【第21話】薬膳の知恵。梅と生姜の「滋味出汁・湯葉雑炊」
「お昼ご飯、まだ召し上がっていらっしゃらないでしょう?」
鈴を転がすような、穏やかで涼やかな声が、ピリピリと張り詰めていた応接室の空気にふわりと溶け込んだ。
「な……っ」
神崎宗一郎の銀の眉が、信じられないものを見たかのように激しく痙攣した。
六十二年の生涯、そして三十年以上にわたり財界の絶対君主として君臨してきた男である。ひとたび眉をひそめれば、グループ中核企業の社長たちですら胃を痛めて直立不動になり、親族たちは息を殺して顔色を窺う。
ましてや今、自分は後継者である創を前に、社運を賭けた大型買収と家庭の統制について雷を落としていた真っ最中だったのだ。
そこへ、若草色の麻エプロンをつけた小娘が、湯気の立つ土鍋を携えて闖入し、あろうことか「昼飯を食え」と呑気に宣った。
宗一郎のプライドと理性が、激しい侮辱としてその言葉を捉えたのは当然だった。
「貴様……! 誰に向かって口を利いている! 創、この無礼な女は何だ! 神崎家の嫁としての教育どころか、犬猫の躾すらできておらんではないか!」
ステッキの先で床をガンガンと突き鳴らし、宗一郎の怒号が再び響き渡る。
対面に座る創は、顔面蒼白になって飛び起きた。
「栞、下がりなさい! 何を考えているんだ! 会長に対して無礼だ、今すぐ厨房へ戻るんだ!」
創の声は裏返り、必死に栞の華奢な肩を掴んで部屋の外へ押し戻そうとする。
宗一郎が本気で怒り狂えば、佐竹堂への融資保証の即時停止など朝飯前だ。彼女の実家は一日で破産し、彼女自身も神崎家を追い出されて路頭に迷うことになる。前世で彼女が過呼吸を起こして倒れたあの地獄絵図が、今まさに再現されようとしていた。
だが――。
渦中の間宮栞は、一歩たりとも動かなかった。
創の震える手が自分の肩に触れた瞬間、栞は創を見上げ、そっとその手に自分の手のひらを重ねた。
柔らかく、温かく、何の動揺もない体温。
「創様、落ち着いてください。ネクタイが曲がっていますよ。……それに、失礼なことなど何一つしていません。お腹を空かせたお客様に、温かいお食事をお持ちしただけですから」
「お腹を空かせた、だと……!? 馬鹿を言うな、この御方は神崎ホールディングス会長だぞ! お前のおままごとに付き合っている暇など――」
「神崎様」
栞は創の言葉を、静かに、だが鋼のように揺るぎない眼差しで遮った。
「会長である前に、この方は『一人の人間』です。……そして今、この方の身体は、怒鳴り散らしている場合ではないほど悲鳴を上げています」
「な……に?」
創が息を呑む。
栞は創の手を優しく下ろさせると、再びガラステーブルの向こう側の宗一郎へと向き直った。
栞の観察眼は、先ほどから宗一郎の全身の微細なサインを冷徹にスキャンし終えていた。
仕立ての良い英国製ツイードスリーピースの上から、左手で無意識にみぞおちを強く圧迫し続けている指先。
怒声を発するたびに、額の生え際から滲み出る、粘りつくような冷たい脂汗。
乾ききって赤紫色にくすんだ唇。
そして何より――怒号の合間に漏れ出てくる、あの特有の微かな匂い。
過剰に分泌された胃酸が食道の粘膜を焼き焦がし、未消化の胆汁とともに喉の奥からせり上がってくる、ツンと酸っぱい刺激臭。
(間違いない。前世の私が、吐血して倒れる一ヶ月前と寸分違わず同じ状態だわ)
栞の胸の奥に、かつての激痛の記憶が蘇る。
食事を取る時間も惜しんで働き、空腹をコーヒーとタバコで紛らわせ、ストレスで自律神経が焼き切れた人間の胃の中がどうなっているか、栞は身をもって知り尽くしていた。
胃壁の粘膜を保護する粘液の分泌は完全に止まり、強酸性の胃液が、自らの胃の内壁を肉ごと溶かしているのだ。
みぞおちを熱した鉄棒でグリグリと抉られるような激痛。
何かを食べたいのに、油っこいものや冷たいものを見るだけで反射的に吐き気が込み上げ、結局何も口にできず、空腹がさらに胃酸を濃縮させて痛みを加速させる悪魔の永久機関。
宗一郎は今、その地獄の真っ只中にいる。
息子の創を怒鳴りつけているのは、単なる傲慢さのせいだけではない。激痛のストレスと、低血糖による極度の苛立ちが、この老人の理性を狂わせているのだ。
「誰が腹を空かせているだと!?」
宗一郎は吐き捨てるように怒鳴った。
その顔は怒りで赤黒く染まり、荒い息が肩を揺らしている。
「神崎家の長たる私が、貴様のような小娘の作った下品なエサを恵んでもらうとでも思ったか! ふざけるな! 私は朝から分刻みのスケジュールで動いているのだ。貴様の顔など見たくもない、今すぐその薄汚れた鍋を持って失せろ!」
容赦のない罵詈雑言。
普通の令嬢であれば、その剣幕だけで涙を流して逃げ出すか、恐怖で失神するレベルの威圧感。
しかし、栞の口元に浮かんだのは――まるで駄々をこねる大きな子供を見守る母親のような、どこまでも大人の、慈愛に満ちた苦笑いだった。
「お義父様。お説教なら、後でいくらでも伺います」
「何だと……!?」
