【第19話】顧問弁護士の忠告。「彼女、本気で出ていく気よ」
水曜日の午前九時半。
神崎ホールディングス本社ビル三十四階、最奥に位置する特別役員応接室。
重厚な防音扉に囲まれたその部屋は、歴代の社長や会長が政財界の首魁たちと極秘会談を行うためだけに設えられた、社内で最も機密性の高い密室だった。
壁を覆うのは深みのあるバーズアイ・メープルの突板、床には音を完全に吸い込むペルシャ絨毯。窓の外には、秋の薄曇りの空の下で白く霞む国会議事堂と首相官邸が見下ろせる。
その部屋の革張りソファの中央で、神崎創は身じろぎもせず座っていた。
昨夜、自室のベッドで一睡もできなかった影響は、冷徹な仮面の下に隠しきれない影となって現れていた。
仕立て直したばかりのダークネイビーのスーツは寸分の狂いもないが、ワイシャツの襟元に触れる首筋の皮膚は冷え、目の下には薄い隈が再び影を落としている。
テーブルの上に置かれた有田焼のカップに入った珈琲は、一口もつけられないまま、とっくに表面に黒い油膜を浮かべて冷め切っていた。
カチャリ、と乾いた解錠音が響いた。
厚みのある扉が静かに開き、入ってきたのは、チャコールグレーのパンツスーツを颯爽と着こなした女性――吉高晶子だった。
片手に薄型の革製アタッシュケースを提げ、銀フレームの眼鏡の奥に理知的な光を湛えている。朝一番で創から直接、極めて異例の「緊急面談要請」を受けた顧問弁護士は、いつものように感情を排したビジネスライクな足取りで絨毯を踏みしめ、創の対面のソファへと歩み寄った。
「おはようございます、創専務。十時からの北米ファンド対策会議の前に、わざわざこの応接室に呼び出されるとは穏やかではありませんね。……昨夜から何度も着信をいただいておりましたが、案件に何か致命的な法意の変更でも?」
晶子は手際よくアタッシュケースを膝の上に置き、滑らかな所作で腰を下ろした。
完璧なビジネスパーソンの挨拶。
しかし、創はそんな社交辞令を受け流す余裕すら持ち合わせていなかった。
創はテーブルの上に両手を組み、鋭く張り詰めた視線を晶子の瞳へと真っ直ぐに突き刺した。
「……単刀直入に本題に入らせてもらう、吉高先生」
低く、抑え込まれた声音。だが、その底には隠しようのない焦燥が滲み出ていた。
「昨日の十四時、大手町の事務所で君が行った、ある人物との個別相談についてだ。……間宮栞。俺の妻と、何を話した?」
室内の空気が、ふっと冷たく凝固した。
だが、晶子は眉一つ動かさなかった。銀フレームの眼鏡のブリッジを人差し指でそっと押し上げ、冷ややかな視線で創を見つめ返す。
「創さん。あなた、自分が何を口にしているのか分かっていて仰っているのかしら?」
晶子の声音は、氷のように静かだった。
「弁護士法第二十三条、および弁護士職務基本規程第二十三条。弁護士は、職務上知り得た依頼人の秘密を保持する義務を負います。例えあなたが当法律事務所の筆頭クライアントである神崎グループの専務取締役であり、依頼人の戸籍上の配偶者であったとしても、正当な理由なく個別相談の内容を開示することは明白な規律違反です」
「守秘義務の重さは百も承知だ!」
創はたまらず身を乗り出し、机を拳で小さく叩いた。
カツン、と乾いた音が静寂を破る。
「だが、相手は俺の妻だ! 神崎家の籍に入り、公正証書に基づいて同居している人間だ。……昨夜、本人に問いただした。だが彼女は『契約満了に伴う事前確認だ、神崎様にご迷惑はおかけしない』と、完璧な営業スマイルで線を引くだけで、本音を何一つ明かそうとしなかった」
創の呼吸が乱れていた。
何百億の大型M&Aの交渉テーブルで、相手のどんな挑発にも眉一つ動かさなかった男が、今、たった一人の女性の真意を掴めずに取り乱している。
「頼む、吉高先生。守秘義務の範囲内で構わない。具体的な数字や手続きの詳細は伏せてくれていい。……あいつが何を望んでいるのか、何を不満に思っているのか、それだけでも教えてくれ。俺が何か、あいつを追い詰めるような重大な契約違反を犯したのか……!?」
