【第25話】不器用な誘い。「夫としての体裁」という名のデート
秋の夜気を含んだ静寂が、神崎邸の広大なリビングを満たしていた。
間宮栞は、カッシーナのローソファの上で開いていたインテリア雑誌のページから顔を上げ、琥珀色の瞳をぱちくりと瞬かせた。
目の前に立っているのは、契約上の夫であり、この豪邸の若き主である神崎創。
しかし、その姿は普段の怜悧で隙のないエリート専務の佇まいとは、どこか決定的に異なっていた。
土曜日の夜だというのに、先ほどまで着ていたはずの部屋着のスウェットから、なぜか糊のきいた真っ白なワイシャツと上質なチャコールグレーのスラックスに着替え直している。
ネクタイこそ締めていないものの、第一ボタンまできっちりと留められた襟元は息苦しそうであり、何より、普段なら何百人もの役員を前にして微動だにしない長身が、ローテーブルの端で居心地悪そうに重心を右へ左へと揺らしていた。
ポケットに突っ込まれた両手は、中で固く握りしめられているのか、薄手のスラックスの生地越しに不自然な角を立てている。
「……あの、神崎様?」
栞は小首を傾げ、テーブルの上の冷たい麦茶のグラスへと視線を促した。
「来週の金曜の夜、ですか? 何か、神崎家の大切な親族会や、お祝い事でも入っているのでしょうか」
「い、いや。親族会ではない」
創は喉仏を一度大きく上下させ、ぎこちなく視線を天井のダウンライトへと逸らした。
耳の付け根が、微かに赤く上気している。
創の脳裏では、今朝のテラスの光景が、いまだに鮮烈な残像となってチリチリと胸を焼き焦がしていた。
――あはははっ! ちょっと航さん、それ本気で言ってます!?
――約束通り、無農薬で皮まで料理に使えるリスボンレモンの一番いい株を見つけてきました。
若い庭師・早川航と肩を寄せ合い、頬に泥をつけ、何の計算も遠慮もなく満面の笑みを弾けさせていた栞の姿。
自分に対しては一度として向けられたことのない、あの無防備極まりない笑顔。
そして、その光景を前に、契約の壁に阻まれてテラスへ一歩すら踏み出せず、壁の陰から惨めに盗み見るしかなかった自分自身の無力さ。
耐えられるはずがなかった。
彼女の視界の中に、自分という男の居場所がないという事実。
彼女が他の男と親しげに笑い合い、楽しそうに未来のカフェの話をしているという現実。
理屈ではない。大企業の経営者としてのプライドも、契約結婚の建前も、すべてをかなぐり捨ててでも、彼女の時間を、彼女の意識を、自分だけに向けさせたいという狂おしいほどの独占欲が、創の胸の奥で暴れ回っていた。
だが――それをそのまま口にできるほど、神崎創は器用な男ではなかった。
『昼間の庭師との仲睦まじい姿に嫉妬したから、俺と二人きりで外食をしてほしい』などと、天地が引っくり返っても言えるはずがない。
結果として、エリート専務の頭脳が必死にひねり出したのは、あまりにも見え透いた、だが彼にとっては唯一の防壁となる「ビジネスの口実」だった。
「……外食だ」
創は低く、わざと事務的な響きを込めた声で言った。
「神崎グループの重要取引先である、大手不動産デベロッパーの専務理事がな。先月、銀座に完全会員制のフレンチレストランをオープンさせたんだ。先方から、ぜひ夫婦で顔を出してほしいと、以前から強い招待を受けていてな」
「まあ、フレンチですか」
「ああ。日頃の取引関係を考えれば、無下には断れない案件だ。……それに、我が社が新体制へ移行し、俺が専務としての地歩を固める上で、新婚の妻を同伴して対外的な『体裁』を整えることは、極めて合理的な業務の一環と言える。君の都合さえ良ければ……妻としての体裁を保つため、同行してほしいんだが」
