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【第18話】探りを入れる夫と、すれ違う模範解答

午後六時三十五分。

夕闇が完全に夜の濃紺へと溶け落ちていく時間帯、神崎邸の正面ゲートを一台の黒塗りハイヤーが静かに滑り抜けた。


普段の創であれば、この時刻はまだオフィスで分厚い財務諸表の山と格闘している最中であり、帰宅など思い浮かべもしない時間だった。

しかし今日に限っては、大手町での吉高晶子と妻・栞の面談が予定されていた午後二時以降、創の集中力は完全に崩壊していた。

デスクワークをしていても、時計の針が五分進むごとに胃の奥がキュッと引き攣る。

午後五時の定時を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、周囲の部下たちが目を疑うような早さで端末をシャットダウンし、アタッシュケースを掴んでエレベーターへ飛び乗ったのだ。


(……何があった。何を話し合ったんだ)


ハイヤーの後部座席でネクタイを緩めながら、創は何度目かも分からないため息を噛み殺していた。

昼間に晶子へ掛けた二度の電話は、いずれも留守番電話サービスへと転送された。

『ただいま来客対応中につき、緊急のご用件以外は後ほど折り返します』という無機質なアナウンスが流れるばかりで、夜になっても晶子からの連絡は一切ない。

あの仕事が迅速な晶子が、創への折り返しを後回しにしている。

その事実すらも、「妻から神崎創に対する何らかの重大な法的手続きを依頼され、顧問弁護士としての守秘義務と職務倫理の間で板挟みになっているのではないか」という最悪の邪推を掻き立てるには十分すぎた。


車がポーチに停まる。

運転手に会釈を返し、足早に石段を駆け上がる。

指紋認証リーダーに親指を押し当て、重厚な防音扉を開いた。


――カチャリ。


玄関ホールに足を踏み入れた創は、無意識のうちに息を止めていた。

怒号が飛んでくるわけではない。

だが、家の中が不穏な静寂に包まれていたらどうしようかという恐怖が、喉の奥を張り付かせていた。


しかし、鼻腔をくすぐったのは、硝煙の匂いでも冷え切った空気でもなかった。

ふわりと運ばれてきたのは、微かな石鹸の清潔な香りと、柑橘系の爽やかな入浴剤の名残。

そして、一階リビングの引き戸のガラス越しに、柔らかで暖かな間接照明のオレンジ色の光が漏れていた。


創は革靴を脱ぎ捨て、客用スリッパに足を滑り込ませると、吸い寄せられるようにリビングの引き戸へと歩み寄った。

音を立てないように、慎重に戸をスライドさせる。


「…………」


そこに広がっていた光景に、創はまたしても言葉を失った。


リビングの中央、広々としたカッシーナのローソファに、間宮栞が腰掛けていた。

昼間のきちんとした外出着――ラベンダー色のジャケット姿は跡形もなく消え失せ、身につけているのは、ゆったりとしたオフホワイトのダブルガーゼのルームウェア。

お風呂上がりなのだろう。

肩まである黒髪は毛先を軽く乾かしたばかりの自然なウェーブを描き、まだ湿り気を帯びた艶を放っている。湯上がりの熱でほんのりと桜色に染まった白い素肌からは、ラベンダーとゼラニウムの優しい香りが微かに漂っていた。


テーブルの上には、結露した薄玻璃のグラス。中に入っているのは、氷を浮かべた冷たい水出しの玄米茶だろうか。香ばしい穀物の香りがふわりと立ち上っている。

栞は素足をソファの上に引き上げ、膝を抱えるような楽な姿勢で、膝の上に置いた分厚いハードカバーの料理書を熱心にめくっていた。


あまりにも、無防備。

あまりにも、平穏。

昼間に国内屈指の渉外法律事務所へ乗り込み、大手町の鉄の処女と差し向かいで密談を交わしてきた人間とは、到底思えないリラックスぶりだった。


(……怒っているようには、見えないが)


