【第16話】法務部騒然。妻が顧問弁護士を指名した日
週が明けた月曜日の午前十時。
神崎ホールディングス本社ビルの最上層、三十四階のフロアは、いつも通りの冷徹で張り詰めた空気に支配されていた。
ガラス張りの役員会議室では、先週金曜日に専務の神崎創が提示した対案スキームに基づき、北米系投資ファンドとの最終契約書作成に向けた実務作業が淡々と進められている。社内の反対派役員たちも完全に沈黙し、グループの屋台骨を支えるエリート社員たちが、創の指示を仰ぐために執務室の前で順番を待っていた。
神崎創という男は、常に完璧でなければならなかった。
祖父が築き上げ、父・宗一郎が冷酷な手腕で拡大したこの巨大企業グループにおいて、創に許されているのは「常に正解を選び続けること」だけだ。感情に流されず、私情を挟まず、あらゆるリスクを数字で可視化して叩き潰す。
今朝も、寸分の狂いもなくアイロンが掛けられたチャコールグレーの三つ揃えスーツに身を包み、スイス製の機械式クロノグラフの針と同じ正確さで業務をこなしていた。
――少なくとも、デスクの内線電話が鳴り響く、その瞬間までは。
プルルル、と短く抑制された電子音が鳴る。
創はキーボードを叩く手を止め、受話器を取り上げた。
「専務執務室、神崎だ」
『あ、専務。法務部長の佐伯でございます。定例業務の合間にお時間を取らせてしまい、大変恐縮なのですが……少々、確認させていただきたい案件がございまして』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、普段は冷静沈着な法務部長の、どこか歯切れの悪い、探るような声だった。
創はわずかに眉をひそめた。
「何だ。買収条項に新たな瑕疵でも見つかったか?」
『いえ、ファンド案件ではございません。そちらは吉高弁護士のチームが完璧に詰めてくださっております。そうではなく……その、吉高法律事務所への「個別法律相談」の予約枠についてでして』
「吉高先生への?」
創の眉間の皺が深くなった。
吉高晶子。
国内屈指の大手法律事務所のシニアパートナーであり、神崎グループの包括顧問弁護士を務める辣腕の女性法曹だ。企業法務、M&A、独占禁止法から創業者一族の資産管理信託に至るまで、神崎家の「法的な盾にして最大の武器」として創の右腕を務めている。
その吉高に対する相談予約の窓口は、社内統制の観点から本社法務部が一括して管理しているが、役員個人がプライベートな相続や資産運用の相談を入れること自体は珍しくない。
「役員の誰かが、個人的な資産管理の相談でも申し込んできたのか? 規程通り、役員報酬の範囲内で個人決済させればいいだろう」
『それが……その、お申込みされた方の名義が、少々特殊でございまして。法務部としても、専務のご決裁を仰ぐべきか判断に迷い、直接内線を差し上げた次第です』
「特殊? 誰だ」
創の問いかけに対し、佐伯法務部長は受話器の向こうでゴクリと唾を飲み込んだ。
そして、ひどく恐縮した、だが隠しようのない動揺を孕んだ声で、その名を告げた。
『……神崎栞様、でございます。先週、専務がご入籍された……奥様から、直々にオンラインシステム経由で個別相談の枠が指定されてまいりまして』
「…………」
その瞬間、創の頭蓋骨の奥で、何かがカチリと凍りついた。
しおり。
かんざき、しおり。
間宮、栞。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
握りしめた受話器のプラスチックが、指先の力でミシミシと悲鳴を上げる。
「……佐伯」
『は、はい!』
「聞き間違いではないな。予約を入れたのは……私の、妻か?」
『は、はい。ご登録いただいた戸籍謄本の抄本データ、身分証の写し、そして先週公正証書役場で作成された婚姻契約書の管理番号まで正確に入力されております。紛れもなく、奥様ご本人からのアポイントメントでございます』
佐伯の声は、もはや完全に怯えていた。
それも無理はない。
政略結婚で嫁いできたばかりの新妻が、婚姻からわずか一週間足らずで、夫が最も信頼を寄せるグループ筆頭の顧問弁護士を名指しし、個別相談を申し込んできたのだ。
法務のプロであれば、誰だって最悪の事態を連想する。
――家庭内トラブル。
――婚姻関係の破綻。
――あるいは、専務による重大な契約違反、またはモラルハラスメントを理由とした、即時離婚と巨額の慰謝料請求の準備。
『せ、専務……その、予約の件名には「個人的な契約書条項の精査および資産承継に関するスキームの確認」とだけ記載されておりまして……。法務部としては、速やかに受理してよろしいものか、それとも一度保留とさせていただくべきでしょうか……?』
「…………」
創の喉の奥が、砂を噛んだようにカラカラに乾いていた。
背筋を、冷たい汗が一筋、ツーッと流れ落ちていく。
なぜだ。
なぜ、栞が、晶子を?
(俺が……何か、重大な過ちを犯したのか……!?)
