【第24話】テラスの笑い声。若き庭師・航への嫉妬
抜けるような秋の青空が広がる、十月最後の土曜日の午前十時。
都内の一等地に広がる神崎邸の敷地には、柔らかく暖かな木漏れ日が降り注ぎ、街の喧騒から隔絶された静寂が満ちていた。
神崎邸二階、北西の角に位置する創の個人書斎。
普段の創であれば、土曜の午前中など本社ビルの役員室で週明けの稟議書に目を通しているか、丸の内のホテルラウンジで機関投資家と面談を重ねているのが常だった。休日に自宅で過ごすなど、仕事中毒の彼にとっては時間の浪費以外の何物でもなかったはずだ。
しかし、先週の金曜日に「妙に家に早く帰りたくなる」と副社長の成瀬に吐露して以来、創の行動パターンは目に見えて狂い始めていた。
(……これは、効率的な在宅ワークだ。移動時間を削減し、自宅の静寂を利用して戦略構想を練っているに過ぎない)
誰に言い訳をするでもなく心の中で呟きながら、創はマホガニーの重厚なデスクに向かい、開かれたノートパソコンのキーボードに指を置いていた。
だが、その思考は、画面に並ぶ欧州市場の金利動向など一文字たりとも捉えていなかった。
なぜ、会社に行かず屋敷にいるのか。
理由は明白だった。
階下に、あの女がいるからだ。
先日の日曜日、父・宗一郎が突然乗り込んできたあの修羅場。
一代で財界に君臨した冷酷無比な怪物を、たった一杯の「生湯葉と叩き梅の雑炊」で骨抜きにし、胃痛を消し去って笑顔で退散させてしまった妻・間宮栞。
あの事件以来、創の胸の奥底で燻っていた感情は、単なる「同居人への興味」などという生易しい枠組みを完全に踏み越えていた。
彼女の笑顔が見たい。
彼女が作り出す、あの温かで息のしやすい空間の気配を、少しでも近くで感じていたい――。
だからこそ、創はあえて書斎の大きな上げ下げ窓を、握り拳二つ分ほど開け放っていた。
庭を抜けてくる爽やかな秋風とともに、階下のサンルームから漂ってくるはずの、微かな生活音や珈琲の香りを期待して。
――その時だった。
「あはははっ! ちょっと航さん、それ本気で言ってます!?」
からりと澄み渡る、鈴を転がすような笑い声。
秋風に乗って二階の窓から飛び込んできたその声に、創の指先がキーボードの上でピキリと凍りついた。
(……栞さん?)
創の眉がぴくりと跳ね上がった。
聞き間違いではない。紛れもなく、間宮栞の声だった。
だが、その声のトーンが、創の知る彼女のそれとは決定的に異なっていた。
自分と話す時の、あの礼儀正しく、一分の隙もなく整えられた、防弾ガラス越しの「営業用スマイル」の声ではない。
腹の底から楽しそうに喉を鳴らし、何の計算も遠慮もなく、弾けるように笑い転げる――あまりにも無防備で、自然体な少女の笑い声。
そして、その直後に聞こえてきたのは、低く落ち着いた、聞き覚えのある若い男の声だった。
「本当ですよ。うちの親父、その剪定バサミを失くしたと思って庭中を三日三晩探し回った挙句、自分の軽トラのダッシュボードから見つけて、恥ずかしさのあまり弟子全員に高級焼肉を奢る羽目になったんですから」
「ふふっ、職人さんって皆さんどこかお茶目で可愛いですよね! あ、航さん、このハーブの剪定、ここの角度で合ってます?」
「どれですか? ……ああ、バッチリです。栞さん、筋がいいですね。ハサミの入れ方が、もう完全にプロの職人ですよ」
カシャリ、カシャリ。
小気味よく響く剪定鋏の金属音。
二人の間に流れる、驚くほど親密で、テンポの良い会話。
「…………」
創は無言のまま、椅子の背もたれから身体を起こした。
キーボードを打つ手は完全に止まり、心臓がトクン、トクンと、不穏な早鐘を打ち始めている。
(航……?)
誰だ。
この屋敷に「航」などという男が出入りしていたか?
思考を巡らせる。
先日の記憶が、急速に引き戻された。
――早川航。
神崎邸の日本庭園の維持管理を任されている、若き専属庭師。
父・宗一郎ですら「あいつの鋏の入れ方だけは迷いがない」と腕前を認めている、無口で頑固な植木職人の跡取り息子。
なぜ、あの男がここにいる?
