【第23話】解けた結界。創が初めて見た「本当の家族の気配」
神崎邸の分厚い玄関扉が閉まり、遠ざかるセンチュリーの排気音が完全に途絶えた後も、屋敷の中には張り詰めた余韻が微かに漂っていた。
しかし、それは先ほどまでの凍りつくような殺気ではなかった。
長年、この屋敷の土台に深く染み付いていた「神崎家の家憲」という名の見えない結界に、小さな、だが決定的な風穴が穿たれた後の――どこか気の抜けたような、静謐な沈黙だった。
カチャ、コト。
応接室のガラステーブルの上で、陶器の触れ合う軽やかな音が響いた。
「よしっ、と」
間宮栞は手際よく空の土鍋に蓋をし、宗一郎が綺麗に平らげた有田焼の小鉢とレンゲ、そして空になった白湯の湯呑みを黒漆のお盆の上へまとめ上げた。
若草色の麻エプロンをキュッと正し、両手でお盆を持ち上げる。
その足取りは、先ほど絶対君主の前に立っていた時と何一つ変わらず、まるで春の陽だまりを散歩するかのように軽やかだった。
応接室を出て、一階の廊下を通り、厨房へと向かう。
パタ、パタ、とルームスリッパの柔らかな音が、静まり返った廊下に心地よいリズムを刻む。
創は――無言のまま、吸い寄せられるようにその小さな背中の後を追っていた。
なぜついていくのか、自分でも分かっていなかった。
執務室に戻って書類を片付けるべきだった。あるいは、北米ファンドの修正契約の最終確認を進めるべきだった。
だが、創の足は、まるで磁石に引き寄せられる鉄片のように、彼女の歩く方向へしか動かなかった。
ガラガラ、と引き戸が開き、午後の柔らかな光が満ちる厨房へ入る。
栞はお盆をステンレスの作業台の上に置くと、手際よく袖を肘の上までまくり上げた。
シンクの蛇口を捻る。
ジャーッ、と勢いよく流れ出したぬるま湯の音が、広大な厨房の静寂を優しく満たしていった。
「…………」
創は、厨房の入り口の壁に肩を預け、腕を組んだまま立ち尽くしていた。
蛇口から立ち上る微かな湯気。
スポンジに天然ヤシ油の洗剤を含ませ、泡立てる栞の手元。
そして――何事もなかったかのように鼻歌交じりで食器を洗い始める、その華奢な背中。
どれほどの時間、そうして立ち尽くしていただろうか。
やがて、創の喉の奥から、乾いた、掠れた呟きがぽつりと零れ落ちた。
「……あんな父の姿、初めて見た」
独白のような、誰に聞かせるでもない呟きだった。
しかし、水の流れる音の合間を縫って、その言葉は確かに栞の耳へと届いた。
栞は手を止めず、小鉢を泡で包み込みながら、肩越しにふわりと振り返った。
琥珀色の瞳をわずかに細め、穏やかな笑みを浮かべる。
「そうですか? 普通のおじいちゃんでしたよ。ちょっと怒りっぽくて、頑固で、意地っ張りなところはありますけれど」
「普通、だと……?」
創は自嘲気味に口元を歪め、力なく首を振った。
「普通なものか。……あの人は、神崎宗一郎だぞ。政財界を牛耳り、数千人の社員の生殺与奪の権を握る男だ。逆らう者は身内であっても容赦なく切り捨て、情けなど一度も見せたことがない。……俺の知る父は、常に完璧で、冷酷で、人間らしい感情など持ち合わせていない怪物だった」
創の声音には、二十八年間の人生で積み重なった、暗く深い澱が滲み出ていた。
創は壁から背を離し、ゆっくりとアイランドキッチンのカウンターへと歩み寄った。
スツールを引くこともなく、ステンレスの天板に両手をつき、伏し目がちに自らの過去を手繰り寄せる。
「俺が物心ついた頃から……あの人は、父ではなく『神崎グループの最高権力者』だった」
低い、吐露のような声だった。
