【第22話】頑固親父の落城。「創、お前には勿体ない嫁だな」
神崎宗一郎の動きが、完全に止まっていた。
白い陶器のレンゲを口元に運んだ姿勢のまま、まばたきすら忘れたかのように、老人の細い瞳孔が見開かれている。
舌の上に落ちた一口の液体。
それがもたらした衝撃は、一代で巨大コングロマリットを築き上げ、幾度となく修羅場をくぐり抜けてきた男の脳髄を、内側から激しく揺さぶるに十分なものだった。
「…………っ」
声にすらならない息が、鼻腔から抜ける。
酷評してやろうと思っていた。
「出汁の引き方も知らん素人の泥水だ」「こんな安っぽい病人食で神崎の長を手懐けられると思うな」と、冷酷な言葉のナイフで切り裂いて、テーブルごと突き放してやるつもりだった。
だが――できなかった。
舌の上の味蕾が、食道の粘膜が、そして何より悲鳴を上げていた胃袋そのものが、言葉を発することを力尽くで禁じていた。
(何だ……この、出汁は……)
まず訪れたのは、信じられないほどの「透明感」だった。
動物性の脂は一滴もない。魚の節類特有の酸味や燻煙香すら排されている。
北海道・利尻島の蔵囲い昆布が放つ、澄み渡るような上品な甘み。そこに、九州の山奥で育てられた原木干し椎茸の、力強く深遠な大地の滋養が、驚くほど滑らかに寄り添っている。
塩分は極限まで削ぎ落とされているはずなのに、薄いなどとは微塵も感じない。植物性の出汁だけが持ち得る、舌の奥をじんわりと包み込むような、底知れぬ旨味の厚み。
そして、その出汁をたっぷりと纏って喉へと滑り込んできたのは、日光産の生引き上げ湯葉だった。
とろり、と。
まるで上質な絹のヴェールが、荒れ果てた食道の粘膜を撫でていくような官能的な舌触り。
大豆本来の豊かな香りと甘みがふわりと鼻へ抜け、油分が一切ないにもかかわらず、極上のポタージュのように滑らかに胃の腑へと落ちていく。
そこへ、三分づき玄米の粒がやってくる。
丁寧に湯通しされ、ぬめりを落としてから出汁で煮含められた米粒は、決してドロドロに煮崩れておらず、舌の上で心地よい輪郭を保っていた。
噛む。プチッ、と微かな抵抗とともに米が弾け、中から香ばしい穀物の滋養が溢れ出す。
極め付きは、舌の脇を心地よく刺激する、真紅の叩き梅だった。
角の立ったキツい塩気はない。純米酒と煮切りみりんで優しく塩抜きされた紀州南高梅の、まろやかでフルーティーな酸味。
その酸味が、弱りきってパサついていた口腔内に、じゅわりと温かな唾液を呼び戻す。
さらに、奥から追いかけてくる高知県産黄金生姜の、ピリリとした清涼なアロマ。
ゴクリ。
嚥下した瞬間、宗一郎の喉仏が大きく上下した。
熱い塊が、食道を滑り降り、痛みの震源地であるみぞおちへと到達する。
その刹那――。
(……あ、あ……)
宗一郎の背筋を、強烈な弛緩の波が駆け抜けた。
染み渡る。
生姜の熱が、冷え切っていた胃壁の毛細血管を瞬時に押し広げていく。
そして、大豆の良質なタンパク質と出汁のゼラチン質が、胃酸でただれて真っ赤に鬱血していたはずの胃の内壁を、まるで温かい包帯のように優しく、優しく包み込んでいく。
激痛が、消えていく。
鉄の爪でみぞおちを内側から抉られていたようなあの焼けつく痛みが、熱い雑炊の温もりに溶かされるように、すうっと引いていくのだ。
二口目。
宗一郎の右手は、もはや自分の意思ではコントロールできなかった。
ステッキを床に倒したことも気に留めず、老人は再びレンゲを小鉢の底へと滑り込ませた。
ズッ……。
ズズッ……。
静まり返った応接室に、老人が雑炊を啜る音だけが響く。
