【第33話】栞の解釈。「このシェアハウス、福利厚生がバグっていませんか?」
午後十時半。
五月の夜風が初夏の匂いを運んでくる神崎邸の二階、間宮栞の私室。
柔らかな間接照明に照らされたキングサイズベッドの上で、入浴を終えたばかりの栞は、オーガニックコットンのパジャマに身を包んで足を投げ出していた。
サイドテーブルの上には、氷を浮かべた冷たいレモングラスとペパーミントの水出しハーブティー。
そしてその隣には、先ほどリビングから大切に運んできた、漆黒のベルベット化粧箱――パリの老舗『ショコラトリー・ド・レトワール』の限定アソートが置かれていた。
十二粒のうち、先ほど創の前で一口食べた一粒を除き、十一粒の美しい宝石のようなボンボンショコラが、金箔や艶やかなグラサージュをまとって行儀よく並んでいる。
甘美でビターなカカオの芳香が、部屋の隅々にまで贅沢に漂っていた。
「……うん。やっぱり、何度見ても異常だわ」
栞はスマートフォンを手に取り、スピーカーフォンをタップした。
呼び出し音が二回鳴ったところで、ブツリと接続される。
『もしもーし。どしたの栞? こんな時間に珍しいじゃん。葉山の古民家の3Dパース、もう上がってきた?』
スピーカーから聞こえてきたのは、親友・小山内唯の元気な声だった。背景からは、唯がデザイン事務所で残業しているのか、キーボードを小気味よく叩く乾いた音が微かに混ざっている。
「ううん、パースじゃなくてね。……ちょっと唯、聞いてくれる? 最近、うちのシェアハウスの福利厚生がバグり散らかしてて、ちょっと本気で怖いんだけど」
『……は?』
唯のタイピング音がピタリと止まった。
『シェアハウスって、あんたの住んでるあの白金の一等地にある大豪邸のこと? で、福利厚生って何? また神崎専務が何かやらかしたわけ?』
「やらかしたっていうか……さっきね、リビングに突如として、市場価格数百万円は下らない『業務用スチームコンベクションオーブン』が据え付けられたの」
『…………はあぁぁぁ!?』
スピーカーが割れんばかりの絶叫が返ってきた。
『スチコン!? スチームコンベクションオーブンって、あのホテルの宴会場とか星付きレストランの厨房の真ん中に鎮座してる、あの巨大な銀色の要塞のこと言ってる!?』
「そう、それ! 神崎電産がドイツの厨房機器メーカーと共同開発した最新型のプロトタイプで、過熱水蒸気から純粋スチームまで一パーセント刻み、温度管理は驚異の零点一度単位で制御できるフラッグシップモデルよ! 給水管もアースも直結で、完全にプロの厨房設備がリビングの一角を占拠してるの!」
『なんで!? なんでそんなガチの厨房兵器が個人のリビングに届くわけ!?』
「創様が言うにはね、『神崎電産の役員室に耐久テストの名目で回ってきた試供品だが、オフィスに置くと邪魔だし捨てるのも勿体ないから、君がモニター代わりに使って処分してくれ』って」
『捨てるわけねえだろそんな超高級機!!』
唯の猛烈なツッコミが炸裂した。
『試供品を役員が自宅に持って帰って妻に使わせるって、どんな豪快な私物化だよ! コンプライアンスどうなってんの神崎ホールディングス!』
「それだけじゃないのよ」
栞はサイドテーブルの黒い小箱に視線を落とし、声を潜めた。
「そのスチコンの横にね、無造作に黒い紙袋が置いてあったの。中を開けたら、パリのサンジェルマン・デ・プレにある『エトワール』の限定ショコラアソート。日本未発売で、本国でも予約三ヶ月待ちの幻の逸品よ。……それも『取引先の会食で余ったから、捨てるくらいなら君が処分してくれ』って言われて渡されたの」
『エトワール……!? あんた、あの海外セレブ御用達の、一粒千円以上するショコラ!? 会食で余るわけないじゃん、あんなの手土産の最高峰だよ!』
「でしょう!? しかもね、極め付きは創様が自室に戻る直前、ボソッと呟いていった言葉よ」