「幼少期の記憶にあるのは、試験の点数が満点でなければ容赦なく机ごと叩き落とされた記憶と、親族が集まる席で『神崎の後継者として恥ずかしくない振る舞いをしろ』と叱責された記憶だけだ。泣くことは許されず、弱音を吐けば『出来損ない』と切り捨てられた。……母が病気で亡くなった日すら、父は葬儀の合間に役員たちと別室で合併交渉の電話をしていた男だ」
創の指先が、ステンレスの冷たい表面を強く握りしめる。白く鬱血する関節。
「この屋敷の食卓で、誰かと笑い合いながら食事をした記憶など、俺には一度もない。……食事とは、倒れずに仕事を続けるための燃料補給に過ぎなかった。父と同じテーブルに着けば、喉を通るのは説教と罵倒ばかりで、胃が引き攣って味がしたことなどなかった。……だから俺は、感情を殺したんだ。父のような冷徹な機械にならなければ、この家では生き残れなかったからだ」
それが、神崎創という男の骨格だった。
「鋼の計算機」と恐れられ、他人に無関心で、契約の枠組みでしか人と関わることができなかったエリート専務。
その冷徹な仮面の裏側にあったのは、幼少期から一度として温もりを与えられず、ただ恐怖と規律の檻の中で震え続けていた、孤独な少年の成れの果てだったのだ。
創は自嘲するように小さく息を吐いた。
「そんな男が……息子の嫁が出した一杯の雑炊を前に、無我夢中でレンゲを動かし、額に汗をかいて『胸焼けが消えた』などと漏らす姿なんて……想像したことすら、なかった」
語り終えた創の横顔は、大企業の重役のそれではなく、失われた過去の輪郭を茫然と見つめる子供のように脆く、痛々しかった。
水が、ジャーッとシンクの底を叩く。
栞は泡のついた小鉢をぬるま湯ですすぎ、水切りカゴへと丁寧に伏せた。
キュッ、と蛇口をひねり、水の流れを止める。
厨房に、静かな静寂が戻ってきた。
栞はシンクの脇にあった清潔な晒しの布巾で両手を拭き、それからゆっくりと創の方へと向き直った。
その表情には、同情の色も、哀れみの色も微塵もなかった。
ただ、春の陽だまりのような、どこまでも柔らかく、フラットな大人の眼差し。
「創様」
栞はカウンター越しに創を見つめ、クスリと小さく笑った。
「難しく考えすぎですよ」
「……何?」
「どんなに偉い大企業の会長さんだって、政財界のフィクサーだって……お腹が空いて、胃が痛ければ、誰だって心細いものなんですよ」
当たり前のことを確認するような、あまりにもあっけらかんとした口調だった。
「みぞおちが焼けつくように痛くて、水すら喉を通らなくて、でも弱音を吐いたら舐められるから、無理やり声を張り上げて怒鳴り散らす。……そんなの、虚勢を張っているただの寂しい病人じゃないですか。お父様だって、人間なんですから」
「人間……」
創はその言葉を、生まれて初めて耳にする異国の単語であるかのように反復した。
「そうです、ただの人間です」
栞はエプロンのポケットから別の乾いた布巾を取り出し、まだ温もりを残している萬古焼の土鍋の蓋を、愛おしそうに撫でるように拭き始めた。
「陶器の土鍋ってね、洗剤を使ってはいけないんですよ。土の気泡が洗剤を吸い込んでしまって、次にお料理を作る時に匂いが移ってしまいますから。ぬるま湯と柔らかい綿の布だけで、優しく、時間をかけて汚れを落としてあげるんです。……そうするとね、土鍋はずっとその優しさに応えて、何十年も美味しいご飯を炊き続けてくれるんです」
栞は土鍋を乾いた棚の上に据えると、創の目を真っ直ぐに見据えた。