創の胸の奥で、安堵と、それ以上の戸惑いが渦を巻いた。

怒っていないのなら、一体なぜ弁護士の元へ行ったのか。

それとも、すべてを法的に終わらせる腹積もりが固まったからこそ、嵐の前の凪のように穏やかに振る舞えているのか。


ギィ……と、創が踏み出した床板がわずかに鳴った。

その微かな気配に、栞がハッと顔を上げた。


「……あら」


栞の琥珀色の瞳が丸くなる。

時計に視線をやり、それから創の姿をまじまじと見つめた。


「おかえりなさいませ、神崎様。……随分とお早いお帰りですね? まだ七時前ですよ」


鈴を転がすような、どこまでも屈託のない声。

恐縮の色も、刺々しい敵意の欠片もない。まるで夕方にスーパーから帰ってきた同居人を迎えるような、極めて自然体の挨拶だった。


「……ああ。仕事の目処がついたのでな」


創は喉の奥から硬い声を絞り出し、アタッシュケースをサイドボードの上に置いた。

スーツのジャケットを脱ぎ、背もたれに掛ける。

ネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンを外す。

その間も、創の視線は栞の表情から離れなかった。


何か、言いたいことはないのか?

今日、どこへ行ってきたのか、自分から切り出す気はないのか?

だが、栞は「お疲れ様でした」と優しく微笑むと、再び手元の料理書へと視線を落とし、ページをめくろうとしていた。


――このままでは、埒が明かない。


成瀬の言葉が、耳の奥で激しく警鐘を鳴らしていた。

『逃げずに正面から向き合って聞き出せ。ビビって無関心のフリをしてたら、本当に出ていかれるぞ』


創は奥歯をグッと噛み締め、意を決してローテーブルを挟んだ対面のソファへと歩み寄った。

ドサリ、と深く腰を下ろす。

普段なら決して座らない、妻の正面の特等席。


その気配の重さに、栞が再び本から視線を上げた。

対面に座った創の、尋常ならざる真剣な眼差し――何百億の企業買収の最終局面で相手の代表を見据える時のような、鋭く張り詰めた光に射抜かれ、栞の細い眉がピクリと跳ねた。


「……あの、神崎様? 何か、ございましたか?」


「栞さん」


創は低く、だが逃げ場のないほど真っ直ぐな声で呼びかけた。

膝の上に置いた両手の拳が、無意識のうちに強く握りしめられている。


「単刀直入に聞く」


「は、はい……」


「今日……十四時に、大手町の吉高晶子先生の事務所へ行ったそうだな」


「…………っ!」


その瞬間、栞の息がピタリと止まった。


澄み切っていた琥珀色の瞳が一瞬だけ大きく見開かれ、唇が微かに強張る。

その反応を見た創の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。

やはり、何かを隠している。

創は焦りを押し殺しながら、できる限り柔らかい声音を取り繕って言葉を継いだ。


「法務部から連絡があった。君が個人枠で晶子先生を指名したと。……晶子先生は優秀な弁護士だが、本来は神崎グループの企業法務を担当する人間だ。君が個人的に相談を持ちかけるなど、前例がない」


創は身を乗り出し、懇願するように栞の目を見つめた。


「もし……この家での生活に、何か不満や問題があるなら。あるいは、俺の態度や言動で、君を不快にさせたり、追い詰めたりしたことがあるのなら……弁護士などを介さず、俺に直接言ってくれればいい。改善できることは、何でもする」


不器用な男の、これが精一杯の「歩み寄り」だった。

何が嫌だったのか教えてほしい。

俺のせいで怯えているなら謝る。

だから、法的な壁を築いて一方的に切り捨てるような真似はしないでほしい――。

言葉の端々に滲み出る切迫した熱量。


だが――。

その創の必死の訴えを、対面に座る間宮栞の頭脳は、まったく別の方向へと処理していた。


(……うっわ、バレてる!! しかも完全に筒抜けじゃないの!!)


栞の脳内では、警報ブザーがけたたましく鳴り響いていた。


(佐伯法務部長、仕事が早すぎるわよ! 予約を入れたのが昨日の午前中で、面談が今日の午後なのに、もう創様の耳に入ってるなんて! さすが神崎グループの情報統制、恐ろしいスピード感……!)


そして何より、創のあの鬼気迫る表情。

眉間に深い皺を刻み、鋭い眼光で自分を睨みつけ、「俺に直接言え」「改善できることは何でもする」と迫る姿。


前世のトラウマを抱える栞にとって、その表情の意味は一つしか思い浮かばなかった。


(……怒ってる。完全に怒ってるわ、これ!)


栞は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。


(当たり前よね! 神崎グループの筆頭顧問弁護士といえば、一時間の相談料だけで十万円以上飛ぶような超VIP専用の弁護士よ!? それを、契約結婚で居候しているだけのぽっと出の嫁が、勝手に個人指名して「三年後のカフェ開業資金の保全スキーム」なんてプライベートな相談を持ち込んだんだもの! 『契約の範囲を逸脱して、うちの顧問弁護士を私用で私物化するな』って、契約違反を疑われて査問されてるんだわ……!)


