【第29話】物件探しの甘い夢。海辺の古民家カフェ構想
五月下旬の心地よい微風が、神崎邸の一階南東に位置する客間――陽だまりのサンルームを吹き抜けていく。
開け放たれた広大なガラス戸の向こう、テラスに並べられた鉢植えからは、初夏の陽光を浴びたマリンブルー・ローズマリーとスペアミントの爽快なアロマが漂っていた。半年前に庭師の早川航と一緒に植え付けたリスボンレモンの若木は、小さな白い花を満開に咲かせ、ジャスミンのように甘美で清涼な香りを惜しげもなく部屋の中へと届けている。
風を孕んでふわりと優雅に膨らむ、リトアニア産リネンの生成りカーテン。
かつて「昭和の密談部屋」と呼ばれ、冷気と埃に沈んでいたその空間は、いまや都内屈指の避難所にして、世界で一番贅沢なアトリエへと生まれ変わっていた。
「――でね、栞! ここが一番のキモなわけよ!」
デンマーク製ヴィンテージのチーク材ローテーブルの上に、身を乗り出すようにしてノートパソコンの画面を指さしているのは、小山内唯だった。
後ろ前に被ったキャップからショートボブの黒髪を覗かせ、オーバーオールのポケットにスケール(巻尺)と色鉛筆を突っ込んだ親友は、獲物を前にした狩人のように目を輝かせている。
「見てこの写真! 海沿いの路地を一本入ったところにあるんだけど、敷地がなんと百三十坪! 築八十年の平屋建てで、前の持ち主は葉山に別荘を持っていた高名な日本画家さんなんだって。だから手入れが狂気じみてるくらい行き届いてて、柱も梁も一本も腐ってないの!」
「うわあぁ……! 本当だ、梁がものすごく太くて立派……!」
隣のネイビーの特大ビーズクッションにすっぽりと身を沈めた栞は、画面に映し出された高解像度の外観写真を食い入るように見つめた。
潮風にさらされて味わい深い銀灰色へと変化した杉板の外壁。
堂々たる日本瓦の屋根。
そして、玄関の引き戸を開けた先に広がるのは――大人が十人は余裕で行き交えそうな、吹き抜けの広大な「三和土の土間」だった。
頭上を見上げれば、長年の囲炉裏の煙で燻されて黒光りする、見事な太鼓梁が幾重にも交差している。
「これ、すごくない!? この土間、昔は画室兼アトリエとして使われてたらしいんだけど、床をそのまま活かせば、靴のまま入れる客席スペースに一発でリノベできるよ! ほら、海辺のカフェってさ、砂浜を散歩してきたお客さんが靴を脱ぐのって地味に面倒じゃん? 土間ならベビーカーも車椅子もそのまま入れるし、濡れた足元だって気にならない!」
「すごい、唯……! まさに私が頭の中で思い描いてた、理想の動線そのものじゃない!」
栞は胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
心臓がトクン、トクンと、心地よい早鐘を打っている。
画面をスクロールするたびに現れる、夢の断片たち。
南向きの縁側に面した、八畳と十畳の二間続きの和室。
障子を開け放てば、そこには手入れされた松やツツジ、そして苔むした飛び石が配された、見事な日本庭園が広がっている。
庭の奥からは、ザーッ……という、静かで途切れのない潮騒の音が聞こえてきそうなほど、海との距離が近い。徒歩二分で、真っ白な砂浜と富士山を望む相模湾の水平線が広がっているのだ。
「前のオーナーさんがご高齢で施設に入ることになってね。本当は大手ハウスメーカーが買い取って、更地にして分譲マンションを建てようとしてたらしいのよ。でも『この家を壊さずに、大切に愛してくれる人にしか売りたくない』って突っぱねて、水面下で買い手を探してたんだって。そこへ、うちのインテリアショップの社長が嗅ぎつけて、私に情報を回してくれたってわけ!」
「運命ね……。本当に、奇跡みたいなタイミングだわ」
「でしょ!? 持つべきものは、顔の広いバイヤーの親友でしょ!」
唯がドヤ顔で胸を張ると、栞は満面の笑みで頷き、ローテーブルの上の漆塗りの角盆へと手を伸ばした。