「人間も、それと同じだと思うんです。怒鳴り声や厳しい規律でいくら締め上げたって、心の中の胃壁がただれてボロボロになるだけです。……お父様はきっと、これまで誰からも『お腹、痛いでしょう?』って心配してもらったことがなかったんじゃないかしら。みんなが『神崎グループの会長』として恐れおののいて、腫れ物に触るように距離を置くばかりで。誰も、お腹を空かせた一人の人間として、温かい雑炊を差し出してくれなかったんですよ」
「…………」
「だから、怒鳴り散らすことでしか、自分の居場所を守れなかったんじゃないですか? 可哀想な人ですよ、本当は」
栞の言葉が、創の胸の奥深くに、じんわりと温かな雫となって染み渡っていく。
可哀想な人。
父・宗一郎を、そんな言葉で表現した人間など、創のこれまでの人生で誰一人として存在しなかった。
親族は恐れ、役員は媚びへつらい、創自身は憎しみと恐怖の対象としてしか見ることができなかったあの絶対君主。
その怪物を、この少女は――ただの「お腹を空かせて胃を痛めた、寂しいおじいさん」として、あっさりとその懐に飛び込み、温かな出汁の海で包み込んでしまったのだ。
前世の記憶が、栞の脳裏を過る。
前世の自分は、宗一郎の怒声に縮こまり、過呼吸を起こして倒れた。
『神崎家の嫁として認めてもらわなければ』『夫の顔に泥を塗ってはいけない』と、自ら進んで彼らの作った高い壁の前に平伏し、勝手に絶望して命をすり潰した。
だが、今世で恋愛感情という色眼鏡を叩き割り、「一年限定の同居人」として自立した今、見えてきた景色はまるで違っていた。
神崎家の権威も、血統の重圧も、冷徹な家憲も――すべては、人間が勝手に作り出したハリボテの幻想に過ぎなかったのだ。
どんなに冷酷に見える人間であっても、皮膚の下には赤い血が流れ、腹が減れば胃酸が出て、温かい出汁を口に含めば顔が綻ぶ。
ただ、それだけのこと。
そして――。
創の心の中で、二十八年間にわたり彼を縛り付け、窒息させ続けていた「神崎家という巨大な呪縛」が、音を立ててガラガラと崩れ落ちていく感覚があった。
(……そうか)
創は自らの胸のあたりを、右手のひらで強く押さえた。
トクン、トクン、と力強く打つ心臓の鼓動。
胃の奥にあった、あの鉛のような冷たい塊が、跡形もなく消え失せていた。
恐れる必要など、最初からなかったのだ。
完璧な機械になる必要も、感情を殺して誰かを支配する必要もなかった。
ここにいる彼女のように――美味しいものを美味しいと感じ、相手の痛みに気づき、温かい食事を差し出し、自分の機嫌を自分で取って生きること。
それこそが、この冷え切った屋敷に、そして創の荒れ果てた人生に決定的に欠けていた「本当の生活」の息吹だったのだ。
「……栞さん」
創の口から、低く、震えるような声が漏れた。
熱い感情が、胸の奥底から津波のように込み上げてきて、喉を詰まらせる。
「……ありがとう」
それは、大企業の専務としての儀礼的な言葉ではなかった。
一人の人間として、二十八年間の暗闇から救い出された男の、魂の底からの感謝だった。
「君のおかげで……父を、初めて許せたような気がする。そして……この家が、ただの檻ではないのだと……思えるようになった」
創の瞳には、熱い光が宿っていた。
迷いのない、真っ直ぐな視線。
その視線に射抜かれた瞬間、栞の心臓が、なぜかトクンと不規則な音を立てて小さく跳ねた。
(……え?)
栞は瞬きを二度、三度と繰り返した。
目の前に立つ男の顔。
いつもなら冷徹な氷のポーカーフェイスを張り巡らせているはずの創の瞳が、見たこともないほど柔らかく、そして――火傷しそうなほどの熱を帯びて、自分だけを見つめている。
その熱量の重さに、栞の防衛本能がチリンと微かな警告音を鳴らした。
(あ、危ない危ない……! 何よ今の空気感! まるで本当に心を通わせ合った夫婦みたいじゃないの!)
