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【第15話】オフィスの異変。「最近、妙に家に早く帰りたくなる」

神崎ホールディングス本社ビル、三十四階の大会議室の重厚な扉が開かれたのは、午後五時四十五分のことだった。


「……では、本日の臨時役員会議を終了いたします。北米ファンドとの買収合意に関する修正覚書については、創専務の提出された対案スキームを軸に最終承認といたします」


議長を務める常務の形式的な宣言とともに、役員たちが一斉に席を立った。

数日前まで、創を失脚させようと手ぐすねを引いていた社内の反対派役員たちは、誰もが苦々しい沈黙を守り、足早に部屋を出ていく。

それもそのはずだった。

今日の創のパフォーマンスは、傍で見ていた法務部や財務部の幹部たちですら息を呑むほどに、神がかり的に冴え渡っていたからだ。


相手方ファンドが突きつけてきた理不尽な違約金条項の法的欠陥を、わずか十五分の質疑応答で完膚なきまでに論破。

相手の狙いを見透かした上で、グループにとって最もリスクが低く、かつ利回りを最大化する代替案を鮮やかに提示してみせた。

一切の迷いがない、圧倒的な知性の暴力。

「鋼の計算機」と恐れられる男の、完全なる独壇場だった。


(……不思議だな)


役員フロアの静かな絨毯を踏みしめ、専務執務室へと戻りながら、創は自分の胸のあたりを右手で軽く押さえた。

身体が、信じられないほど軽い。

昨日の夕方まで、過労と胃痛で立っていることすらおぼつかず、死人のような顔をしていた自分が嘘のようだった。

胃の奥底には、昨夜腹いっぱいに詰め込んだ「真鯛のあら炊きご飯」の滋養が、まるで温かい炭火のように一日中静かに燃え続けていた。

胃痛薬など一錠も飲んでいない。胸焼けも、吐き気もない。

頭蓋骨の奥まで澄み渡り、あらゆる思考が滑らかに回転していた。


執務室に入り、スーツのボタンを外してデスクの前の本革エグゼクティブチェアに腰を下ろす。

デスクの上に置かれたパソコンのモニターに視線を走らせる。


『17:58』


タスクバーの右下に表示されたデジタルの数字。

それを見た瞬間、創の指先がピクリと止まった。


「…………」


創は無言で左腕を持ち上げ、スイス製の機械式腕時計の文字盤に目を落とした。

長針は十一を指し、短針は六の直前。

合っている。誤差はない。夕方の六時だ。


いつもなら、ここからが創の本番だった。

定時を過ぎ、社内の雑音が一掃された夕方六時以降こそが、最も集中して経営戦略を練られる至福の時間。

深夜零時まで書類を読み込み、日を跨いでニューヨークの市場が開くのを確認し、午前二時過ぎに終電もとっくに消えた街をハイヤーで後にする――それが、創が二十代の前半から頑なに守り続けてきた、仕事中毒のルーティンだった。


今日も、処理すべき案件は山のようにあった。

週明けの取締役会に向けた補足資料の精査。

シンジケートローンを組成する幹事銀行への連絡事項の確認。

来期の中期経営計画のドラフトの推敲。

残業をする理由は、いくらでも机の上に積み上がっていた。


それなのに。


(……なぜだ)


創の視線は、無意識のうちに、またしても画面の右下へと吸い寄せられていた。


『18:02』


四分しか経っていない。

なぜ自分は、こんなにも時間を気にしているのか。

創は眉間を指先で揉み、キーボードに手を置いた。

書類作成のソフトを開く。文字を打ち込もうとする。

だが、二行ほど入力したところで、ふと手の動きが止まり、執務室の壁に掛けられたクラシカルな時計へと視線が跳ね上がる。


カチ、コチ、カチ、コチ。

規則正しく進む秒針。


(……今、港区を出発すれば)


