【第32話】限定ショコラと最新調理家電 〜神崎専務の貢ぎ物攻撃〜
神崎邸の広大なリビングの南側、アイランドキッチンとダイニングスペースを繋ぐ一角に、それは圧倒的な存在感を放って鎮座していた。
鈍く、重厚に光を反射する、最高純度の一八―八ステンレススチール。
三重構造の強化耐熱耐圧ガラスで密閉された扉の奥には、二升分のホテルパンを三段同時に収容可能な、深々としたチェンバー(加熱庫)が口を開けている。
側面に配された大型フルカラー液晶タッチパネルには、電源コードが差し込まれた待機画面が静かに浮かび上がり、微細な冷却ファンの唸り声だけが、かすかに室内の空気を震わせていた。
「…………すごい」
間宮栞は、エプロンをつけたまま、その巨大な銀色の直方体の前に立ち尽くしていた。
夕方四時過ぎ、専門の設置業者三名がかりでリビングへ運び込まれ、専用の給水フィルターとアース線まで完璧に配線されて据え付けられた代物。
――業務用ハイエンド卓上スチームコンベクションオーブン。
厨房機器の展示会や、星付きレストランの厨房、あるいは製菓専門学校の特設ラボでしかお目にかかれない、料理人たちの憧れの頂点に君臨する怪物マシンだった。
(な、なんでこんなものが……神崎家のリビングに届くの……?)
栞は指先をそっと伸ばし、ひんやりと冷たいステンレスの縁を撫でた。
扉のハンドルの重厚感、隙間のないパッキンの気密性。
付属の取扱説明書とスペックシートを開けば、そこには料理人の理性を狂わせるような悪魔的な数字がずらりと並んでいた。
――過熱水蒸気から純粋スチームまで、湿度コントロール範囲:一パーセント刻みで〇〜一〇〇パーセント。
――庫内温度設定範囲:三十度から三百度まで、驚異の「〇・一度単位」での超精密制御。
――芯温センサー六点計測システム搭載。
――真空低温調理モード、急速排湿コンベクションモード、発酵モード完備。
(零点一度刻みの温度管理……!? スチーム量を一パーセント単位で調整できるなんて、そんなの、お肉のタンパク質が凝固するギリギリの温度を見極めて、肉汁を一滴も逃さずにロゼ色に焼き上げるための機械そのものじゃない……!)
数日前、自分がキッチンで何気なく呟いた言葉が脳裏をよぎる。
『プロ仕様のスチコンがあれば、火入れが難しい塊肉のローストポークも、パサつかずに極上のジューシーさで作れるのになあ……』
あれはただの独り言だった。家庭用のキッチンに導入するなど寸法面でも予算面でも非現実的であり、一年後に海辺でカフェを開いた際、資金に余裕があれば中古で探そうかと思っていた程度の夢物語だったはずだ。
それなのに、なぜ。
ピカピカの最新型、それも神崎グループ傘下の精密機器メーカー「神崎電産」とドイツの老舗厨房機器メーカーが共同開発したばかりの、市場価格にすれば三ケタ万円は下らないフラッグシップ機が、突如としてリビングに据え置かれているのか。
混乱に頭を抱え、スペックシートに見入っていた、その時だった。
カチャリ、と玄関ホールの重厚な防音扉が開き、続いて規則正しい革靴の足音が近づいてきた。
「……あ」
時計を見れば、午後七時過ぎ。
いつもなら深夜零時を回ってから泥のように帰宅するはずの男が、昨日に引き続き、異例の早さで帰ってきたのだ。
リビングの引き戸が静かに開く。
現れたのは、仕立てのよいチャコールグレーのスリーピーススーツに身を包んだ、神崎創だった。
しかし、今日の創の様子は、どこからどう見ても尋常ではなかった。
彫刻のように整った顔立ちは、能面のように硬直している。
背筋は不自然なほど定規のように真っ直ぐ伸び、視線は栞の顔を避けるように斜め四十五度上を彷徨っていた。
そして――その左脇には、マットブラックの上質な紙袋が一つ、まるで機密文書でも抱えるかのように不自然な力加減で抱きかかえられていた。袋の口からは、深紅のサテンリボンがわずかに覗いている。
「……おかえりなさいませ、神崎様」
栞がスリッパを揃えて迎えると、創はビクリと肩を跳ねさせた。
そして、喉仏を一度激しく上下させると、
「……ゴホン! ……コホンッ!」
わざとらしい、あまりにもぎこちない咳払いをリビングの静寂に響かせた。
その耳の付け根が、ワイシャツの白い襟元の上で、カッと赤く染まっているのを栞は見逃さなかった。
(な、何かしら……? すごく緊張していらっしゃる……?)
