【第14話】染み渡る滋味。「……おかわりはあるか?」
トレイの上に置かれた益子焼の飯碗から、細く白い湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
神崎創は、カウンターチェアに深く腰を下ろしたまま、目の前の小宇宙を見つめていた。
薄口醤油と鯛の骨から抽出された黄金色の出汁を限界まで吸い込み、琥珀色に染まった米粒たち。その頂には、ほろほろと柔らかくほぐされた純白の鯛の身が贅沢に鎮座し、熱で微かにしんなりとした大葉と三つ葉の鮮やかな緑が、まるで新緑の絨毯のように彩りを添えている。極細に刻まれた黄金生姜の針生姜が、湯気の合間からキリリとした爽快な香気を放っていた。
「……いただきます」
誰に聞かせるでもなく、創は小さく呟いた。
添えられていた黒漆の塗り箸を手に取る。指先が微かに震えていたのは、深夜残業による疲労のせいだけではなかった。
箸先を飯碗へと滑り込ませる。抵抗なくすっと沈み込んだ箸が、米粒を崩さずに持ち上がった。
一膳目。山盛りの米と、鯛の白身、そして三つ葉を一口分すくい上げ、口の中へと運ぶ。
「…………っ」
息が、止まった。
咀嚼する以前に、口腔全体を満たしたのは――圧倒的なまでの、海の滋味だった。
ただの魚の匂いではない。強火のグリルで香ばしく素焼きにされ、昆布水でじっくりと煮出された鯛の骨だけが放つ、極限まで凝縮されたイノシン酸の旨味の奔流。
生臭さなど微塵もない。薄口醤油の上品な塩気と純米酒の芳醇なコクが、鯛の甘美な脂を優しく下支えしている。
そして、米だ。
山形県産「つや姫」の一粒一粒が、出汁を芯まで吸い込みながらも決して煮崩れず、舌の上でピンと心地よい輪郭を主張している。噛み締めるたびに、米本来の力強い甘みと、鯛の濃密なエキスがジュワリと弾け出し、混ざり合っていく。
さらに、遅れてやってくる針生姜の鮮烈な刺激。
ピリリとした清涼感が、魚の脂を瞬時に洗い流し、重たさを一切感じさせない。
何より――温かかった。
ゴクリ、と喉を通り落ちた瞬間、創の喉仏が大きく上下した。
熱い塊が食道を滑り降り、冷え切っていた胃の腑へと到達する。
その刹那、さっきまでキリキリと針で突かれるように痛んでいた創のみぞおちの奥底が、まるで凍土に温かな春雨が染み入るように、じわじわと解けていくのを感じた。
(……温かい。胃が……痛まない……)
信じられなかった。
ほんの二十分前まで、水の一滴すら受け付けず、吐き気と胃酸過多に苦しんでいた内臓だった。
それが、この一杯のあら炊きご飯を迎え入れた瞬間、歓喜の悲鳴を上げながら、貪るように栄養を吸収し始めている。
乾ききったスポンジに、極上のスープが注ぎ込まれていくような、生理的な快感。
二口目、三口目。
創の箸は、もはや止まることを知らなかった。
今度は、底の方から持ち上げた狐色のおこげを口に放り込む。
サクッ、ポリッ、と小気味よい音が頭蓋骨に響く。
土鍋の底で醤油と米が香ばしく焼き締められたおこげの薫煙が、鼻腔を抜けて脳髄を直接揺さぶる。噛むほどに香ばしく、ほろ苦く、そして奥深い甘みが溢れ出す。
「神崎様、お汁とお漬物もどうぞ。お口直しになりますよ」
カウンターの向こう側から、栞の穏やかな声が掛けられた。
見れば、トレイの脇には二つの小さな器が並んでいた。
一つは、小鉢に美しく盛り付けられた、純白の「かぶの千枚漬け」。
創は箸を伸ばし、極薄にスライスされたかぶを一枚つまみ上げた。
光を透かすほど薄く切られた聖護院かぶ。口へ運ぶと、パリッ、シャキッ、と瑞々しい涼やかな音が響いた。
昆布のまろやかな粘りと、酢の角が完璧に抜かれた優しい酸味。噛み締めるごとに、かぶ特有の上品な甘みと、隠し味に忍ばされた柚子の皮の爽快なアロマ、そしてピリッとした鷹の爪の刺激が広がる。
濃厚なあら炊きご飯の脂を、これ以上ないほど鮮やかにリセットしてくれる、極上の箸休めだった。
