけたまま、呆然とした表情で栞を見つめていた。
乾ききった唇が、微かにわなわなと震えている。
「……栞、さん……」
掠れた、今にも消え入りそうな声だった。
「君は……こんな夜中に、一体何をしているんだ……」
「何って……」
栞は瞬きをし、それから手元の土鍋へと視線を落とした。
そしてすぐに、いつもの朗らかでカラリとした笑顔を浮かべた。
同情するような顔をしてはいけない。痛みを指摘してプライドを傷つけてもいけない。
この男は、神崎家の重圧を一身に背負い、誰にも隙を見せられないまま限界まで張り詰めて生きているのだから。
「おかえりなさいませ、神崎様。今日も随分と遅くまでお仕事だったんですね。お疲れ様です」
栞は包丁を置き、濡れ布巾で手を拭いた。
「お夜食を作っていたんですよ。昼間に絹代さんから、素晴らしい天然真鯛のアラをいただきまして。放っておくと鮮度が落ちてしまいますから、土鍋で炊き込みご飯にしていたところなんです」
「……鯛の、あら炊き……」
創が反復するように呟いた。
その視線が、コンロの上に鎮座する飴色の土鍋へと吸い寄せられる。
土鍋の蓋の隙間から、途切れることなく漏れ出している、あの芳醇極まりない出汁と生姜の薫煙。
その匂いを吸い込んだ瞬間、創の喉仏がゴクリと大きく上下したのを、栞は見逃さなかった。
――ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。
静まり返ったキッチンに、再び情けない音が響き渡った。
創の顔が、耳の付け根までカッと赤く染まる。
創は慌てて口元を手で覆い、視線を床へと逸らした。
「す、すまない……。見苦しい音を立てた。俺は……水でも飲んで、自室へ引き上げるから、君は気にせず食事を続けてくれ」
逃げるように踵を返そうとする創。
その背中に向かって、栞は呆れたような、だがどこまでも温かい声を投げかけた。
「神崎様」
「……何だ」
「嘘をつくのはおやめください。お腹が空きすぎて、胃が引き攣っているんでしょう?」
ピシリと足を止める創。
栞はカウンターの向こう側から、優しく小首を傾げてみせた。
「私もね、昔……いえ、胃を痛めやすかった時期があるからよく分かるんです。極度のストレスと空腹が重なると、何かを食べたいのに、油っこいものや冷たいものを見るだけで吐き気がして、何も喉を通らなくなるんですよね」
創の背中が、ビクリと震えた。
図星だった。
オフィスで成瀬に差し出されたサンドイッチを一口も食べられず、胃薬すら飲むのを躊躇っていた創の今の身体の状態を、まるで透視されたかのように言い当てられたのだ。
「そんな時に、コンビニのパンやお肉を食べたら、胃がびっくりして余計に悪化しちゃいます。でもね、温かくて、良質なタンパク質と、消化の良いお米……それも、生姜で身体を芯から温めてくれるものなら、すんなり入るんですよ」
ピピピピ、ピピピピ。
キッチンのタイマーが、軽やかな電子音を鳴らした。
蒸らしの十分間が、完璧に終了した合図だった。
「ほら、ちょうど蒸らしが終わりました」
栞は両手に鍋つかみをはめ、土鍋の両脇に手を添えた。
そして、入り口で立ち尽くす創を、悪戯っぽく見上げた。
「土鍋のご飯って、一人前だけ炊くのってすごく難しいんです。火加減が安定しないから、どうしても二人分以上炊かないと美味しくならないんですよね。……だから、完全に余っちゃうんです」
「余る……?」
「ええ。明日のお昼におにぎりにする分を取り分けても、まだたっぷり残ります。……神崎様。捨てるのは勿体ないですし、私の味付けが濃すぎないか、毒見役を引き受けていただけませんか? 油は一切使っていませんし、お腹にとても優しい味付けにしてありますから」
断る理由を、すべて先回りして完璧に消し去る言葉。
「あなたのために作った」という重たい恩着せがましさは微塵もない。
ただ、「余ったから、毒見してほしい」。
そのカラリとした提案に、創の強情な意地と警戒心は、為す術もなく崩れ去っていった。
「……本当に、余っているのか」
「はい! たっぷり余ってます!」
栞は満面の笑みで頷くと、土鍋の蓋のつまみを掴んだ。
「さあ、開けますよ!」
スウッ――と、分厚い陶器の二重蓋が持ち上げられた。
その瞬間。
――ボワッッッッッ!!
視界が真っ白に染まるほどの、圧倒的な熱い蒸気が立ち上った。
同時に、キッチンの隅々までを爆発的な芳香が支配した。
魚骨を香ばしく焼き締めたことで凝縮された、真鯛の濃厚にして気品あるアロマ。
昆布と薄口醤油が米粒のデンプンと結びつき、加熱されることで生まれた、甘やかで深い穀物の薫煙。
そして、それらを一本の鋭い筋のように貫く、熱せられた針生姜の鮮烈なスパイシーさ。
湯気が晴れた先、土鍋の中に広がっていたのは――息を呑むほど美しい、黄金色の小宇宙だった。
炊き上がった白米は、一粒一粒が完璧に直立し、出汁を限界まで吸い込んで琥珀色に輝いていた。
その中央に鎮座する、立派な真鯛の頭部とカマ。
皮目は香ばしい狐色に縮み、その下から覗く真っ白な鯛の身は、ふっくらとジューシーに花開いている。
「わあぁ……! 大成功!」
栞は声を弾ませると、手早く清潔な骨抜きと菜箸を手に取った。
熱々の鯛の身から、太い骨を巧みに取り除いていく。
丁寧に骨を外された鯛の白身が、ほろほろと崩れ、琥珀色の米の上に散らばっていく。
そして、仕上げだ。
まな板の上から、両手いっぱいにすくい上げたのは――先ほど刻んだばかりの、青々とした大葉の千切りと、鮮やかな三つ葉の小口切り。
パラパラパラッ……。
湯気を上げる土鍋の中央へ、惜しげもなく緑の絨毯が敷き詰められた。
ジュッ……。
熱い蒸気に触れた瞬間、三つ葉と大葉の葉先がほんのわずかにしんなりとし、鮮烈なグリーンの清涼感を放ち始める。
濃厚な魚の出汁の海に、大地と太陽のハーブの香りが溶け合い、完璧な調和の輪郭が完成した。
「しゃもじで、ざっくりと切るように混ぜて……」
サクッ、サクッ、と木製のしゃもじが土鍋を巡る。
底の方から持ち上げられた米には、見事な狐色のおこげが、パリパリと香ばしい音を立てて混ざり合っていく。
栞は棚から、手に馴染む温もりある益子焼の飯碗を取り出した。
そこへ、山盛りのあら炊きご飯をふわりとよそい、仕上げに針生姜と三つ葉を天盛りに添える。
カウンターの上に、トレイがことりと置かれた。
湯気立つ真鯛のあら炊きご飯。
脇に添えられたのは、絹代から教わった自家製の「蕪の千枚漬け」と、熱々のほうじ茶の湯呑み。
「神崎様、どうぞ。冷めないうちに召し上がってください」
栞がスッと引いたカウンターチェア。
そこから立ち上る湯気を見つめながら、創はもはや、一歩も後退りすることができなかった。
ネクタイの結び目に手をかけ、引き抜く。
ジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれに掛ける。
創の身体は、まるで乾いた砂が水を求めるように、抗いがたい引力に導かれてカウンター席へと吸い込まれていった。