創の脳内では、今朝オフィスで成瀬拓真から叩き込まれた「特別講義」の言葉が、火災警報器のようにけたたましく鳴り響いていた。
――いいか創! 絶対に『君のために買ってきた』なんて言うなよ!
――『取引先からの試供品だ。捨てるくらいなら使ってくれ』だ!
――ビジネスライクな言い訳を完璧に演じきって、相手に罪悪感を持たせずに受け取らせろ!
(落ち着け、俺は神崎創だ。数百億の商談を動かす男だ。……ただの同居人への、業務上の物品提供に過ぎない……!)
創は心の中で必死に自己暗示をかけながら、ネクタイの結び目に手をやって緩めた。
そして、リビングの中央に鎮座する巨大な銀色のスチコンを一瞥すると、できる限り平坦で、感情を削ぎ落とした「専務のビジネスボイス」を装って口を開いた。
「……届いたようだな」
「あ、はい! 神崎様、これ……一体何事でしょうか? 夕方に突然業者さんがいらして、リビングに据え付けていかれたのですが……」
「ああ、それか」
創はポケットに右手を突っ込み、何気なさを装いながらスチコンへと視線を流した。
「……神崎電産の厨房機器事業部がな。今期、欧州の高級ホテル向けに投入するフラッグシップモデルのプロトタイプだ。役員室に耐久テストと社内評価の名目で一台回ってきたのだが……オフィスに置いておくには場所を取りすぎるし、そのまま倉庫で埃を被せるのも資源の無駄だ」
創は伏し目がちに、だが澱みなく言い訳の言葉を並べ立てた。
「君がこの屋敷で調理を担当していることは知っている。……同居人としての福利厚生、および社内モニターとしての機能評価を兼ねて、ここで試運転させるのが最も合理的だと判断した。だから……捨てるのも勿体ないから、使ってくれ」
捨てるのも勿体ないから、使ってくれ。
台詞の棒読み感は否めなかったが、大企業の役員が口にする「余剰備品の流用」としては、これ以上ないほど筋の通った口実だった。
さらに創は、脇に抱えていたマットブラックの紙袋を、まるで爆発物を処理するかのようなぎこちない手つきで、ローテーブルの上へとことりと置いた。
「あと……これもだ」
「こちらは……?」
「取引先との会食の席で、先方の会長から手土産として頂戴した。パリから直輸入された限定の菓子らしいが……俺は甘いものは口にしない。放置して賞味期限を切らすのは先方にも失礼だ。……これも、余り物だ。君が処分してくれ」
処分してくれ。
そう言い放った創の指先は、紙袋を離す瞬間、微かに震えていた。
余り物なわけがなかった。
昨日の午後、パリの本店に直接国際電話をかけ、神崎グループの欧州法人を通じて強引に枠を確保させた、完全予約制・三ヶ月待ちの幻のアソートボックス。今朝の成田便で空輸され、先ほど専務執務室に届いたばかりの、出来立ての逸品だった。
創は息を殺し、対面に立つ栞の反応を待った。
怒られるだろうか。
「こんな巨大な機械を勝手に持ち込まないでください」「契約結婚の同居人に対する余計な施しは不快です」と、あの冷ややかな防弾ガラスのような笑顔で突き返されるのではないか――。
冷徹なエリート専務の心臓は、まるで判決を待つ被告人のように激しく脈打っていた。
しかし――。
沈黙の後、栞の口から漏れ出たのは、拒絶の声ではなかった。
「…………っっ!!」
栞は両手を口元に当て、琥珀色の瞳を信じられないものを見るように見開いていた。
そして、小走りでスチコンの前へと駆け寄ると、ガラス扉の前にしゃがみ込み、食い入るように内部のノズルやファンを凝視し始めたのだ。
「うそ……! これ、本当に使っていいんですか……!? 神崎電産が本気を出して作った、あの噂の業務用ハイエンドモデルですよね!? 熱風循環のブレードが航空宇宙工学のタービン形状になってるやつじゃないですか!」
「え……あ、ああ。そうだ」
予想外の食いつきっぷりに、創は思わず一歩後ずさった。
「見てください、このタッチパネルのUI! スチーム量を一パーセント刻みで調整できるなんて、家庭用の最高級オーブンでも絶対にあり得ません! それに、この芯温センサー……肉の塊の中心部に針を刺しておけば、狙った温度に達した瞬間に自動でスチーム加熱から低温コンベクションに切り替わるプログラムが組まれてる……! 神様……!」