庭の定例手入れは先週終わったはずではないのか。
創は椅子を静かに引くと、吸い寄せられるように窓辺へと歩み寄った。
白いレースのカーテンを、指先でわずかに数センチだけ押し広げる。
書斎の窓から見下ろす先――一階の南東、陽だまりに包まれた客間のプライベートテラスの光景が、創の網膜へと飛び込んできた。
その瞬間、創の呼吸が、喉の奥で詰まった。
「…………っ」
テラスの石畳の上に、二つの人影が並んでしゃがみ込んでいた。
一人は、間宮栞。
今日の彼女は、ダボダボのネイビーのオーバーオールに、生成りの長袖カットソーという作業着姿だった。
黒髪は頭の高い位置で無造作にお団子にまとめられ、首元には汗拭き用のタオルが巻かれている。両手には泥のついた軍手をはめ、小さな移植ゴテを握りしめていた。
日差しを浴びた白い陶器のような頬には、うっかり触ってしまったのか、一筋の黒い土が可愛らしくついていた。
そして、そのすぐ隣。
肩が触れ合いそうなほどの至近距離にしゃがみ込んでいたのが、早川航だった。
使い込まれた藍染めの作業着に身を包み、黒い手拭いを頭に巻いた精悍な横顔。
無駄な脂肪のない引き締まった腕をまくり上げ、逞しい日焼けした両手で、素焼きの大鉢をしっかりと支えている。
二人の間には、見事な苗木が置かれていた。
艶やかな濃緑の葉を茂らせ、青々とした小さな実をいくつもつけた、背丈ほどもある立派な木。
「これ、本当にトゲが少ないんですね! 葉っぱを少し擦っただけで、こんなに爽やかなレモンの香りがする……!」
栞が愛おしそうに苗木の葉先に触れ、自分の指先の匂いを嗅いで目を輝かせる。
すると、普段は滅多に愛想笑いすら見せないはずのあの無口な庭師が――航が、ふっと少年のように目元を緩め、白い歯を覗かせて笑ったのだ。
「言ったでしょう? 約束通り、無農薬で皮まで料理に使えるリスボンレモンの一番いい株を見つけてきました。根の張りも完璧です。日当たりのいいこのテラスの隅なら、初夏には白い花が咲いて、冬には鮮やかな黄色い実が鈴なりになりますよ」
「約束、覚えててくださったんですね……! 嬉しい! これで自家製のレモンピールや、レモンパウンドケーキが作れます!」
「ええ。完成したら、ぜひ俺にも一口味見させてください。……栞さんの作るお菓子なら、親父の頑固な舌も一発で唸らせられますから」
「ふふっ、任せてください! 最高の一品を焼いてみせますから!」
二人は顔を見合わせ、声を揃えて笑い合った。
栞が移植ゴテで腐葉土をすくい、航が支える鉢の中へと手際よく流し込んでいく。
息の合った、阿吽の呼吸。
土の匂い、爽やかなレモンの薫香、そして二人の間に漂う、春の陽だまりのような温かな連帯感。
その光景を、二階の窓辺から見下ろしていた創の視界が、急速に歪んでいった。
(…………なんなんだ、あれは)
ドクン、ドクン、ドクン。
胸の奥底で、重く鈍い脈動が打ち鳴らされる。
それは、ビジネスの危機で感じる緊張感などではなかった。
熱い。
喉の奥が焼けるように熱く、そして――ドス黒いヘドロのような感情が、五臓六腑を急速に満たしていく。
嫉妬。
理屈も、矜持も、契約の縛りすらもすべて焼き尽くすほどの、剥き出しの独占欲。
(……あいつは、あんな顔で笑うのか?)
創の爪先が、無意識のうちに床を踏みしめていた。
握りしめたレースカーテンの布地が、ミシミシと悲鳴を上げる。
自分に見せる栞の顔は、いつだって完璧だった。
『おはようございます、神崎様』
『お口に合って何よりです、神崎様』
『同居人としての業務範囲内でございますので、どうぞご安心ください』
非の打ち所のない笑顔。優しく、穏やかで、だが絶対に一線を越えさせない、分厚い防弾ガラスの向こう側の微笑み。
それなのに。
階下の庭師の前で見せているあの顔は何だ。
頬に泥をつけ、大声で笑い、肩を寄せ合い、対等な職人仲間のように目を輝かせている。
『航さん』。
親しげに、何の躊躇もなく、男の名前を呼んでいる。
自分に対しては、どれだけ歩み寄ろうとしても、頑なに『神崎様』という他人行儀な記号でしか呼ぼうとしないくせに。
しかも、何だあの男は。
神崎家の庭を手入れする出入りの職人に過ぎない分際で、なぜ雇い主の妻とあんな親密そうに土をいじっている?