「本当にありがとう、唯。……ほら、熱く語って喉が渇いたでしょう? お茶を淹れたから、少し休憩しましょう」
「おっ、待ってました! 栞の手作りおやつタイム!」
唯が歓声を上げて身を起こす。
テーブルの上に並べられたのは、初夏の涼やかさをそのまま閉じ込めたような、極上のお茶セットだった。
薄ガラスのグラスに注がれているのは、水出しの「特選宇治玉露」。
前夜から氷水でじっくりと八時間かけて抽出されたそれは、一切の苦味や渋みが削ぎ落とされ、出汁にも似たまろやかなアミノ酸の旨味だけを凝縮した、淡いエメラルドグリーンの雫だった。グラスの表面には細かな水滴が涼やかに結露し、中には丸く削り出された氷がカランと浮かんでいる。
そして、ガラスの平皿に美しく盛り付けられていたのは、栞の手作りの和菓子――『初夏の水無月』だった。
「わあぁ……! 涼しそう! 氷の塊みたい!」
「六月の神事に食べる厄除けのお菓子なんだけど、今日はちょっと先取りして作ってみたの。下の外郎生地には、実家の佐竹堂の極上葛粉と白双糖を使って、テラスで採れたばかりのリスボンレモンの果汁をほんの少しだけ練り込んであるのよ。上の小豆は、丹波産の最高級大納言」
三角形に切り分けられた水無月。
半透明の白く艶やかな葛外郎の上に、宝石のように大粒の小豆が隙間なく敷き詰められている。
黒文字の楊枝をすっと沈めると、もっちりとした弾力とともに刃先が吸い込まれていく。
唯は一口分を口の中へと運んだ。
「んん〜〜〜〜っっ!!」
唯が両手で頭を抱え、身悶えするように目を丸くした。
「なにこれ……! 外郎が、ぷるっぷるなのに歯切れが良くて、喉を通る時にひんやり消えていく……! 小豆の皮が信じられないくらい柔らかくて、噛んだ瞬間にホクッて上品な甘みが広がるのに、後味にふわっとレモンの爽やかな風味が抜けて……全然重くない! 無限に食べられる!」
「ふふっ、良かった。レモンの皮をすりおろして香りを移したのが正解だったわね」
栞も自分の一皿を手に取り、玉露を一口含んだ。
舌の上に広がる、玉露の濃厚な覆い香と深い旨味。そこへ、甘酸っぱく上品な水無月が溶け合い、初夏の暑さを一瞬で忘れさせてくれるような清涼感が五臓六腑を駆け巡る。
唯はあっという間に一切れを平らげると、冷茶を一気に飲み干して、プハーッと至福の息を吐き出した。
「もうさあ……! この水無月と冷茶を出すだけで、葉山のカフェ、初日から大行列確定でしょ! 都内からわざわざ新幹線と電車乗り継いででも食べに来るレベルだよ!」
「大行列なんて困るわよ。私はただ、自分の手の届く範囲で、のんびり穏やかにやりたいんだから」
栞は苦笑しながら、手元のスケッチブックを開いた。
そこには、付箋がびっしりと貼られたエクセルの資金計画シートのプリントアウトが挟まれていた。
「ねえ、唯。具体的なお金の計算なんだけど……この物件、土地と建物込みでおいくらになりそうなの?」
「うん。そこが一番の驚きなんだけどね」
唯は指を三本立ててみせた。
「オーナーさんが『壊さないこと』を条件にしてるから、相場よりかなり安く手放してくれるの。ズバリ、三千五百万円」
「三千五百万円……! 葉山の海沿いで百三十坪なのに!?」
「破格でしょ? もちろん、築八十年の古民家だから、インフラ回りはフルリノベーションが必要だよ。耐震補強工事、屋根の葺き替え、配管の全取っ替え、それから業務用厨房の設置に、客席の電気工事……どんなに安く見積もっても、改修工事だけで五千万円はかかる」
「物件が三千五百万で、改修費が五千万……合わせて八千五百万円ね」
栞はすかさず電卓を叩いた。液晶画面に数字が表示される。
そして、ふうと胸を撫で下ろし、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「完璧だわ。契約満了時に神崎グループから振り込まれる解決金は、公正証書通りにきっちり三億円。そこから物件取得と改修費で八千五百万、予備費として一千五百万を多めにプールしたとしても……手元に、丸々二億円が残る計算よ」