創が「不満があるなら言え」と言ったのも、栞の脳内ではこう変換されていた。

――『何か文句をつけて、我が社から余計な金を毟り取ろうと画策しているのか? そんな姑息な真似をするくらいなら、俺に直接要求書を叩きつけてみろ』という、冷徹な経営者特有の牽制である、と。


(まずい、まずい、まずいわ! ここで私が変な欲を出していると誤解されたら、公正証書第5条の「三億円の解決金」そのものが契約不履行で吹き飛ぶかもしれない! 一年耐えれば手に入る完全な自由と私の城が、こんな初期のケアレスミスで水の泡になるなんて絶対に嫌!!)


急速に栞の思考回路がフル回転し、防衛本能のスイッチがカチリと音を立てて入った。

動揺を表に出してはいけない。

感情的になってもいけない。

相手は百戦錬磨の経営者なのだ。隙のない、完璧な「ビジネスマインド」で対応し、疑念を完全に払拭しなければならない。


栞はふうっと小さく息を吸い込むと、膝の上で両手を上品に重ねた。

そして、顔を上げる。


スウッ――と。

まるで舞台女優が仮面を装着するかのように、栞の表情に「完璧な営業スマイル」が貼り付いた。


口角は左右均等に五ミリ上がり、目元は優しく細められ、声のトーンはワントーン高く、淀みなく澄み渡っている。


「――いいえ、神崎様。滅相もございません」


「……え?」


意気込んでいた創の眉が、わずかに揺れた。


栞はふわりと首を横に振り、この上なく爽やかな、非の打ち所のない笑顔で語り始めた。


「不満だなんて、とんでもない誤解でございます。このお屋敷での生活は、天国のように快適でございますよ。お部屋は広々として日当たりも最高ですし、お台所の設備はプロ仕様、絹代さんには大変親切にしていただき、毎日美味しい食材をいただいております。私のような身の上の者には、身に余るほどの厚遇でございます」


「あ、いや……それは良かったが……なら、なぜ晶子先生を……」


「はい。その点につきまして、神崎様にご心配をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした」


栞は深々と、美しい角度で頭を下げた。

そして顔を上げると、極めて論理的で明快な「模範解答」を提示した。


「先週作成いたしました公正証書――あの第5条に定められております、『一年後の契約満了に伴う解決金三億円の授受』に関する事前確認でございます」


「……事前確認?」


「はい。神崎様のようなご多忙なトップリーダーにとって、一年後の離婚手続きにおいて、税務当局からの無用な追徴課税リスクや、親族間での法的な紛争の火種を残すことは、グループの企業価値にとっても重大な損失となり得ます。ですから、婚姻期間満了時に双方が完全に円満かつ機械的に契約を履行できるよう、グループの法務を最も深く理解されている吉高先生に、条文の法的位置づけと税務上の安全性を事前に精査していただいたのでございます」


栞は胸の前で手を合わせ、心底から安心したように微笑んだ。


「吉高先生からも、『完璧な準備だわ』とのお墨付きをいただきました。これで一年後、私は何の後腐れもなく、神崎様にご迷惑をおかけすることなく、速やかにこの屋敷を退去して自分の道を歩むことができます。神崎様のお手を煩わせるようなトラブルは一切発生いたしませんので、どうぞご安心くださいませ」


「…………」


創の呼吸が、完全に止まった。


完璧だった。

言い訳の余地すらない、極めて論理的で、合法的で、そして「神崎創への配慮」に満ち満ちた回答。

妻は夫を脅迫しようとしたのではない。

慰謝料を吊り上げようとしたのでも、家庭内トラブルを起こそうとしたのでもない。

ただ――。

約束の期日が来たら、一円の狂いもなく、一秒の遅れもなく、誰にも迷惑をかけずに、綺麗さっぱりこの家から消え去るための準備を、誰よりも誠実に進めていただけだった。


「……神崎様?」


呆然と固まる創の顔を覗き込み、栞は小首を傾げた。


「何か、不都合な点でもございましたでしょうか? もちろん、吉高先生への相談費用につきましては、グループの経費ではなく私の個人負担として処理していただくようお願いしてございますので、神崎様のプライベートなご負担にはなりません。どうぞご心配なさらないでくださいね」


