【第31話】成瀬の特別講義。「口説け、でなきゃ一生後悔するぞ」
神崎ホールディングス本社ビル三十四階、専務執務室。
東向きの広大なパノラマウィンドウからは、五月の抜けるような青空と、眩い初夏の陽光が容赦なく差し込んでいた。眼下に広がる皇居の豊かな緑と丸の内の高層ビル群は、初夏の光を浴びて生命力に満ち溢れている。
だが、その壮大な眺望に背を向けた特注のウォールナット製デスクの周辺だけは、まるで氷河期の底のように凍てつき、重苦しい死線が張り詰めていた。
「…………」
神崎創は、両肘を机につき、組んだ両手の指の間に顔を埋めるようにして、微動だにせず項垂れていた。
寸分の乱れもなくアイロンが当てられたスリーピーススーツの肩は強張り、普段なら完璧に整髪料で撫で付けられている黒髪は、幾度も指を突っ込んで掻き毟ったせいでわずかに乱れている。
彫刻のように整った顔立ちは青白く沈み、切れ長の瞳の下には、前夜の一睡もできなかった激しい懊悩を物語る濃い隈が落ちていた。
そして――。
創の目の前、デスクの中央に広げられていたのは、神崎グループの財務諸表でも、数百億円を動かす買収案件の契約書でもなかった。
一冊の、透明なクリアファイル。
昨夜、深夜零時の静まり返った自宅のリビングで、妻である間宮栞が置き忘れていった――あの「決定的な紙束」だった。
『海辺の古民家カフェ 開業資金計画書(湘南・葉山物件)』
『残り180日。カウントダウン開始!!』
『あと半年で、3億円と完全な自由!!』
栞の丸みを帯びた、跳ねるような手書きの文字。
赤とゴールドのペンで三重、四重に重ねて描かれた、眩いばかりの特大の花丸。
そして、カラー印刷された葉山の古民家の写真たち。潮風に燻された太い梁、光の差し込む広大な三和土の土間、海風が通り抜ける日本庭園。
余白には、顧問弁護士である吉高晶子による完璧な非課税保全スキームの注記、インテリアバイヤーである親友・小山内唯による家具のレイアウト案、庭師の早川航に依頼する予定のハーブ園の造成計画に至るまで、寸分の狂いもない「独立へのロードマップ」が克明に記されていた。
(……本気だった)
創の喉の奥から、乾いた熱い呼気が漏れ出た。
指先が微かに震え、ファイルの端を強く握りしめる。
昨夜、この資料を目撃した瞬間から、創の思考は完全に停止していた。
深夜のあら炊きご飯の温もりも。
サンルームでボサノヴァを聴きながら共有した穏やかな沈黙も。
父・宗一郎の胃痛を癒やし、神崎家の呪縛を解いてくれたあの眩しい笑顔も。
銀座のグランメゾンで『うちの台所で炊く土鍋ご飯の方が落ち着きます』と微笑んでくれたあの夜の言葉すらも――。
すべては、彼女にとって「一時的な滞在先の出来事」に過ぎなかった。
彼女は自分に媚びず、誰にも甘えず、ただ約束の三百六十五日目を迎えた瞬間に、三億円の解決金を手にして綺麗さっぱり消え去る準備を、誰よりも誠実に、誰よりも完璧に進めていただけだったのだ。
あと、半年。
百八十日。
砂時計の砂が落ちるように、彼女との時間が一秒ずつ削り取られていく。
ゼロになったその日、彼女はトランク一つを持って、あの笑顔で『お世話になりました』と一礼し、自分の前から永遠に姿を消してしまう。
(嫌だ……)
胸の奥底が、万力で締め上げられるように軋んだ。
激痛だった。
これまでの人生で患ってきたどんな胃潰瘍の痛みよりも深く、冷たく、絶望的な痛みが、心臓を鷲掴みにしていた。
「手放せるわけが……ないだろう……」
掠れた呟きが、静まり返った執務室に落ちた、その瞬間だった。
――バァンッ!