(これも……あいつが作ったのか? 料亭の先付と何一つ変わらない……)
驚愕に目を見張る創に、栞が誇らしげに微笑みかける。
「その千枚漬け、昼間に絹代さんから直伝のレシピを教えていただいたんですよ。神崎家のお台所で代々受け継がれてきた配合なんですって。お酢に少しだけ煮切りみりんを合わせるのがコツだそうです」
「……絹代の……」
三十年間、無表情で屋敷を取り仕切ってきたあの鉄の家政婦が、嫁いできて数日の妻に秘伝のレシピを教えている。その事実だけでも創には天変地異に思えたが、思考を巡らせる暇すら惜しく、創はもう一つの器へと手を伸ばした。
黒塗りの小椀。
蓋を取ると、ふわりと立ち上ったのは、海の潮風をそのまま閉じ込めたような、芳醇極まりない磯の香りだった。
澄み切った黄金色の一番出汁の中に揺蕩うのは、たっぷりの「生あおさ」と、賽の目に切られた純白の絹ごし豆腐。
椀に口をつけ、静かに啜る。
ズッ……。
「…………っっ」
創の背筋を、心地よい戦慄が駆け抜けた。
昆布と鰹節の研ぎ澄まされた一番出汁に、生のあおさから溶け出した濃厚なミネラルと海の香りが溶け合っている。塩気は極限まで控えめでありながら、出汁の輪郭が太いため、物足りなさは微塵もない。
つるり、と唇を滑り落ちる絹ごし豆腐の滑らかさ。
そして、喉を通り抜ける熱い汁。
身体中に、血が巡っていく。
重圧でガチガチに凝り固まっていた首筋の筋肉が緩み、奥歯を噛み締め続けていた顎の力が抜け、一日中パソコン画面を睨みつけていた眼球の奥の熱が引いていく。
張り詰めていた神経の糸が、一本、また一本と、優しく解きほぐされていく感覚。
言葉など、一言も出なかった。
創は無言のまま、憑りつかれたように飯碗と汁椀を往復した。
ご飯を頬張り、千枚漬けを噛み締め、出汁を啜る。
米、魚、生姜、あおさ、豆腐、出汁――日本の風土が育んだ滋味のすべてが、過労で死にかけていた男の細胞の一つ一つを満たしていく。
その間、栞は何をするでもなく、ただ静かにキッチンの片隅で寄り添っていた。
「美味しいですか?」と恩着せがましく尋ねることもなく、「もっと食べて」と押し付けることもない。
洗い桶に溜まった水を静かに流し、布巾を絞り、冷めかけたほうじ茶の急須に新しい湯を注ぎ足す。
カタ、コト、という規則正しく穏やかな生活音だけが、深夜一時の厨房を満たしていた。
その適度な距離感が、創には何よりも心地よかった。
誰かの視線に怯える必要も、気の利いた感想を述べる義務もない。
ただ、出された温かいものを、心ゆくまで味わうことだけが許された時間。
カチャリ。
箸先が、飯碗の底の陶器に触れる乾いた音が響いた。
「…………」
創の動きが止まった。
目線を落とす。
そこにあったのは、米粒一つ、三つ葉の葉先一枚すら残されていない、ピカピカに磨き上げられたかのように空っぽの飯碗だった。
汁椀も空。千枚漬けの小鉢も空。
あれほど山盛りに盛られていたはずの料理が、跡形もなく創の胃袋の中へと消え去っていた。
ふうぅぅぅぅ……。
創の口から、深い、深い吐息が漏れた。
それは、ため息ではなかった。
全身の毒素が抜け落ちた後に残る、完全なる脱力と、満ち足りた安らぎの呼気だった。
胃の奥底には、ずっしりとした温かな重みがあった。痛みは消え失せ、代わりに心地よい満腹感が、神経をまどろみへと誘いかけている。
だが――。
(……消えてしまった)
空になった茶碗を見つめながら、創の胸の奥に、不意に強烈な「名残惜しさ」が湧き上がってきた。
もっと、食べたい。
あの鯛の旨味を吸った琥珀色の米を。
香ばしいおこげの歯触りを。
身体の芯まで温めてくれる、あの優しい生姜の薫煙を。
創の視線が、無意識のうちにカウンターの奥――コンロの上に置かれた飴色の萬古焼の土鍋へと吸い寄せられた。
まだ、蓋の隙間から細い湯気が上がっている。
中には、たっぷりと炊き上げられたご飯が、まだ半分以上残っているはずだった。
(何を考えている……!)