栞はベッドの上で体育座りになり、眉をひそめて続けた。
「『もしキッチン周りの動線や棚の配置に不便があるなら、神崎建設の特注リフォーム部隊を手配して改修させる。費用は全額グループの福利厚生費で損金処理するから、好きにいじってくれ』って……」
『リフォーム部隊の派遣!?』
唯の声が裏返った。
『ちょっと待って! スチコン、限定ショコラ、さらにキッチンの全面リフォーム提案!? それ、全部今日一日の出来事なわけ!?』
「そうよ! ねえ唯、どう思う? このシェアハウス、いくらなんでも同居人に対する待遇が手厚すぎない!? 私、ただの一年限定の契約居候よ? 家賃ゼロで住まわせてもらって、三億円の解決金が確定してて、その上こんな最新鋭の調理家電と高級スイーツまで支給されるなんて……あまりにも福利厚生が過剰すぎて、裏に何か恐ろしい罠があるんじゃないかって背筋が寒くなってきたのよ!」
栞の切羽詰まった訴え。
しかし、スマートフォンの向こう側からは――。
十秒近く、完全な沈黙が返ってきた。
「……唯? もしもし、唯?」
『…………はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……』
スピーカーから漏れ出たのは、この世のすべての理不尽を背負い込んだかのような、果てしなく深いため息だった。
『……あんたさ。本気で言ってるの、それ?』
「え? 何が?」
『何が、じゃないよ! 栞、あんた頭のネジ何本かどこかに落っことしてきたの!?』
唯が机をバンと叩く音が響いた。
『いい? 冷静に三秒間考えなさい! 男が! わざわざ妻が欲しがってた調理家電の最高峰をメーカーに無理言って手配して! パリから空輸させた限定スイーツを抱えて定時退社してきて! 「使いやすいように家ごとリフォームしてやる」って言い出すなんて! それ、百パーセントあんたを口説きにかかってんでしょーが!!』
「…………は?」
栞は目を丸くした。
今、この親友は何と言ったのか。
「く、口説く……? 創様が、私を……?」
『そうだよ! それ以外の何物に見えるわけ!? 「試供品」も「余り物」も、男のド下手くそな照れ隠しに決まってんでしょ! あんたが前に「スチコンがあればローストポークが美味しく焼けるのに」って言ってたのを覚えてて、必死に権力とコネ使って手に入れて、喜ぶ顔が見たくて持ってきたんだよ! 典型的な、胃袋掴まれた男の貢ぎ物攻撃じゃん!』
唯のまくし立てるような力説。
恋愛リアリティーショーの解説員のような熱量。
しかし――。
その言葉を聞いた瞬間、間宮栞の表情からすべての動揺がすうっと消え失せた。
琥珀色の瞳の奥に冷たい理性の光が戻り、栞は呆れたようにふっと息を吹き出したのだ。
「……もう、唯ったら。何冗談言ってるのよ」
『冗談じゃないって! 大マジだよ!』
「あり得ないわよ」
栞は首を横に振り、極めて冷静な、平坦な声で言い放った。
「絶対に、万が一にも、天地が引っくり返ってもあり得ないわ。あの神崎創様が、私に惚れるだなんて」
『なんでそう言い切れるわけ!? 状況証拠が真っ黒じゃん!』
「唯。あなた、創様という人間を分かっていないわ」
栞はシーツの上で指先を組み、冷徹に語り始めた。
「創様はね、神崎グループの若き専務であり、感情の出力が完全に壊れた『鋼の計算機』よ。幼少期から冷酷な家憲に縛られ、父親との確執の中で、数字と合理性だけを武器に生き抜いてきた男なのよ。あの人にとって、結婚とは祖父の遺言条項をクリアし、自らの株式相続権を確定させるための『純粋なビジネス取引』に過ぎないの」
『いや、でもさ、人間なんだから途中で感情が動くことだって――』
「動かないわ」
栞の声音に、ほんのわずかだけ、刃物のような硬質な響きが混ざった。
「絶対に、動かないのよ」
栞の脳裏を、前世の記憶が冷たい風となって吹き抜けていた。
前世の自分。
入籍初日、純粋な恋心を抱いてこの屋敷に嫁ぎ、創のために尽くそうとしたあの日々。
