【第8話】死んだ客間の再生計画 〜親友・唯の緊急招集〜
神崎邸の一階、南東の角に位置するその部屋は、屋敷の中で最も日当たりが良いはずの一等地でありながら、何年もの間、完全な「死に部屋」と化していた。
重厚なマホガニーの扉を押し開けると、微かに鼻を突くのは、長年閉め切られていた部屋特有の埃っぽい匂いと、古い革製品の油の匂いだった。
南向きの大きなガラス窓には、光を一切通さない深緑色の分厚いビロードカーテンが固く閉ざされ、昼前だというのに薄暗い。
部屋の中央に鎮座しているのは、大人が五人は座れそうな漆黒の本革張りソファセットと、黒光りする大理石のローテーブル。壁一面の飾り棚には、いつの時代に贈られたのかも分からない埃をかぶったクリスタルのトロフィーや洋酒のボトルが、博物館の展示品のように整然と並んでいる。
「うわぁ……。絵に描いたような『昭和の大物フィクサーの密談部屋』じゃん。ここで葉巻吸いながら悪い相談でもしてたんじゃないの?」
部屋の真ん中に立ち、天井を見上げながら呆れたような声を上げたのは、小山内唯だった。
後ろ前に被ったキャップから飛び出たショートボブを揺らし、首にかけた金属製メジャーの端をカチカチと指先で弄んでいる。
「でしょ? 前世……じゃなくて、以前ここを覗いた時も、あまりの重苦しさに息が詰まりそうだったのよね」
栞は苦笑しながら、手にした羽ばたきで近くのサイドテーブルをパタパタと払った。
前世の栞にとって、この客間は「触れてはならない神崎家の聖域」の一つだった。
創の父・宗一郎が昔、政財界の要人を招くためだけに使っていたという応接室。一歩足を踏み入れるだけで「勝手なことをして怒られるのではないか」と恐怖に震え、掃除をすることすらハウスキーパー任せにして近寄らなかった場所だ。
だが、今の栞の目は違う。
今朝、創と交わした『生活ガイドライン』には、共有スペースの自由使用が明確に謳われている。家主の許可はすでに法的に下りているのだ。
「唯、よく見て。この部屋、天井高が三メートル以上あるのよ。それに南側は一面が掃き出しの大きなガラス戸で、外には専用のテラスまでついてるの。こんなに風通しが良くて日当たりのいい場所を、この真っ黒なソファと埃で埋め殺しておくなんて、空間に対する冒涜だと思わない?」
「そりゃ猛烈に思うね! インテリアバイヤーとしては、この南向き採光を殺してるカーテンを引きちぎりたい衝動に駆られてるよ」
唯はメジャーをシュルシュルと引き出し、壁から窓までの距離を手早く測り始めた。カチャリと金属音が響く。
「で、栞。この部屋を具体的にどうしたいわけ? まさか旦那様とイチャイチャするための愛の巣にしたい、なんて言わないよね?」
「あるわけないでしょう」
栞は即座に首を横に振り、エプロンのポケットから一冊のスケッチブックを取り出して広げた。
「ここをね、私の『秘密基地』にしたいの。一年後に海辺で開く予定の、和モダンカフェの予行演習スペース。昼間はここでインテリアやメニューのアイデアを練って、疲れたら美味しいお茶を飲んで、日向ぼっこしながら本を読める……完全な私専用のリラックス空間!」
「おっ、いいねえ! カフェのテストキッチンならぬ、テストラウンジってわけだ!」
唯の目が爛々と輝いた。
唯は雑貨・インテリアのセレクトショップでチーフバイヤーを務めるプロフェッショナルだ。空間演出や家具の選定にかけては、同世代の誰よりも確かな審美眼と情熱を持っている。
「資金面はどうなの? 神崎家のブラックカードで無制限に買い叩いていいわけ?」