創は言い終えると、まるで重大な買収提案の回答を待つかのように、息を詰めて栞の顔色を窺った。
体裁。
業務。
取引先への義理。
本当は、取引先の専務理事など関係ない。そのレストランのオーナーが創の知人であることは事実だが、予約は創が今日の夕方、個人的に無理を言ってねじ込んだものだった。
ただ、彼女を銀座の最高級グランメゾンへ連れ出し、美味い料理を食べさせ、夜景を見せ、自分という男の隣に立たせたかった。
それだけのことが、この男の口を通ると、なぜか堅苦しい社内稟議のような言葉に変換されてしまうのだ。
対面に座る栞は、数秒の間、目を丸くして創を見つめていた。
そして――。
「なるほど!」
ポン、と栞の両手が軽やかな音を立てて合わさった。
その顔に広がったのは、創が密かに恐れていたような戸惑いや不快感ではなく、極めて明快で、淀みの一切ない「納得の笑み」だった。
「承知いたしました、神崎様! 公正証書第4条に定められております、『対外的な公務および神崎グループの信用維持に伴う配偶者としての義務遂行』ですね!」
「……は?」
創の眉が、ピクリと痙攣した。
栞は雑誌をパタンと閉じ、背筋をピンと伸ばしてソファの上に正座し直した。
その瞳は、まるで優秀な秘書が新しいプロジェクトのブリーフィングを受けるかのように、知的なやる気に満ち溢れていた。
「おっしゃる通りでございます。傾きかけた和菓子屋の娘とはいえ、形式上は神崎ホールディングス専務の妻として籍を置かせていただいている身。取引先の重要なお席で、神崎様のお立場に泥を塗るようなことがあっては、佐竹堂への融資保証にも、一年後の三億円の解決金にも響いてまいりますものね!」
「あ、いや……三億円のことは、今ここで持ち出さなくても……」
「いいえ、大事なことです! ビジネスにおいて、対価に見合う義務を果たすのは社会人として当然の責務でございます!」
栞はテーブルの上のノートを広げ、ボールペンを構えて創を見上げた。
「金曜日の夜ですね。お相手の専務理事様のお名前と、その企業名、過去の神崎グループとの資本関係の概要を伺ってもよろしいでしょうか? それと、お相手のご家族構成や、会話における地雷となるNGトピックなどがあれば、事前に頭に叩き込んでおきます。ドレスコードはブラックタイですか? それともスマートエレガンスでしょうか?」
「…………」
創は、完全に言葉を失った。
違う。
そうじゃない。
事前ブリーフィングなど求めていない。相手の企業の資本関係など暗記しなくていい。NGトピックなど存在しない。
ただ、金曜の夜に、二人で美味しいフレンチを食べて、ワインを飲んで、笑い合いたいだけなのだ。
だが、栞の脳内では、完全に「3億円の報酬に見合う公務の遂行」として処理されていた。
前世の記憶を持つ栞にとって、夫からの外食の誘いなどという甘いシチュエーションは、警戒すべきトラップ以外の何物でもない。
前世の自分なら、「夫が私をデートに誘ってくれた!」と舞い上がり、数日前から肌の手入れをし、空回りして緊張し、結局テーブルマナーで恥をかいて落ち込んでいただろう。
しかし、今の栞は違う。
愛を求めない。期待もしない。
与えられた役割を完璧にこなすことこそが、一年後の円満退去と自由への切符を最も確実に手に入れる道なのだ。
(神崎様も大変ね。政略結婚の相手を連れて取引先の接待に行かなきゃいけないなんて。でも大丈夫、私、失礼のない完璧なトロフィーワイフを演じきってみせるわ!)