頭の中で、勝手に計算が始まっていた。

今すぐハイヤーを呼べば、首都高の渋滞を避けて、三十分足らずで本邸へ着く。

午後七時前には、あの屋敷の玄関を開けることができる。


七時。

一般的な家庭であれば、夕食の時間だ。

あの広大で、プロ仕様の機材が揃ったステンレスのキッチン。

今夜、あそこには明かりが灯っているだろうか。

昨日、土鍋の底に残っていたあの大盛りの鯛ご飯は、朝食やおにぎりとして消費されたのだろうか。

それとも――あの白い割烹着を着た女は、今夜もまた、絹代から手に入れた極上の食材を使って、何か新しい料理を作っているのだろうか。


じゅわりと、口の奥に唾液が溢れ出した。

昨夜のあの濃厚な鯛の骨の香ばしさ、針生姜の清涼感、そして「おかわりはあるか?」と尋ねた時に、満開の花のように弾けた栞の笑顔が、脳裏を焼き尽くすように鮮明に蘇る。


(いや、馬鹿な。何を考えている)


創は首を振って妄想を振り払おうとした。

自分と彼女は、契約結婚の相手だ。

食事の義務化はしないと、互いにサインしたばかりではないか。

彼女が夜に何を作ろうと、誰と食べようと、夫である自分には関係がない。

昨夜のようにたまたま余り物を恵んでもらえたからといって、今日も何か用意されていると期待するなど、図々しいにも程がある。


分かっている。頭では、痛いほど理解している。

それなのに――。


創の左手は、無意識のうちに、デスクの上の手帳を閉じ、万年筆のキャップをパチンと嵌めていた。

そして、薄型のアタッシュケースの留め金を外していた。


「……おいおいおい。何やってんだ、創?」


不意に、呆れを含んだ軽薄な声が執務室に響いた。


創は心臓を跳ねさせ、咄嗟にアタッシュケースから手を引っ込めた。

入り口のドア枠に寄りかかり、紙コップを指先で回しながら立っていたのは、副社長の成瀬拓真だった。

成瀬はいつものようにネクタイを緩め、整った顔に悪戯小僧のような好奇心を滲ませながら、創のデスクへとずかずかと歩み寄ってきた。


「……成瀬。またノックを忘れたのか」

「いや、したよ。だがお前が異常な集中力で時計とカバンを睨みつけてたから、聞こえなかったんだろ」


成瀬はデスクの端に紙コップをことりと置くと、身を乗り出して創の顔を凝視した。

その距離、わずか五十センチ。

じろじろと、まるで新種の珍獣を観察するかのように、成瀬の鋭い瞳が創の顔面を舐め回す。


「……何だ。人の顔をそんなに見て」

「いや……驚いた」


成瀬は顎に手を当て、心底から感心したように唸った。


「お前、今日……めちゃくちゃ顔色いいな」

「……普通だ」

「普通なわけあるか! 昨日の夜中、ここで胃を押さえて死にかけてた奴と同一人物とは思えねえぞ。目の下の隈はどこへ行った? 頬の血色もいいし、肌の艶まで戻ってるじゃねえか。……おい、何か怪しい海外の超高額ビタミン点滴でも打ったのか? それとも裏カジノの高級サプリか?」