「ううん、創様のカードは使わないわ。生活費の枠内で支給されてる同居人用の備品購入費があるし、何より一年後には解決金三億円が確定してるんだから、自腹で先行投資したって痛くも痒くもないもの。自分の城を作る道具は、自分の責任で選びたいの」
「くぅ〜っ、言ってみてえなそのセリフ! 『三億あるから自腹でオッケー』! よっしゃ、それなら親友の私が、倉庫に眠らせてた極上のヴィンテージ家具とファブリックを原価ギリギリで卸してあげるわ!」
唯は腕まくりをして、パンッと両手を叩いた。
「善は急げ! まずはこの陰鬱な空気を一掃するよ! 軽トラから荷物を下ろす前に、大掃除と模様替え開始!」
「了解!」
二人の大改造計画が、一気に動き出した。
まずは「換気と採光」だ。
埃を吸い込んで重たくなっていた深緑のビロードカーテンのフックを、二人がかりで端から外していく。
シャラシャラと金属の擦れる音が響き、一枚、また一枚と重苦しい布が床へと落ちていく。
そして――。
ガタピシと音を立てながら、何年もの間閉ざされていた大きなガラス戸を、左右いっぱいに開け放った。
「せーのっ!」
サァッ――と、秋の澄み切った午前中の風が、一気に部屋の中へと雪崩れ込んできた。
庭の金木犀の微かな甘い香りと、温かな陽光の奔流。
光の粒が乱反射し、今まで薄暗がりに沈んでいた部屋の隅々までが、一瞬で黄金色に染め上げられていく。
「うわぁ……! すごい、こんなに明るかったんだ……!」
栞は思わず両腕を広げ、深呼吸した。
冷え切っていた床板が、日光を浴びてじんわりと温もりを帯びていく。それだけで、部屋の持つ重苦しい「気」が、まるで氷が解けるように消え去っていくのが分かった。
「感動してる暇はないよ、栞! 次はこの威圧感MAXのラスボスをどかす!」
唯が指さしたのは、部屋の真ん中を占拠している巨大な黒革ソファだった。
二人で脚の下にスライダーシートを滑り込ませ、渾身の力で押し引きする。
ズズズ……と床を滑らせ、部屋の最も奥まった壁際へと移動させた。これだけで、窓際に広大なフリースペースがぽっかりと誕生した。
「よし、床を水拭きしたら、私のトラックからブツを運び込むよ!」
エントランスと客間を何往復もしながら、唯の軽トラの荷台から次々と運び込まれるインテリアアイテムたち。
栞と唯は汗だくになりながら、だが文化祭の前夜のような弾ける笑顔で作業を続けた。
まず窓辺に取り付けたのは、唯が直輸入したという、リトアニア産の上質なリネンカーテンだった。
漂白されていない自然な生成り色と、淡いセージグリーンのツートンカラー。
レールに吊るすと、風を孕んでふわりと柔らかく揺れ、秋の強い日差しをまろやかな光のシャワーへと変換して部屋の中に拡散させてくれる。光が透けるリネンの繊維の凹凸が、陰影となって床に柔らかなレースのような影を落とした。
床の中央には、素足に心地よいサイザル麻とウールを混紡した、丸い大判のナチュラルラグを敷き詰める。
その上に置かれたのは、唯が「いつか自分の店を持ちたい親友のために」と倉庫に大切に保管していたという、一九六〇年代デンマーク製のヴィンテージローテーブルだった。
チーク材特有の深みのある飴色。角が優しく丸められた三角形のフォルムは、どこからでも座りやすく、圧迫感がまったくない。植物性のオイルワックスで丁寧に磨き上げられた天板は、触れると吸い付くようなしっとりとした木のぬくもりを伝えてきた。
そして極め付きは、ラグの上に無造作に転がされた、二つの巨大なビーズクッションだった。