「二億円……! 強い、強すぎるよ栞社長……!」
唯が拝むように手を合わせた。
「吉高晶子先生が組んでくれたスキームのおかげで、この三億円は全額非課税で受け取れることが確定してるしね。手元に残る二億円は、晶子先生の紹介してくれた信託銀行で分散運用して、年利三パーセントで回せば……年間六百万円の不労所得。つまり、カフェがもし一杯のお茶も売れなかったとしても、私たちは絶対に路頭に迷わない!」
「最強のノーリスク起業じゃん! 資本主義の完全なる勝者だよ!」
二人は顔を見合わせ、声を揃えて笑い転げた。
前世の栞なら、こんな発想は絶対にできなかっただろう。
前世の自分は、神崎家の妻としての「義務」に縛られ、夫に愛されることだけを人生の唯一の目標にして、自分の足で立つ術を知らなかった。
だが、一度死んで、恋愛感情という名のフィルターを粉々に打ち砕いた今の栞には、すべての現実がクリアに見えていた。
お金がある。
知識がある。
法的な盾がある。
そして、確かな味方がいる。
自立とは、誰かを憎んで孤独に生きることではない。
自分の人生の舵を自分自身で握り、好きな人と、好きな場所で、機嫌よく笑って生きる基盤を整えることなのだ。
「でね、唯! お店の内装なんだけど、私、ずっと考えてたイメージがあるの!」
栞はスケッチブックの新しいページを開き、シャープペンシルを走らせ始めた。
迷いのない筆致で、空間のスケッチが立ち上がっていく。
「まず、あの広い土間の中央。ここには、私がずっと思い描いてた『無垢材の特大カウンター』をドンと据えたいの。材質は……そうね、水や熱に強くて、経年変化で飴色に育つ国産の栗の木か、力強い木目のタモ材の一枚板!」
「いいねえ! 無垢の一枚板カウンター、最高! 耳付きの自然なうねりを残したやつを、飛騨高山の材木屋から直接引っ張ってきてあげる!」
「ありがとう! そのカウンターの向こう側は、客席から手元が少しだけ見えるオープンキッチンにするの。中央には、二升炊きの立派な羽釜を二連で据えて、羽釜から立ち上る白い蒸気と、炊きたてのお米の甘い匂いでお客さんを迎えるのよ」
「うわあああ! それ絶対テンション上がるやつ! 入店した瞬間、胃袋掴まれちゃうじゃん!」
唯がバンバンとローテーブルを叩いて悶絶する。
栞の筆は、さらに勢いを増していった。
「朝のメニューは、潔く一種類だけ。『朝獲れ地魚と羽釜ご飯の朝食定食』。
地元の漁港から毎朝仕入れるアジの干物や、旬の白身魚を炭火でパリッと香ばしく焼き上げて。
お味噌汁は、絹代さんに教えてもらった合わせ味噌と、昆布と鰹の一番出汁をたっぷり使って、地元の採れたて野菜と豆腐を山盛りにした具沢山の豚汁。
そこに、手作りのぬか漬けと、出汁巻き卵、そして炊きたてのツヤツヤのご飯をおかわり自由で出すの」
「やばい……聞いてるだけでヨダレ出てきた……! 朝の海風を浴びながら散歩して、その定食を土間で食べるんでしょ? 絶対毎朝通う常連のおじいちゃんとかサーファーが続出するよ!」
「ふふっ。そしてね、朝食が終わった十一時からは、ガラリと空気を変えて『和菓子とお茶のラウンジ』にするの」
栞はスケッチブックに、縁側のテラス席を描き足していった。
「庭が見える縁側には、唯が選んでくれた北欧ヴィンテージのローチェアと丸テーブルを置いて。
午後は、佐竹堂の伝統を受け継いだ、季節の上生菓子と挽きたてのお抹茶。
それから、このテラスで育てているようなフレッシュハーブを使った、自家製のブレンドハーブティーや、ほうじ茶ラテ。
夏には自家製の氷蜜をかけた宇治金時のかき氷、冬には熱々の白玉ぜんざい……」
「完璧……! もう完璧すぎて鳥肌立ってきた!」
唯は自分のノートを広げ、猛烈な勢いでメモを書き殴り始めた。
「植栽はどうするの? あの広い庭、手入れが大変そうだけど……」
「ふふっ、そこはもちろん、神崎邸の専属庭師の早川航さんに相談するわ!」
栞は悪戯っぽく笑った。