一人で勝手に完璧な納得を完成させ、満足そうに頷く栞。
その姿を見下ろしながら、創は心の中で、両手で頭を抱えて激しく呻いていた。
(……なぜだ。なぜ、こうなる……)
成瀬の言葉が、耳の奥で嘲笑うように響く。
『お前が体裁のいい理屈を並べ立てるから、相手もビジネスとして受け取るんだよ』
分かっている。分かってはいるのだ。
だが、「ただ君と飯が食いたい」の一言が、喉の奥に張り付いてどうしても出てこないのだからどうしようもない。
「……あ、あのな、栞さん」
創は掠れた声で、必死に軌道修正を試みた。
「相手の企業分析などは、必要ない。当日はただ、席に座って、食事を楽しんでくれればそれでいいんだ」
「えっ? でも、お相手の方から何かご質問をされた際に、無知を晒して神崎様の品格を疑われては困りますし……」
「構わないと言っている。君はただ、隣で笑っていればいい」
創は息を吸い込み、できる限り声音を柔らかく整えて告げた。
「それと……衣装についてだが、君が何かを用意する必要はない。明後日の火曜日、日本橋の老舗百貨店の外商部と、メゾン専属のスタイリストをこの屋敷に手配してある。当日のドレス、靴、バッグ、アクセサリーに至るまで、すべて君の好みのものを仕立てさせる。……費用はすべて、俺の個人口座から決済させるから、君の持ち出しは一切ない」
「ええっ!? 外商部を呼ぶんですか!?」
栞は目を丸くした。
さすがは大財閥の御曹司である。やることがいちいち規格外だ。
「そこまでしていただかなくても、手持ちのフォーマルなワンピースで十分ですが……」
「駄目だ。神崎家の妻として……いや、俺の連れ合いとして行く以上、最高のものを用意させろ。これは……俺の我儘だ」
最後の一言を、創はほとんど聞き取れないほどの小声で呟いた。
だが、栞は「なるほど、神崎家の見栄ですね!」とあっけらかんと笑い、ノートにメモを走らせた。
「分かりました! 公務の経費として、ありがたくお受けいたしますね。神崎様のお隣に立って恥ずかしくないよう、しっかりと着飾らせていただきます!」
「……ああ。頼む」
力なく頷き、創は自室へと引き上げていった。
その背中は、商談を勝ち取った勝者というよりは、高度な交渉の末に本質をすべて見失った敗残兵のように、哀愁を漂わせていた。
* * *
そして、迎えた金曜日の夕暮れ。
午後六時半。
神崎邸の車寄せには、今夜のために手配された漆黒のメルセデス・マイバッハが、静かにアイドリング音を響かせて待機していた。
玄関ホールの大理石の上で、神崎創は腕時計の文字盤を見つめながら、落ち着きなく革靴の爪先を鳴らしていた。
今夜の創は、完璧なフォーマル仕様だった。
最高級のブラックタキシードクロスで仕立てられた、濃紺のディナースーツ。ピークドラペルには上品なシルクの光沢が走り、胸元には純白のリネンチーフ。首元には細身のボウタイが寸分の狂いもなく結ばれている。
だが、その彫刻のように美しい顔立ちは、緊張のあまりわずかに強張っていた。
(……どんなドレスを選んだんだ)
火曜日の外商部のフィッティングには、創は同席しなかった。
自分が立ち会えば、彼女が気を遣って本当に好きなものを選べないのではないかという、彼なりの不器用な配慮だった。
絹代にだけ様子を聞いたところ、『若奥様は大変楽しそうに、ご自身の目に叶う最高の一着をお選びになられましたよ』と、意味深な笑顔で返されただけだった。
カツ、カツ、カツ……。
吹き抜けの階段の上から、高いヒールが硬質なステップを踏みしめる、澄んだ音が響いてきた。
「創様」
背後から、絹代の穏やかな声が掛かる。
創はハッと息を呑み、ゆっくりと振り返った。
そして――。
「…………っっ!?」
神崎創の呼吸が、完全に停止した。
二階へと続く優美なカーブを描く階段。
その絨毯を踏みしめながら、ゆっくりと降りてきた人物の姿を目にした瞬間、創の網膜に焼き付いていた世界の色彩が、一瞬にして塗り替えられた。
そこにいたのは、創の知る「割烹着姿の栞」でも、「オーバーオールで土をいじっていた栞」でもなかった。
身に纏っていたのは、深い夜の海を思わせる、ミッドナイトブルーの上質なシルクシフォンのロングドレス。
過度な露出は一切ない。デコルテのラインは鎖骨を美しく見せる上品なボートネックに仕立てられ、手首まで伸びる繊細なフランス製レースの長袖が、奥ゆかしい気品を漂わせている。
だが、ウエストから裾へと流れるドレープのシルエットは、歩くたびに波のように優雅に揺らめき、彼女の細く引き締まった身体のラインを、息を呑むほどしなやかに描き出していた。
艶やかな黒髪は、後頭部でゆるやかに編み込まれ、一分の乱れもないシニヨンにまとめられている。
白いうなじには、一粒の最高品質のミキモト真珠のネックレス。