悲痛なまでの懇願だった。
プライドをかなぐり捨て、一人の男として真実を乞う創の姿。
それを見つめる晶子の切れ長の瞳に、先ほどまでの冷徹な法曹の厳しさは薄れ、代わりに深い呆れと、隠しきれない憐憫の色が浮かび上がった。
「はあ……」
晶子は小さく息を吐き出すと、眼鏡を外し、胸ポケットから取り出したセーム革のクロスでレンズを丁寧に拭き始めた。
その仕草は、ひどくゆっくりとしていた。
晶子の脳裏に去来していたのは、昨日の午後、応接室で繰り広げられた鮮烈な光景――そして、事務所に戻ってから味わった「あの味」だった。
(……本当に、罪深い人ね、栞さんは)
面談の終わりに栞から手渡された、白木の木箱。
老舗和菓子舗「佐竹堂」の職人が今朝練り上げたという、特製の本わらび餅。
事務所に戻り、激務で殺気立っていたアソシエイト弁護士たちと共にお茶を淹れて開封した時の衝撃は、今でも舌の上が鮮明に記憶していた。
漆黒の夜空のように澄み切った、艶やかな本わらび粉の塊。
丹波産黒大豆を極限まで深煎りした京きな粉の、暴力的なまでに香ばしいアロマ。
黒文字を入れると、逃げ水のようにふるふると揺れながら、口に運んだ瞬間に体温だけでジュワリと溶けていく圧倒的な舌触り。
雑味のない上品な甘みと、滋養に満ちた深い余韻。
普段は無味乾燥な契約書ばかりを処理している法律事務所の空気が、その一箱のわらび餅によって、まるで春の陽だまりのように一瞬で和らいだのだ。
あの見事な手土産。
そして、付箋だらけの公正証書を広げ、税法と会社法のスキームを完璧に予習して乗り込んできた、あの凛とした知的な瞳。
晶子は眼鏡を掛け直し、再び創に向き直った。
その視線には、一切の曖昧さを許さない、冷徹なまでの客観性が宿っていた。
「守秘義務があるから、彼女が具体的にどのような事業を計画し、どのような資金フローを検討しているか、詳細を話すことはできないわ。……でもね、創さん。あなたのその見当違いな被害妄想を解くために、一つだけ教えてあげる」
晶子は机の上に肘をつき、指を組んだ。
「彼女はね――あなたに、何一つ要求していないわよ」
「……何?」
創の眉が、ピクリと跳ね上がった。
「要求していない、だと? そんなはずはない。ならなぜ、グループの顧問弁護士である君のところへわざわざ足を運んだんだ。待遇の改善か、生活費の増額か、あるいは……」
「違うわ」
晶子は創の言葉を、硬質な声でぴしゃりと遮った。
「慰謝料の増額でもない。生活費の追加請求でもない。神崎家のカードの限度額引き上げでもなければ、日々の暮らしに対する不満の申し立てでもない。……ましてや、あなたの関心や愛情を乞うようなおねだりなど、微塵も存在しないわ」
晶子の言葉が、一語一語、鋭い針となって創の鼓膜を叩く。
「彼女が私に相談してきたのは、ただ一つ。『婚姻期間満了時に支払われる解決金三億円を、いかに適法に、いかに安全に保全し、税務当局や親族から一点の疑義も挟まれることなく受け取るか』という法的な防衛スキームよ。それと、退去後に彼女が自立して立ち上げる事業法人の設立手続きについてね」
「事業……法人……?」
「そうよ。彼女はね、創さん」
晶子は背もたれに深く体重を預け、冷酷な宣告を下す裁判官のように、淡々と告げた。
「彼女はただ――約束の期日が来たら、綺麗にあなたの前から立ち去るための準備を、誰よりも誠実に、誰よりも完璧に進めているだけよ」
「…………っっ」
ドスン、と胸の真ん中に巨大な氷の杭が打ち込まれたような衝撃が走った。
立ち去る。
約束の期日が来たら。
誰よりも誠実に、完璧に。
創の呼吸が、喉の奥で詰まった。
指先が急速に体温を失っていく。目の前の晶子の姿が、歪んで見えるほどに視界が揺らいだ。
「……立ち、去る……?」
「そうよ。何かおかしなことでもあって?」
晶子は冷ややかに小首を傾げた。その瞳には、容赦のない光が宿っている。