「ですが、お説教の前に、一口だけで結構ですから召し上がってください。……胃が空っぽのまま怒鳴り声を上げ続けると、分泌された胃酸が薄まらずに胃壁を直接溶かして、本当に胃に穴が空いてしまいますよ? みぞおちが、キリキリと焼けるように痛むでしょう?」
「…………っっ!?」
宗一郎の呼吸が、完全に停止した。
ステッキを振り上げようとしていた腕が、空中でピタリと固まる。
その鋭い猛禽の瞳に、激しい動揺が走った。
なぜ、この小娘が知っている。
主治医にすら隠し、極秘裏に強力な胃薬を個人輸入して誤魔化し続けてきた、自らの胃の異常。
今まさに、左腹の奥底で鉄の爪に引き裂かれているような痛みを耐え忍んでいたことを、なぜ一目で見抜かれたのか。
「貴様……なぜ、それを……」
「見れば分かりますよ。私も昔、同じ痛みに苦しんだことがありますから」
栞は宗一郎の動揺を追及することなく、さらりと流した。
そして、テーブルの中央に置かれた小ぶりの萬古焼の土鍋へと手を伸ばす。
「創様も、そこに座ってください。お義父様のお相手をするなら、体力をつけていただかないと困りますからね」
創は呆気にとられたまま、言われるがままソファへと引き戻された。
もはやこの部屋の主導権は、神崎家の会長でも専務でもなく、割烹着姿の若妻の手の中に完全に掌握されていた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
栞は両手に鍋つかみをはめ、土鍋の蓋のつまみをそっと持ち上げた。
――スウゥゥゥ……。
音もなく外された蓋の隙間から、純白の蒸気が、ふわりと穏やかに立ち上った。
先日の「真鯛のあら炊きご飯」のような、力強く暴力的なまでの芳香ではない。
そこに漂ってきたのは――どこまでも優しく、奥深く、嗅いだ瞬間に荒れ狂っていた神経の波立ちを凪へと変えてしまうような、澄み切った「和の薫煙」だった。
「…………っ」
宗一郎の鼻腔が、微かに蠢いた。
まず部屋を満たしたのは、極上の「精進出汁」の香りだった。
北海道・利尻の蔵囲い昆布のまろやかなグルタミン酸と、九州産の肉厚な原木干し椎茸を一晩かけて水出しし、極弱火でじっくりと抽出したグアニル酸の相乗効果。動物性の脂や鰹節の酸味を一切排した、植物性出汁だけが持つ、大地の滋養に満ちた澄んだ香り。
そして、その穏やかな出汁の香りの中心から、鮮烈な二つのアクセントが立ち上ってくる。
一つは、すりおろしたばかりの高知県産「黄金生姜」の、ピリリと鼻腔をくすぐる温かなスパイシーさ。
もう一つは、天日干しにされた紀州南高梅の、唾液の分泌を促す上品でまろやかな酸味のアロマ。
「これは……雑炊、か……?」
宗一郎の口から、無意識のうちに掠れた呟きが漏れた。
湯気が晴れた土鍋の中を、老人は思わず凝視していた。
土鍋の中に揺蕩っていたのは、飴色の澄んだ出汁をたっぷりと吸い込んだ、柔らかな米粒たち。
だが、安物の白米雑炊のように、米がドロドロに溶けて糊状になっているわけではない。
使われていたのは、宮城産の無農薬玄米を軽く精米した「三分づき米」。食物繊維とビタミンB群を豊富に残しつつ、丁寧に一度湯通ししてぬめりを落としてから炊き上げられているため、出汁が濁ることなく、米粒の一つ一つが出汁の海の中で優雅に泳いでいる。
そして、その米の上を覆い尽くすように散りばめられていたのは――大判の、純白のヴェールだった。
「栃木県日光産の、極上大豆を使った『生引き上げ湯葉』です」
栞が陶器のレンゲを手に取りながら、穏やかに解説を添える。
「職人さんが豆乳の表面に張った一番目の膜だけを、丁寧に竹串で引き上げた極上品です。消化吸収が極めて良く、良質な植物性タンパク質が、荒れて傷ついた胃の内壁を優しくコーティングして保護してくれます。油分は一滴も使っていません」
琥珀色の出汁の中で、幾重にも重なり合った生湯葉が、まるで絹のレースのように艶やかに揺らめいている。
その中央に鎮座しているのは、種を抜いて包丁で細かく叩かれた、真紅の紀州南高梅。
塩分濃度を限界まで落とし、純米酒と煮切りみりんで塩抜きされた梅肉は、角のないまろやかな酸味を湛えている。
その脇には、たっぷりとすりおろされた黄金生姜と、色鮮やかな三つ葉の小口切り。
一分の隙もない、薬膳の知恵の結晶。
胃酸過多で内壁がただれた人間にとって、これ以上ないほどの「食べる胃薬」がそこにあった。
「どうぞ、お義父様。熱いうちに召し上がってください」
栞は深型の有田焼の小鉢に、湯気立つ雑炊をふわりとよそった。
出汁の琥珀色、湯葉の乳白色、梅の紅色、三つ葉の鮮やかな緑。
目にするだけでも美しく、胃への負担が極限まで計算された一杯。
宗一郎の目の前に、ことり、と木製のトレイが置かれ、白い陶器のレンゲが添えられた。
「…………」
宗一郎は、動かなかった。
黒檀のステッキを握りしめたまま、テーブルの上の小鉢を、まるで猛毒の杯でも見るかのように鋭い眼光で睨みつけている。
(小癪な真似を……!)