作法など構っていられなかった。
飢えと痛みに蝕まれていた六十二歳の肉体が、細胞の一つ一つから「もっと寄こせ」と狂ったように叫び声を上げていた。
生湯葉の滑らかさ。玄米の優しい歯ごたえ。梅の爽快な酸味。生姜の温もり。
噛むごとに、啜るごとに、張り詰めていた神経が解きほぐされていく。
怒号を上げるために怒らせていた肩の筋肉がすとんと落ち、眉間の深い溝がわずかに緩む。
「……父さん……?」
横で見ていた創が、信じられないものを見るように目を見張り、掠れた声を漏らした。
無理もなかった。
幼少期から今まで、創はこの父親が他人の作った料理に対して見せる態度は、二種類しか知らなかったのだ。
「不味い」と突き返すか、あるいは「栄養補給だ」と事務的に無言で喉へ流し込むか。
その絶対君主が、今、息子の妻が出した一杯の雑炊を前に、まるで砂漠で水を見つけた遭難者のように、一心不乱にレンゲを動かし続けているのだから。
あっという間に、最初の小鉢が空になった。
宗一郎がレンゲを止め、空になった器を見つめた瞬間――。
「どうぞ、お義父様。まだまだたくさんございますよ」
栞がスッと前に進み出た。
宗一郎が催促するよりも早く、何食わぬ顔で空の小鉢を受け取ると、テーブルの上の土鍋から、再び湯気立つ雑炊をたっぷりとよそってみせる。
生湯葉を崩さぬようにふわりとすくい上げ、天盛りには新しく叩いた梅肉と、刻みたての三つ葉をあしらう。
「はい、熱いうちにどうぞ」
コト、と差し出された二杯目。
宗一郎は言葉を発しなかった。
礼を言うことも、文句をつけることもなく、ただ震える手で再びレンゲを握り直すと、二杯目の出汁の海へと吸い込まれるように顔を近づけた。
三杯目。
最後には、土鍋の底に残っていた出汁の最後の一滴、米粒の一粒、湯葉の欠片に至るまで、宗一郎自らがレンゲですくい取り、綺麗に口の中へと運び去った。
カチャリ。
レンゲが空の土鍋の底に触れる、澄んだ陶器の音が響いた。
「…………」
応接室に、完全な静寂が戻ってきた。
テーブルの上には、水滴一つ残さず綺麗に空っぽになった土鍋と、小鉢。
大人が二人前は優に食べられる分量だったはずの雑炊が、わずか十分足らずの間に、すべて宗一郎の胃袋へと収まっていた。
宗一郎の額には、びっしりと玉のような汗が浮かんでいた。
だが、それは先ほどまでの苦悶と苛立ちによる冷や汗では断じてなかった。
生姜の薬効と、温かな出汁の滋養によって、身体の芯から押し出されてきた、極めて健康的で瑞々しい汗だった。
土気色に沈んでいた頬には、ほんのりと桜色の血色が差し、乾ききっていた唇は潤いを取り戻している。
ふうぅぅぅぅぅぅぅ……。
宗一郎は持っていたレンゲを静かに置くと、ソファの背もたれに、どさりと深く体重を預けた。
そして、天井を仰ぎながら、肺の中の空気をすべて吐き出すかのような、果てしなく長い息を吐いた。
その姿は――。
財界を牛耳る冷酷な絶対君主などではなかった。
長年の重圧と親族間の醜い争いに疲れ果て、誰にも弱音を吐けずに孤独の中で胃を痛め続けていた、ただの一人の老人の姿だった。
「……父さん」
創が、恐る恐る口を開いた。
その声は震えていた。怒りを恐れているのではない。目の前で起きた「奇跡」のような光景に対する、底知れぬ動揺のせいだった。
「体調は……大丈夫ですか」
宗一郎はすぐに答えなかった。
天井を見つめたまま、数秒間、自らの身体の内側の感覚を確かめるように、静かに目を閉じていた。