先週末の光景が、走馬灯のように創の脳裏を駆け巡った。
土曜日の午後。
自分は『夫としての体裁』を言い訳に、仕事を放り出してあのサンルームへ帰宅した。
彼女が丹精込めて作り上げたリゾートのような空間に勝手に上がり込み、ソファに座り、無言で彼女の読書を観察し続けた。
そして金曜日の深夜には、彼女が夜食用に炊き上げた「真鯛のあら炊きご飯」を、二杯も山盛りに平らげて『おかわりはあるか?』などと図々しく要求したのだ。
――あいつは、怒っているのか?
今朝の『生活ガイドライン』にあった言葉が、鋭い刃となって創の胸を突き刺す。
『互いのプライベートへの完全不干渉』。
『生活リズムの完全分離』。
自分は、その不可侵条約を土足で踏みにじったのではないか?
週末に家に居座り、夜食をたかり、冷徹な仮面の下で無様に彼女の機嫌を窺っていた自分の行動が、彼女にとっては耐え難いストレスであり、「契約違反」として弁護士を立てるレベルの暴挙だったのではないか。
あるいは――もっと恐ろしい可能性。
彼女は、あの広大で冷え切った神崎邸の空気に、早くも限界を迎えたのではないか。
いくら陽だまりの部屋を作り、ハーブを植えたところで、所詮は親族争いの渦巻く呪われた屋敷だ。
「一年耐えるなど不可能だ。即座に三億円を支払って契約を解除しろ」と、敏腕弁護士の晶子を味方につけて、法的な宣戦布告を叩きつけてくるつもりなのではないか――。
(冗談じゃない……! 誰が、出ていかせるものか……!)
激しい焦燥感と恐怖が、創の全身の血管を駆け巡った。
まだ、一ヶ月すら経っていないのだ。
深夜の土鍋ご飯の温もりも、テラスのハーブの爽快なアロマも、彼女がふわりと浮かべるあの飾らない笑顔も――そのすべてを失うことなど、今の創には想像すら耐えられなかった。
「……専務? いかがいたしましょうか……?」
息を詰めて待つ佐伯の声に、創は辛うじて理性のタガを締め直した。
動揺を悟られてはならない。
ここで予約を握り潰せば、それこそ「妻の正当な権利を侵害した」として、法的な立場を悪化させるだけだ。
「……通せ」
氷のように冷徹な、だが奥底でわずかに震える声だった。
「予約は、規程通りに承認しろ。吉高先生には通常通りの報酬を支払い、妻の相談を最優先で受けるよう手配しろ。……ただし」
『は、はい!』
「相談の日時と場所は、確定次第、直ちに俺の秘書室へ共有しろ。以上だ」
ガチャリ、と通話を切る。
受話器を置いた創の額には、びっしりと冷たい脂汗が浮き上がっていた。
「くそっ……」
創はデスクの上の高級アクリル製ペントレイから、愛用しているドイツ製の万年筆を乱暴に引っ掴んだ。
漆黒の軸を、両手の指先でギリギリと締め上げる。
一本何十万円もする頑丈なエボナイト製の万年筆が、ミシミシと悲鳴を上げ、今にも真っ二つにへし折れそうだった。
その時だった。
「おーっと、危ねえ危ねえ。そんな怪力で万年筆を握り潰したら、ペン先が曲がってインクが飛び散るぞ、創」
カチャリとドアが開き、いつものようにノックもなしに現れた男がいた。
副社長の成瀬拓真だった。
成瀬は手にしたアイスコーヒーのストローをチュウチュウと鳴らしながら、面白がるような、だが獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべて創のデスクへと歩み寄ってきた。
「……成瀬。今はお前に構っている暇はない。出ていけ」
「構ってほしいのは俺の方じゃなくて、法務部の方だろ? さっき廊下で佐伯部長とすれ違ったぞ。『せ、専務のご家庭が、大変なことに……!』って、今にも心臓発作で倒れそうな顔をしてたぜ」
成瀬はデスクの向かい側の革張りチェアに腰を下ろすと、机の上に身を乗り出した。
その双眸は、極上のスキャンダルを前にした少年のように爛々と輝いている。
「聞いたぜ、創。お前んとこの新妻……栞ちゃん、吉高晶子先生を名指しで指名したんだって?」
「……佐伯め、口が軽すぎる」
「佐伯部長を責めるなよ。法務部全員が今、息を殺して専務執務室の動向を見守ってんだから。神崎グループの若き帝王が、結婚一週間で嫁に訴訟を起こされるんじゃないかってな!」
「訴訟などと……そんなわけがあるか!」
創は万年筆を机に叩きつけた。
カツン、と乾いた音が静かな部屋に響く。
だが、成瀬の追及は止まらない。成瀬はストローを指で弾き、ニヤニヤと意地の悪い笑みを深めた。
「じゃあ何だよ? 相手はあの吉高晶子だぞ。東大首席、ニューヨーク州弁護士資格持ち、企業の買収防衛から遺産相続の骨肉の争いまで、数々の修羅場を笑顔で片付けてきた『大手町の鉄の処女』だ。そんな歩くリーガル兵器に、普通の主婦が何の用があるってんだ?」
