【第28話】折り返し地点。花丸だらけのカウントダウン
五月中旬の柔らかな朝の光が、神崎邸の広大な敷地を眩いエメラルドグリーンに染め上げていた。
南東の客間に面したプライベートテラスでは、半年前に庭師の早川航と植え付けたリスボンレモンの苗木が、初夏の陽光を浴びて青々とした葉を広げていた。枝先には白く可憐な星型の花がいくつも綻び、風がそよぐたびに、ジャスミンにも似た甘酸っぱく爽快なシトラスの香気をサンルームへと運んでくる。
足元の花壇では、冬の寒さを乗り越えたコモンタイムが小さな紫の花を咲かせ、立性のローズマリーはピンと勢いよく新芽を伸ばし、テラコッタ鉢のミントたちは生命力に任せて葉を茂らせていた。
かつて「触れてはならない美術館」のように冷え切っていた豪邸は、いまやどこを歩いても土と葉の瑞々しい息吹が満ち、呼吸をするだけで肺の奥が洗われるような心地よさに満ちている。
――トントントン、と軽やかな足音を響かせ、二階の私室へと続く階段を上がっていく人影があった。
間宮栞、二十六歳。
オーバーサイズのラベンダー色の半袖サマーニットに、風通しのよいリネン素材のワイドパンツ。足元にはパイル地の柔らかなルームスリッパ。
その顔色は、眩しい初夏の光を反射して艶やかに潤い、陶器のような白い肌にはほんのりと健康的なピンク色が差している。肩口で揺れる黒髪は毛先までツヤツヤと輝き、瞳は初夏の青空のように澄み切っていた。
前世の自分を知る者が今の栞を見れば、間違いなく別人だと思うだろう。
前世のこの時期――結婚から半年が経過した五月の栞は、過度の気遣いと孤立無援のストレスによって、すでに心身ともにボロボロだった。
夫の創に嫌われまいと毎晩深夜二時まで冷たいリビングで待ち続け、昼間は親族の嫌味に怯え、食事は喉を通らず、体重は落ちる一方。毎朝、胃酸の逆流による吐き気とみぞおちの激痛に脂汗を流しながら、這うようにしてベッドから起き上がっていたのだ。
だが、今の栞は違った。
「ふふ〜ん、ふふふ〜ん♪」
鼻歌交じりに二階の東向きの私室――広さ十二畳、かつては無機質な客間だったが、親友の唯のアドバイスで北欧調の明るい家具と遮光性の高いリネンカーテンを揃えた「完全なるマイルーム」の扉を押し開ける。
部屋の中には、朝一番に窓を開けて入れ替えた、爽やかな初夏の空気が満ちていた。
キングサイズのベッドには、さらりとした肌触りのオーガニックコットンのシーツ。サイドテーブルには、テラスで摘んだばかりのレモンの小枝とミントを浮かべたガラスのピッチャー。
そして――。
部屋の一番日当たりの良い壁の中央に、堂々と掲げられている「それ」の前に、栞は立ち止まった。
縦六十センチ、横四十センチの特製ウォールカレンダー。
厚手のクラフト紙に、栞自身が几帳面な定規引きと手書きのレタリングで作った、完全オーダーメイドの「契約満了カウントダウンカレンダー」である。
カレンダーの上部には、大きくこう記されていた。
『神崎邸 快適マンスリー生活&自立への道(全365日)』
十月の入籍初日から始まった日付のマス目には、一日たりとも欠かすことなく、済んだ日すべてに黒い斜線が引かれていた。
『1/365:一人すき焼き記念日』
『2/365:不可侵条約締結』
『3/365:絹代さんと一番出汁同盟』
『7/365:死の客間、リゾート化完了』
『14/365:深夜の真鯛あら炊きご飯(創様おかわり)』
『18/365:吉高先生と完璧な防衛スキーム構築』
『23/365:お義父様、湯葉雑炊で完敗』