創の理性が、激しく警鐘を鳴らした。
深夜一時に、他人の夜食を「毒見」と称して横取りし、一杯目を綺麗に完食したのだ。
これ以上求めるなど、大企業の専務として、一人の成熟した男として、あまりにも浅ましく、みっともないのではないか。
『ごちそうさま』と告げて、速やかに立ち去るべきだ。
だが。
胃袋から脳へと送られてくる信号は、残酷なまでに正直だった。
喉が鳴る。唾液が溢れ出す。
創は飯碗を持ったまま、固まっていた。
視線を右へ、左へと激しく泳がせる。
耳の付け根が、カッと熱い。
口を開こうとしては閉じ、喉の奥で言葉を押し殺し、再び土鍋を盗み見る。
その不器用極まりない葛藤の一部始終を、カウンターの向こう側の栞が、見逃すはずもなかった。
栞は作業台を拭いていた手を止め、小首を傾げて創の手元を見つめた。
空になった飯碗。
そして、土鍋へと向けられた、捨て犬のように物欲しげな創の瞳。
沈黙が落ちる。
時計の秒針が、コチ、コチ、と三回進んだ。
そして――創は、意を決したように息を呑むと、俯いたまま、消え入りそうな蚊の鳴くような声で、ぽつりと呟いた。
「…………おかわりは、あるか?」
その瞬間。
「ふふっ」
静かなキッチンに、鈴を転がすような、あまりにも軽やかな笑い声が弾けた。
創は心臓を射抜かれたように肩を震わせ、咄嗟に顔を上げた。
嘲笑われたのかと身構えた創の目に飛び込んできたのは――侮蔑の色など微塵もない、満開の花のように綻んだ栞の笑顔だった。
「はい! もちろんですよ! いっぱい炊いたんですから、遠慮しないでどうぞ!」
栞は嬉しそうに駆け寄ると、創の手からすっと空の飯碗を受け取った。
その流れるような所作。
土鍋の蓋を開け、しゃもじを入れる。
サクッ、と再び香ばしい音が響き、今度は先ほどよりもさらに大盛りに、山のように盛り上がったあら炊きご飯が茶碗によそわれていく。
底の方から丁寧にすくい取られた、一番立派な大判のおこげが、てっぺんに誇らしげに乗せられた。
「はい、神崎様! おこげの美味しいところ、一番いい場所を入れておきましたからね!」
コト、と目の前に差し出された、山盛りの二杯目。
立ち上る湯気。
そして、両手をエプロンの前で合わせ、「たくさん召し上がってくださいね」と心底嬉しそうに目を細める栞の瞳。
「…………」
創の胸の奥で、何かが激しく音を立てて砕け散った。
撃ち抜かれたのだ。
胃袋だけではない。
二十八年間、誰も踏み入らせまいと頑丈な鉄の鎧で固めていた創の心の、最も柔らかく、最も孤独だった中心部を。
この女の、飾らない、何の打算もない、ただ「自分の作った飯を美味そうに食ってくれた」ことに対する無邪気な笑顔が、容赦なく貫いてしまった。
敵わない。
絶対に、この女には敵わない。
創は震える手で二杯目の茶碗を受け取り、再び箸を動かした。
一口運ぶごとに、胸の奥が熱く焼けるようだった。
美味い。泣きたくなるほど、美味い。
神崎家の権力も、何百億の資産も関係ない。
ただ深夜の台所で、湯気を立てるご飯を分け合い、向かい合っているだけの時間。
そのささやかな日常の輝きが、創のこれまでの冷徹な人生のすべてを、根底から塗り替えようとしていた。
二杯目のご飯も、あっという間に創の胃袋の中へと消えていった。
「ふう……ごちそうさまでした」
熱いほうじ茶を飲み干し、創が深く頭を下げた時、時刻は午前二時前を指していた。
栞は「お粗末様でした!」と元気に笑い、手際よく片付けを終えると、「それでは、今度こそ本当におやすみなさいませ」とスリッパをパタパタ鳴らして二階へ上がっていった。
一人残されたキッチンで、創は自分の胸に手を当てた。
ドクン、ドクン、と力強く打つ鼓動。
全身を満たす圧倒的な温もり。
明日――いや、数時間後には、またあの息の詰まる本社ビルでの過酷な戦いが待っている。
だが、創の瞳には、昨日までの絶望的な疲労の色はどこにもなかった。
そして――翌朝。
神崎ホールディングス本社ビルに出社した創の劇的な「異変」に、社内で最も鋭いあの男が、気づかないはずはなかったのである。