毎晩、夫の帰りを正座して待ち続け、冷めきった料理を何度も温め直し、夫が帰宅するたびに怯えながらも笑顔を作った。
だが、創が返してきたのは、氷のように冷淡な眼差しと、『形式上の婚姻だ、干渉するな』という拒絶の言葉だけだった。
創にとって、妻の献身は「重荷」であり「不快なノイズ」でしかなかったのだ。
妻が体調を崩しても、胃痛でうずくまっていても、創は一度として立ち止まることはなかった。会社へ逃げ、仕事を優先し、完全に無関心を貫いた。
その結果、自分は胃潰瘍を悪化させ、吐血し、冷え切った病室でたった一人で息絶えたのだ。
(期待したら、死ぬ)
その冷酷な教訓が、栞の魂の骨の髄まで刻み込まれていた。
男の些細な気まぐれや親切を「愛情」だと勘違いし、勝手に期待を膨らませ、見返りを求めた瞬間に、人間関係の歯車は狂い出す。
そして最後には、期待を裏切られた絶望で、自分自身の内臓を焼き焦がすことになるのだ。
一度死んで、生き返ったのだ。
あんな愚かで無様な死に方を、二度と繰り返すわけにはいかない。
「唯。いい? 創様の行動には、すべて完璧な『合理的動機』があるのよ」
栞はベッドから身を起こし、講義をする教授のように淡々とロジックを組み立て始めた。
「まず、第一に。この半年間、私たちの同居生活はどうだったと思う?」
『え……? どうって……まあ、順調なんじゃないの?』
「順調どころじゃないわ、大成功よ! 私は『生活ガイドライン』を完璧に遵守し、創様のプライベートに一ミリも干渉しなかった。夜遅くに帰ってきても文句一つ言わず、朝は静かに過ごし、何一つ余計な要求をしていない。それどころか、親族の査問茶会を法律知識で撃退し、あの恐ろしい宗一郎会長の胃潰瘍を雑炊一杯で治して北米ファンドの決裁まで通させたのよ」
『あー……確かに。妻としての立ち回り、百点満点どころか五万点くらい叩き出してるね』
「そうでしょう? つまり、創様にとって私は、『予定外のトラブルを一切起こさず、むしろグループの経営リスクを次々と排除してくれる、極めて優秀なビジネスパートナー』なのよ」
栞は確信に満ちた笑みを浮かべ、人差し指を立ててみせた。
「だからよ、唯。創様は極度の合理主義者だからこそ、こう考えているのよ。
――『この間宮栞という同居人は、非常に有能で使い勝手が良い。契約満了までの残り半年間、彼女のモチベーションを最高潮に維持させ、何のエラーも起こさせずに円満に任務を完遂させるためには、適切な「インセンティブ(業績連動賞与)」を与えるのが最も費用対効果が高い』とね!」
『……は? インセンティブ……?』
「そうよ! 優秀な契約社員に、社内モニター用の最新家電を融通して機嫌を取るのは、大企業のマネジメントとして極めて一般的な福利厚生じゃない! お菓子だって、会食で余ったものを配ることで『日頃の業務に対する労い』を演出しているだけよ。キッチンのリフォームだって、私が美味しいご飯を作り続けるための『職場環境の設備投資』に過ぎないわ!」
淀みのない、完璧な論理展開。
さらに、栞はトドメの一撃を放った。
「そして何より、最大の理由は『手切れ金の前払い』よ」
『て、手切れ金……!?』
「ええ。考えてもみて。あと半年で契約満了を迎えた時、もし私が『この屋敷の居心地が良すぎるから、三億円はいらないので離婚したくありません!』なんて駄々をこねたら、創様にとっては最大の悪夢でしょう? 公正証書の履行が滞り、親族に嗅ぎつけられ、法的な紛争に発展するリスクがあるわ」
栞は得意げに胸を張った。
「だから創様は、今のうちから手厚すぎるボーナスを与えて、私に『神崎グループからの恩恵は十二分に受け取った』と満足させ、半年後に後腐れなく、笑顔で綺麗サッパリ退去してもらうための『先行投資』をしているのよ! 円満離婚を確実にするための、リスクヘッジよ!」
「…………」