栞は両手で顔を覆い、感極まったように歓声を上げた。
その瞳は、新しいオモチャを与えられた幼子のように、キラキラと眩い光を放っている。
「試供品をこんな軽々ともらえるなんて……神崎ホールディングスの役員特権って、本当にバグっていませんか!? 凄すぎます、神崎様! 福利厚生が手厚すぎて、私、足向けて寝られません!」
「ば、バグって……いや、役員特権というか、ただの業務上の合理的な……」
「ありがとうございます! 大切に、骨の髄まで使い倒させていただきますね!」
栞は立ち上がると、深々と、だが心底から嬉しそうに頭を下げた。
疑念など微塵も抱いていない。
「夫が自分を口説くために必死で手配した貢ぎ物」などとは一ミリも思わず、ただ「大企業の役員が手に入れた便利な試供品を、運良くお裾分けしてもらった」と、完璧にビジネスの文脈で受け取っていた。
(……よし)
創は背中を向けたまま、喉の奥で息を整えた。
胸を撫で下ろす。
成瀬の作戦は、完璧に機能していた。
警戒されることなく、彼女の日常の中心に、最高峰の道具を滑り込ませることに成功したのだ。
そして、栞の視線は、テーブルの上に置かれた黒い紙袋へと移った。
「……あ、神崎様。こちらの『余り物のお菓子』も、開けて拝見してよろしいでしょうか?」
「ああ。構わない。好きにしてくれ」
創は何気なさを装ってソファに腰を下ろし、腕を組んだ。
だが、その視線は栞の手元に完全に釘付けになっていた。
栞は丁寧に紙袋から箱を取り出した。
現れたのは、漆黒のベルベットのような手触りの化粧箱。中央には、金箔押しで優美な筆記体のロゴが刻まれている。
『Chocolaterie de l'Étoile - Paris』
「……っ!? エトワール……!? パリのサンジェルマン・デ・プレにある、あの完全会員制のショコラティエですか!?」
和菓子屋の娘であり、製菓の知識も深い栞の目が、再び真ん丸になった。
「あそこ、カカオ豆の選別から焙煎、コンチングまで全部自社のアトリエで手作業でやってるから、一日に数十箱しか作れない伝説のお店ですよね!? 日本には常設店がなくて、バレンタインの催事ですら抽選販売で即完売する……!」
「……そうなのか。俺は詳しくないが」
創は平然と言い放ったが、内心では(調べ尽くして手配させたんだ)と叫んでいた。
栞は震える指先で深紅のリボンを解き、黒い蓋をそっと持ち上げた。
――フワッッッ……!!
その瞬間。
リビングの空気が一変した。
立ち上ったのは、安物のチョコレートのような、甘ったるい香料の匂いでは断じてなかった。
極限まで深く、芳醇で、まるで年代物の赤ワインやエスプレッソの薫煙を思わせる、野生味あふれるカカオ豆本来のアロマ。
そこに、わずかに寄り添うマダガスカル産バニラの甘やかな芳香と、柑橘の花の蜂蜜のような高貴な薫り。
箱の中に整然と並んでいたのは、息を呑むほど美しい十二粒のボンボンショコラだった。
表面には、漆塗りの美術品のように一切の曇りのない、艶やかな光沢(テンパリングの完璧な証拠)。
金箔が一筋あしらわれたプラリネ、深紅のラインが走る木苺のガナッシュ、カカオニブが散らされたビターガナッシュ。一粒一粒が、宝石のように静かに輝いている。
「……綺麗。食べるのがもったいないくらい……」
栞は息を呑み、しばしその芸術品を見つめていた。
だが、ショコラティエへの敬意を込めて、栞は手袋のような薄いパラフィン紙を外し、中央に鎮座していた最もシンプルな一粒――ベネズエラ産クリオロ種カカオ七十五パーセントのガナッシュを、指先でそっとつまみ上げた。
指先の体温が伝わった瞬間、表面のクーベルチュールがほんのわずかに柔らかく沈み込む。完璧な融点設計。
「……いただきます」
栞は目を閉じ、その一粒を、静かに唇の間へと滑り込ませた。
前歯を当てる。
パリッ、と。
極限まで薄くコーティングされた外側のシェルが、心地よい微音を立てて砕けた。