『27/365:銀座フレンチ、土鍋の勝利』……。
日々の激闘と、美味しいご飯と、心地よい空間づくりの記録が、マス目の余白にびっしりと愛らしい文字で書き込まれている。
そして――。
今日の日付。五月二十日のマス目。
そこには、太い赤の油性マーカーで、これ以上ないほど誇らしげに、力強い文字が躍っていた。
『182/365 ★祝・折り返し地点到達!!★』
数字の周りを囲むのは、赤とゴールドのペンで三重、四重に重ねて描かれた、特大のド派手な花丸だった。
「…………よっっっっっし!!」
栞は両手を高く突き上げ、私室の天井に向かって声にならない歓喜の咆哮を上げた。
百八十二日。
一年、すなわち三百六十五日の、ちょうど半分。
折り返し。
ハーフタイム。
中間試験、オール満点で突破。
「半分……! ついに、半分まで来たわ……!」
じわりと、胸の奥から熱い達成感が込み上げてくる。
前世では絶望と苦痛の連続だった半年間が、今世では「美味しいものを食べ、空間を整え、自分の機嫌を自分で取り続けただけ」で、あっという間に、驚くほど健康的に過ぎ去ってしまった。
「あと半年で……三億円! そして、完全な自由!!」
我慢できなくなった栞は、助走をつけてキングサイズのベッドの上へと、ダイブするように飛び込んだ。
ドサァッ――!
ふかふかの羽毛布団が柔らかく栞の身体を受け止め、コットンの甘い匂いが鼻腔を包む。
栞はベッドの上で手足を大の字に伸ばし、シーツに頬を擦り付けながら、芋虫のようにゴロゴロと転がった。
「あははっ! 最高! 生きてるって素晴らしい! 二周目の人生、万歳!!」
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
足をバタバタと跳ねさせ、枕を抱きしめて満面の笑みを天井に向ける。
何の憂いもない。
本当に、何一つとして心配事がないのだ。
最大の懸案事項だった実家の老舗和菓子舗「佐竹堂」の資金繰りは、入籍直後に神崎ホールディングスが差し入れた信用保証によって、主力取引銀行からの融資枠が完全に正常化された。
それどころか、資金難で滞っていた原材料の仕入れが最高品質の丹波大納言や吉野本葛へと戻ったことで、看板商品の羊羹や季節の上生菓子の味が劇的に向上。先月からは大手百貨店の催事場への出店依頼が殺到し、経営は完全にV字回復の軌道に乗っていた。
先週末に父から届いた手紙には、『お前が神崎家で幸せに暮らしているおかげで、佐竹堂は百年先まで安泰だ。本当にありがとう、無理だけはするなよ』と、涙で滲んだ感謝の言葉が綴られていたほどだ。
そして、栞自身の個人的な法的防衛も、鉄壁の布陣が完成していた。
顧問弁護士の吉高晶子とは、あの初回の面談以来、すっかり「知的な友人」としての関係が定着している。
晶子の手引きにより、契約満了時に一括で振り込まれる解決金三億円は、税法上の「扶養的財産分与」および「経営再建協力に伴う信用補完対価」として二重の法的位置づけが確定。税務署からの不当なみなし贈与課税を完全に遮断するスキームが公正証書に追補され、受け皿となる個人資産管理会社(合同会社)の定款ドラフトまで、すでに晶子の事務所で完成していた。
つまり――。
あと半年、この屋敷で今まで通りに美味しくご飯を食べ、穏やかに過ごし、三百六十五日目の朝に役所へ離婚届を提出すれば。
一点の曇りもなく、誰からも文句を言われることなく、一括で三億円が個人の法人口座に着金するのだ。
「三億円あったら……何ができるかしら」
栞は仰向けのまま、両手の指を折って数え始めた。
