【第27話】銀座からの帰路。お金では買えないもの
銀座の街並みを抜け、汐留のランプから首都高速都心環状線へと滑り込んだメルセデス・マイバッハの車内は、外界の喧騒を完全に遮断した静寂に満たされていた。
滑らかな加速、路面の継ぎ目をほとんど感じさせないエアサスペンションの揺れ。最高峰の遮音ガラスに守られた後部座席には、低く唸るV型8気筒エンジンの微かな鼓動と、エアコンの吹き出し口から流れる心地よい温度の空気だけが存在していた。
窓の外を、東京の夜が流れていく。
環状線の高架を走る車の右手に現れたのは、闇の中に白く浮かび上がる浜離宮恩賜庭園の木立。そしてその先、林立する超高層ビルの窓の灯りが、幾何学模様の光の壁となって後方へと吸い込まれていく。オレンジ色のナトリウムランプと、前方を走る車の赤いテールランプの光の帯が、車内の本革シートの上を滑らかな残像となって掠め過ぎていった。
間宮栞は、深く沈み込むレザーシートに身を預け、窓ガラスに額を近づけるようにして外の景色を眺めていた。
ミッドナイトブルーのシルクシフォンドレスは、薄暗い車内の中で夜の海のような深い陰影を湛えている。耳元に光る小さな真珠が、首都高のライトを反射して時折小さく瞬いた。
フォアグラや仔羊のロースト、ワインの余韻が心地よい気だるさとなって全身を包んでいるのだろう。その横顔には、ディナーを終えた後の満ち足りた穏やかさと、旅先で車窓を眺める少女のような無防備な好奇心が宿っていた。
そのすぐ隣。
同じ後部座席の右側に座る神崎創は、仕立てのよいディナースーツの腕を組んだまま、微動だにできずにいた。
(……綺麗だ)
理性の奥底から湧き上がるその一言を、創は飲み込むことすらできずにいた。
車内の間接照明の柔らかな光に照らし出された栞の横顔。
陶器のように白い頬、すっと通った鼻梁、そして夜景の流れる光をその瞳の中に幾千の星屑のように宿している琥珀色の瞳。
先ほど、グランメゾンのテーブルで彼女が口にした言葉が、創の鼓膜の奥で今も熱い余韻となって響き続けていた。
『とても美味しいですけれど……やっぱり私は、うちの台所で炊く土鍋ご飯とお味噌汁の方が、落ち着きますね』
あの時、彼女は躊躇うことなく「うち」と言ったのだ。
政財界の重鎮たちが息を潜め、冷酷な家憲と親族の悪意だけが渦巻いていた、あの忌まわしい神崎邸を。
創自身が物心ついてから一度として安らぎを感じたことのなかったあの冷え切った屋敷を、彼女は自分の手で整え、風を通し、美味しい湯気を立てて、「うち」と呼んでくれた。
その事実が、創の胸の奥底をどれほど激しく揺さぶったか、言葉にすることすら恐ろしいほどだった。
彼女は自分に媚びるために言ったのではない。計算でも、お世辞でもない。ただの純粋な本音として、あの屋敷でのささやかな生活を愛してくれている。
だからこそ――創の胸の奥には、熱い歓喜と同時に、冷や汗が背筋を伝うような底知れぬ「焦燥感」が渦を巻き始めていた。
(……この人は、何も欲しがらない)
創は、膝の上で組んでいた指先を無意識に強く握りしめた。
今夜、彼女のために用意した最高級のオートクチュールドレス。
日本橋の老舗百貨店の外商部を屋敷に呼びつけ、メゾン専属のスタイリストに選ばせた至高の一着。
普通の女性であれば、その待遇に歓喜し、もっと高価な宝飾品や限定のバッグをねだり、神崎家の財力に甘えようとするところだ。創自身、これまで政略結婚の候補として見合いをしてきた令嬢たちの多くはそうだった。
だが、栞は違った。
彼女はドレスを着ることを「神崎家の体裁を保つための公務」として引き受け、食事の場ではグランメゾンの料理の技術を「今後の和菓子やカフェのメニュー開発のヒント」として冷静に分析し、最後には「うちの土鍋ご飯が一番」と笑ったのだ。
