【第17話】完璧な依頼人。「3億円の非課税保全スキームについて」
皇居の豊かな緑と丸の内の高層ビル群を眼下に望む、大手町の一等地に聳え立つ超高層タワー。
その最上階近くにオフィスを構える「吉高総合法律事務所」は、日本を代表する巨大コングロマリットや外資系投資銀行がこぞって顧問契約を結ぶ、国内最高峰の渉外法律事務所の一つである。
毛足の長い濃紺の絨毯が敷き詰められた廊下を、カツ、カツ、と鋭いヒールの音を響かせて歩く女性がいた。
吉高晶子、三十二歳。
神崎グループの筆頭顧問弁護士であり、創専務の右腕として数々の過酷な企業買収や親族間の法的防衛を最前線で指揮してきた、当代屈指の辣腕弁護士である。
仕立ての美しいチャコールグレーのパンツスーツに、シンプルな白のシルクブラウス。銀フレームの眼鏡の奥で光る涼やかな知的な双眸は、法廷や交渉の場において数多の百戦錬磨の経営者たちを沈黙させてきた。
(……やれやれ。まさか創さんの奥方から直々に指名が入るとはね)
第一応接室の重厚なマホガニーの扉の前で足を止め、晶子は手元のバインダーを一瞥して小さくため息を漏らした。
昨日、神崎ホールディングスの佐伯法務部長から「専務の奥様から吉高先生に個別相談の予約が入りました」と上ずった声で連絡を受けた時、晶子ですら一瞬、眉を跳ね上げたものだ。さらには、昨夜の創の異様な動揺ぶり――「相談の日時を共有しろ」とわざわざ連絡してきた氷の男の取り乱しぶりを耳にして、晶子の中である一つの仮説が組み立てられていた。
(政略結婚で神崎家に放り込まれた、世間知らずのお嬢様の泣き落とし……といったところかしら)
神崎家の男たちの冷酷さと不器用さは、晶子も長年の付き合いで嫌というほど熟知している。
仕事中毒で感情の出力が完全に壊れている創のことだ。婚姻初日から妻を放置し、冷淡な言葉で突き放し、傷つけたに違いない。
家柄の格差、親族からの無言の重圧、そして夫の無関心に耐えかねた若い令嬢が、「こんな結婚生活には耐えられません! 離婚して慰謝料を請求したいのです!」と涙ながらに訴えてくる――晶子の頭の中には、そうした典型的な泥沼の家庭内紛争のシナリオがすでに三パターンほど用意されていた。
(気の毒ではあるけれど、私は神崎グループの利益を守る側の弁護士。感情論で創さんを糾弾されても、法律の現実を教えて宥めるしかないわね)
晶子は小さく息を整え、ビジネス用の完璧なポーカーフェイスを張り直すと、第一応接室のノブに手をかけた。
カチャリ、と静かに扉を開ける。
「お待たせいたしました。弁護士の吉高で――」
名乗りを上げながら室内へと足を踏み入れた晶子の言葉が、喉の奥でふっと止まった。
部屋の中央、革張りのアームチェアに腰掛けていたのは、晶子の予想していた「青ざめてハンカチを握りしめた悲劇のヒロイン」ではなかった。
ペールトーンの上品なラベンダー色のノーカラージャケットに、清楚なプリーツスカート。背筋は定規で引いたように真っ直ぐに伸び、膝の上には使い込まれた上質な本革のブリーフケースが静かに置かれている。
入室してきた晶子に気づくと、彼女――間宮栞は、一切の淀みのない優雅な所作でスッと立ち上がり、完璧な角度でお辞儀をした。
「初めまして、吉高先生。神崎栞と申します。本日はお忙しい中、私の個人的なご相談のためにお時間を割いていただき、誠にありがとうございます」
澄み切った、鈴の音のように凛とした声だった。
怯えも、怒りも、取り乱した様子も微塵もない。
その顔色は健康的で、肌には瑞々しい艶があり、琥珀色の瞳は知的な光を宿して穏やかに晶子を見つめ返していた。
(……おや?)