レモンの苗木を持参しただと?
約束を覚えていただと?
お菓子の味見をさせろだと?
(……誰の許可を得て、俺の敷地で、俺の妻と馴れ合っている……!)
理性が吹き飛んでいた。
頭の片隅では、冷静沈着なエリート専務の理性が必死にブレーキを踏もうとしていた。
――落ち着け、創。
――彼女とは、一年間の契約結婚だ。
――プライベートへの不干渉は、お前自身がサインした条項ではないか。
――庭師と趣味の園芸を楽しんでいるだけだ。そこに何のやましい感情もあるはずがない。
だが、そんな正論など、今の創には一滴の気休めにもならなかった。
関係ない。
契約だろうが、形式だろうが、関係ない。
あの笑顔を、あの生き生きとした瞳を、自分以外の男に向けているという現実そのものが、創の自尊心を、そして一人の男としての本能を、耐え難い屈辱と焦燥で引き裂いていた。
階下では、植え替えが終わったのか、航が立ち上がり、テラスの水道からジョウロに水を汲んでいた。
そして、栞の足元にしゃがみ直すと、栞の手元を覗き込みながら、優しげな声音で声をかけている。
「栞さん、指先、少し赤くなってますよ。土の冷たさで冷えたんじゃないですか?」
「あ、本当だ。夢中になりすぎちゃいましたね」
「無理は禁物です。水やりは俺がやっておきますから、栞さんは中で手を洗って温めてきてください」
「ふふっ、ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて、お礼に熱いほうじ茶を淹れてきますね!」
栞が立ち上がり、エプロンをパパッと払ってサンルームの中へと入っていく。
航がジョウロを持ち上げ、青々としたレモンの苗木に、たっぷりと澄んだ水を注ぎかける。
どこまでも爽やかで、どこまでも美しい、秋の昼下がりの情景。
――ブツン。
創の頭蓋骨の奥で、最後の理性の糸が、音を立てて千切れ飛んだ。
「…………っ」
創はレースカーテンを乱暴に放り出すと、踵を返した。
デスクの上のノートパソコンをバタンと叩きつけるように閉じ、部屋着のグレーのスウェットの袖をまくり上げる。
スリッパの音を荒々しく響かせながら、書斎の重厚なドアを押し開けた。
階段を駆け下りる。
一階の廊下を、足早に進む。
心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰しているかのように熱い。
今すぐあのテラスへ乗り込み、あの庭師を屋敷から叩き出してやる。
「神崎家の敷地で勝手な真似をするな」「妻に気安く触れるな」と、エリート専務の権力を振りかざして一喝してやる――。
足は、一直線にサンルームへと向かっていた。
ガラガラッ――と、勢いよく客間の引き戸を開ける。
部屋の中には、テラスから吹き込む柔らかな秋風と、リネンカーテンのさざめき。
奥のキッチンの方から、コトコトとお湯の沸く微かな音が聞こえてくる。栞はお茶の準備をしている最中なのだろう。
そして、開け放たれたテラスのガラス戸の向こう側には、背中を向けてジョウロを片付けている早川航の姿があった。
創はテラスへの敷居を跨ごうと、右足を一歩踏み出した。
――その、瞬間だった。
(…………っ!?)
創の爪先が、テラスの冷たい石畳に触れる直前で、ピタリと、まるで目に見えない壁に衝突したかのように静止した。
冷たい風が、創の額を撫でる。
その冷気が、沸騰していた創の脳髄に、残酷なまでの「現実」を突きつけた。
『神崎邸における共同生活ガイドライン 策定日:十月十五日』
『第二条:プライベートおよび交友関係への完全不干渉』
『本契約に基づく婚姻期間は、満一年とする。期間満了時、両名は異議なく円満に協議離婚の届出を行うものとする』
吉高晶子の、あの冷徹な声が脳裏に蘇る。
『彼女はね――あなたに、何一つ要求していないわよ』
『約束の期日が来たら、綺麗にあなたの前から立ち去るための準備を進めているだけよ』
(……俺は、何をしている?)