「あなたたちが交わした契約書、作成したのは私よ。条項の一言一句まで覚えているわ。『婚姻期間は満一年とする』『満了時、両名は異議なく円満に協議離婚の届出を行うものとする』『解決金三億円を一括して譲渡する』……。そう決めたのは、他ならぬあなた自身でしょう、創さん?」
「それは……そうだが……」
「なら、なぜそんな顔をしているの?」
晶子は身を乗り出し、創の心の最も見たくない暗部を、容赦なく暴き立てた。
「彼女は、あなたが望んだ通りの『完璧な契約相手』よ。あなたの私生活に干渉せず、家柄に甘えず、金目当てで群がってくる有象無象の女たちとは違って、あなたに何一つ要求してこない。与えられた住まいを大切に使い、美味しいご飯を作り、自分の機嫌は自分で取って、一年経ったら約束通り三億円を持って笑顔で去っていく。……あなたにとって、これ以上都合の良い相手がこの世のどこにいるというの?」
「…………」
「それなのに、どうしてあなたは今、そんな全財産を奪われた敗残兵のような顔をして、私に縋り付いているのかしら?」
痛い。
痛くて、息ができない。
晶子の紡ぐ正論の刃が、創の皮膚を裂き、肉を削ぎ、骨の髄まで達していた。
晶子は手元のバインダーを指先でトントンと叩きながら、さらに追い討ちをかけた。
「創さん。あなたはあの結婚を『形式的な契約』として始めた。愛のない政略結婚であり、ビジネスライクな取引だと自分に言い聞かせてきたはずよ。……だけど、あなたの本音はどうだったのかしらね?」
「……何が言いたい」
「甘えていたのよ、あなたは」
晶子は吐き捨てるように言った。
「心のどこかで、高を括っていたんじゃないかしら。『神崎家の莫大な財力と自分の地位を見せつければ、そのうち向こうからすがりついてくるだろう』『不器用に距離を置いていれば、妻の方から健気に歩み寄ってきて、自分を求めてくれるだろう』って。そうやって安全地帯に引きこもって、相手から求められる側の強者気取りでいたんじゃないの?」
「俺はそんな……傲慢なつもりは……!」
「いいえ、傲慢よ! そして何より、決定的に愚かだわ!」
晶子の声に、初めて強い感情の熱が宿った。
「彼女のあの自立した強さ、あの曇りのない笑顔……あれがどれほどの覚悟の上に成り立っているか、あなたには分からないの? 彼女はね、あなたからの施しなんて最初から期待していないのよ。自分の足で立ち、自分の人生を自分の手で切り拓くために、死に物狂いで勉強し、準備を進めているの。……その彼女の視界の中に、神崎創という男の存在が、微塵も入っていないことに……あなたは今さら気づいて、怯えているだけじゃない!」
「…………っ!」
創は言葉を失い、喉を激しく痙攣させた。
反論の余地など、どこにもなかった。
成瀬に言われた時よりも、遥かに深く、残酷な解像度で、自らの醜い本性を突きつけられたのだ。
そうだ。
自分は甘えていたのだ。
深夜にすき焼きを恵んでもらい、サンルームでボサノヴァを聴きながら穏やかな沈黙を共有し、真鯛のあら炊きご飯を腹いっぱいに平らげて「おかわりはあるか?」と甘えたあの日々。
あの居心地の良さに浸かりながら、創は心のどこかで、無自覚に思ってしまっていたのだ。
――この生活が、いつまでも続くのではないか。
――一年という契約の枠組みの向こう側に、なんとなく、この温かな日常が延長されていくのではないか、と。
だが、現実は違った。
彼女にとって、この屋敷での日々は「一年間限定の滞在先」に過ぎない。
彼女が美味しいご飯を作るのも、空間を整えるのも、夫のためではない。
自分が快適に過ごし、一年後の完全な自立に向けて、心身の健康を保つための手段に過ぎなかったのだ。
彼女は、本気なのだ。
一秒の迷いもなく。
一円の狂いもなく。
三百六十五日目の朝が来たら、トランク一つを持って、この屋敷から、自分の前から、跡形もなく消え去る気なのだ。
(消える……? あいつが……?)