そして、ゆっくりとまぶたを開けると、左手で自らのみぞおちのあたりを、さするような手つきでそっと撫でた。
「…………消えた」
ぽつりと、掠れたダミ声が落ちた。
「何が、ですか?」
「胸焼けだ」
宗一郎は視線を下ろし、空になった土鍋を見つめた。
その瞳の奥には、先ほどまでの獲物を引き裂くような猛禽の険しさはなく、どこか呆然とした、狐につままれたような光が宿っていた。
「ここ数ヶ月……水を含んだだけでも、喉が焼けるように痛んでいた。毎晩、胃酸がせり上がり、眠ることもできんかった。……医者の出す薬をどれだけ飲んでも、ただ胃の感覚が麻痺するだけで、不快感が消えることはなかったというのに」
宗一郎は自らの右手を握りしめ、それから深く息を吸い込んだ。
肺の奥まで、痛むことなく空気が入っていく。
「……温かい。腹の底が、風呂に入った時のように温かい。痛みが……どこにもない」
宗一郎は独白するように呟くと、自嘲するように口元をわずかに歪めた。
「……最近、まともな飯を食っていなかったからな」
それは、神崎家の絶対君主が決して人前で見せることのなかった、「弱さ」の吐露だった。
一代で会社を大きくする過程で、宗一郎は常に敵に囲まれて生きてきた。
妻には早くに先立たれ、親族たちは遺産と権力に群がり、役員たちは失脚の隙を窺う。
誰が出した食事にも毒を疑い、高級料亭の会席料理ですら腹の探り合いの道具でしかなく、自宅に戻っても出迎えの言葉すらない冷え切った屋敷。
いつしか食事は「ただ生き永らえるための燃料」となり、味など感じることもなくなっていたのだ。
そんな老いた身体に、今日、目の前の小娘が差し出してきたのは――。
権力への媚びでも、遺産目当ての機嫌取りでもない。
ただ、「お腹が痛いなら、温かいものを食べて治しなさい」という、極めて純粋で、何の打算もない、人間としての温もりそのものだった。
宗一郎はゆっくりと上体を起こした。
そして、ソファの対面に座る創へと、鋭い視線を向けた。
ビクリと創の肩が跳ねる。
だが、宗一郎の口から飛び出したのは、叱責でも怒号でもなかった。
「……創」
「は、はい」
宗一郎は短く息を吐き、創を一瞥すると、吐き捨てるように、だが確かな実感を込めて言い放った。
「創、お前には……勿体ない嫁だな」
「…………っ!?」
創の呼吸が止まった。
目が点になり、口が半開きのまま固まる。
勿体ない嫁。
あの神崎宗一郎が。
他人の功績を認めることなど生涯で一度もなく、息子の創に対しても「甘い」「無能だ」「机上の空論だ」と罵倒し続けてきたあの独裁者が。
政略結婚の身代わりとして連れてきたはずの妻を前にして、「お前には勿体ない」と、明確に息子を格下に置く評価を下したのだ。
創の衝撃を余所に、栞はといえば、いつものマイペースを崩すことなど微塵もなかった。
エプロンのポケットから清潔な麻の布巾を取り出し、テーブルの上に飛び散ったわずかな出汁の雫をキュッキュと手際よく拭き上げている。
「お口に合って何よりです、お義父様」
栞は満面の笑みで顔を上げると、お盆の上から、小さめの湯呑みを宗一郎の前へとことりと差し出した。
湯呑みから立ち上っているのは、お茶の香りではない。
ただの、澄み切った湯気。
「胃が痛む時は、冷たいお水や刺激の強い緑茶、コーヒーは絶対に避けてくださいね。胃酸が薄まりすぎて消化不良を起こしますし、カフェインが胃壁を直接刺激してしまいますから。……食後は、この人肌より少し温かい白湯をゆっくり召し上がってください。内臓が冷えずに済みますよ」
「……白湯、だと?」
宗一郎は湯呑みを見つめた。