完璧な笑顔。

悪意も、皮肉も、当てつけのニュアンスすら一ミリも含まれていない、澄み切った善意の微笑み。


そして――何より創の胸を抉ったのは。


『神崎様』


彼女の口から紡がれる、その呼び名だった。

他人行儀で、礼儀正しく、どこまでも分厚い壁を感じさせる響き。


目の前に座っている。

手を伸ばせば届く距離に、湯上がりの柔らかな香りを纏った彼女がいる。

それなのに――。


(……遠い)


創の胸の奥底で、ピューと冷たい木枯らしが吹き抜けた。


分厚い防弾ガラスだ。

透明で、傷一つなく磨き上げられているが、どんな銃弾も通さない、絶対的な不可侵のガラス。

彼女はその向こう側に立ち、満面の笑みで「私は幸せですから、お気遣いなく!」と手を振っている。


不満を言ってくれた方が、どれほどマシだったか。

「あなたの帰りが遅くて寂しい」と泣いてくれたなら、仕事を放り出して毎日定時で帰ってきただろう。

「この家が息苦しくて耐えられない」と怒ってくれたなら、二人で暮らす新しいマンションを今すぐ買い与えただろう。

「もっと私を見てほしい」とすがりついてくれたなら、不器用な腕で抱きしめて、何時間でも謝り倒しただろう。


だが、彼女は何も求めない。

何も困っていない。

文句の一つすら言わず、ただ「一年後の完全な自由」というゴールだけを見つめて、軽やかに、自立して歩んでいる。


そこには、神崎創という一人の男が入り込む余地など、最初から一ミリも存在しなかったのだ。


「……そうか」


創の喉から絞り出されたのは、掠れた、力のない一言だった。


「……そうだったな。君は、最初からそう言っていた」


「はい! ですから神崎様も、どうぞお仕事に専念なさってくださいね。私は私の機嫌を自分で取って、楽しく過ごしておりますから!」


栞はカラリと笑い、テーブルの上の冷茶のグラスを手に取った。

カラン、と氷が涼やかな音を立てる。

そして、何事もなかったかのように料理書を開き、読書を再開した。


静寂が、再びリビングを満たす。

暖かな間接照明の光。

香ばしい玄米茶の香り。

柔らかなルームウェアの擦れる音。


すべてが穏やかで、すべてが平和だった。

だが、対面に座る創の心臓は、まるで氷点下の海に素手で放り込まれたかのように、冷たく、激しく痛んでいた。


(……安心、したはずだろう)


創は膝の上で拳を握りしめ、俯いた。


(彼女は傷ついていない。家庭内トラブルもない。契約は順調に遂行されている。……すべて、俺が望んだ通りの完璧なビジネスじゃないか)


それなのに。

なぜ、こんなにも息苦しいのか。

なぜ、目の前で楽しそうにページをめくる彼女の横顔を見ているだけで、胸の奥が張り裂けそうなほどの寂しさに苛まれるのか。


答えなど、最初から分かっていた。

認めたくないだけだ。

プライドが、契約が、彼自身の臆病さが、その感情に名前をつけることを頑なに拒んでいるだけなのだ。


「……俺は、自室に戻る」


創は立ち上がった。

膝に力がうまく入らず、わずかによろめきそうになるのを、ソファの背もたれを掴んで誤魔化す。


「あ、はい。お疲れ様でした、神崎様。お風呂、まだ温かいですからゆっくり浸かってくださいね」


見上げる栞の、どこまでも親切で、どこまでも他人行儀な笑顔。


「……ああ。おやすみ」


背中を向け、リビングの引き戸を開けて廊下へ出る。

ピシッ、と戸が閉まる音が、まるで自分を拒絶する世界の扉のように重たく響いた。


暗い廊下を歩きながら、創は自分の胸のあたりを強く掻きむしった。

胃の痛みなど、もうどうでもよかった。

心臓が、痛い。

どうしようもなく、痛い。


(……晶子先生だ)


自室のベッドの端に腰を下ろした創は、スマートフォンの画面を乱暴にタップした。

彼女が何を言おうと、関係ない。

吉高晶子が、彼女と何を話し、彼女がどんな表情で、どんな未来を思い描いていたのか。

その真実を、創は知らなければならなかった。

知らなければ――このままでは、頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。


「……明日だ」


創は画面に表示された顧問弁護士の連絡先を見つめ、低く呻くように呟いた。


「明日、何が何でも晶子先生からすべてを聞き出す……!」


男の執着の炎が、静かな夜の寝室で、いよいよ後戻りのできない深さへと燃え広がり始めていた。

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