その刹那――。
「…………っっっっ!!」
栞の喉仏が、小さく震えた。
体温三十六度の口腔内で、内部のガナッシュが一瞬にして、トロリと、滑らかなベルベットのように溶け広がった。
重厚なカカオの苦味。
だが、嫌な渋みやえぐみは微塵もない。
舌の上で花開いたのは、森の木々や熟したドライフルーツを思わせる、力強く奥深い酸味と、上品極まりない甘みのシンフォニー。
さらに、後味をキュッと引き締める、ゲランド産の天日塩の微かな塩気。
噛む必要すらなかった。
ただ舌の熱だけで、カカオの油脂分が純度百パーセントの旨味へと昇華し、喉を通って胃の腑へと落ちていく。
飲み込んだ後、鼻腔に残ったのは、まるで上質な香水を纏ったかのような、圧倒的な幸福の余韻だけだった。
「……っ、美味しい……!!」
栞は両手を頬に当て、ふにゃりと目元を崩した。
その顔に浮かんだのは――大企業の妻としての体裁でも、完璧な同居人の営業スマイルでもない。
ただの、美味しいものに心を奪われ、全身の力が抜けてしまった一人の少女の、蕩けるような無防備な笑顔だった。
「美味しい……! こんなショコラ、生まれて初めて食べました……! 口に入れた瞬間に消えちゃうのに、カカオの香りがずっと胸の奥に残ってて……生きててよかった……!」
栞は幸せそうに身体を揺らし、蕩けきった瞳で創を見上げた。
「神崎様、本当にこれ、処分してしまって良かったんですか!? 一口だけでも召し上がりませんか? 飛んじゃうくらい美味しいですよ!」
「…………」
ドクンッ!!
ソファに座っていた神崎創の心臓が、肋骨の内側で爆発した。
息が止まった。
目の前に咲いた、あの笑顔。
両手を頬に当て、頬をピンク色に染め、心底から幸せそうに蕩けている栞の姿。
撃ち抜かれた。
全身の血液が沸騰し、頭蓋骨の奥がカッと熱くなる。
あまりの破壊力に、視界が眩むほどだった。
(……あ、危ない……!)
創は必死に太ももの筋肉に力を込め、ポーカーフェイスの仮面が崩れ落ちそうになるのを死ぬ気で食い止めた。
ここで取り乱してはならない。
「君のために買った」などと口を滑らせれば、成瀬の言う通り、彼女の防弾ガラスが再びガシャンと下りてしまう。
創はゴクリと唾を飲み込み、視線を強引に手元のスマートフォンへと落とした。
そして、極めて低く、冷徹を装った声で短く返した。
「……いや。俺は甘いものはいい。君が……喜んでくれたなら、それで十分だ」
「はい! ものすごく喜んでます! 大切に、一粒ずついただきますね!」
栞は宝物のように箱の蓋を閉じ、胸に抱きしめると、再び最新のスチコンの前へと駆け寄っていった。
タッチパネルの操作方法をマニュアルと照らし合わせながら、早くも明日の献立の構想に胸を躍らせている背中。
その華奢な後ろ姿を見つめながら――。
創は、ソファの影、彼女から死角になった手元で。
グッッ……!!
誰にも見えないように、親指を立て、渾身の力で小さなガッツポーズを握りしめていた。
(……勝った)
創の胸の奥で、猛烈な歓喜の炎が燃え盛っていた。
(成瀬の言った通りだ……! 第一歩は、完全なる大成功だ……!!)
彼女は笑った。
自分の手配した最新家電に目を輝かせ、自分の持ち帰ったショコラを食べて、あの蕩けるような笑顔を見せてくれたのだ。
この作戦を続ければいい。
彼女が喜ぶ最高峰の食材、調理器具、快適な空間――そのすべてを彼女の日常に叩き込み、外堀を埋め尽くせば、彼女はこの屋敷から、自分の前から離れられなくなるはずだ。
冷徹だった男の瞳に、勝利への確信が宿っていた。
――しかし。
神崎創は、まだ気づいていなかった。
前世で「夫に尽くしすぎて過労死した」という絶望的なトラウマを抱える間宮栞の自己防衛本能が、常人の想像を遥かに絶するほど強固で、歪みきっているという事実に。
その夜遅く。
二階の栞の私室で行われた、親友・小山内唯との電話相談によって。
創の渾身のアプローチは――創自身のまったく意図しない、斜め上の「とんでもない方向」へと解釈されようとしていたのである。