「これね、中に極小のマイクロビーズがぎっしり詰まってて、一度座ったら最後、二度と立ち上がれなくなる『人をダメにするソファ』の最高級版! カバーは肌触り抜群のスラブニット!」
「わ、座っていい!?」
「どうぞどうぞ、ダイブしちゃって!」
栞は靴下を脱ぎ捨て、裸足でラグを踏みしめると、思い切りビーズクッションの上へと身を投げ出した。
――ふふしゅうぅぅぅ……。
「……っっっ! なにこれ……! 溶ける……!」
全身の輪郭に合わせて、ビーズが隙間なく流動し、背中から腰、太ももに至るまでを完璧な圧力で包み込んでくれる。
硬い革張りソファのような反発力はゼロ。まるで温かい雲の上に浮いているような、圧倒的な無重力感。
仰向けになると、視界には柔らかなリネンカーテン越しに揺れる秋の青空と、庭の木々の梢が映った。
「あはは! 栞、顔が完全に弛緩してるよ!」
唯も隣のクッションにドスンと飛び込み、二人並んで天井を仰いだ。
ほんの二時間前まで、昭和の密談部屋だった空間は、完全に消滅していた。
そこにあったのは、陽光が燦々と降り注ぎ、木の温もりとリネンの香りに満ちた、北欧のリゾートホテルのような陽だまりのサンルームだった。
大理石の床の冷たさも、重苦しい威圧感も、どこにもない。
ただただ、穏やかで、優しく、息が深く吸える空間。
「……すごいね、唯。部屋って、こんなに変わるんだ」
栞はしみじみと呟いた。
横で大の字になっている唯が、ふっと表情を緩める。
「空間はね、そこに住む人の心の形なんだよ。どんなに高価な調度品を置いたって、住んでる人間が息を詰めて怯えてたら、そこは牢獄になる。逆に、自分が心から『心地いい』って思えるものを置けば、そこは世界で一番安全な城になるんだよ」
唯の言葉が、栞の胸の奥深くにストンと落ちた。
前世の自分は、いつも誰かの顔色を窺っていた。
この屋敷にいる間中、「神崎家の妻としてふさわしく振る舞わなければ」「家具を傷つけたらどうしよう」「夫の邪魔にならないように息を殺していなければ」――そうやって、自分で自分を小さな檻に閉じ込め、首を絞め続けていたのだ。
誰かに許可をもらわなければ、幸せになってはいけないと思い込んでいた。
でも、違った。
居場所なんて、与えられるのを待つものじゃない。
自分の手で窓を開け、自分の手で好きなものを並べ、自分で作ればいいのだ。
「……うん。私、ここが大好きになった」
栞が微笑むと、唯がニヤリと笑って起き上がった。
「よし! 重労働の後は、お待ちかねのティータイムと行きますか!」
唯は自分のリュックから、丁寧に紙箱に包まれた包みを取り出した。
中から現れたのは、代官山の有名パティスリーで唯が今朝買ってきてくれたという焼き菓子たちだった。
フランス産の発酵バターを限界まで練り込んで焼き上げられた、黄金色のフィナンシェ。
表面に粗塩がキラリと光る、ザクザクとした厚焼きのガレット・ブルトンヌ。
「お茶は栞、頼める? ここの台所、お湯くらい沸かせるでしょ?」
「ふふっ、お湯どころか最高峰の一番出汁も引けるわよ。ちょっと待ってて!」
栞はキッチンへ小走りで向かい、ハウスキーパーの絹代に挨拶をして(絹代は「若奥様、ごゆっくりお楽しみくださいませ」と極上の笑顔で見送ってくれた)、棚から見つけ出した耐熱ガラスのティーポットと、温もりある益子焼のカップを持ち出した。
持参していた自家ブレンドのハーブ――カモミール、レモングラス、そしてドライピールをポットに入れ、熱湯を注ぐ。
じわりと広がる黄金色の抽出液。