前世のトラウマが、瞬時に栞の理性のブレーキを踏み抜いた。
勘違いしてはいけない。
期待してはいけない。
相手はたまたま父親との確執が和らいで感極まっているだけだ。
ここで「妻としての情愛」などという危険な甘い沼に足を踏み入れれば、前世と同じく、再び自分の心をすり減らす地獄へと逆戻りしてしまう。
自分は一年後に三億円を受け取って、海辺でカフェを開く「ビジネスライクな同居人」。その一線を踏み越えることは、プロとして絶対に許されない。
栞はスウッと息を吸い込むと、瞬時に「完璧な営業スマイル」を顔に貼り直した。
口角を五ミリ上げ、パチンと手を叩いてみせる。
「いいえ、神崎様! お礼なんてとんでもございません!」
鈴を転がすような、どこまでもカラリとした、涼やかな声。
「『神崎邸における共同生活ガイドライン』にも明記いたしました通り、対外的な公務――すなわち、家長であるお義父様へのご挨拶と適切なご対応は、同居人としての正当な業務範囲内でございます。お義父様のご機嫌が直り、北米ファンドの案件も無事に決裁が下りたのであれば、私としても責務を果たせて何よりでございます!」
「…………」
創の表情が、ピシリと固まった。
栞はさらに追い討ちをかけるように、眩しいほどの笑顔で頭を下げた。
「実家の佐竹堂への融資保証もこれで安泰ですし、一年後の満了日には、何の後腐れもなく予定通り三億円の解決金をいただけるわけですから! 私にとっても、これ以上ないほど実利のあるお仕事でした。ですからどうぞ、お気遣いなさらないでくださいね!」
完璧な線引き。
感謝の言葉すらも、すべて「業務の対価」と「実利」の枠組みの中へと綺麗さっぱり押し戻してしまう、鉄壁のドライさ。
「……業務、か」
創の口から、掠れた吐息が漏れた。
胸の奥で、またしてもピューと冷たい木枯らしが吹き抜けていく。
どれだけ心を震わせても、どれだけ魂を剥き出しにしても、彼女はいつも、あの笑顔の防弾ガラスの向こう側へと軽やかに身を翻してしまうのだ。
だが――。
今日の創は、以前のようにただ絶望して引き下がるだけではなかった。
布巾を畳み、満足そうに「さて、夕飯のお買い物リストを作らなくちゃ」と鼻歌を歌い始める栞の横顔。
その白いうなじ、楽しげに揺れる黒髪の毛先を、創はじっと見つめ続けた。
(業務でも、契約でも……何でもいい)
創の瞳の奥で、静かな、だが決して消えることのない執着の炎が、青く燃え上がっていた。
(君がこの家を救った。君が、俺を救ってくれたんだ。……それを『ただの同居人』で終わらせてたまるものか)
彼女の視線が、まだ自分を捉えていなくても構わない。
彼女が三億円と自由しか見ていなくても構わない。
まだ、時間はある。
この屋敷で、同じ空気を吸い、同じ食事の匂いを分かち合える時間が、あと三百数十日も残されているのだから――。
創の視線は、もはや契約相手を見る冷たいビジネスマンのそれではなく、手に入れたくてたまらない至宝を見つめる、一人の熱い男の瞳へと完全に変貌していた。
* * *
宗一郎の電撃来襲を乗り越え、神崎邸の日常は再び、穏やかな秋の平穏へと戻ったかに見えた。
創の仕事は順調そのもので、北米ファンドとの買収合意は社内外で絶賛され、創の社内での発言力は不動のものとなった。
栞もまた、ハウスキーパーの絹代と共に神崎家の特上食材ルートを存分に使い倒し、旬の秋鮭や栗を使った絶品料理を堪能しながら、サンルームでのご機嫌な読書ライフを満喫していた。
――しかし。
平穏とは、常に嵐の前に訪れるもの。
数日後の、抜けるような青空が広がった土曜日の午前中。
創が自室の書斎で、少しでも妻の気配を感じようと窓を開けて仕事をしていた、その時だった。
階下のテラスの方角から――。
秋風に乗って、楽しげで、親密極まりない、男女の笑い声が届いてきた。
『あはは、航さん! このハーブの剪定、ここの角度で合ってます?』
『栞さん、筋がいいですね。ハサミの入れ方が、もう完全にプロの職人ですよ』
カシャリ、と小気味よく響く剪定鋏の音。
そして――妻の、自分には一度も見せたことのない、あまりにも無防備で、屈託のない満面の笑顔。
ペンを握っていた創の指先が、ピキリと音を立てて止まった。
神崎創の心を、理屈も契約もすべて焼き尽くすほどの、ドス黒く熱い「新たな火種」が、秋の庭園で静かに炸裂しようとしていた。