ただの白湯。何の飾り気もない、ただの湯。
だが、その温度は、熱すぎて火傷することもなく、ぬるすぎて不快に感じることもない、完璧な適温に調整されていた。
宗一郎は無言で湯呑みを手に取った。
指先に伝わる柔らかな温もり。
口に含むと、温かな水分が、雑炊で満たされた胃の腑へと優しく滑り落ちていく。
「…………」
宗一郎の顔から、最後の強張りが消え去った。
三十年間、神崎グループの頂点に君臨し続け、誰も崩すことのできなかった「鉄の眉間」の深い溝が、ふっと、春の雪解けのように緩んだ瞬間だった。
「……ふん」
宗一郎は湯呑みをソーサーに戻すと、床に倒れていた黒檀のステッキを拾い上げた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「創」
「は、はい!」
創も慌てて立ち上がった。
「北米ファンドの件……修正案で進めろ。契約条項の詰めについては、貴様の好きにやれ。責任はすべて貴様が取れ」
「……! はい、承知いたしました!」
創は深く頭を下げた。
あれほど社内を揺るがし、宗一郎が怒鳴り込んできた最大の要因だった買収案件の決済が、あっさりと下りたのだ。
宗一郎はステッキを突いて扉へと歩みを進めた。
そして、部屋を出る直前、扉のノブに手をかけたところで、足を止めた。
振り返りはしなかった。
だが、背中越しに、低く、ぼそりと呟くような声が響いた。
「……また、腹が痛くなったら寄る。その時は、あの雑炊を作れ」
それだけ言い残すと、宗一郎はステッキの音をコツ、コツと響かせながら、玄関ホールへと去っていった。
やがて、外の車寄せから、センチュリーの重厚なエンジン音が立ち上がり、遠ざかっていく音が聞こえてきた。
嵐が、去った。
屋敷の空気が、ふわりと元の穏やかな秋の静寂へと戻っていく。
しかし――応接室の中に取り残された創は、扉の前で棒立ちになったまま、ピクリとも動けずにいた。
「…………」
視線を落とす。
ガラステーブルの上には、空っぽになった土鍋と、綺麗に飲み干された白湯の湯呑み。
そして、その傍らで――。
「ふうっ、良かった! 全部召し上がっていただけて! やっぱり日光の生湯葉は胃に優しいわよね〜」
栞が嬉しそうにお盆に器をまとめ、エプロンの紐を直しながら、鼻歌交じりに笑っていた。
あの神崎宗一郎を。
政財界の誰もが恐れ、自分自身が生涯にわたって恐怖し続けてきたあの絶対君主を。
この女は、わずか一杯の土鍋雑炊と白湯だけで、完膚なきまでに骨抜きにして退散させてしまったのだ。
(……何なんだ、この人は……)
創の背筋を、武者震いにも似た強烈な戦慄が駆け抜けた。
理解の範疇を完全に超えている。
自分の妻でありながら、自分には計り知れない世界を、あまりにも軽やかに、あまりにも強大に生きている。
そして創は、激しい衝撃の奥底で、胸が締め付けられるような痛烈な事実を再確認せずにはいられなかった。
この女は、強い。
神崎家の権力も、宗一郎の怒号も、莫大な富も、彼女の前では何の脅威にもならず、何の餌にもならない。
彼女は誰の助けも必要としていないのだ。
誰の庇護も求めず、自分の手で居場所を作り、自分の手で敵を無力化し、自分の幸せを自分で掴み取っていく。
そんな彼女が――あと十ヶ月余りで、この屋敷から去っていく。
(手放せるわけが、ないだろう……)
空になった土鍋を見つめながら、創は拳を白くなるほど強く握りしめた。
喉の奥から込み上げてくる熱い感情が、創の理性を焼き尽くそうとしていた。