創の全身から、カッと血の気が引いていった。
乗り込んで、何を言うつもりだったのか。
「妻に近づくな」と?
どの口が言えるというのか。
自分は彼女にとって、愛する夫でも何でもない。
ただの、祖父の遺言をクリアするために彼女を買い取った、一年限定のビジネスパートナーに過ぎないのだ。
彼女は自分の機嫌を自分で取り、自分の手で居場所を作り、出入りの職人と良好な関係を築いて、健康的で豊かな時間を過ごしているだけだ。
そこに、何の落ち度があるというのか。
何の権利があって、契約上の夫に過ぎない自分が、彼女の交友関係に土足で踏み込み、理不尽な嫉妬を撒き散らすことができるというのか。
もし、ここで醜い嫉妬を露わにして怒鳴り散らせばどうなるか。
彼女は怯えるのではない。
きっと、あの冷ややかな、防弾ガラス越しの瞳で自分を見つめ返し、こう言うに決まっている。
――『神崎様。ガイドライン第2条の契約違反でございます。不快ですので、お引き取りください』と。
(……くそっ)
創は踏み出した足を、ゆっくりと、情けなく引き戻した。
テラスのガラス戸の陰、部屋の内側の薄暗がりに身を隠す。
出られない。
一歩を踏み出す権利すら、自分にはない。
テラスでは、片付けを終えた航が立ち上がり、ちょうどキッチンからお盆を持って戻ってきた栞と、再び笑顔を交わしていた。
「航さん、お待たせしました。熱いほうじ茶と、佐竹堂の栗羊羹です」
「ありがとうございます、栞さん。いただきます」
ガーデンテーブルを挟んで、湯気を立てるお茶を啜り、和やかに談笑する二人。
創は、サンルームの壁に背中を押し当て、薄暗がりの中から、その光景をただ遠巻きに睨みつけることしかできなかった。
拳を強く握りしめる。
爪が手のひらに食い込み、痛烈な痛みが走る。
惨めだった。
何百億の商談を動かすエリート専務が、休日の昼下がりに、自分の家の壁の陰に隠れて、妻と庭師の談笑を盗み見ながら、無様に歯を食いしばっているのだ。
(誰が……諦めるものか)
暗がりの中、創の切れ長の瞳に、ドス黒く熱い炎が燃え盛っていた。
契約の壁があるなら、壊せばいい。
ビジネスの防弾ガラスがあるなら、砕けばいい。
彼女のあの笑顔を、あの無防備な体温を、自分以外の誰かに向けさせることなど――絶対に、許せない。
やがて、三十回ほど茶を啜った後、航は丁寧に一礼してテラスを後にした。
ジャッ、ジャッ、と砂利を踏みしめる足音が遠ざかり、庭に再び静寂が戻る。
* * *
その日の夜、午後八時。
神崎邸の一階リビングには、夕食を終えた後の静かで穏やかな空気が流れていた。
栞は入浴を済ませ、柔らかなルームウェアに身を包んで、ソファの上で雑誌をめくっていた。
テーブルの上には、冷たい麦茶のグラス。
今日も一日、自分の手で美味しいものを食べ、庭を整え、完全に自分の機嫌を取って過ごした完璧な休日だった。
そこへ――。
カツ、カツ、と固い足音が近づいてきた。
部屋着のスウェットから、なぜかパリッとしたワイシャツとスラックスに着替えた創が、リビングへと入ってきたのだ。
「あ、神崎様。お仕事、終わられたんですか?」
栞は何気なく顔を上げ、いつもの爽やかな笑顔を向けた。
しかし、創の様子は、どこか尋常ではなかった。
視線を泳がせ、喉仏を上下させ、やけにぎこちない足取りでローテーブルの前まで歩み寄ってくると――。
「……コホン」
大袈裟な、ひどく不自然な咳払いを一つ、リビングの静寂に響かせた。
そして、ポケットに両手を突っ込んだまま、伏し目がちに、だが逃げ場のないほど低い声で、ぽつりとこう切り出したのだ。
「……栞さん」
「はい?」
「……来週の金曜、夜の予定を空けておいてくれないか」
唐突な誘い。
小首をかしげる栞の瞳に、創の硬直した横顔が映っていた。