晶子の直感のセンサーが、微かに警鐘を鳴らした。
この空気感。弱者が強者に縋り付く時のそれではない。
明確な目的意識を持ち、交渉のテーブルに着く準備を整えた「対等な依頼人」の気配だ。
「……どうぞ、お掛けになってください。神崎グループ顧問弁護士の吉高晶子です」
晶子は名刺を差し出し、対面のソファに腰を下ろした。
栞もまた、恭しく両手で名刺を受け取ると、自らのパーソナルカードを返してきた。そこには『間宮 栞』の文字と、連絡先だけがシンプルに印字されていた。
「単刀直入にお伺いしてもよろしいでしょうか、奥様」
晶子は眼鏡の位置を人差し指で直し、あえて直球を投げた。
「創さんから何か、婚姻継続を困難にするような重大な事由――例えば、不当な冷遇や暴言、あるいは契約の不履行などがございましたか? もしそうであれば、法的な観点から整理させていただきますが」
身構える晶子。
しかし、栞の口から返ってきたのは、クスリとした悪戯っぽい笑みだった。
「いいえ、とんでもございません。神崎様は大変紳士的で、私に対して極めて礼儀正しく接してくださっておりますよ。住まいもこれ以上ないほど快適で、何の不満もございません」
「……はい?」
晶子は思わず片眉を跳ね上げた。
「では、なぜ私を? 創さんの顧問弁護士である私をわざわざ個人指名された理由は一体……」
「はい。神崎グループの法務を完璧に掌握されていらっしゃる吉高先生だからこそ、ご相談申し上げたいことがございました」
栞はそう前置きすると、膝の上のブリーフケースのファスナーを開けた。
そして、中から取り出した二つの分厚いファイルを、テーブルの上へと音もなく滑り込ませた。
バサリ、と置かれたその資料を目にした瞬間、晶子の呼吸が止まりかけた。
(な……何、これ……?)
一冊目のファイルは、先週公証役場で作成されたばかりの「婚姻に伴う合意公正証書」の原本控えだった。
だが、その全ページにわたり、赤、青、黄色の細身のフィルム付箋が几帳面にびっしりと貼られ、余白にはシャーペンによる極小の文字で条文の相互参照や判例のメモが書き込まれていた。
そしてもう一冊のファイル――表紙には、手書きでこう記されていた。
『契約満了時における解決金3億円の非課税保全および独立開業資金スキームに関する検討書』
栞はファイルを開き、カラー印刷されたエクセルシートのグラフと資金移動のフロー図を、晶子の目の前へと向けた。
「先生。本日ご相談したい論点は、大きく分けて三点ございます」
栞の口調は、完全に「有能な財務コンサルタント」のそれだった。
「第一に、公正証書第5条に定められた『契約満了時における解決金および生活保障費・金3億円』の税務上の法的位置づけについてです。通常、離婚に伴う財産分与は所得税法および贈与税法上、非課税と解釈されますが、婚姻期間がわずか一年という短期である場合、税務当局から『婚姻期間の実態に比して過大である』として、相続税法基本通達第9条に基づくみなし贈与課税を適用されるリスクがゼロではないと懸念しております」
「…………」
晶子は言葉を失った。
「そのリスクを回避するため、公正証書第3条の実家への融資保証条項との連動性、および『婚姻期間中における神崎家の対外的な妻としての役割遂行に対する正当な対価(業務委託的性質)』と『離婚後の不可逆的な生活激変緩和措置』の二層構造として、条文の文言をどのように補強・解釈しておくべきか、先生のプロの法的見解をお伺いしたく存じます」
栞は息継ぎも滑らかに、二枚目のシートをめくった。
「第二に、一年後の受取時における資金の保全ルートです。3億円が一括して私の個人口座に着金した瞬間、銀行側のマネーロンダリング検知システムおよび税務署への高額送金調書が作動いたします。その際、一切の課税処分を受けぬよう、事前に税務署への事前照会を通しておくべきか、あるいは神崎家の資産管理会社からの適法な退職金名目等に組み替えるべきか、どちらが合理的でしょうか?」
さらに、三枚目のシート。
そこには、湘南・葉山エリアを中心とした古民家の不動産取得スキームと、カフェ開業に伴う減価償却シミュレーションが美しく図式化されていた。
「そして第三に、離婚後に私が設立を予定しております『和モダンカフェ運営会社』への出資スキームです。個人で直接不動産を取得するよりも、事前にプライベート法人を設立し、その法人への貸付金または資本金として3億円を充当した方が、建物の改修費用や厨房機器の減価償却、将来的な事業承継において節税効果が高いと考えております。この法人の設立時期および定款の策定について、先生に法務面でのアドバイザーを引き受けていただけないでしょうか」
淡々と、だが驚くほどの熱量と正確さで語られたプレゼンテーション。
栞は説明を終えると、ファイルを両手で優しく押さえ、ふわりと完璧な笑顔を浮かべた。
「以上が、本日のご相談内容でございます。……神崎様との契約を、一点の曇りもなく、誰にも迷惑をかけずに円満に完了させ、一年後に私が完全に自立して自分の城を持つための準備です。先生のお知恵をお借りできれば幸いです」
「…………」
応接室に、完全な沈黙が落ちた。
晶子は眼鏡のブリッジを押さえたまま、凍りついたように動けなかった。
頭の中で、先ほどまで用意していた「泣き落としのお嬢様を宥めるシナリオ」が、音を立てて灰燼に帰していく。
感情論?