湯気とともに立ち上る、林檎に似た甘いカモミールの香りと、レモングラスの爽やかなシトラスの香気。
客間のチーク材テーブルの上に、カップと焼き菓子を並べる。
二人はクッションに深く腰を沈め、湯気立つカップを両手で包み込んだ。
「んん〜っ……! いい香り!」
「いただきまーす!」
栞はフィナンシェを指先でつまみ、一口かじった。
サクッ、と表面の薄い焼き目が心地よい音を立てる。
次の瞬間、口いっぱいにジュワッと広がるのは、焦がしバターの濃厚でナッツのような香ばしさと、アーモンドプードルのリッチなコク。
噛み締めるほどにしっとりとした生地が舌の上でほどけていく。
すかさず、温かいカモミールティーを含む。
バターの濃厚な脂を、ハーブの爽やかな清涼感がふわりと包み込み、喉を通る頃には何とも言えない多幸感だけが胸に残った。
「美味しい……! 唯、このフィナンシェ最高!」
「でしょ! ここのシェフ、バターの火入れのタイミングが神がかってるのよ。栞の和菓子カフェでも、こういう洋風の焼き菓子とお茶のペアリング、絶対受けると思うんだよね」
「うん、絶対やりたい! 例えば、焦がしバターにほうじ茶の粉末を練り込んだり、白味噌を隠し味に入れたフィナンシェとか……」
「うわ、それ絶対美味いやつじゃん! メニュー開発、私も試食係でガッツリ一枚噛ませてよね!」
秋の柔らかな日差しの中、二人は足を投げ出し、笑い声を響かせながら未来のカフェの夢を語り合った。
壁の時計の針が、ゆっくりと進んでいく。
前世のあの息苦しかった時間が、まるで別の世界の出来事のように遠ざかっていくのを感じながら、栞はビーズクッションに身体を預けて、深く、深く安らぎを噛み締めていた。
ふと、唯がカップを置き、開け放たれたガラス戸の外へと視線を向けた。
客間に面した、日当たりの良い石造りのプライベートテラス。
そこには、かつて花壇として使われていたのであろう細長い土のスペースがあった。しかし何年も手入れされていないらしく、雑草が伸び放題になり、土はすっかり痩せて乾き切っている。
「……ねえ、栞」
唯が顎でそのテラスをしゃくった。
「ん? どうしたの?」
「あそこの花壇……日当たり、抜群にいいじゃん。南向きで、風通しも良くて」
唯の瞳に、バイヤー特有の鋭く楽しげな光が灯った。
「あの雑草だらけの花壇さ。綺麗に耕して、ハーブ畑にしたらどう? ローズマリーとか、タイムとか、ミントとか、大葉とかさ。ここで摘みたてのハーブ使ってお茶淹れたり、料理に使ったり……それこそ、カフェの予行演習に最高じゃない?」
栞はカップを持ったまま、目を見張った。
(ハーブ畑……!)
テラス一面に広がる、青々としたハーブの緑。
風が吹くたびに部屋の中に流れ込んでくる、爽やかな大葉やローズマリーの芳香。
摘みたての葉を料理に添え、土鍋ご飯に散らし、温かいお茶に浮かべる暮らし――。
「……それ、最高じゃない!」
栞の胸が、トクンと高鳴った。
だが、同時に我に返る。
「でも……私、プランターの寄せ植えくらいならやったことあるけど、あんな本格的な花壇の土壌改良なんて、どうやればいいのか分からないよ」
「あー、確かに。土が完全に死んでるもんね。石もゴロゴロしてるし」
唯が腕を組んで唸った、その時だった。
庭の奥――手入れの行き届いた日本庭園の木立の間から、ジャッ、ジャッ、と砂利を踏みしめる規則正しい足音が近づいてきた。
二人が目を向けると、剪定鋏を腰の革ホルダーに差し、無骨な作業着に身を包んだ一人の若い男が、脚立を担いで歩いてくるところだった。