「まず、地方の海沿いの古民家を買い取って、フルリノベーションするのに五千万円。厨房機器をプロ仕様の最高峰で揃えて一千万円。唯に頼んで北欧ヴィンテージの家具と照明を特注で仕入れて五百万円。運転資金に一千万円残しても……手元に、二億二千五百万円も残る!」
二億二千五百万円。
それを晶子のアドバイスに従って、高配当インデックスファンドと国債に手堅く分散投資しておけば、年利三パーセントの配当だけでも年間六百万円以上が不労所得として入ってくる計算だ。
「カフェの利益なんて、トントンでいいのよ。地元の人たちに朝の土鍋ご飯と美味しいお味噌汁を出して、午後は季節の生菓子とお茶を振る舞って、赤字にならなければそれで大成功。儲けを気にせず、自分の好きな器で、自分が心から美味しいと思えるものだけを作って暮らせる、私の城……!」
想像しただけで、口元がだらしなく緩んでしまう。
誰の顔色も窺わなくていい。
誰の機嫌を取る必要もない。
前世で自分を殺した「尽くす妻」の呪縛は、完全に消え去っていた。
(神崎様も、相変わらず手のかからない最高のクライアントだしね)
栞はふと、契約上の夫である創の顔を思い浮かべた。
あの銀座のフレンチグランメゾンでのディナー以来、創の態度は以前にも増して奇妙な落ち着きを見せていた。
平日は相変わらず激務で深夜帰宅が多いものの、帰ってくると必ずキッチンの明かりを覗き込み、栞が作り置きしておいたお夜食――筑前煮や、鯛のかぶと煮、豚汁の小鉢など――を見つけると、目を輝かせて「……いただく」と平らげていく。
たまに早く帰ってきた週末には、サンルームのソファの隅に座り、栞が淹れたお茶を飲みながら、静かに経済誌をめくっている。
干渉してこない。
怒鳴り散らしてこない。
食事を作れば「美味い」と綺麗に完食し、生活費のカード明細に文句一つ言わず、出入りの業者や家政婦への待遇も完璧。
栞にとっては、まさに「福利厚生が手厚すぎる、理想的な同居人」そのものだった。
(創様も、祖父の遺言条項をクリアして無事に神崎グループの株式を相続できるわけだし、お互いにとって最高のWin-Win契約よね。あと半年、きっちりミスなく同居人役を務め上げて、円満にバイバイしましょうね、神崎様!)
ウキウキ気分でベッドから飛び起きると、栞はサイドボードの上に置いてあった、木箱の蓋に手を伸ばした。
昨日、山形県東根市の老舗果樹園から届いたばかりの、自分への「折り返し記念」のご褒美。
白木の桐箱を開けると、ふわりと甘く瑞々しい初夏の薫煙が広がった。
「わあぁ……! ツヤツヤ!」
中に敷き詰められた柔らかな薄紙の上で、行儀よく並んでいたのは、今朝獲れたてを航空便で送ってもらったという最高級のサクランボ――『佐藤錦』の特秀品だった。
安物のサクランボのような、薄っすらとしたピンク色ではない。
まるで職人が磨き上げた深紅のルビーのように、艶やかで濃密な紅色。
軸はピンと瑞々しい緑色を保ち、双子のように寄り添う二粒の果実は、果汁を限界まで抱え込んでパンパンに張ち切れそうだった。表面には、朝露の名残のような透明な光沢がキラキラと反射している。
栞は緑の軸をつまみ、一粒をそっと持ち上げた。
指先に伝わる、ひんやりとした心地よい重み。
口の中へ放り込み、前歯でそっと果皮を噛む。
――プチッ。
小気味よい音が、口蓋に響いた。
その刹那、薄い皮が弾け、中から怒涛の果汁が溢れ出した。
「…………っっ!!」
甘い。
だが、ただ甘いだけではない。
