【第30話】凍りついた秒針。「あと180日で、君はいなくなる」
午前零時四分。
都内一等地に建つ神崎邸の正面ゲートをくぐり抜けたハイヤーのヘッドライトが、敷石の上に伸びる木々の影をゆっくりと薙ぎ払った。
車寄せに車が停まり、後部座席から降り立った神崎創は、仕立てのよいダークグレーのスーツの襟元に手をやり、きつく結ばれたネクタイのノットをわずかに緩めた。
五月の深夜の空気は、日中の陽光のぬくもりを微かに残しながらも、肌を冷やすには十分な夜気を孕んでいる。
神崎ホールディングス本社ビルで日付が変わる直前まで続いていた、次期中期経営計画に関する臨時役員協議。保守派役員たちとの熾烈な数字の叩き合いと、終わりの見えない根回しの応酬。神経をすり減らす激務を終えた創の肉体には、鉛のような疲労がずっしりと溜まっていた。
だが――。
(……以前とは、違う)
玄関ポーチの石段を上がりながら、創は自分の胸のあたりにそっと右手を当てた。
以前の自分であれば、連日の残業の果てにこの屋敷へ戻る足取りは、処刑台へ向かう罪人のように重かったはずだ。胃はキリキリと焼けつくように痛み、喉の奥には苦い胃液がせり上がり、無機質な大理石の冷気に触れるだけで全身の毛穴が警戒の針を立てていた。
しかし、今の創のみぞおちには、痛みの棘は欠片も存在しなかった。
半年間、彼女が作り続けた丁寧な食事の滋養が、荒れ果てていた内臓の隅々にまで行き渡り、過酷な激務に耐えうる頑丈な土台を作り変えていたのだ。
何より――暗闇の中に聳え立つこの巨大な屋敷が、今の創にとっては、早く帰り着きたいと渇望する「唯一の場所」へと変貌していた。
指紋認証リーダーに親指を押し当てると、ピピッ、と澄んだ電子音が鳴り、重厚な防音扉が解錠された。
音を立てないように慎重にドアを引く。
三和土に足を踏み入れた瞬間、創の鼻腔をくすぐったのは、冷え切った空気ではなかった。
ふわりと運ばれてきたのは、夕食の記憶を残した、芳醇で香ばしい薫煙の微かな名残だった。
初鰹の皮目を強火の藁火でサッと炙った時に生まれる、魚脂の香ばしい焦げ香。
そこに寄り添う、すりおろしたばかりの生姜と、テラスで摘まれた青々とした大葉、そして茗荷の爽やかな薬味の残り香。
さらに奥からは、南東のテラスで満開を迎えているリスボンレモンの花が放つ、ジャスミンにも似た甘美で清涼な夜のアロマが、微かな風に乗って廊下を吹き抜けていた。
(……今夜は、鰹のタタキだったのか)
創の口元に、無意識のうちに薄い笑みが浮かんだ。
革靴を脱ぎ、客用スリッパに足を滑り込ませる。
鞄を玄関ホールのコンソールテーブルに置き、吸い寄せられるように一階奥の厨房へと向かった。
曇りガラスの引き戸を静かに開ける。
ステンレスのアイランドキッチンは、水滴一つ残さず綺麗に磨き上げられ、心地よい静寂に包まれていた。
大型冷蔵庫の扉を開けると、最上段の目立つ場所に、丸い強化ガラスの保存容器が二つ、行儀よく並べられていた。
蓋の上には、栞の几帳面で丸みを帯びた手書きの付箋が貼られている。
『神崎様へ。お仕事お疲れ様です!
