【第20話】会長襲来。凍りつく豪邸と不穏な昼下がり
十月最後の青空が広がっていた日曜日の午後一時過ぎ。
都内一等地に建つ神崎邸の敷地内には、秋の穏やかな木漏れ日が満ちていた。南東のサンルームでは、テラスのハーブの鉢植えが爽やかな風に揺れ、リトアニア産リネンカーテンが微かに音を立てて膨らんでいる。
しかし、二階の奥まった一角にある創の書斎だけは、光の届かない深海のような冷気に沈んでいた。
カタ、と万年筆を机に置く音が響く。
神崎創は、広大なマホガニーのデスクの上で腕を組み、開かれたままの買収監査資料の同じページを、かれこれ三十分以上も見つめ続けていた。
文字が頭に入ってこない。
水曜日の朝、本社ビルの特別役員応接室で、顧問弁護士の吉高晶子から突きつけられた冷酷な宣告が、耳の奥で終わりのない残響となって渦を巻いていた。
『彼女はね――あなたに、何一つ要求していないわよ』
『約束の期日が来たら、綺麗にあなたの前から立ち去るための準備を、誰よりも誠実に、誰よりも完璧に進めているだけよ』
『彼女、本気で出ていく気よ』
胃の奥が、重たく疼いた。
先週の金曜日に食べたあの温かな鯛ご飯の余韻すら、急速に薄れていくような感覚。
妻である間宮栞は、創に怯えてもいなければ、怒ってもいない。
ただ、この屋敷を「快適な仮住まい」と割り切り、一年後の満了日を迎えた瞬間に、三億円の解決金を手にして綺麗さっぱり消え去るための準備を、着々と進めている。
彼女の視界の中に、神崎創という男の居場所は、初めから存在しないのだ。
(どうすればいい……)
契約を破棄すると叫べば、彼女は「違約金が発生しますよ」と冷ややかに笑うだろう。
金を積もうにも、彼女はすでに手に入る三億円以外の財産など欲しがっていない。
彼女をこの屋敷に、自分の隣に引き止めるための論理もカードも、創の手元には何一つとして残されていなかった。
――その時だった。
ズオオオオオオオン……ッ。
遠くの正面ゲートの方角から、地響きにも似た腹に響く排気音が届いた。
鈍く、重厚で、一切の軽薄さを許さない漆黒の威圧感。
砂利を踏みしめるタイヤの音が、正面玄関の車寄せの真下でピタリと止まる。
「……何事だ?」
創は眉をひそめ、椅子から立ち上がって窓辺のブラインドを指先でわずかに押し下げた。
眼下の玄関ポーチを見下ろした瞬間、創の全身の筋肉が、氷水を浴びせられたかのように硬直した。
漆黒の車体、品川ナンバーの最高級プレステージセダン――トヨタ・センチュリー。
助手席から飛び降りたスーツ姿の運転手が、慌てて後部座席のドアを開ける。
車内から現れたのは、英国製の仕立ての良いツイードスリーピースに身を包み、黒檀のステッキを手にした一人の老人だった。
撫で付けられた銀髪、深く刻まれた眉間の溝、そして獲物を解体する猛禽類のような、冷徹極まりない光を放つ細い瞳。
「……父さん……」
創の喉から、掠れた声が零れ落ちた。
神崎宗一郎、六十二歳。
神崎ホールディングス取締役会長であり、創の実父。
一代でグループの事業規模を何倍にも膨れ上がらせ、政財界に隠然たる影響力を持つワンマン独裁者。
そして――創が物心ついた頃から一度として逆らうことを許されず、その絶対的な支配と冷徹さによって、創の精神を長年縛り付け続けてきた元凶だった。
トントントン、と階段を駆け上がってくる乱れた足音が響いた。
書斎の扉がノックされ、息を切らせたハウスキーパーの藤沢絹代が顔を覗かせる。三十年のキャリアを誇るあの鉄の家政婦の顔が、白紙のように青ざめていた。
「そ、創様……! 会長がお見えになりました……! 事前の連絡は一切入っておらず、今、玄関ホールにお上がりになられて……」
「……分かっている、絹代。すぐ降りる」
創は努めて平然を装いながら、机の上の書類を整え、スーツのジャケットを羽織った。
だが、ボタンを留める指先が、微かに小刻みに震えているのを隠すことはできなかった。
何年経とうが、何百億の案件をまとめようが、宗一郎の影が差した瞬間、創の身体は幼少期の「逆らえぬ無力な子供」へと引き戻されてしまうのだ。
なぜ、今日このタイミングで乗り込んできたのか。
理由は考えるまでもない。
祖父の遺言条項に基づく、創の政略結婚。
神崎家の名に泥を塗っていないか、相手の娘が不審な動きをしていないか、そして何より――後継者である創が、私生活も含めて神崎家の統制を完璧に保てているかを「査察」しに来たのだ。
(……栞さんは、どこにいる?)