神崎家の金にも、地位にも、贅沢にも、彼女の魂は一ミリたりとも靡いていない。
その清廉潔白さが眩しく、誇らしいと同時に――創にとっては、どうしようもない絶望の足音に聞こえていた。
芝公園のあたりを通過する。
フロントガラスの向こう、夜空を突き刺すように朱色にライトアップされた東京タワーの巨大な骨組みが、圧倒的な迫力で迫り、そして後方へと流れていく。
その光が車内を赤く染め上げた瞬間、創は意を決して、静かに口を開いた。
「……栞さん」
低く、どこか緊張を孕んだ声が、静かな車内に落ちた。
栞がふわりと視線を窓の外から戻し、琥珀色の瞳を創へと向けた。
「はい、神崎様?」
首をわずかにかしげるその仕草すら、絵画のように優美だった。
創は喉の奥で息を整え、できる限り何気ない調子を装いながら言葉を継いだ。
「今夜のドレスは……気に入ってくれただろうか」
「はい、とても!」
栞はドレスの膝元にそっと手を添え、心からの笑顔を浮かべた。
「生地が驚くほど軽くて、締め付け感がまったくないのに、身体のラインをとても綺麗に見せてくださって。外商部の方もスタイリストさんも、本当にプロフェッショナルでした。……こんなに素晴らしいお洋服を着せていただいて、感謝しております」
「そうか。……なら、よかった」
創は短く頷いた。
そして、わずかな沈黙の後、胸の奥で燻っていた本題を切り出した。
「……宝石やドレス、他に欲しいものはないのか?」
「……え?」
栞の眉が、小さく動いた。
創は視線を逸らすことなく、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「神崎家のブラックカードを、入籍の日に渡してあるはずだ。限度額は実質無制限に設定してあるし、利用明細を俺が細かく詮索することもない。……だが、先月の明細を見ても、君が使ったのはスーパーでの調味料の買い足しや、テラスの花壇用の園芸資材、それに客間に置いた本やクッションの代金くらいだった」
創の声音には、不器用なもどかしさが滲み出ていた。
「他の名家の夫人や令嬢なら、外商部を呼んで数千万円のダイヤのネックレスを誂えたり、パリのオートクチュールを何着も買い揃えたりするのが当たり前だ。……神崎家の妻として、それくらいの贅沢をする権利は君にある。遠慮する必要はまったくないんだ。時計でも、バッグでも、外車でも……欲しいものがあるなら、何でも言ってくれ。すべて俺が用意する」
金を使ってほしい。
神崎家の財力を、自分という男の甲斐性を、彼女の望みのために使わせてほしい。
何か一つでもいい。金や物質で彼女を喜ばせ、彼女の日常に「神崎創が与えたもの」を刻み込みたい。
そうすることでしか、彼女との間に繋がりを作れないのではないかという、焦燥に駆られた男の哀願だった。
しかし――。
その創の熱を帯びた申し出を受け止めた栞は、困ったように眉を下げると、ふわりと、あまりにも柔らかく首を横に振った。
「神崎様。お気持ちはとても嬉しいですけれど……本当に、何もいらないんですよ」
「……遠慮しているのか? 契約結婚だからと、引け目を感じているなら――」
「いいえ、遠慮などではありません」
栞の声は、鈴の音のように澄み渡っていた。
嘘も、謙遜も、卑屈さの欠片もない。
「欲しいものは、もう十分にいただいていますから」
「……いただいている?」
創は怪訝そうに眉をひそめた。
自分は彼女に、まだ何も特別なものを与えていないはずだった。今夜のディナーと、このドレス一着を除いては。
栞は窓の外の流れる夜景へと再び視線を向け、慈しむように、一つ一つの言葉を紡ぎ始めた。