初鰹の藁焼きタタキ、特製ポン酢をかけてあります。
小鍋には新玉ねぎとお揚げのお味噌汁が入っていますので、
お腹が空いていらっしゃいましたら温めて召し上がってくださいね。栞』
「…………」
創は付箋の文字を指先でそっと撫でた。
胸の奥が、じんわりと温かい湯気に満たされていくような感覚。
彼女は自分を待ってはいない。二階の私室で、とっくに心地よい眠りに落ちているはずだ。
だが、こうして無言のうちに差し出される温かな配慮の痕跡が、孤独な仕事人間の神経をどれほど救ってくれているか。
今夜は、胃袋を満たすのは明朝の楽しみに取っておくことにした。
冷蔵庫から冷たい天然水のピッチャーだけを取り出し、グラスに注いで喉を潤す。
喉を通る冷水が、乾いた身体に染み渡っていく。
創はピッチャーを戻すと、脱いだジャケットを腕に掛け、一階のリビングへと足を踏み入れた。
部屋の明かりは落とされ、天井の間接照明が、ローテーブルの周囲だけを薄い琥珀色に照らし出している。
ソファに腰を下ろし、ネクタイを完全に外して首筋の汗を拭った。
ふう、と深く息を吐き出した、その時だった。
「……ん?」
創の視線が、カッシーナのローテーブルの中央へと吸い寄せられた。
普段なら、何一つ余計なものが置かれていないはずの漆黒の天板の上。
そこに、一冊の透明なクリアファイルが無造作に置かれていたのだ。
中には、厚みのある紙の束が何十枚も挟み込まれている。
栞が置き忘れていったものだろう。彼女は普段、自分の私物は徹底して二階の私室か南東の客間に片付ける習慣があるが、今夜は夕食の支度に気を取られて、うっかり忘れてしまったらしい。
(仕事の資料……ではないな)
何気ない好奇心だった。
佐竹堂の新しい和菓子の試作メモか、あるいは親友の唯と相談しているインテリアの雑誌の切り抜きか。
いつも楽しそうに何かに没頭している彼女が、今日はどんな面白いことを考えていたのか、ほんの少しだけ覗いてみたい――そんな、他愛のない親愛の情から出た行動だった。
創は手を伸ばし、クリアファイルを指先で持ち上げた。
カサリ。
静まり返ったリビングに、プラスチックと紙が擦れ合う、乾いた微音が響いた。
表紙の透明なカバー越しに、一枚目のプリント用紙が露わになる。
そこには、太い黒の油性ペンで、几帳面に定規を当てて書かれた大きな見出しが躍っていた。
『海辺の古民家カフェ 開業資金計画書(湘南・葉山物件)』
「…………?」
創の眉が、わずかに寄った。
葉山? 開業資金?
創は無言のまま、クリアファイルの表紙をめくった。
パラリ。
二枚目のシートが現れた瞬間、創の網膜が、そこに並ぶ文字の列を捉えた。
――物件概要:神奈川県三浦郡葉山町。海沿い路地、徒歩二分。
――敷地面積:百三十坪。木造平屋建て(築八十一年・旧日本画家邸)。
――取得費用:三千五百万円(現況有姿引き渡し・非公開優良案件)。
――改修工事費概算:五千万円(耐震補強、土間客席化、二升炊き羽釜厨房新設)。
――総初期投資:八千五百万円。
――資金調達元:公正証書第5条に基づく神崎グループからの受取解決金(三億円・非課税保全確認済/吉高法律事務所監修)。
――残余運用資金:二億円(信託銀行インデックス分散投資、目標利回り年3%=年間インカムゲイン六百万円を確保)。
「な…………」
創の喉の奥から、乾いた息が漏れた。
数字の羅列。
あまりにも精緻で、一切の隙がなく、プロの経営コンサルタントが作成した事業計画書と寸分違わぬ完成度。
ページの余白には、顧問弁護士である吉高晶子の流麗なサインと、『税務上のみなし贈与リスク遮断スキーム、追補完了』という朱書きのチェック印まで押されていた。
だが、創の呼吸を奪ったのは、その高度な財務計画ではなかった。
ページをめくる。
カサリ、カサリ。
三枚目。四枚目。