創は心臓を冷たい氷で握り潰されるような恐怖を覚えた。
もし、あの日当たりの良いサンルームで、くたくたのリラックスウェアを着て昼寝をしている姿を父に見られでもしたら――。
宗一郎は容赦なく彼女を侮辱し、佐竹堂への融資保証すら盾に取って理不尽な圧力をかけるに違いない。
「絹代。栞さんは?」
「若奥様は……テラスでお茶を召し上がられた後、厨房で何か作業をなさっておられます。会長の気配には、まだお気づきでないかと……」
「厨房から絶対に出すな。自室へ戻るよう伝えてくれ。父の相手は、俺が一人で受ける」
創は硬い足取りで書斎を出ると、吹き抜けの階段を降りて一階の玄関ホールへと向かった。
玄関ホールの大理石の上には、すでに冷気そのもののような威圧感が立ち込めていた。
ステッキをコツ、コツと床に突く乾いた音が、高い天井に反響している。
宗一郎は出迎えた創を一瞥すらすることなく、屋敷の内装を値踏みするように見回していた。
「……相変わらず、陰気な屋敷だな。死人の匂いが染み付いている」
低く、ざらついた、刃物のように鋭いダミ声。
創は胸元に拳を当て、直立不動で頭を下げた。
「お久しぶりです、会長。突然のお越しとは露知らず、お出迎えが遅れましたこと、お詫び申し上げます」
「挨拶などどうでもいい。……貴様が選んだ、あの傾きかけた和菓子屋の娘はどうした。姿も見せんのか」
宗一郎の細い目が、射抜くように創を捉えた。
その眼光には、血を分けた我が子に対する情愛など微塵もない。
ただ自らの持ち駒が正しく機能しているかを確認するだけの、冷徹な査察官の視線。
「栞は、自室で休ませております。長旅や不慣れな環境の疲労もございますゆえ、本日は私がご用件を承ります。……応接間へどうぞ」
「ふん。ろくに躾もできんうちから、過保護なことだな」
宗一郎は鼻先でせせら笑うと、ステッキを鳴らしながら一階の奥へと歩き出した。
向かったのは、以前の重厚な「昭和の密談部屋」ではなく、玄関脇にある格式張った第一応接室だった。
* * *
重厚な革張りソファが並ぶ応接室の扉が閉ざされた瞬間、密室の空気は一瞬にして鉛のような重苦しさに包まれた。
宗一郎は上座のソファの中央に深く腰を下ろし、ステッキを両足の間に立てて両手を重ねた。
対面に座る創を見下ろすその顔には、隠しようもない不快感と苛立ちが張り付いている。
「北米ファンドの買収案件、修正案を強引に通したそうだな」
開口一番、宗一郎が切り出したのはビジネスの話題だった。
「法務と財務の連中を丸め込んで、手柄を立てたつもりか? 相手の特別解約条項を削るために、現地法人の資産査定基準を緩めただろう。目先の数字を繕うために、将来のリスクを先送りしただけだ。甘いな、創。貴様のやることは、いつまで経っても机上の空論だ」
「……査定基準の変更は、現地の独立監査法人による二重チェックを条件としております。将来リスクはグループの資本準備金の範囲内で十分に吸収可能です」
「口答えをするな!」
バシィンッ! と、黒檀のステッキがテーブルの脚を激しく叩いた。
鈍い破壊音が密室に響き渡り、創の身体が条件反射のようにビクリと強張る。
「貴様の言い訳など聞くために来たのではない! 問題は貴様の『統制力』のなさだ!」
宗一郎は身を乗り出し、獲物を縊り殺すような眼光で創を睨みつけた。