普段はすっぴんに近いナチュラルメイクの顔立ちには、プロの手によって繊細な陰影が施され、陶器のように白い肌の上に、ほんのりとローズ色のチークが差していた。
そして、桜色の唇には、控えめながらも艶やかなルージュ。
華美に飾り立てた派手さはない。
だが、そこにあったのは――老舗の格式と、自立した女性の凛とした精神性が生み出す、圧倒的な「本物の美しさ」だった。
「お待たせいたしました、神崎様」
階段を降り切った栞が、ドレスの裾をそっと持ち上げ、膝をわずかに折って優雅なカーテシーを披露した。
その琥珀色の瞳が、少しだけ悪戯っぽく細められる。
「外商部の方とスタイリストさんが、神崎家のお隣に立つならこの一着が最も格式高いとお勧めしてくださいまして。……いかがでしょうか? 神崎様のお連れ合いとして、お恥ずかしくない装いになっておりますでしょうか」
「…………」
創は、声が出なかった。
喉の奥が、熱い砂を呑み込んだようにカラカラに乾いていた。
心臓が、肋骨を内側から突き破らんばかりの勢いで激しく警鐘を乱打している。
視線を逸らすことができない。
階段を降りてきたその瞬間から、創のすべての神経は、目の前の女性の放つ圧倒的な輝きに、完全に束縛されていた。
美しい。
ただ、ひたすらに、息が止まるほどに美しい。
前世の記憶を辿っても、こんな彼女の姿は一度として見たことがなかった。
前世の栞は、常に創の顔色を窺い、親族の目を恐れ、縮こまるように地味なスーツを着ていた。
だが、今の彼女は違う。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、自らの足で堂々と立ち、世界中の誰に対しても臆することのない、誇り高き光をその全身から放っているのだ。
「……創様? もしや、お気に召しませんでしたか……?」
創が微動だにせず立ち尽くしているのを見て、栞がわずかに不安そうに眉を寄せた。
その声にハッと我に返った創は、激しく視線を泳がせ、咳払いを一つ落とした。
「い、いや……!」
声がわずかに上ずりそうになるのを、必死の理性で抑え込む。
「……素晴らしい。とても……よく似合っている」
「本当ですか? 良かった!」
栞の顔に、いつもの屈託のない満面の笑顔がパッと咲いた。
ドレスアップしてなお、その笑顔の温かさは何一つ変わらない。その落差に、創の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「さあ、創様、若奥様。お車がお待ちでございますよ。どうぞ、素敵な夜をお過ごしくださいませ」
見送りに立った絹代が、目元を細めて満足げに一礼した。
「ああ。……行こう、栞さん」
創は歩み寄り、マイバッハの後部座席のドアへと手を伸ばした。
そして――。
車に乗り込もうとする栞に向かって、創は自らの右腕を、すっと差し出した。
「足元が危ない。……掴まってくれ」
「あ、ありがとうございます」
栞の、レースの手袋に包まれた柔らかな指先が、創の腕の上にそっと重ねられた。
その瞬間。
(…………っ!)
創の腕の筋肉が、カッと熱くなった。
指先が微かに震える。
至近距離から漂ってくる、百合と柑橘を合わせたような、栞の上品で微かな香水の匂い。
触れ合う腕の温もり。
すべてが、創の自制心を狂わせる劇薬だった。
エスコートする自分の手が震えていることを悟られまいと、創は必死に奥歯を噛み締めながら、彼女を車内へと導いた。
バフン、と重厚なドアが閉まる。
マイバッハは滑るように夜の都心へと走り出した。
窓の外を流れる、首都高速の眩いネオンの光。
車内を満たす上質な静寂の中、並んで座る二人の距離は、いつもよりずっと近かった。
創は何度もネクタイに手をやりそうになるのを堪え、窓の外を眺める栞の美しい横顔を、盗み見ずにはいられなかった。
やがて車は、銀座の並木通りの路地裏へと滑り込んだ。
喧騒を逃れた一角に佇む、看板すら掲げられていない重厚な石造りのエントランス。
知る人ぞ知る、完全会員制のフレンチグランメゾン『ル・シエル・エトワレ』。
車を降り、創のエスコートで石段を上がる。
真鍮の取っ手がついた重厚な樫の木の扉を、黒服のギャルソンが音もなく押し開けた。
その先――。
天井高く輝く豪奢なクリスタルのシャンデリアの光が、二人を眩いばかりに包み込んだ。
フロアに漂うのは、芳醇なバターとトリュフ、そして最高級の熟成肉が織りなす、極上の香気。
「いらっしゃいませ、神崎専務。奥様。……お席へご案内いたします」
恭しく頭を下げる支配人の先、メインダイニングの奥まった特等席へと、二人は足を踏み入れた。
不器用な男が仕組んだ、「体裁」という名の初めてのデート。
その幕が、煌びやかな光の中で、静かに切って落とされた。