「ええ。……南向きの、陽だまりが心地よい静かなお部屋。プロの料理人でも羨むような、広々として何でも揃った使いやすいお台所。毎朝、美味しいお出汁の話で盛り上がれる、絹代さんという素敵な味方。テラスで風に揺れる、青々としたハーブたち……」
栞の瞳が、幸福そうに細められる。
「毎朝、鳥の声で目を覚まして、自分が『美味しい』と思えるご飯を炊いて、好きな本を読んで、誰の顔色も窺わずに深く息を吸うことができる。……そんな穏やかで満ち足りた日常を、私はこのお屋敷で、すでに山ほどいただいています」
そして、栞は創の方へと向き直った。
その瞳の奥には、濁りのない、純粋無垢な光が宿っていた。
「そして何より……一年後の、自由です」
「…………っ」
創の心臓が、冷たい氷で鷲掴みにされたように軋んだ。
「一年間、ミスのない同居人を務め上げた後にいただける、三億円の解決金と、何のしがらみもない自由な人生。……それこそが、私にとって何物にも代えがたい、最大の報酬です」
栞は膝の上で両手を上品に重ね、穏やかに微笑んだ。
「ですから、宝石も、高級なドレスも、ブランド物のバッグも、私には必要ありません。そんなもので着飾らなくても、私は今、十分に幸せですから。……これ以上何かを望むなんて、バチが当たってしまいます。身に余る贅沢ですよ」
身に余る。
彼女はそう言った。
何百億の資産を持つ神崎家の富を前にして。
無制限のブラックカードを目の前に差し出されて。
彼女が本当に価値を見出していたのは――静かな部屋と、使いやすいキッチンと、そして「一年後の完全な自立」だけだったのだ。
「…………」
創は、言葉を失った。
喉がカラカラに渇き、胸の奥底が引き裂かれるように痛んだ。
反論の言葉など、一つも浮かんでこなかった。
彼女の言葉は、あまりにも美しく、あまりにも正しく、そして――あまりにも残酷だった。
前世の記憶を持たない創には、知る由もないことだった。
前世の栞が、どれほど必死に「神崎家の妻」としての形を求め、どれほど必死に創の愛を乞い、その結果として自らの心と身体をすり潰していったかを。
高価な宝石も、格式あるドレスも、誰かの機嫌を取るための道具に過ぎなかった前世の苦しみ。
一度死んで、生き返った今の栞にとって、真の幸福とは「自分の足で立ち、自分の機嫌を自分で取る生活」の中にしかないのだということを。
だからこそ、彼女は揺るがない。
富や権力で彼女を釣ることはできない。
宝石の輝きで彼女の目を眩ませることもできない。
彼女の魂は、最初から神崎家の莫大な財産など歯牙にもかけていなかった。
彼女を縛り付けるための鎖は、この世界のどこを探しても存在しなかったのだ。
(買えない……)
創は拳を強く握りしめ、溢れそうになる絶望的な感情を必死に奥歯で噛み殺した。
(金でも、地位でも、名誉でも……この女の心を買うことは、絶対にできない……!)
これまで創は、ビジネスの世界で生きてきた。
数字を積み上げ、相手の望む条件を提示し、資本の力で相手を屈服させる。それが創の知る唯一の交渉術であり、世界を動かすルールだった。
だが、目の前にいるたった一人の女性に対しては、その絶対のルールが何一つとして通用しない。
彼女が欲しいのは「一年後の自由」。
そして、自分と彼女を繋ぎ止めているのは、その自由を約束した「契約書」という名の紙切れ一枚だけ。
チク、タク、チク、タク。
暗い車内の中で、創の耳には無情な秒針の音が響いていた。
カウントダウンは、今この瞬間も一秒ずつ進んでいる。
三億円を支払い、契約が満了を迎えたその日。
彼女はこの車に乗った時のように軽やかに、何の未練も残さず、笑顔で手を振って自分の前から立ち去っていくだろう。
(……嫌だ)
胸の奥底で、ドス黒く熱い感情が、叫び声を上げていた。
(手放したくない。誰が、行かせるものか……!)
では、どうすればいい?