そこには、カラー印刷された物件の写真が何枚も貼り付けられていた。
潮風に晒されて黒光りする、見事な太い梁。
陽光が燦々と降り注ぐ、広々とした三和土の土間。
障子を開け放てば、潮騒の音が聞こえてきそうな美しい日本庭園。
そして、その写真の隣に、栞の手書きの温かなイラストと文字で、ぎっしりと描き込まれた店舗レイアウトのスケッチ。
『土間の中央に、飛騨高山の栗の一枚板カウンターを据える!』
『朝のメニュー:朝獲れ地魚と羽釜ご飯の朝食定食(具沢山豚汁、出汁巻き卵、ぬか漬け)』
『午後のメニュー:佐竹堂の上生菓子と、テラスで摘んだフレッシュハーブティー』
『中庭の植栽:早川航さんに依頼。リスボンレモン、本柚子、キッチンハーブ園を造成!』
『空間プロデュース:小山内唯(北欧ヴィンテージチェア、自然光を活かしたリネンカーテン)』
楽しげな文字。
躍動するアイデア。
愛する仲間たちの名前。
そこには、彼女が夢見ている世界のすべてが、眩いばかりの色彩で描き出されていた。
そして――。
資料の最後のページ。
クリップで留められていた一枚の黄色い付箋に、創の視線が突き刺さった。
赤とゴールドのペンで、二重、三重に重ねて描かれた、特大の花丸。
その中央に、跳ねるような文字で記されていたのは――。
『残り180日。カウントダウン開始!!』
『あと半年で、3億円と完全な自由!!』
「…………っっっっ!?」
その瞬間。
神崎創の全身の血液が、急速に足元へ向かって滑り落ちていった。
視界が、白く明滅する。
指先が、氷水に浸けられたように感覚を失う。
心臓が、肋骨を内側から粉々に砕くような鈍い衝撃とともに、ドクン、ドクンと激しく狂い乱れた。
(残り……百八十日……?)
息が、吸えない。
肺が引き攣り、酸素が入ってこない。
(あと……半年で……自由……?)
指が震え、クリアファイルの端を強く、強く握りしめる。
ミシッ……と、プラスチックのカバーが軋み、中の紙束が皺を寄せた。
脳裏を、過去の光景が走馬灯のように駆け巡った。
入籍初日の夜。
一人ですき焼きを焼き、冷えたビールを片手に『お肉、まだありますよ?』と屈託なく笑っていた彼女の顔。
翌朝のダイニング。
タブレットを広げ、『互いの生活に干渉せず、一年後の満了日には綺麗に身を引く』と、完璧な営業スマイルで線を引いた彼女の瞳。
死んでいた客間を陽だまりのリゾートに変え、ボサノヴァを流し、ビーズクッションに埋もれて心地よさそうに昼寝をしていた姿。
深夜一時の厨房。
真鯛のあら炊きご飯を炊き上げ、過労で死にかけていた自分に『おかわりはあるか?』と聞かれて、満開の花のように弾けたあの笑顔。
父・宗一郎が怒鳴り込んできたあの日。
温かい生湯葉の雑炊を差し出し、神崎家の二十八年間の呪縛を、たった一杯の出汁で跡形もなく溶かしてくれた、あの強い背中。
銀座のフレンチグランメゾンの夜。
ミッドナイトブルーのドレスに身を包み、シャンデリアの下で『うちの台所で炊く土鍋ご飯の方が、落ち着きますね』と、愛おしそうに微笑んだあの言葉。
――嘘だったのか。
違う。
嘘ではない。
彼女は一度たりとも、創を騙したことなどなかった。
最初から、何一つ隠してなどいなかったのだ。
『契約満了に伴う事前確認でございます』
『一年間、ミスのない同居人を務め上げます』
『欲しいものはもういただいています。静かな部屋と、使いやすいキッチンと……一年後の自由です』
彼女は、最初からずっと、同じことを言い続けていたのだ。
勘違いしていたのは――創の方だった。
彼女が美味しいご飯を作ってくれるから。
彼女が屋敷の中に花を飾り、風を通し、穏やかな居場所を作ってくれたから。
彼女がこの家を「うち」と呼んでくれたから。
いつの間にか、自分は甘えていたのだ。
この温かな日常が、ずっと続くのではないかと。
契約という形骸化した紙切れの向こう側に、二人で紡ぐ未来が、当たり前のように延長されていくのではないかと。