「親族どもが裏で騒ぎ立てているぞ。『創は佐竹の小娘に鼻の下を伸ばし、仕事の判断を誤っているのではないか』とな。株式の相続条件をクリアするための一年間の形式婚だと聞いていたが、あんな格下の和菓子屋の娘如きに、屋敷の中で好き勝手な真似をさせているそうだな。……家政婦の絹代を手懐け、出入りの職人に媚びを売り、挙げ句の果てには吉高晶子を個人指名して社内を騒然とさせたらしいではないか」
「…………っ!」
創の呼吸が止まった。
やはり、すべて筒抜けだったのだ。
親族たちのスパイが社内に潜み、栞の些細な行動一つ一つを監視し、宗一郎の耳に吹き込んでいた。
「会社でどれほど専務の顔を取り繕おうが、家庭一つ満足に統制できん無能に、神崎の看板を背負う資格はない。……佐竹堂への融資保証など、明日にも打ち切ってあの娘を実家へ叩き返してやってもいいのだぞ? 貴様の甘さが、あの娘をつけあがらせているのだ!」
容赦のない罵声の嵐。
宗一郎の言葉は、正確に創のトラウマの急所を抉り抜いていた。
(……前世と、同じだ)
創の脳裏に、かつての苦い記憶がフラッシュバックする。
前世の結婚生活においても、宗一郎はこうして突然屋敷に乗り込んできたことがあった。
あの日の前世の栞は、あまりの威圧感に青ざめ、震える手でお茶を運ぼうとしてカップを倒し、宗一郎から『こんな臆病な無能、神崎の嫁として恥を知れ!』と怒号を浴びせられた。
恐怖と過度のストレスから、栞はその場で過呼吸を起こして倒れ、創は父の怒りに何も言い返せないまま、ただ自分の無力さに打ちひしがれたのだ。
あの日を境に、栞の胃の病状は決定的に悪化していった――。
今、また同じことが繰り返されようとしている。
この冷酷な怪物の前に晒されれば、どんな人間であっても精神をすり潰されてしまう。
「……父さん、栞は関係ありません」
創は青ざめた唇を開き、必死に言葉を絞り出した。
「彼女は契約の条項を守り、何一つ不審な行動は取っていません。すべては私の監督責任です。彼女を巻き込むようなことは――」
「黙れ! 誰の許しを得て『父さん』などと甘えた口を利いている! ここでは会長と呼べと言っているはずだ!」
宗一郎の怒声が、応接室のガラス窓をビリビリと震わせた。
老人の顔面は紅潮し、怒りのあまり荒い息を吐き出している。
だが――その怒号の直後、宗一郎の右手が、無意識のうちにスッと自らの左腹――みぞおちのあたりへと伸びた。
顔色が一瞬だけ、土気色に歪む。
乾いた唇から漏れる、極めて微かな、苦悶の呻き。
(……あ)
創はその仕草に気づきながらも、恐怖と長年の確執のせいで、声をかけることすらできなかった。
張り詰めた空気。
逃げ場のない密室。
暴力的なまでのプレッシャーが、創の首を真綿で絞めるように締め上げていく。
――その時だった。
トントン。
重厚な防音扉を、あまりにも軽快に、まるで木琴を叩くような屈託のないリズムで叩く音が響いた。
「…………?」
宗一郎の怒号がピタリと止まった。
創も息を呑み、弾かれたように扉を振り返る。
この神崎邸において、会長が息子の専務を叱責している最中に、ノックをして入ってくるような命知らずの使用人など、三十年の歴史の中で一人として存在したことはない。
絹代ですら、怒声が収まるまでは廊下の遠くで息を潜めているのが絶対の掟だったはずだ。
ガチャリ。