「航さん、こないだテラスにレモンの木を持ってきてくれた時、『葉山の新店舗、植栽の準備ができたら俺も手伝いに行きますよ』って約束してくれたのよ。庭の隅にキッチンハーブの専用花壇を作ってもらって、リスボンレモンや本柚子の木を植えて、料理に使う葉っぱをその場で摘めるようにしたいの」
「うわ、あの頑固でイケメンな庭師さんまで巻き込む気!? 栞、本当に無自覚の人脈モンスターだよね……! 法務は吉高晶子、食材は藤沢絹代、植栽は早川航、そして空間デザインはこの小山内唯! 何このドリームチーム! 負ける要素がミリもないじゃん!」
「あはは! みんな、私の美味しいご飯とお菓子に釣られてくれただけよ」
陽光が燦々と降り注ぐサンルームに、二人の弾けるような笑い声が響き渡った。
風が吹き抜け、レモンの白い花びらが一枚、テラスの床の上をひらりと舞った。
栞の胸の中には、一点の曇りも、一片の迷いもなかった。
この神崎邸での暮らしは、確かに快適だ。
美味しい食材があり、最新の設備があり、同居人の創も静かで礼儀正しい。
だが、ここはあくまで「一年間限定の仮住まい」であり、他人の城なのだ。
自分の足で立ち、自分の手で選び抜いた器を並べ、自分の信じる美味しいものを提供して、愛する仲間たちと笑い合う――あの海辺の古民家こそが、自分が二度目の人生で手に入れるべき、本物の「私の居場所」。
この屋敷への未練など、最初から一ミリも存在しなかった。
ただ、約束の期日が来たら、感謝を込めて綺麗に身を引く。
それだけが、栞の心に刻まれた唯一の真実だった。
「よしっ! じゃあ私、この物件の内見の申し込み、来週の頭でセッティングしておくね!」
唯がノートパソコンをパタンと閉じ、手早くカバンに荷物を詰め込みながら立ち上がった。
「ありがとう、唯! 平日ならいつでも動けるから、合わせるわね」
「オッケー! 図面のラフも、うちのデザインチームに回して簡単な3Dパース引かせとくから! ……あ、栞、このプリントアウトした資金計画書と物件資料のファイル、どうする? 持って帰る?」
「あ、それはここに置いておいて! 今夜、お風呂上がりにリビングでゆっくり見返して、メニューの原価計算のメモを書き足しておきたいから」
「りょーかい! じゃあテーブルの上に置いとくね!」
唯はクリアファイルをポンとテーブルの上に置くと、靴を履いて玄関へと向かった。
玄関ホールで見送りをし、「気を付けて帰ってね!」「うん、また連絡する!」と手を振り合って別れる。
カチャリ、と玄関扉が閉まり、屋敷に再び穏やかな静寂が戻ってきた。
時計を見れば、すでに夕方の五時半を回っていた。
西日が傾き、庭の木々の影が長く長く伸び始めている。
「ふう……! いっぱい喋って、お腹空いちゃったな」
栞は伸びを一つすると、サンルームのローテーブルからクリアファイルを手に取り、パタパタとスリッパを鳴らしてリビングへと移動した。
そして、何気なく――。
リビングの中央、カッシーナのローテーブルの上に、そのファイルをトンと置いた。
表紙の透明なプラスチック越しに見えていたのは、手書きの太い黒文字。
『海辺の古民家カフェ開業資金計画書(湘南・葉山物件)』
『残り180日。カウントダウン開始!!』
赤とゴールドのペンで描かれた、特大の花丸のマーク。
「さて、今夜は何を作ろうかしら。絹代さんが持たせてくれた初鰹があるから、皮目をサッと炙って、テラスの大葉とミョウガをたっぷり乗せたタタキにしようかな!」
完全に頭の中が夕食の献立でいっぱいになった栞は、クリアファイルのことなどすっかり忘れ、鼻歌交じりにエプロンを締め直して、奥のキッチンへと小走りで向かっていったのだった。
――そして。
夜の帳が完全に下り、街が深い静寂に包まれた、深夜零時。
神崎ホールディングス本社での過酷な役員協議を終え、疲れ果てた足取りで屋敷へと帰宅した神崎創が。
暗闇のリビングで、その「決定的な紙束」を目撃することになる瞬間が、刻一刻と近づいていた。