「おい創! 十時からの経営戦略会議の資料、まだお前の決済印が――っておう、なんだそのツラは!?」
いつものようにノックもなしに扉を跳ね除け、片手にアイスコーヒーのカップを提げて入ってきたのは、副社長の成瀬拓真だった。
颯爽と入室してきた親友は、デスクの前で幽鬼のように項垂れる創の姿を見るなり、ピタリと足を止めて目を見開いた。
「おいおいおい……冗談だろ? なんだその顔色、完全に土気色じゃねえか。北米ファンドが破綻したか? それとも親父さん……会長がまた殴り込みでもかけてきたのか?」
「……成瀬。今は……お前に構っている余裕はない。出ていけ」
創は顔を上げず、絞り出すような低い声で拒絶した。
だが、百戦錬磨の成瀬が、そんな甘い牽制で引き下がるはずもなかった。
成瀬は革張りのゲストチェアにカバンを放り投げると、創のデスクへと大股で歩み寄り、机の上に両手をついて身を乗り出した。
そして、創が必死に覆い隠そうとしていたデスクの中央――あのクリアファイルへと、鋭い視線を落とした。
「あ? なんだこれ。……海辺の古民家カフェ、開業資金計画書……?」
「見るな!」
創が咄嗟に手を伸ばしてファイルを奪い返そうとしたが、成瀬の動きの方が一瞬早かった。
成瀬はひらりとファイルをすくい上げると、パッと数ページめくり、細い目をさらに細めて文字を追い始めた。
「……湘南・葉山、築八十一年の平屋。敷地百三十坪。土間に栗の一枚板カウンター、羽釜ご飯の朝食定食……。おいおい、なんだこの狂気じみたクオリティの事業計画書は。初期投資八千五百万、運転資金引いても残余二億円を信託運用で手堅くインカムゲイン……おい、これ……」
成瀬の視線が、最後のページの黄色い付箋――『残り180日。カウントダウン開始!!』というド派手な花丸へと突き刺さった。
「…………」
成瀬の動きが止まった。
数秒間の沈黙の後、成瀬の口元が、呆れ返ったように歪んだ。
「……栞ちゃん、のか」
「……返せ」
創は顔を真っ赤にして立ち上がり、成瀬の手からファイルを力尽くで奪い取った。
そして、大切な宝物を隠すように、胸元にぎゅっと抱え込んだ。
その必死すぎる姿、あまりにも無様な狼狽ぶりを見て、成瀬は深いため息を一つ吐き出した。
「はあぁぁぁ……。なるほどな。お前が朝から死人みたいな顔してフリーズしてた理由が、よーく分かったぜ」
成瀬は頭を掻きむしり、デスクの端に腰を掛けた。
そして、冷ややかな、だが親友としての鋭い眼差しを創へと突き刺した。
「昨日の夜、見つけちまったんだろ? リビングで」
「…………」
「見事な計画書じゃねえか。非課税スキームの監修は吉高晶子、家具の調達は小山内唯、庭の植栽は早川航……。あの子、着々と外堀埋めて、自分の夢に向かって一直線に走ってるじゃねえか。完璧な自立だ。ぐうの音も出ねえプロの仕事だぜ」
成瀬の淡々とした称賛が、創の胸を鋭利なナイフのように抉り抜く。
創はファイルを抱きしめたまま、デスクに手をついて俯いた。
成瀬はアイスコーヒーのストローをチュウと鳴らすと、容赦のない一言を、創の喉元へと突きつけた。
「……でお前、どうすんだよ?」
「……何がだ」
「何がだ、じゃねえだろ。あと半年だぞ。このまま指くわえて待って、三百六十五日目の朝が来たら、公正証書通りにきっちり三億円振り込んで、役所に離婚届出して、『今まで快適な同居生活をありがとうございました、お元気で!』って満面の笑顔で見送る気か?」
「…………っ」
創の呼吸が止まった。
想像しただけで、視界が真っ白になるほどの激痛が走る。
だが、二十八年間、感情を殺して論理だけで生きてきた男のプライドが、見苦しい言い訳を口から紡ぎ出させた。
「……契約は、絶対だ」
掠れた、震える声だった。
「そもそも……祖父の遺言条項を満たすための一年間の形式婚だ。佐竹堂の融資保証と、三億円の解決金。それが彼女に提示した対価であり、彼女はその対価のためにここにいる。……最初から、そういう約束だった」
「創」
「彼女は俺に惹かれてなどいない! 俺の金にも、地位にも、名誉にも興味がないんだ! 彼女が望んでいるのは、あの海辺の古民家と、誰にも干渉されない自由な人生だけだ! ……俺に、あいつを引き止める権利なんて……大義名分なんて、何一つとしてないんだよ……!」
悲痛なまでの叫びだった。
契約という名の高い壁。自らが築いた不可侵条約の前に、一歩も踏み出せない男の無力な絶望。
――その、刹那だった。
バシィィィィィンッッ!!
