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【第26話】高級グランメゾンの夜。「うちの土鍋の方が落ち着きます」

銀座六丁目の喧騒を一本入った路地裏。看板すら掲げられていない重厚な石造りのエントランスを抜けると、そこは都会の喧騒が嘘のように吸い込まれた静寂の別世界だった。


完全会員制フレンチグランメゾン『ル・シエル・エトワレ』。

天井高五メートルの優雅なドーム型天井からは、幾重にも連なるオーストリア製クリスタルガラスのシャンデリアが眩い光の雫を降らせている。

磨き抜かれた寄木細工の床には上質なペルシャ絨毯が敷かれ、テーブルの間隔は贅沢なほど広く取られている。微かに流れるクラシックのピアノの調べと、磨き抜かれたクリストフルの銀製カトラリーが擦れ合う微かな金属音。


支配人に案内されたのは、フロアの最奥に位置する、柔らかなドレープカーテンで仕切られた半個室の特等席だった。

窓の外には、銀座の夜景が一望できるプライベートテラス。

テーブルの中央には、今朝摘まれたばかりの真紅のベルベットローズが一輪、バカラの花瓶に凛と挿されていた。


「……先方の専務理事だがな」


純白の麻のテーブルクロスを挟んで栞の対面に腰を下ろした神崎創は、ディナースーツの胸元をわずかに正しながら、不自然なほど滑らかな咳払いを一つ落とした。


「急な案件が入ったらしく、乾杯には同席できなくなったと先ほど連絡があった。中盤に少しだけ顔を出して挨拶を交わす程度になるとのことだ。……だから、それまでは気にせず、料理を楽しんでくれて構わない」


見え透いた嘘だった。

そもそも取引先の専務理事など最初から来る予定はない。創がオーナーに無理を言い、「妻と二人きりで静かに食事をしたい」と貸し切りのような形で押さえた席だったのだ。

だが、そんな創の内心の焦りなど、栞の耳には一ミリも届いていなかった。


「まあ、そうなんですね。お忙しいお立場ですもの、お仕事が最優先なのは当然でございます」


栞はミッドナイトブルーのシルクシフォンドレスの裾を優美に整え、ふわりと穏やかに微笑んだ。

背筋は美しく伸び、テーブルの上に置かれた両手は自然に重ねられている。

緊張して縮こまる様子も、過剰に着飾った空間に気圧される様子もない。老舗和菓子舗「佐竹堂」の令嬢として、幼少期から格式ある席に同席してきた確かな育ちの良さと、一度命を落としてすべてを吹っ切った者特有の、揺るぎない落ち着きが全身に漂っていた。


「それでは、お言葉に甘えまして……プロの技を存分に勉強させていただきますね、神崎様」


「……あ、ああ。勉強というか、ただ味わってくれればいいんだが」


創は視線を泳がせながら、ソムリエが差し出したシャンパーニュのフルートグラスに手を伸ばした。

立ち上る、星の瞬きのように繊細な黄金色の気泡。

グラスを軽く合わせる。チリン、と澄み渡るクリスタルの乾杯の音が、二人の間に響いた。


「喜んでくれるだろうか」


創の胸の奥で、エリート専務らしからぬ落ち着きのない問いがぐるぐると渦を巻いていた。

世の女性たちが憧れる、予約半年前の最高級フレンチのフルコース。

きらびやかなシャンデリア、最高級の食材、贅を尽くしたサービス。

これほどの非日常を用意すれば、あの鉄壁の防弾ガラスのような笑顔を崩し、少しは自分という男に対して特別な感情を抱いてくれるのではないか――。

何百億の商談をまとめる男が、まるで初めて好きな女子をデートに誘った中学生のように、喉を鳴らしながら妻の表情を盗み見ていた。


だが、運ばれてきた一皿目から、栞の反応は創の想定の斜め上を軽やかに突き抜けていった。


「――最初の一皿でございます。『ランド産フォアグラのポワレ 秋トリュフの薫香とブラックベリーのコンディマン』」


恭しく銀のクロッシュが開けられた瞬間、濃密な香気がテーブルの上に弾け飛んだ。

温められたベルナルドの漆黒の磁器皿の上に鎮座していたのは、見事な狐色に焼き上げられた大ぶりのフォアグラだった。

周囲を取り囲むのは、黒トリュフを贅沢に削り落とした濃厚なマデラ酒のソース・ペリグー。そして皿の縁には、真紅のブラックベリーをじっくりと煮詰めた艶やかなピューレが、優美な筆跡のように引かれている。


「どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」


ギャルソンが一礼して下がる。

創はフォークを手に取りながら、対面の栞の表情をじっと窺った。

フォアグラとトリュフ。世界最高峰の贅沢の代名詞だ。普通の令嬢なら「まあ、贅沢!」と歓声を上げ、スマートフォンを取り出して写真を撮りたがるところだろう。


しかし、栞の動きは違った。

栞はまず、銀のナイフとフォークを音もなく手に取ると、スッと背筋を正し、皿の上の構成をじっくりと見つめた。

そして、鼻先をわずかに近づけ、立ち上る湯気の香りを静かに吸い込んだのだ。


(……このトリュフの薫香、加熱の温度帯が完璧だわ)


栞の思考は、完全に「料理人・開発者モード」へとギアが入っていた。


ナイフを入れる。

サクッ、と極薄の表面のキャラメリゼが心地よい微音を立てる。

その瞬間、刃先は抵抗を一切失い、まるで極上のクレームブリュレに刃を入れるかのように、すっと中心部へと吸い込まれていった。

断面から滲み出る、黄金色に澄んだ上質な脂。

中心部は、淡いロゼ色を完璧に残している。


一口大に切り分けたフォアグラに、トリュフのソースと、ブラックベリーのピューレをわずかに纏わせ、口の中へと運ぶ。


「…………っ」


栞の細い眉が、ピクリと跳ね上がった。


咀嚼する以前に、舌の上でフォアグラが体温だけでフワリと溶け崩れた。

濃厚。圧倒的なまでのコクと旨味。

だが、決してしつこくない。

外側はカリリと香ばしく焼き締められているのに、内部は限界まで水分を保ったまま、とろけるようなスフレの食感を保っている。中心温度がおよそ五十五度前後に完璧にコントロールされている証拠だ。


そして、遅れてやってくるソースの深み。

子牛の骨と香味野菜を何十時間もかけて煮詰めたフォンドボーの力強い旨味に、マデラ酒の芳醇な甘み。

極め付きは、ブラックベリーのコンディマンだった。

鮮烈な果実の酸味が、フォアグラの濃厚な脂を瞬時に洗い流し、口の中に嫌な後味を一切残さない。


「……ふう」


栞はうっとりと息を吐き、ナプキンで口元をそっと押さえた。

対面に座る創が、身を乗り出すようにして尋ねてくる。


「……どうだ、栞さん。口に合うか?」


「はい、素晴らしいです!」


栞は琥珀色の瞳を爛々と輝かせ、熱っぽく語り始めた。


「フォンドボーの煮詰め方が本当に見事ですね! 雑味や焦げ臭さが一ミリもなくて、香味野菜の甘みが綺麗にフォアグラの臭みをマスキングしています。それに、このブラックベリーの酸味……単に酸っぱいだけではなくて、ほんのわずかにシナモンとバルサミコを効かせて火を入れてありますね。濃厚な脂に対して、このキレのある酸をぶつける設計思想……ものすごく勉強になります!」


「……べ、勉強?」


創の眉が微かに引き攣った。

ロマンチックな感想を期待していた創の耳に飛び込んできたのは、まるで調理師専門学校の優秀な講師による、完璧なデクスペクシオン(料理解体分析)だった。


「はい! このベリーの酸味の立たせ方、和菓子にも応用できますよ」

栞は目を輝かせたまま、熱心に手元を指さす。

「佐竹堂で秋に出す、濃厚な白餡を包んだ羽二重餅があるんですけれど、中に忍ばせる木苺のジュレの糖度と酸味のバランスを、このフォアグラのソースと同じ比率に調整すれば、口に入れた瞬間のキレが劇的に良くなるはずです。……あ、カフェを開いた時のランチメニューで出す、自家製ローストポークのタレにも使えそうですね!」


「…………」


創はフォークを持ったまま、呆然と固まった。


銀座の会員制グランメゾンで。

最高級のフォアグラを口にしながら。

彼女の頭の中にあるのは――実家の和菓子の改良と、一年後に海辺で開く予定のカフェのメニュー開発だけだった。


(……ブレない。どこまで行っても、この女はブレない……!)