夫の冷遇に対する愚痴?
慰謝料の吊り上げ交渉?
何一つ、ない。
ここにあるのは――自分の足で立ち、自分の力で未来を切り拓くために、冷徹なまでに法と税の武器を磨き上げた、一人の誇り高き女性の「完璧な戦略」だけだった。
(……すごい。信じられないわ)
晶子の胸の奥で、ゾクゾクとするような快感が走った。
相続税法第9条のみなし贈与リスクに着目し、財産分与の過大判定を回避するための多重ロジックを自力で構築してくる素人が、世の中のどこにいるというのか。
しかも、相手は創の財産を毟り取ろうとしているのではない。
契約書に記された正当な権利を、一円の不正もなく、誰にも文句を言わせない形で守り抜き、一年後には綺麗さっぱり自分の夢のために旅立とうとしているのだ。
「……奥様。いえ、栞さん」
晶子は手元のペンを置き、椅子の背もたれから身体を起こして、ぐっと身を乗り出した。
その瞳には、先ほどまでの形式的な事務処理の光はどこにもなかった。
最高の好敵手、あるいは最高に知的なクライアントに出会った時の、一流の弁護士だけが浮かべるギラリとした情熱が宿っていた。
「あなたの検討、実に見事だわ。正直に言って、並の法学部出身のパラリーガルよりも遥かに論理的で隙がない」
「えっ……本当ですか?」
栞が少し照れたように頬を緩める。
「ええ。ただし、プロの視点から言わせてもらえば、第5条の『解決金』という文言だけに頼るのは少々危険ね。おっしゃる通り、婚姻期間一年での3億円は、国税局の資産課税課が目を光らせる格好の獲物だわ」
晶子はシャーペンを手に取り、栞の公正証書のコピーの余白に、迷いのない筆致で条文の修正案を書き殴り始めた。
「解決金ではなく、『将来の生活保障に関する扶養的財産分与』および『佐竹堂の経営再建協力に伴う神崎グループの信用補完対価』という名目を明確に併記させるべきよ。これなら、神崎ホールディングス側の経費処理(損金算入)の余地すら生まれるし、あなたへの課税リスクは限りなくゼロに近づくわ。……それと、葉山の物件取得に関しては、個人ではなく合同会社(LLC)を先に立ち上げなさい。株式会社よりも設立コストが低く、定款自治の自由度が高い。設立登記は私が提携している司法書士に最速で手配させるわ」
「合同会社……! なるほど、利益配分の自由度を考えれば、個人出資のカフェ事業にはその方が遥かに適していますね!」
「そうよ。それにね、改修費用の減価償却だけど――」
そこから先の二十分間は、まさに息をもつかせぬ「白熱のリーガルセッション」だった。
税法の解釈、不動産登記の落とし穴、将来の事業リスクのヘッジ――。
晶子が高度な法的スキームを提示するたび、栞は驚くべき理解力でそれを吸収し、的確な質問を投げ返してくる。
二人の間にあった「弁護士と依頼人」という壁はいつしか消え去り、互いの知性を尊重し合う、極めて濃密で心地よい時間が流れていた。
「……ふう」
時計の針が予定の終了時刻を指した時、晶子はペンを置き、深く椅子の背に身を預けた。
そして眼鏡を外し、目頭を指先で押さえてから、心底から楽しそうに笑った。
「こんなに頭を使ってワクワクした法律相談、ここ数年で初めてだわ。……素晴らしいわ、完璧な準備ね」
晶子は眼鏡を掛け直し、栞を真っ直ぐに見つめた。
その眼差しには、同性としての、そして一人の自立した人間としての、限りなく深いリスペクトが満ち溢れていた。
「創さんには……勿体ないくらい自立した奥様だこと」
「ふふっ。ありがとうございます」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、勿体ないだなんて。私はただ、自分の幸せは自分で守りたいだけなんです。誰かに生かされるのではなく、自分の足で立って、美味しいご飯を作って、笑って生きていきたいですから」