執務室の防音壁を震わせるほどの轟音が響き渡った。
成瀬が、手元にあった案件ファイルをデスクの上に叩きつけたのだ。
「な……成瀬?」
驚愕して顔を上げた創の胸ぐらを、成瀬の手が猛烈な力で鷲掴みにした。
「痛ってえな……! おい、成瀬、何を――」
「黙れ、この大馬鹿野郎が!!」
成瀬の怒声が、至近距離から創の鼓膜を叩き割った。
普段の軽薄な笑みなど微塵もない。成瀬の切れ長の瞳には、親友のあまりの腑抜けぶりに向けられた、本物の怒りの炎が燃え盛っていた。
「契約、契約って……馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返すんじゃねえよ! 大義名分だあ!? 権利だあ!? ふざけた寝言抜かしてんじゃねえぞ神崎創!!」
「な……」
「契約なんてな、人間が都合で作ったただの紙切れ一枚だろ! 法律だの公正証書だの、そんなもんを都合のいい盾にして、傷つくのが怖くて逃げ回ってるだけじゃねえか!!」
成瀬は創の胸ぐらをぐいと引き寄せ、顔を数センチの距離まで近づけた。
「お前が今、胸を痛めて死にそうになってるのは、契約の履行に問題が生じたからか!? 違うだろ! 一人の男として、あの女に惚れて惚れて惚れ抜いて、手放したくなくて気が狂いそうになってるからだろ!!」
「っ……!」
「だったら口説けよ!!」
成瀬は創の胸を突き放した。
創はデスクに背中を打ち付け、息を呑んで立ち尽くした。
「惚れてんなら、一人の男として、なりふり構わず口説き落とせ! 『契約だから』なんて澄ました顔して傍観者を気取ってんじゃねえ! 自分の手で、自分の言葉で、あの女を惚れさせろよ!!」
成瀬の言葉が、創の心臓の奥底を激しく抉り抜く。
だが、創はなおも青ざめた顔で首を振った。
「口説く……? そんなこと、できるわけがない……! あいつは俺からの好意など求めていないんだ! もし俺がそんな不器用な真似をして、あいつを怯えさせたら……この半年の平穏すら壊れて、今すぐ出ていかれてしまうかもしれないじゃないか……!」
「あのなあ!」
成瀬は両手で天を仰ぎ、心底から呆れ返ったように叫んだ。
「格好つけて『紳士的な配慮』を気取ってる間に、あの子がどうなるか、お前本当に想像できてんのか!?」
「……何?」
「いいか、よく聞け」
成瀬は冷酷な現実を、一文字ずつ創の脳髄に叩き込むように告げた。
「あと半年経ったら、あの子は予定通り三億円持って葉山へ行く。海沿いの古民家を改装して、最高に美味い朝食カフェを開く。地元の人たちに愛されて、行列ができて、毎日笑顔で生き生きと働く。……そのあの子の隣に立つのは、誰だと思う?」
「…………っ」
「あの爽やかなイケメン庭師の早川航か? それとも、カフェに通い詰める地元の若いサーファーか? はたまた、東京から移住してきた気の利いた爽やかな青年実業家か?」
成瀬はニヤリと、悪魔のような残酷な笑みを浮かべた。
「あの子はな、誰が見たって最高に魅力的な女なんだよ。自立してて、料理が上手くて、笑顔が可愛くて、芯が通ってて、愚痴一つ言わない。そんな女が、三億の資産持って海辺でカフェ開いてみろ。男どもが放っておくわけねえだろ!」
「やめろ……!」
創の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
「あの子はさっさと葉山の海風を浴びながら、別の男と新しい人生を始めて、別の男と手をつないで、別の男の作った飯を美味そうに食って、別の男と恋に落ちて、別の男と幸せになるんだよ」
別の男。
別の男と、手を。
別の男と、恋に。
別の男と、幸せに――。
「やめろぉぉぉぉぉぉっっ!!」
ドガァンッ!!
創の両手が、猛烈な力でデスクを叩きつけた。
備え付けのパソコンのモニターが激しく揺れ、ペントレイが跳ね上がる。
創の全身の血管という血管を、熱く濁ったマグマが逆流していた。
理性のヒューズが、音を立てて完全に焼き切れていた。
脳裏に鮮烈に蘇ったのは、先日のテラスの光景。
頬に土をつけ、庭師の早川航と肩を寄せ合い、腹の底から楽しそうに笑い転げていた栞の横顔。
あの笑顔を。
あの温もりを。
自分以外の、どこの馬の骨とも知れぬ男に向けるだと?
他の男の手を取り、他の男のためにあの至高の土鍋ご飯を炊き、他の男の腕の中で眠るだと……!?