スピーカーの向こう側で、唯が完全に絶句していた。
完璧だった。
狂気じみているほどに理路整然とした、鉄壁の「認知の歪み」。
好意を好意として受け取れば傷つくという前世のトラウマから生まれた、絶対防衛システム。
どんな熱烈なアプローチであっても、彼女の頭脳を通せば、一瞬にして「企業の福利厚生」と「手切れ金の前払い」という無機質なビジネスロジックへと変換されてしまうのだ。
『……栞』
「何?」
『あんたのその思考回路……鋼鉄の装甲車すぎて、逆に涙出てきたわ』
「え? 褒めてるの?」
『褒めてねえよ! ドン引きしてんだよ!』
唯が頭を抱えて叫んだ。
『おいおいおい……じゃあ何? 神崎専務が一生懸命頭下げて欧州からオーブン取り寄せて、パリから限定チョコ空輸して、ドキドキしながら渡したブツがさ……あんたの中では全部「優秀な派遣社員への現物支給ボーナス」と「手切れ金の前払い」として処理されてるわけ!?』
「当たり前じゃない。それ以外に何の理由があるのよ」
『不憫すぎる……!』
唯が机に突っ伏して笑い転げる音が聞こえてきた。
『あはははは! 神崎専務、不憫すぎて草生えるんだけど! 天下のエリート後継者が、全身全霊で口説きにかかってんのに、相手の女には「福利厚生の手厚いシェアハウスの管理人」扱いされてるなんて! もし本人にこの解釈伝えたら、ショックで泡吹いて倒れるんじゃないの!?』
「失礼ね、唯! 私は創様の合理的な経営判断を高く評価しているのよ! こんなにホワイトな契約先、日本中探したってどこにもないわ!」
栞はふふんと鼻を鳴らし、ベッドの上で伸びをした。
「というわけで! 私はこの手厚すぎる福利厚生を、遠慮なく骨の髄まで使い倒すことに決めたわ!」
『使い倒すって……あのスチコン、本当に使う気?』
「もちろんでしょ! 使わなきゃ失礼じゃない! ちょうど明日は土曜日だし、早速あの最新オーブンの性能テストを兼ねて、葉山のカフェの看板メニューになる予定の『自家製ローストポーク』の試作に取り掛かるわ!」
『ローストポーク! いいねえ、豚肉の塊!』
「絹代さんにお願いして、神崎家御用達の岩手県産・白金豚の肩ロースの塊肉を一本、丸ごと仕入れてもらう手はずを整えたのよ。表面をテラスのフレッシュローズマリーとタイム、粗塩、すりおろしニンニクでマリネして、スチコンの芯温センサーを使って六十三度で三時間……! 肉汁を一滴も逃さずに、ロゼ色の極上に焼き上げてみせるわ!」
『うわああ、絶対美味いじゃんそれ! 私も食べに行きたい!』
「ふふっ、完成したら写真送ってあげるわね! ……あ、もちろん、創様にも『モニター評価用の試作品』として、半分おすそ分けしてあげるつもりよ。同居人の業務の一環としてね!」
『……はいはい。業務ね、業務。精々美味しく焼いてあげなさいよ、哀れなスポンサー様に』
唯の半ば諦めたような生温かい笑い声を聞きながら、栞は通話を切った。
部屋に、再び穏やかな静寂が戻る。
栞はベッドから降りると、サイドテーブルのショコラの箱にそっと触れ、それから窓の外の夜空を見上げた。
澄み切った五月の夜空には、銀色の月が静かに輝いている。
「あと、半年……」
栞は微笑んだ。
完璧なシェアハウス。
最高峰の調理設備。
手厚すぎる福利厚生。
そして、約束された三億円と、自由な未来。
(神崎様、ありがとうございます。あなたの期待に応えて、私、残り半年間も完璧にミスのない同居人を務め上げてみせますからね!)
愛などという不確かなものに頼らない、完璧なビジネスパートナーシップ。
その鉄壁の誤解を胸に抱いたまま、栞は心地よい眠りへと落ちていった。
――そして、迎えた翌日、土曜日の夕暮れ。
最新スチコンの庫内から、ハーブと香ばしい豚肉の脂の香りがキッチンを満たし始めた頃。
部屋着姿の神崎創が、成瀬の「第二段階の指示」を胸に秘め、不自然なほど緊張した面持ちで、台所へと足を踏み入れようとしていた。