金で買えないのなら。
権力で縛れないのなら。
一体どうすれば、彼女をこの屋敷に、自分の隣に引き止めることができるというのか。
妻としての義務を押し付ければ、彼女は契約違反だと線を引くだろう。
愛を乞うようにすがりつけば、彼女は困惑して身を引くだろう。
彼女の自立した強い魂を損なうことなく、彼女自身の意思で「ここにいたい」と思わせる方法など――二十八年間、数字と論理しか信じてこなかった創の頭脳には、その答えが何一つとして見当たらなかった。
出口のない絶望的な問いが、重い鉛となって創の胸に沈み込んでいく。
マイバッハは首都高を降り、静まり返った港区の住宅街へと入っていった。
街灯の柔らかな光が、車内を一定のリズムで照らし出す。
「……あ、もう着きますね」
栞が窓の外を見て、小さく呟いた。
前方に見えてきたのは、神崎邸の重厚な鋳鉄製のゲート。
センサーが反応し、ゆっくりとゲートが開いていく。
車寄せに車が滑り込み、静かに停車した。
運転手が素早く降りて後部座席のドアを開ける。
「専務、奥様、お疲れ様でございました」
「……ありがとう」
創は先に降り、慣れた手つきで栞に手を差し伸べた。
栞の、レースの手袋に包まれた指先が、創の掌の上にそっと重なる。
その指先の温もり。
ほんのわずかな接触すら、今の創にとっては、指の間からこぼれ落ちていく砂のように愛おしく、そして切なかった。
玄関ポーチの石段を上がり、重厚な扉を開ける。
ホールに入ると、奥からハウスキーパーの絹代が足早に出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、創様、若奥様。お食事はいかがでございましたか?」
「ただいま戻りました、絹代さん。とても美味しかったですよ。でもね……」
栞は靴を脱ぎながら、いたずらっぽく笑った。
「やっぱり、絹代さんと一緒に引いたお出汁の方が落ち着きますね」
「あらあら、まあまあ!」
絹代の厳格な顔が、途端に破顔して満面の笑みへと変わる。
「それは光栄でございます。若奥様、お風呂をちょうど良い湯加減に沸かしてございますよ。冷めないうちにどうぞ」
「ありがとうございます! すぐに入らせていただきますね」
栞はドレスの裾を少し持ち上げ、パタパタと軽やかな足取りで廊下を進んでいく。
そして、階段の手前でくるりと振り返ると、ホールに立ち尽くす創に向かって、深々と頭を下げた。
「神崎様。今夜は本当に、夢のように素晴らしい体験をさせていただき、ありがとうございました。……おやすみなさいませ」
満開の花のような、曇りのない笑顔。
完璧な、礼儀正しい一礼。
「……ああ。おやすみ」
創が絞り出すように返すと、栞は嬉しそうに頷き、二階へと上がっていった。
階段の絨毯を踏みしめる柔らかな足音が遠ざかり、やがてパタンと自室のドアが閉まる音が響いた。
屋敷に、静寂が戻る。
「…………」
創は一人、薄暗い玄関ホールの真ん中で、立ち尽くしていた。
首元のボウタイに手をかけ、引き抜く。
タキシードのジャケットを脱ぎ、重たい足取りで一階のリビングへと向かった。
明かりを点けないまま、ソファの端に腰を下ろす。
窓の外から差し込む月明かりが、ローテーブルの上の何気ない日用品を青白く照らしていた。
栞が昼間に読んでいた料理書。
テラスのハーブの香りを吸い込んだリネンカーテンが、夜風に吹かれて微かに揺れている。
どこを見ても、彼女が息づいている痕跡がある。
この屋敷は、確かに彼女の温もりで満たされている。
だが――。
(あと……十ヶ月)
創は両手で顔を覆い、深く、果てしなく長い息を吐き出した。
指の隙間から漏れたのは、熱い、苦悶の呻きだった。
彼女は、金では買えない。
彼女の幸せは、すでに彼女自身の手の中で完成している。
自分という男が介在する余地など、どこにもないのだ。
(どうすればいい。……俺はどうすれば、君を繋ぎ止めることができるんだ……)
暗闇の中で問いかけても、静まり返った屋敷の空間は、何の答えも返してはくれなかった。
ただ、男の胸の奥底で、激しく、痛烈に燃え盛る独占欲の炎だけが、静かに夜の闇を焦がし続けていた。
* * *
秋が深まり、木々の葉が鮮やかな朱や黄金に染まり、やがて冬の冷たい木枯らしが吹き抜けていく。
吐く息が白くなり、庭のテラスに霜が降りる季節を越え、梅の蕾がほころび、桜の便りが街を巡る。
季節の移ろいとともに、神崎邸の日常は、奇妙な均衡を保ったまま滑らかに流れていった。
創は連日の激務をこなしながらも、深夜に帰宅してはキッチンの明かりに吸い寄せられ、栞の作った滋味深い夜食に胃袋を救われ続けた。
栞は絹代や庭師の航、友人の唯と共に、着々と「未来の城」のための準備を進め、豪邸でのご機嫌な居候ライフを満喫していた。
そして――。
初夏のみずみずしい陽光が、再び神崎邸の庭を眩しく照らし始める頃。
二人の契約結婚は、早くも「半年」という決定的な折り返し地点を迎えようとしていた。