創の胸の奥で、脱力感と、それ以上の猛烈な敬服が入り混じった吐息が漏れた。

富や格式に目を奪われて浮かれることなど、彼女には天地が引っくり返ってもあり得ないのだ。

彼女が見ているのは、常に「自分の足で立つ現実」であり、その中心にある「食という営み」だけ。


続いて運ばれてきたポワソン(魚料理)でも、栞の分析の鋭さは止まらなかった。


「――本日のお魚料理でございます。『玄界灘産天然真鯛のヴァプール 魚骨のフュメと甲殻類のクレームソース』」


ふっくらと蒸し上げられた肉厚の真鯛に、エメラルドグリーンのハーブオイルと、オレンジ色のアメリケーヌソースが美しく掛けられている。

一口運んだ栞は、目を細めて小さく頷いた。


「美味しい……。鯛の火入れのしっとり感が素晴らしいです。でも、何よりこのソース……ベースになっている魚の出汁(フュメ・ド・ポワソン)ですね。魚の頭と骨を、一度香味野菜と一緒に白ワインで強火で炒めてから煮出しています。うちで先日作った『真鯛のあら炊きご飯』は素焼きにしてから昆布水で煮出しましたけれど、フレンチの手法だと、バターと白ワインで酸味を立たせて旨味を乳化させるんですね。油分の抱き込ませ方が本当に見事です」


「……あ、ああ。そうだな。真鯛と言えば、あの夜のあら炊きご飯は本当に美味かった……」


創が思わず本音を漏らすと、栞は「ふふっ」と嬉しそうに笑った。


「神崎様、二杯も大盛りでおかわりしてくださいましたものね。あの時は少し生姜を多めに利かせましたけれど、フレンチのフェンネルやエストラゴンを使ったハーブの合わせ方も、魚の臭みを消すアプローチとしてすごく参考になります」