「それは……」
「愛想を尽かされたんだよ」
成瀬は人差し指をピッと創の鼻先へ突きつけた。容赦のない、心臓をえぐるような言葉のナイフ。
「お前、先週の金曜日、夕方六時に意気揚々とハイヤーで帰宅しただろ? あの後、調子に乗って何かやらかしたんじゃないのか? 『俺は夫だぞ』面して土足でプライベートに踏み込んだとか、不器用丸出しの説教でも垂れたとかさ。栞ちゃん、それに愛想を尽かして『こんな男とは一年もやってられない。即座に契約を解除して、違約金と慰謝料を毬い取ってやる』って、証拠固めに入ったんじゃねえの?」
「俺はそんなことはしていない!」
創は激昂して立ち上がった。
椅子のキャスターが床を擦り、大きな音を立てる。
だが、成瀬の指摘が、先ほど自分が抱いた恐怖と寸分違わず一致していたがために、創の反論には明らかな動揺が混じっていた。
「俺は……ただ、静かに同じ部屋で過ごしただけだ! 飯を美味いと褒め、干渉もせず、マナーを守って同居人として振る舞ったはずだ!」
「それが重かったんじゃねえの?」
成瀬は冷淡に肩をすくめた。
「お前は良かれと思ってやってるつもりでも、相手からすりゃ『契約結婚のはずなのに、なんでこの男は妙に距離を詰めてくるんだ? 不気味だ、怖い、契約違反だ』って受け取られたかもしれねえだろ。あの子は合理的で賢い子だ。感情論で泣き喚く代わりに、最も確実で合法的な手段――すなわち、お前の息のかかった最強の弁護士を逆指名して、外堀を埋めに来たんだよ」
「…………っ」
創の呼吸が止まった。
あり得る。
あの間宮栞なら、十分にあり得る。
初日の夜から一人ですき焼きを焼き、翌朝には完璧なプレゼン資料で『生活ガイドライン』を叩きつけてきた女だ。
彼女にとって、神崎創という男は「一年後に三億円を支払ってくれる契約相手」に過ぎない。その相手がガイドラインを逸脱して気味の悪い好意を滲ませてきたとすれば、法的な防壁をより強固にするために、プロの弁護士を雇うのは極めて論理的な帰結だ。
(俺の……せいなのか……?)
胃の奥底が、キリキリと焼けつくように痛み始めた。
昨夜まであんなに快調だった内臓が、精神的なショックによって再び鉛のように重たく沈んでいく。
成瀬は創の真っ青になった顔を見て、さすがに少し煽りすぎたと感じたのか、苦笑しながらアイスコーヒーを飲み干した。
「……まあ、絶望するのはまだ早いって。相談の内容が何なのかは、吉高先生と面談してみなきゃ分からないんだからさ。吉高先生はお前の味方でもあるんだし、守秘義務の範囲内で何となくニュアンスくらいは探れるだろ」
「吉高先生が、クライアントの守秘義務を破るはずがない」
「そりゃそうだが、相手はお前が紹介したようなもんだからな。……で、面談はいつなんだ?」
創は震える手でパソコンのモニターを操作し、秘書室から転送されてきた予約スケジュールを開いた。
『相談日時:明日・火曜日 十四時より
場所:吉高法律事務所 第一応接室
担当弁護士:吉高晶子
依頼人:神崎栞様』
「……明日だ」
創は呟いた。
「明日の午後二時、大手町の事務所で面談が行われる」
「明日の午後二時か。……よし、創。明日の夜、お前は勝負だな」
「勝負……?」
「ああ」
成瀬は立ち上がり、創の肩をポンと力強く叩いた。
「今日、家に帰ったら、妻の様子を徹底的に観察しろ。そして明日の夜、弁護士と何を話してきたのか、夫として……いや、一人の男として、逃げずに正面から向き合って聞き出せ。ビビってまた無関心のフリをして逃げ出したら、お前、本当に一年経つ前に捨てられるぞ」
成瀬の言葉を残し、重厚な扉が再び閉まった。
執務室に、深い静寂が戻る。
「…………」
創は一人、デスクを離れ、三十四階の広大なガラス窓の前へと歩み寄った。
眼下に広がる、東京の冷たい摩天楼。
数百億の資金を動かし、何千人もの社員の上に立つエリート専務が、今、たった一人の二十六歳の妻の行動によって、手足の震えを止められずにいた。
胃が痛い。
痛くて、痛くて、たまらない。
だが、その痛みは、以前のような過労によるものではなかった。
彼女を失うかもしれないという、底知れぬ恐怖。
彼女の笑顔が、自分以外の誰かに向けられ、この屋敷から完全に消え去ってしまうかもしれないという、焦燥の痛みだった。
「……今日、家に帰ったら」
創はガラスに額を押し当て、乾いた唇から掠れた声を漏らした。
「俺は……どうやって、あいつに話しかければいいんだ……?」
答えは、広大な東京の空のどこにも見当たらなかった。