宗一郎の胸の中で、意地とプライドが激しく渦巻いていた。
自分は神崎宗一郎だ。
政財界を牛耳り、数千人の社員と一族の頂点に立つ男が、息子を叱責しに来たその場で、息子の嫁が出してきた雑炊を大人しく口にするなど、前代未聞の屈辱ではないか。
ここでレンゲを手に取れば、自分の権威は失墜し、この小娘のペースに呑まれることになる。
「こんな安っぽい飯が食えるか!」と一喝し、テーブルごとひっくり返して立ち去るのが、神崎家の家長たる者の取るべき態度のはずだ。
そう、拒絶するべきだ。
突き飛ばすべきだ。
だが――。
――ぎゅるるるるるるるる……。
宗一郎の身体の奥底から、無情極まりない音が鳴り響いた。
朝からブラックコーヒー二杯とタバコ三本。
昼食など取る気力もなく、激痛に耐えながらここまで乗り込んできた六十二歳の肉体。
その極限まで痛めつけられ、飢え切っていた胃袋が、目の前で立ち上る昆布と干し椎茸の芳醇な薫煙を吸い込んだ瞬間、理性の防壁をあっさりと突き破って反乱を起こしたのだ。
さらに、梅干しの爽やかな酸味の香りが鼻腔をくすぐるたび、パサついていた宗一郎の口の中に、唾液がじゅわりと溢れ出して止まらない。
乾ききっていた喉が、熱い出汁の水分を狂おしいほどに渇望している。
すりおろし生姜の香りが、冷え切っていた血流を呼び起こすように、五臓六腑を激しく揺さぶる。
(ぐ……っ、身体が……)
宗一郎の喉仏が、ゴクリと大きく上下した。
額の汗が、眉間の皺を伝って一筋流れ落ちる。
左腹のみぞおちは、今この瞬間も、焼けつくような痛みを訴え続けていた。
痛い。空腹で、胃酸が暴れて、たまらなく痛い。
その痛みを鎮めてくれる唯一の救いが、目の前の白い小鉢から立ち上る、温かな琥珀色の湯気の中にしかないことを――宗一郎の肉体そのものが、本能で理解してしまっていた。
「……父さん」
横から、創の掠れた声が掛けられた。
見れば、創もまた真剣な眼差しで、心配そうに宗一郎の顔を見つめていた。
「無理をなさらないでください。……一口だけでも、胃に入れてください」
「黙れ……! 貴様に心配される筋合いはない……!」
宗一郎は唸るように吐き捨てた。
だが、その声には、先ほどまでの雷撃のような張りと威圧感は、もはや残っていなかった。
栞は何も言わなかった。
「食べてください」と哀願することもなく、自慢げに微笑むこともない。
ただ、静かにテーブルの脇に立ち、お茶の湯呑みから立ち上る湯気を眺めながら、宗一郎が自らの身体の声に従うのを、穏やかに待っていた。
十秒。
二十秒。
応接室の時計が、重苦しい秒針の音を刻む。
そして――。
ガタ、とステッキがソファの脇に倒れかけた。
宗一郎の、節くれ立った老いた右手が、微かに震えながら、テーブルの上の白い陶器のレンゲへと伸びた。
(一口だけだ……)
宗一郎は心の中で、自分自身に見苦しい言い訳を叩きつけていた。
(一口だけ口をつけ、この小娘の料理がどれほど稚拙で下品であるかを論破してやる。神崎の看板を背負う資格がないことを、味の不味さをもって証明してやる……!)
震える指先が、レンゲの柄を握る。
レンゲの先が、琥珀色の出汁の海へと静かに沈んでいく。
すくい上げられたのは、たっぷりの精進出汁と、とろりと身をよじる日光生湯葉、柔らかな三分づき玄米、そしてほんのわずかに散らされた真紅の叩き梅。
湯気が、宗一郎の青白い鼻腔を熱く撫でる。
宗一郎は奥歯を噛み締め、意を決して、そのレンゲを口元へと運んだ。
ズッ……。
静寂を切り裂いて、温かな出汁を啜る微かな音が響いた。
その瞬間。
「…………っっ!?」
神崎宗一郎の手が、空中でピタリと静止した。