初夏の陽光を一身に浴びて凝縮された、力強く濃厚な果糖の甘み。そして、それをキュッと引き締める、上品で爽快な天然のクエン酸の酸味。
果肉は驚くほど緻密で柔らかく、噛むごとにジュワリ、ジュワリと純度百パーセントの天然ジュースが溢れ出て、舌の上を滑らかに潤していく。
飲み込んだ後、喉の奥に漂うのは、清涼感あふれる上品な余韻だけ。
「んん〜っ……! 美味しい! 生きててよかった……!」
栞は両頬を手で押さえ、蕩けるような笑みを浮かべた。
こんな贅沢ができるのも、神崎家でのストレスフリーな暮らしと、確約された三億円の未来があるからこそだ。
栞はサクランボの小皿を片手に、デスクの上の薄型ノートパソコンを開いた。
液晶画面がパッと明るくなり、ブラウザのブックマークバーに登録されたフォルダをクリックする。
そこには、ここ数ヶ月で栞が集めに集めた、不動産情報サイトのリンクがずらりと並んでいた。
『湘南・三浦・鎌倉エリア 古民家・店舗付き住宅物件特集』
「さてさて、今日の新着物件はどうかしら……」
サクランボの種をペッと小さな小鉢に出し、次の二粒目を口に放り込みながら、マウスホイールをコロコロとスクロールしていく。
画面に現れる、風情ある日本家屋の写真たち。
――鎌倉市極楽寺、築六十五年。庭に梅の木あり、駅徒歩八分。
「うーん、観光客が多すぎて、朝食カフェとしてはちょっと騒がしいかしら」
――三浦市三崎、元船具店の古民家。海まで徒歩一分。
「ロケーションは最高だけど、東京からのアクセスが少し悪すぎるかな。唯や晶子先生が遊びに来づらいわよね」
――逗子市新宿、平屋の和モダン住宅。
「綺麗だけど、ちょっと敷地が狭いかも。テラスにハーブ園を作りたいし、航さんに頼んでレモンの木も植えたいものね」
条件を絞り込み、間取り図を眺め、頭の中で「どこに無垢材のカウンターを置くか」「羽釜をどこに据えるか」をシミュレーションする。
その作業があまりにも楽しくて、時間の経つのも忘れて画面に見入っていた。
――その時だった。
ピロン♪
デスクの上に置かれたスマートフォンの画面が、小気味よい通知音とともに光った。
メッセージアプリのポップアップ。
送り主は、親友の小山内唯だった。
『栞!! 緊急連絡!! ヤバい物件出た!!』
「……え?」
栞の手が止まった。
画面をタップしてメッセージを開くと、唯から息つく暇もないほどの連投メッセージが雪崩れ込んできた。
『うちのインテリアショップの顧客のツテで、葉山の海沿いにある築八十年の極上古民家が、ネットに出る前の水面下で売りに出されたの!!』
『広い庭あり、土間あり、梁が生きてる平屋! 海まで徒歩二分! 大家さんが「大切に使ってくれる人にしか譲らない」って非公開にしてた超レア物件!!』
『今すぐ写真送るから見て!! これ、栞が言ってた「朝食と和菓子の店」に、完全にドンピシャだから!!』
直後、添付された数枚の高解像度写真が、栞のスマートフォンの画面いっぱいに表示された。
「…………っ!」
写真を見つめた瞬間、栞の息がピタリと止まった。
潮風に晒されて味わい深い黒褐色に変化した、太い柱と梁。
陽光が燦々と差し込む、広々とした土間。
そして、縁側の向こうに広がる、松の木と潮騒の気配が漂う緑豊かな日本庭園――。
栞の心臓が、トクン、と熱く跳ね上がった。
(これ……私の、探していた場所そのものじゃない……!)
運命の歯車が、音を立てて噛み合った。
折り返し地点を迎えたその日に、完璧なタイミングで現れた「理想の城」。
栞の瞳が、これまでにないほど眩い決意の光を帯びて輝き始めた。