「下らない詮索をするな。ただ……少し、まともな食事を取っただけだ」


「まともな食事ぃ?」


成瀬の片眉がピクリと跳ね上がった。

創は視線を逸らし、手元の書類を揃えるふりをした。

だが、成瀬の追及は止まらない。

成瀬の視線は、綺麗に片付けられつつある創のデスクの上、そしてカバンへと落ちた。


「なあ、創」

「何だ」

「時計、何回見てる?」

「…………」

「俺が部屋に入ってきてからの二分間で、お前、腕時計を二回、パソコンの時計を一回、壁の時計を一回見たぞ」


ギクリ、と創の背筋が跳ねた。

成瀬は口元をニヤリと歪め、デスクに両手をついて身を乗り出した。


「現在時刻、午後六時十分。……お前、もしかして……帰る気か?」


「……仕事の目処はついた。会議の承認も下りた。残務は月曜の朝からでも支障はない」


「はあぁぁぁぁぁっ!?」


成瀬がわざとらしい大声を上げ、大袈裟に頭を抱えてのけぞった。


「おいおいおい! あの仕事中毒で、社畜の権化で、二十代の青春をすべてこの三十四階のオフィスに捧げてきた神崎創専務が……金曜日の夕方六時過ぎに、定時退社ァ!? おい、外を見ろ! 空から巨大な隕石でも降ってきてるんじゃないだろうな!?」


「騒ぐな、成瀬! 合理的判断だと言っているだろう! 体調管理も経営者の責務だ!」


「へえー、体調管理ねえ!」


成瀬は腕を組み、冷やかすような視線を創に浴びせ続けた。


「あんなに『俺の人生には仕事しかない』『家なんてただの寝床だ』って息巻いてた男が、急に健康優良児アピールかよ。……おい、白状しろよ。本当の理由はなんだ?」


「理由などない」


「嘘つけ。お前のその、そわそわした目! まるで放課後のチャイムが鳴るのを待ってる小学生のガキそのものだぞ!」


「成瀬……!」


創はカッと顔を赤くし、椅子から立ち上がろうとした。

だが、成瀬の鋭い眼差しと、親友ゆえの容赦のない追及から逃れることはできなかった。

成瀬はふっと真顔になり、声音のトーンを落とした。


「……なあ、創。何があったんだよ。あのお嬢さん……栞ちゃんと、何かあったのか?」


その名前を出された瞬間、創の喉の奥が詰まった。

抗おうとするプライド。

だが、ここ数日間の自分の内面の激動と、今この瞬間に胸を支配している正体不明の衝動を、誰かに吐き出さずにはいられない限界が、すでに訪れていた。


創はネクタイを緩め、椅子の背もたれに深く体重を預けた。

そして、天井を見上げ、絞り出すようにぽつりと本音を漏らした。


「……最近」


「ん?」


「最近……妙に、家に早く帰りたくなるんだ」


「…………」


執務室に、水を打ったような静寂が落ちた。


成瀬は目を見開き、固まっていた。

冗談や皮肉ではない。

創の口から漏れたのは、あまりにも不器用で、飾らない、純粋な吐露だった。


「……何で?」


成瀬が呆然と尋ねる。

創は両手で顔を覆い、指の隙間から苦しげな息を吐き出した。


「分からないんだ。……自分でも、どうしてなのか分からない。あの屋敷は、俺にとってずっと息苦しい檻だったはずなんだ。親父の影に怯え、親族の悪意を警戒し、一歩足を踏み入れるだけで胃が引き攣るような場所だった。……それなのに」


創の脳裏に、ここ数日の情景が次々と浮かんでは消える。

深夜零時のすき焼きの湯気。

陽光の差し込むサンルームと、テラスのハーブの青い匂い。

向かい合って静かに本を読んでいた、あの心地よい沈黙。

そして、昨夜の真鯛のあら炊きご飯の、身体中に染み渡るような滋味。


「……帰ると、あの家には、あいつがいる。あいつは俺に媚びないし、干渉もしてこない。俺の顔色なんて一切窺わずに、自分の手で空間を整え、美味い飯を炊いて、勝手に幸せそうに笑っているんだ」


創はゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、大企業の専務としての冷徹な光はなく、迷子になった少年のように揺れる戸惑いが宿っていた。


「あいつのいる空間に行くと……息ができるんだ。胃の痛みが消えて、肩の力が抜けて、自分がただの人間になれるような気がする。……だから、気づくと時計を見ている。早く仕事を片付けて、あの屋敷へ戻りたいと……そう思ってしまうんだ」