「……ふざけるな」
創の瞳から、すべての迷いと躊躇いが消え去っていた。
そこに宿っていたのは――獲物を決して何者にも渡さないと決意した猛獣のような、剥き出しの狂気と執着の炎だった。
「冗談じゃない……! 誰が渡すものか……! あいつは……栞さんは、俺の妻だ!!」
「よっしゃあ!!」
成瀬がパンッと威勢よく両手を叩いた。
その顔には、親友をどん底から引きずり出した達成感と、最高に楽しげな悪巧みの笑みが満開になっていた。
「やっと目が覚めたか、このポンコツエリートが! その顔だよ、その目だ! ビジネスで何百億の商談をぶん獲る時の、そのギラついた目を恋愛でも見せろってんだ!」
「成瀬……!」
創は肩で息をしながら、親友を睨み据えた。
「俺はどうすればいい。何をすれば……あいつを引き止められるんだ……!?」
創の問いかけに、成瀬はニヤリと口角を吊り上げ、デスクの対面の椅子にドサリと腰を下ろした。
「いいか、創。お前はこれまで、数字と契約書と金だけで生きてきた。だから女の口説き方なんざ、偏差値マイナス五十のド素人だ」
「……否定はしない」
「いきなり『契約を破棄してくれ、愛してるからここに残ってくれ』なんて直球を投げたらどうなると思う? あの子は前世のトラウマ……いや、合理的すぎる性格のせいで、『創様、冗談はおやめください。契約違反ですよ』って冷ややかに防弾ガラスを下ろして、即座に荷造りを加速させるだけだ」
痛いところを突かれ、創は言葉に詰まった。
まさに、昨夜の創が恐れていた結末そのものだった。
「なら、どうするんだ」
「外堀を埋めるんだよ」
成瀬は人差し指をチチッと振ってみせた。
「胃袋を掴まれた男の定石だ。まずは、相手が確実に喜ぶ手土産と、日頃の感謝を偽装した『気遣い(貢ぎ物)』から始めろ」
「手土産と……貢ぎ物……?」
「そうだ。あの子は何が好きだ? 宝石か? ブランドバッグか? 違うだろ。あの子が本当に愛してるのは――料理だ。道具だ。美味いものを食うことだ。そして、自分が心地よく過ごせる快適な空間だ」
成瀬の言葉が、創の頭脳にカチリと嵌まり込んだ。
「あの子に『これは神崎家の妻としての義務です』なんて重たい体裁を押し付けるな。『いつも美味い夜食を作ってくれる同居人への、福利厚生の一環だ』『たまたま仕事の付き合いで手に入ったから、捨てるくらいなら使ってくれ』ってな。ビジネスライクな言い訳を用意してやりながら、相手の生活のど真ん中に、最高峰の貢ぎ物を全力で叩き込むんだよ!」
「ビジネスライクな、言い訳……」
「そうだ。あの子が断れない口実を作って、あの子の日常を、お前の金と手配力で埋め尽くせ。そうやって少しずつ、あの子の警戒心を解きながら、お前という男の存在を『いなくなったら困る、かけがえのないパートナー』に昇格させていくんだよ」
成瀬は身を乗り出し、創の机をトントンと指先で叩いた。
「手始めに、何から行く? あの子が今、一番欲しがってるものは何だ?」
創の脳裏に、数日前の光景が電撃のように閃いた。
厨房で、栞が雑誌の切り抜きを見つめながら、ため息交じりに呟いていた言葉。
『プロ仕様のスチームコンベクションオーブン……これがあれば、火入れが難しい自家製ローストポークも、温度管理が完璧にできるのになあ。でも、家庭用には大きすぎるし、さすがに手が出ないわよね……』
そして、先週の会食で、パリから来日していた某有名パティシエが創に手渡してきた、日本未発売の限定ショコラの予約券。
「…………ある」
創の瞳に、冷徹にして熱狂的な光が灯った。
「パリ直輸入の、予約三ヶ月待ちの限定ショコラ。そして……温度管理が零点一度単位で可能な、プロ仕様のスチームコンベクションオーブンだ」
「うわっ、重い! 初手から家電のラスボス級をぶっ込む気かよ!」
成瀬は腹を抱えて爆笑したが、すぐに親指をグッと立てて見せた。
「だが、いいぞ! それくらい極端な方が神崎創らしい! いいか創、絶対に『君のために買った』なんて言うなよ? 『取引先の家電メーカーからの試供品だ。邪魔だから使ってくれ』だぞ! 言い訳を完璧に演じきれ!」
「……分かっている」
創は立ち上がると、内線電話の受話器を迷わず取り上げた。
秘書室を呼び出すその声には、先ほどまでの迷いと絶望は微塵もなかった。
「専務だ。直ちに、神崎電産の営業統括本部長に繋いでくれ。……至急、手配させたい特注の厨房機器がある」
神崎創の総力を挙げた、人生初の「妻へのアプローチ作戦」。
その幕が、いま、静かに切って落とされた。
――そして、翌日の夜。
夕食の支度を終えた神崎邸の静寂を切り裂くように、玄関のインターホンがけたたましく鳴り響いた。
駆けつけた栞の目の前に現れたのは――ヤマト便の屈強な配達員三人がかりで担ぎ込まれてきた、木枠で頑丈に梱包された「巨大すぎる銀色の直方体」だった。