会話は終始、弾んでいた。

沈黙に凍りつくことなど一度もない。

栞は出された料理の温度、塩加減、ソースの乳化状態、付け合わせの根菜の切り方に至るまで、心底から楽しそうに、かつプロの視点で分析し、その知識を創と共有してくれた。


創は、ワイングラスを傾けながら、その生き生きとした横顔を見つめ続けた。

ミッドナイトブルーのドレスに包まれた華奢な肩。

シャンデリアの光を浴びて艶やかに輝く黒髪。

美味しそうに料理を頬張り、味の構造を解き明かすたびにパッと花が咲くように輝く琥珀色の瞳。


眩しかった。

銀座の一等地で、周囲の着飾った名士たちの中で、彼女は誰よりも気品に満ち、そして誰よりも地に足をつけて美しかった。

虚飾のブランドに身を委ねるのではなく、自分自身の確固たる審美眼で世界を咀嚼している。

そんな彼女の隣にいられることが、創にとってどれほど誇らしく、そして胸が痛むほど愛おしいか、言葉にすることすら恐ろしいほどだった。


そして――コースの頂点、ヴィアンド(肉料理)が運ばれてきた。


「――メインディッシュでございます。『フランス・シストロン産仔羊(アニョー・ド・レ)のロースト プロヴァンス風香草パン粉焼き タイムとジュ・ダニョーのソース』」


運ばれてきた瞬間、テラスのハーブ園を思わせる、鮮烈なタイムとローズマリーの香ばしい薫煙がテーブルを包み込んだ。

仔羊の骨付き背肉(カレ・ダニョー)。

表面には、細かく刻まれたフレッシュハーブとパルミジャーノ・レッジャーノを混ぜ込んだパン粉が、黄金色にカリリと焼き上げられている。

ナイフを入れると、内部は息を呑むほど艶やかな、完璧なルビー色。肉汁がジュワリと溢れ出し、肉本来のミルキーで甘やかな香りが立ち上る。


「……いただきます」


栞は端正な手つきで肉を切り分け、口に運んだ。

モグ、と咀嚼する。

柔らかい。乳飲み仔羊特有の、癖のないシルキーな肉質。

噛み締めるほどに溢れ出す甘い脂と、ハーブの爽快な刺激。仔羊の骨から取った濃厚なジュ(肉汁のソース)が、肉の旨味を何倍にも増幅させていく。


「……美味しい」


栞は目を閉じ、ゆっくりと味わった。

文句のつけようのない、三つ星グランメゾンの最高傑作。

世界中の美食家たちが賞賛する、完璧なディナーだった。


やがて、肉料理の皿が綺麗に空になり、ギャルソンが音もなくテーブルを清めた。

テーブルの上には、口直しの冷たいグラニテと、食後のハーブティーが置かれた。


「……ふう」


栞はグラスの水を一口含み、深く椅子の背もたれに身を預けた。

満足そうに細められた瞳。

胸元に手を当て、静かに息を吐き出す。


創は、テーブルを挟んで身を乗り出した。

デザートの前の、静謐な時間。

創の心臓は、今夜のクライマックスを迎えたかのように、激しく脈打っていた。


「……栞さん」


「はい、神崎様?」


「どうだっただろうか。……満足して、もらえただろうか」


創の声音には、隠しようのない緊張が滲んでいた。

料理の分析はたくさん聞いた。

だが、創が本当に聞きたかったのは、料理のスペックの評価ではない。

この空間で、自分と二人で過ごしたこの時間に、彼女の心が少しでも満たされたのか――という、一人の男としての切実な問いだった。


「君が普段、この屋敷で過ごしている日常とは違う……最高峰の空間を用意したつもりだ。もし、期待外れだったなら言ってくれ。次は別の店を――」


「いいえ、神崎様」


栞は創の言葉を遮り、ふわりと首を横に振った。


そして――。

創の真剣な瞳を真っ直ぐに見つめ返すと、いたずらっぽく、どこまでも愛らしく、小さく笑ったのだ。


「本当に、夢のように美味しかったです。一生の思い出になるくらい、素晴らしいお料理でした。……でもね」


栞はテーブルの上の白いティーカップを両手で包み込み、窓の外の銀座の夜景を見つめた。

そして、心からの、何の衒いもない本音を、ぽつりと零した。


「とても美味しいですけれど……やっぱり私は、うちの台所で炊く土鍋ご飯とお味噌汁の方が、落ち着きますね」


「…………っ」


ドクンッ!!


神崎創の心臓が、肋骨を内側から激しく蹴破るような衝撃とともに跳ね上がった。


うち。

今、彼女は確かにそう言った。


『うちの台所で炊く、土鍋ご飯とお味噌汁』


銀座の最高級フレンチではない。

何万個のクリスタルが輝くシャンデリアでも、贅を尽くしたフォアグラでもない。

彼女にとっての「一番落ち着く場所」として口から零れ落ちたのは――あの広大で、冷え切っていたはずの神崎邸の、あのステンレスのキッチンだった。

自分が深夜に帰宅し、彼女が割烹着を着て湯気を立て、二人で小鉢を突き合っていた、あのささやかな日常の食卓だったのだ。


「……うち、か」


創の口から、掠れた声が漏れた。

視界が、一瞬滲むほどに熱い感情が込み上げてくる。


創は、気づいてしまった。

痛烈なまでの衝撃とともに、自らの愚かさを悟ったのだ。


自分は、何を見せつけようとしていたのか。

銀座の高級フレンチ?

神崎家の財力?

着飾ったドレスと、上流階級の体裁?


そんなもの、彼女は最初から一ミリも求めていなかったのだ。

彼女の魂を揺さぶるのは、金で買える虚飾の贅沢ではない。

自分自身の手で丁寧に引き抜いた一番出汁の香り。

テラスで風に揺れるハーブの緑。

土鍋の蓋を開けた瞬間に立ち上る、真っ白な米粒の甘い湯気。

誰の顔色も窺わず、自分の機嫌を自分で取りながら丁寧に積み重ねる――あの、何気ない「穏やかな日常」そのものだったのだ。


そして、その日常の舞台であるあの屋敷を、彼女は無意識のうちに「うち」と呼んでくれた。

冷え切った檻だったはずのあの場所を、彼女はすでに、自分の愛する居場所へと作り変えてくれていたのだ。


「……そうだな」


創の口元に、自然と柔らかな笑みが零れ落ちた。

これまでの二十八年間の人生で、一度として浮かべたことのない、憑き物が落ちたような、心からの優しい笑顔。


「俺も……そう思う。君が炊いてくれた土鍋ご飯の方が、遥かに美味い」


「ふふっ、そうでしょう?」

栞は誇らしげに胸を張った。

「あそこの萬古焼の土鍋、火の回りが完璧ですからね! 帰ったらまた、美味しいお夜食を炊きましょうね、神崎様」


「……ああ。楽しみにしている」


テーブルを挟んで、二人の視線が重なり合った。

シャンデリアの眩い光の下。

ビジネスの防弾ガラスが、ほんの少しだけ、熱い湯気に触れて薄くなったような――そんな奇跡のような瞬間だった。


デザートの皿が運ばれ、甘い余韻とともに極上のディナーは幕を閉じた。

スマートに会計を済ませ、エスコートされて店を出る。


銀座の夜風が、二人の頬を心地よく撫でた。

車寄せに滑り込んできたマイバッハの後部座席へと乗り込む。


バフン、と重厚なドアが閉まり、車は再び夜の首都高速へと滑り出した。

窓の外を流れる、都会の無数のテールランプの光の帯。


静かな車内の中。

並んで座る二人の距離は――行きよりも、確実に、ほんの数センチだけ、近づいていた。

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