静かに語り終えた創。

対面に立つ成瀬は、数秒間、彫像のように動かなかった。


そして――。


成瀬の口元が、ゆっくりと、恐ろしいほどの角度で三日月のように吊り上がった。


「ぶふっ……」


「成瀬?」


「くっ……あははははははははっ!! あっはっはっはっはっはっ!!」


突如として、成瀬が腹を抱えて大爆笑を破裂させた。

涙を流し、デスクをバンバンと叩きながら、執務室の防音壁が震えるほどの爆笑を響かせる。


「おいおいおいおいおい!! 聞いたか今の!? 『あいつのいる空間に行くと息ができるんだ』!? 『早く仕事を片付けてあの屋敷へ戻りたい』!? おいおいおい、誰が喋ってんだこれ!? あの神崎創か!? 本当にあの鉄の仮面の後継者様かよ!?」


「笑うな、成瀬! 俺は真面目に――!」


「真面目だから笑ってんだよ馬鹿野郎!!」


成瀬は涙を指で拭いながら、これ以上ないほど意地の悪い、だが親友としての歓喜に満ちた笑みを創に突きつけた。


「おいおい、あんなに『ただの契約だ』『祖父の遺言を満たすための形式婚だ』『互いに干渉しないのが合理的だ』って氷みたいに冷え切ってた奴がさあ! 結婚してまだ一ヶ月も経ってねえのに! 夕方六時に愛の巣へ直帰したがってるって、どんな少女漫画のテンプレだよ!!」


「ち、違う! そうじゃない! 愛の巣などという安っぽい表現をするな!」


創は顔を真っ赤にして立ち上がった。耳の付け根まで完全に沸騰している。


「俺はただ、同居人としての環境が良好だと言っているだけだ! それに……昨日のあら炊きご飯が残っているかもしれないし、あいつの体調や生活に不備がないか、家主として確認する義務が――」


「はい出た! 言い訳が見苦しいぞ創!」


成瀬は容赦なく指を突きつけた。


「飯だの家主の義務だの、体裁のいい理屈を並べ立ててんじゃねえよ! 要するに胃袋をガッツリ掴まれて、居心地の良さに完膚なきまでに骨抜きにされて、嫁の顔が見たくてたまらないだけだろ! 認めろよ、完全に惚れてんだよお前は!」


「ほ、惚れてなど……いない!!」


「いいや、惚れてるね! 百パーセント惚れてる! 重症だね! あの仕事人間のお前が定時退社を意識してる時点で、脳の恋愛中枢が完全にショートしてんだよ!」


「成瀬、貴様……! 本当に解任決議案を出すぞ……!」


「出せるもんなら出してみろー! 理由は何だ? 『専務が妻に惚れていることを看破したため』か!? 株主総会が大爆笑の渦になるぞ!」


ギャフンと言わされ、創はぐうの音も出ずに絶句した。

成瀬の言葉が、あまりにも図星すぎて、反論の論理が一つも組み立てられない。


成瀬はひとしきり笑い転げた後、ふうと息を整えて、デスクの上のアタッシュケースをポンと叩いた。


「……ほら、さっさと鞄閉めろよ」


「……何?」


「何じゃねえよ。ハイヤーの手配、俺がアプリで配車してやったから。あと十分で地下の車寄せに来るぞ」


成瀬はスマホの画面を創に見せ、ニカッと笑った。


「金曜の夜だ。たまには早く帰って、美味い飯食わせてもらえ。……ただし、創」


成瀬の瞳に、少しだけ真面目な色が戻った。


「お前がそうやって勝手に浮かれて愛の巣に直帰するのは自由だがな……相手のお嬢さんは、まだお前のことを『一年後に三億払って別れるビジネスパートナー』としか見てねえぞ。調子に乗って空回りして、嫌われんなよ?」