二人の静止を意にも介さず、真鍮のノブが滑らかに回り、扉がすっと横に開いた。
「失礼いたします〜」
入ってきたのは――。
淡い若草色の胸当て付きリネンエプロンをキュッと結び、後ろでお団子にした髪を揺らした、間宮栞だった。
両手には、黒漆の大きなお盆。
その上には、ほかほかと真っ白な湯気を立ち上らせている小ぶりの土鍋と、陶器のレンゲ、そして小さな湯呑みが一つ、整然と並べられていた。
「し、栞……!?」
創の喉から悲鳴のような声が漏れた。
来るなと言ったはずだ。厨房から出るなと、絹代に言いつけたはずだったのに。
なぜ、この地獄のような修羅場に、自ら飛び込んでくるのか。
しかし、栞の足取りは、春の小道を散歩するかのように軽やかだった。
パタ、パタ、とルームスリッパの柔らかな音を響かせながら、応接室の重厚な空気を切り裂いて入ってくる。
宗一郎の放つ、人を殺しかねないほどの猛烈な威圧感など、まるでそこに存在しない春風であるかのように、完全にスルーしていた。
「な……何だ、貴様は」
宗一郎の眉が吊り上がり、ステッキを握る手が怒りで震えた。
見知らぬ小娘が、エプロン姿のまま、神崎家の密談の場に無断で上がり込んできたのだ。その無礼千万な振る舞いに、宗一郎の喉から雷撃のような怒号が今にも放たれようとした――。
だが。
宗一郎が口を開くよりも、ほんの一瞬早く。
栞はテーブルの脇にすっと立つと、お盆をガラステーブルの真ん中へと、ことり、と音を立てて置いた。
そして、宗一郎の恐ろしい形相を真っ向から見つめ、ふわりと、あまりにも朗らかな満面の笑みを浮かべたのだ。
「初めまして、お義父様。間宮栞と申します。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
「……だ、誰がお前の義父だ! 無礼者が、何の真似だ!」
怒鳴りつける宗一郎。
しかし、栞の視線は――宗一郎の怒りに満ちた眼光ではなく、まったく別の「ある一点」へと、鋭く注がれていた。
宗一郎の、異様なほど青白い額の皮膚。
乾ききってひび割れた唇。
そして、ツイードのベストの上から、無意識のうちに強く、強く圧迫されている、左のみぞおち。
さらに――。
栞の優れた嗅覚が、宗一郎の吐息の奥から漂ってくる、極めて微かな「ある匂い」を、正確に捉えていた。
胃酸が食道を逆流し、内壁を焼き焦がしている時に特有の、あのツンとした酸っぱい刺激臭。
そして、空腹と激痛に耐えかねた身体が、内臓の粘膜を削りながら放つ、独特の生臭い気配。
(……間違いないわ)
栞の琥珀色の瞳の奥で、確信の光が宿った。
(この人……今、胃に大穴が空きそうなほどの激痛と戦ってる。前世の私が、吐血して倒れる直前と……まったく同じ状態だわ)
怒号を撒き散らす絶対君主の老人。
だが、その仮面を一枚剥ぎ取れば、そこにいるのは――過度の重圧と孤独の中で内臓を蝕まれ、空腹に耐えかねて悲鳴を上げている、ただの「重症の胃潰瘍患者」に過ぎなかったのだ。
宗一郎が再びステッキを振り上げようとした、その刹那。
栞は怯えるどころか、慈愛に満ちた料理人の目で宗一郎を見下ろし、土鍋の蓋のつまみに手をかけた。
「お昼ご飯、まだ召し上がっていらっしゃらないでしょう?」
鈴を転がすような、穏やかで優しい声が、凍りついた密室の空気をふわりと溶かした。