頭の中で、時計の秒針の音が響いた。
チク、タク、チク、タク。
今までは漠然とした「一年」という期間だったものが、突如として、首筋に押し当てられた冷たい刃の感触を伴う「カウントダウン」へと変貌していた。
あと、三百五十日余り。
毎日、砂時計の砂が落ちるように、彼女との時間が削り取られていく。
そしてゼロになった瞬間、彼女は満面の笑みで「お世話になりました!」と手を振り、二度と振り返ることなく去っていくのだ。
胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。
失う。
本当に、あの温もりを、あの笑顔を、あの生きる実感のすべてを、自分は永遠に失ってしまう。
「……創さん」
静寂の中、晶子が静かに立ち上がった。
アタッシュケースを手に取り、スーツの乱れを整える。
そして、青ざめて硬直する若き専務を見下ろし、最後に一言だけ、冷淡で慈悲のない事実を告げた。
「彼女、本気で出ていく気よ。……法的な準備は、私が完璧に整えてあげる約束をしたわ。だから契約満了日には、何の手違いもなく、公正証書通りに三億円が彼女の口座へ振り込まれ、離婚届が受理される」
晶子はドアへと歩みを進め、ノブに手をかけた。
そして、振り返ることなく、淡々と言い捨てた。
「失ってからどれだけ泣き言を喚いても、私は神崎グループの顧問弁護士として、契約書通りの手続きを機械的に進めるだけよ。……後悔したくないなら、精々あがくことね。もっとも、あの鉄壁の自立心を誇る彼女を前に、今のあなたに何ができるのか……私には見当もつかないけれど」
パタン、と重厚な防音扉が閉まった。
特別役員応接室に、再び完全なる静寂が落ちる。
「…………」
一人残された創は、両手で顔を覆い、深く、深く沈み込むようにソファの上で項垂れた。
指先が震え、唇から熱い吐息が漏れる。
「立ち去る……。俺の前から……」
呟いた声が、誰もいない豪奢な密室に虚しく反響した。
契約という名の鎖で彼女を縛り付けたはずの男が、今、その契約という名のカウントダウンの前に、完膚なきまでに叩きのめされていた。
取り戻さなければならない。
だが、どうやって?
彼女は金も、権力も、地位も求めていないのだ。
彼女が欲しいのはただ一つ、「自分の機嫌を自分で取る、自由で穏やかな暮らし」だけなのだから。
創の胸の奥で、出口のない暗い炎が、激しく渦を巻き続けていた。
* * *
それから数日後。
重苦しい空気を引きずったまま迎えた、十月最後の週末。
日曜日の昼下がり。
神崎邸の一階、南東のサンルームでは、栞がテラスで摘んだばかりのフレッシュハーブを使ったお茶を淹れ、親友の唯から届いたインテリアのサンプル帳を広げて、穏やかな休日のひとときを満喫していた。
創はといえば、居場所のない焦燥感を抱えたまま、書斎のデスクで手につかない書類を睨みつけていた。
そんな屋敷の平穏を、唐突に切り裂く音が響いた。
ズオオオオオオオン……ッ。
地響きのような重低音を響かせ、神崎邸の正面ゲートをくぐり抜けてきたのは、漆黒のボディを異様な威圧感で輝かせる、一台の最高級プレステージセダン――トヨタ・センチュリーだった。
砂利を踏みしめる不穏なタイヤの音。
玄関ポーチの真ん前に横付けされたその車から、運転手が慌てて駆け寄り、後部座席のドアを恭しく開けた。
姿を現したのは――威厳に満ちた白髪を撫で付け、仕立ての良い英国製ツイードのスリーピースに身を包んだ、痩躯の老人。
彫りの深い顔立ちに刻まれた深い皺、そして獲物を射抜く猛禽類のような鋭い眼光。
神崎ホールディングス会長にして、神崎家の絶対君主――神崎宗一郎。
事前連絡の一切ない、突然の襲来。
屋敷の空気が、一瞬にして氷点下へと凍りついた。