「……言われなくても、分かっている」


創は低く返すと、アタッシュケースを手に取り、足早に執務室を後にした。

背後から、成瀬の「いってらっしゃい、若旦那!」という揶揄うような声が追いかけてきたが、振り返ることはしなかった。


車寄せに降り、黒塗りのハイヤーの後部座席に滑り込む。

車が夕暮れの東京の街へと滑り出す。

窓の外を流れるネオンの光を見つめながら、創の胸の奥は、説明のつかない高揚感と焦燥感で、激しく波打ち続けていた。


早く帰りたい。

あの屋敷へ。

彼女のいる、あの場所へ――。


* * *


一方その頃。

夕闇が迫る都内一等地の神崎邸、南東の角に位置する客間――陽だまりのサンルーム。


「……ふふっ。完璧だわ」


間宮栞は、巨大なネイビーのビーズクッションに身体を半分沈め、膝の上に置いた最新の薄型タブレットの画面を満足そうに見つめていた。


開け放たれたテラスからは、夕暮れの冷気を孕んだ秋風が吹き込み、新しく植えられたローズマリーとタイムの爽快なアロマが部屋の中を漂っている。

テーブルの上には、ハウスキーパーの絹代が「若奥様、糖分補給にどうぞ」と差し入れてくれた、京都の老舗の上生菓子と、温かいほうじ茶。


だが、栞が目を輝かせていたのは、お菓子に対してではなかった。

タブレットの画面に表示されていたのは、一通の確定メールだった。


『吉高法律事務所:法律相談のご予約完了のお知らせ』


「よし……! アポ取り、完了!」


栞は小さくガッツポーズを作った。

吉高晶子。

神崎グループの顧問弁護士であり、創の側近中の側近として知られる辣腕の女性弁護士。

普通なら敷居の高い大物弁護士だが、栞は神崎家の「正当な妻」としての立場を最大限に利用し、個人相談の枠を正式に押さえることに成功したのだ。


栞は傍らに置いた革表紙のノートを開いた。

そこには、色とりどりの付箋と、几帳面な文字で記された計画がびっしりと並んでいた。


『三年後までのロードマップ:海辺の和モダンカフェ開業&自立計画』


――項目一:一年後の契約満了時における解決金三億円の受取スキーム。

税務上、贈与税や一時所得として莫大な課税をされないための、確定公正証書の文言チェックおよび非課税保全の事前確認。


――項目二:独立資金の資産運用プラン。

開業資金五千万円を除いた二億五千万円を、国債、高配当インデックスファンド、不動産信託へ堅実に分散投資し、年利三〜四パーセントのインカムゲインを確保するシミュレーション。


――項目三:湘南・葉山エリアにおける古民家物件の選定基準の策定。


「来週、吉高先生にこの計画書を見てもらって、法的な穴がないか徹底的にチェックしてもらいましょう。プロのお墨付きさえもらえれば、私の『一年後の完全な自由』は鉄壁になるわ!」


栞はノートの余白に、可愛いピンクの蛍光ペンで大きな花丸を描き込んだ。


実家の佐竹堂の経営は、神崎グループの融資保証で完全にV字回復の軌道に乗った。

屋敷での生活は、絹代という最高の味方を得て、快適そのもの。

広大なキッチンで好きな料理を作り、このサンルームで読書を楽しみ、週末には友人の唯とカフェの構想を練る。

そして一年後には、何者にも縛られない三億円と、自由な人生が手に入るのだ。


「あと、十一個月ちょっと……!」


栞はベッドのように心地よいクッションの上で、手足をぐーっと伸ばした。

全身を突き抜けるような、圧倒的な解放感と多幸感。


(神崎様も、今日あたりはまた深夜までお仕事かしらね。お互いに干渉せず、自分の仕事と生活に専念できるなんて、本当に最高の契約結婚だわ)


夫である神崎創が、自分に胃袋を鷲掴みにされ、恋に落ちかけていることなど。

そして今まさに、その夫が自分に会いたい一心で、金曜の夕方に仕事を放り出してハイヤーを飛ばし、屋敷へと猛スピードで直行していることなど――。


間宮栞は、文字通り一ミリも、夢にも思っていなかったのである。

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