彼女もまた、自分と同じように、この屋敷での暮らしに絆を感じ始めているのではないかと――。
だが、現実は違った。
冷酷極まりない現実が、手元の紙束の上に、客観的な事実として横たわっていた。
彼女にとって、この神崎邸での日々は――。
深夜のあら炊きご飯も。
テラスのレモンの花も。
父との和解も。
銀座のディナーも。
そのすべてが、彼女にとっては「一時的な滞在先の出来事」に過ぎなかったのだ。
彼女の視線は、最初から一度として、神崎創という男に向いてなどいなかった。
彼女が見つめていたのは、百八十日後に訪れる「契約満了日」。
三億円という巨額の対価を手に入れ、この冷え切った屋敷から永遠に解放され、海辺の古民家で愛する仲間たちと笑い合う――あの眩い「自由な未来」だけだった。
この屋敷での半年間は、彼女にとって、その夢を叶えるための「準備期間」であり、快適な「避難所」に過ぎなかったのだ。
「…………っ」
胸の奥底を、巨大な杭で抉り抜かれるような激痛が走った。
胃痛ではない。
心臓だ。
二十八年間、誰にも触れさせまいと頑丈な氷の壁で閉ざしていた創の魂の中心部が、引き裂かれ、血を流していた。
消える。
あと、半年で。
百八十日後、彼女はこの屋敷から、自分の前から、跡形もなく消え去ってしまう。
朝のキッチンの出汁の香りも。
サンルームから聞こえるボサノヴァの爪弾きも。
深夜の土鍋の湯気も。
そして――自分を救ってくれた、あの眩しい笑顔のすべてが。
彼女はトランク一つを持って、この家を出ていくのだ。
『一年間、お世話になりました』と、完璧な営業用スマイルで深く一礼して。
二度と振り返ることもなく。
神崎創という男のことなど、人生のほんの束の間のビジネスパートナーとして、綺麗さっぱり記憶の彼方へ葬り去って。
(……嫌だ)
暗闇のリビングで、創の奥歯がギリギリと軋んだ。
(嫌だ。嫌だ。嫌だ……!)
クシャッ……!
静寂を破り、紙が激しく歪む音が響いた。
創の右手が、無意識のうちに、クリアファイルごと資料の束を握り潰していた。
上質な紙が皺になり、葉山の古民家の写真が歪む。
あと半年?
誰が決めた?
祖父の遺言か?
公正証書の契約条項か?
三億円の解決金か?
(……ふざけるな)
創の喉の奥から、地を這うような低い唸り声が漏れた。
(契約だと? 紙切れ一枚で……誰が諦めるものか)
全身の血管を、ドス黒く熱いマグマのような感情が逆流していた。
大企業の専務としての理性?
感情を交えない合理的な判断?
政略結婚の体裁を守る紳士的な配慮?
そんなもの、知ったことか。
すべて灰燼に帰してやる。
彼女が金で動かないなら、別の方法で囲い込めばいい。
彼女が自由を望むなら、その自由ごと、この屋敷の中に閉じ込めてみせる。
彼女が美味しいご飯を愛するなら、世界中の最高峰の食材と厨房機器を買い与え、彼女が笑うためなら何百億の資産でも使い果たしてやる。
あの笑顔を、あの体温を、自分以外の男に向けさせることなど――絶対に、絶対に許さない。
「あと、半年……?」
創は歪んだ資料を見つめ、暗闇の中で自嘲するように唇の端を吊り上げた。
その瞳の奥には、これまでの冷徹なエリート専務の光は微塵も残っていなかった。
獲物を決して逃がさないと決意した獣のような、昏く、深く、狂気じみたまでの「執着の炎」が宿っていた。
「……冗談じゃない」
創の低く掠れた声が、静まり返った豪邸の空気を震わせた。
「誰が手放すものか。……君は、俺の妻だ」
秒針は、無情にも進んでいく。
チク、タク、チク、タク。
だが、その音はもはや、彼女が去るためのカウントダウンではなかった。
それは――。
すべてをかなぐり捨てた一人の男が、愛する妻を永遠に自分のものにするための、容赦なき戦いの火蓋が切って落とされた合図だった。