その言葉の潔さに、晶子は胸を打たれた。
神崎家の莫大な富や権力に群がる有象無象の人間たちを、晶子は嫌というほど見てきた。
だが、目の前の女性は違う。
三億円という巨額の資金すら、彼女にとっては「自立のための単なる道具」に過ぎないのだ。彼女の魂は、最初から何者にも買収されていなかった。
(創さん……可哀想に。こんな素敵な人を、自分から契約で縛り付けて、一年後には手放す契約を結んでしまったなんて)
昨日、電話口で取り乱していた若き専務の顔を思い浮かべ、晶子は心の中で苦笑した。
自業自得だ。冷徹な仮面を被って相手を遠ざけておきながら、いざ相手が完璧に自立して飛び立とうとした途端に慌てふためくなど、男という生き物はいつの時代も愚かで愛おしい。
「先生、本日は本当にありがとうございました。アドバイザー契約の件、ぜひ正式にお願いさせてください」
「ええ、喜んで引き受けるわ。私の個人クライアントの第一号として、最高のスキームを組んであげる」
立ち上がり、資料をブリーフケースに仕舞った栞が、ふと思い出したように「あ」と声を上げた。
そして、傍らに置いてあった、丁寧に風呂敷に包まれた小さな木箱を両手で持ち上げた。
「あの、吉高先生。本日の相談料とは別に……こちら、心ばかりのお礼です。甘いものはお召し上がりになりますか?」
「え? お気遣いなく、規定の報酬はグループからいただきますのに……」
「いえ、これは私の個人的な気持ちですから。実家の佐竹堂の職人が、今朝一番で練り上げてくれたものなんです」
手渡された木箱の風呂敷を解くと、蓋には達筆な墨文字で『特製 本わらび餅』と記されていた。
恐る恐る白木の蓋を開けた瞬間――。
「……っ」
晶子の鼻腔を、香ばしく甘やかな、暴力的なまでの薫煙がくすぐった。
丹波産の黒大豆を極限まで深煎りにして挽き上げた、黄金色の特製京きな粉の芳香。
そしてその下に鎮座していたのは――安物のわらび餅のような透明なゼリー状の代物では断じてなかった。
国産の本わらび粉を百パーセント使い、職人が熱い銅鍋の前で全身全霊を込めて練り上げた証である、漆黒の夜空のように深みのある、艶やかな琥珀色の塊。
光を吸い込むようなその表面は、ぷるぷると危うげに震え、まるで生き物のように瑞々しい光沢を放っていた。
「……本物の、本わらび粉……」
グルメとしても知られる晶子の喉が、思わずゴクリと鳴った。
「はい。希少な宮崎県産の天然本わらび粉だけを使っています。冷蔵庫で冷やしすぎると固くなってしまいますので、今日の夕方までに、常温のまま召し上がってくださいね。きな粉の香ばしさと、口の中でとろける食感は、お仕事でお疲れの脳に一番効きますから」
栞はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
胃袋の掴み方を熟知している人間の、完璧な贈り物。
「……ありがとう、栞さん。今日の残業のお供に、大切にいただくわ」
晶子の口元に、ビジネスの仮面ではない、一人の女性としての心からの柔らかな笑みが浮かんだ。
エレベーターホールまで栞を見送り、扉が閉まる瞬間まで深々とお辞儀をする彼女の凛とした背中を見届けた後。
晶子は手元の木箱を抱え、執務室へと戻る廊下を歩きながら、スマートフォンを取り出した。
画面には、先ほどから執拗に着信を知らせる、神崎創からの不在着信ランプが点滅していた。
「ふふっ……」
晶子はスマホの画面を見つめ、楽しげに呟いた。
「焦りなさい、創さん。あなたの奥様はね、あなたが思っているよりも遥か先の世界を、一人で軽やかに走り始めているわよ」
秋の午後の光が、大手町のガラス張りの廊下を黄金色に染め上げていた。




