【第7話】副社長の直感。「創、お前フラれたんじゃないのか?」
神崎ホールディングス本社ビル、三十四階の専務執務室。
眼下には霞が関から丸の内へと広がる東京の摩天楼が一望でき、ガラス張りの窓からは秋の眩しい日差しが容赦なく降り注いでいた。
部屋の中央に据えられた特注のウォールナット製エグゼクティブデスクの上には、四枚の大型モニターが整然と並び、国内外の株価動向、為替レート、そして進行中の大型企業買収案件に関する膨大な財務データがリアルタイムで明滅している。
普段の神崎創であれば、この空間こそが最も精神を研ぎ澄ませられる戦場だった。
無駄な感情を一切排し、数字の整合性だけを武器に最適解を導き出す。理路整然とした論理の塊のような男――社内外から「冷徹な後継者」「鋼の計算機」と渾名される所以がそこにあった。
しかし、今日に限っては――。
「…………」
創はキーボードの上に両手を置いたまま、ピクリとも指を動かせずにいた。
モニターの中央に表示されたエクセルシートのセル番号『B14』が、かれこれ十五分以上も点滅を繰り返している。
数字の羅列が、頭の中にまったく入ってこないのだ。
(……なぜだ)
創は眉間を指先で強く揉みほぐし、深く息を吐き出した。
脳裏に焼き付いて離れないのは、今朝のダイニングテーブルの光景だった。
『神崎邸における共同生活ガイドライン(案) 策定日:十月十五日』
寸分の狂いもなく中央揃えされた美しい表題。
余白の取り方、論理展開の美しさ、そして三つの基本方針。
――生活リズムおよび家事・食事の完全分離。
――プライベートおよび交友関係への完全不干渉。
――契約満了日における確定公正証書の機械的履行。
タブレットを片手に、淀みなくプレゼンテーションを披露した間宮栞の顔。
『三億円という破格の報酬に見合うよう、ミスのない、快適な最高峰の同居人を務め上げます』と、満面の笑みで宣言したあの澄み切った瞳。
(あいつは……本気だ)
嘘でも虚勢でもなかった。
政略結婚に絶望して泣き暮らすわけでも、神崎家の財力に擦り寄って愛人面をするわけでもない。
彼女にとって、あの屋敷は「一年間限定の快適な職場兼マンスリーマンション」であり、創は「巨額の報酬を支払ってくれるクライアント」に過ぎないのだ。
さらに、昨夜の光景が追い打ちをかけるように蘇る。
深夜零時、ダボダボの部屋着でビールを片手に、A5ランクの松阪牛を南部鉄器で豪快に焼き上げていた姿。
『お肉、まだありますよ?』と、十年連れ添った悪友のように屈託なく笑いかけ、小鉢に山盛りの肉をよそってくれた、あの温かい湯気とざらめ糖の甘い匂い。
口の中に、昨夜の濃厚な割り下の味と、ふわりとほどけた霜降り肉の食感が、幻のように蘇る。
出勤前に立ち寄ったオフィス街の高級カフェで流し込んだ、無機質な水出しアイスコーヒーの苦味が、途端に味気なく感じられて舌打ちが出そうになった。
「はあ……」
重いため息が、静まり返った執務室に落ちる。
その瞬間だった。
「おいおい、なんだその世の終わりみたいな顔は。株価が暴落したか、親族の誰かがまた裏金でも作ったか?」
ノックの音すらさせずに、重厚なオーク材の扉が乱暴に開け放たれた。
入ってきたのは、仕立ての良いイタリア製スーツをわずかに着崩し、手にした紙コップから湯気を立ち上らせている長身の男――神崎ホールディングス副社長、成瀬拓真だった。
創とは大学時代からの同期であり、起業からグループ入りに至るまで苦楽を共にしてきた唯一の悪友にして共同経営者。
人当たりの良い整った顔立ちと軽薄そうな物腰の裏に、創に劣らぬ怜悧な頭脳を隠し持った、社内屈指のキレ者である。
「……成瀬。ノックくらいしろと言っているはずだ」
「したよ、心の中で三回な。それよりこれ、差し入れ。お前が好きな苦味強めの深煎りだ」
成瀬はデスクの端に紙コップをことりと置き、創のデスクの対面にある革張りのゲストチェアに我が物顔でどっかりと腰を下ろした。
そして、足を組みながら創の顔をじろじろと不躾に観察し、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「で? 新婚初日の朝から、なんでそんな『全財産をスられた哀れな男』みたいなツラしてんだ? 今日はお前、昨日の婚姻届提出の余韻で、もっと事務的で冷徹な『計画通りだ』ってドヤ顔をしてるはずだろ」
「……余計なお世話だ。仕事の話なら手短にしろ。午後は投資銀行とのカンファレンスがある」
創は視線をモニターに戻し、誤魔化すようにキーボードを叩こうとした。
だが、成瀬の鋭い観察眼をごまかせるはずもなかった。
成瀬は身を乗り出し、デスクの上の創の手元を指さした。
「嘘つけ。セルが一個も動いてねえじゃねえか。あの神崎創が、執務室で十五分間も同じ画面を見つめてフリーズしてるなんて、創業以来の異常事態だぞ。……おい、何があった? 佐竹のお嬢さん、屋敷に入ったんだろ? やっぱり泣いて暴れたか? それとも『こんな政略結婚、絶対に認めません!』ってヒステリーでも起こされたか?」
「……逆だ」
創の口から、重々しい言葉が漏れた。
「逆?」
「泣いてもいなければ、暴れてもいない。……あいつは、極めて冷静で、合理的で、協調性に富んでいる」
「は? 最高じゃん。何が不満なんだよ」
「不満というか……」
創は言い淀み、先ほどから胸の奥に渦巻いていたモヤモヤを、どう言葉に変換すべきか苦悶した。
だが、成瀬に隠し通すのは不可能だと悟り、ぽつりぽつりと昨夜からの出来事を吐露し始めた。
「……昨夜、零時過ぎに帰宅したんだ」
「おう。初夜だもんな。ビビり散らかしてる新妻に、お前がどう声をかけるか見ものだと思ってたよ」
「そしたら……あいつ、キッチンで一人ですき焼きを焼いて、ビールを飲んでいた」
「…………は?」
成瀬の表情がピシリと固まった。
「すき焼き? 誰が?」
「栞さんだ。実家から持ってきたのか、くたくたの部屋着を着て、足をブラブラさせて、松阪牛のサーロインを一人で平らげていた。俺が帰ってきたら、怯えるどころか『お肉、まだありますよ?』と笑顔で小鉢を差し出してきてな……」
「ぶっ……!!」
成瀬が吹き出しそうになり、慌てて口元を手で押さえた。肩が激しく震えている。
「ちょ、ちょっと待て……! お前、まさかそれ……食ったのか?」
「……いただいた。美味しかった」
「食ったのかよ!!」
成瀬が膝を叩いて大爆笑した。静かな役員フロアに、副社長の腹を抱えた笑い声が響き渡る。
「あはははは! 傑作だ! 天下の神崎創が、契約結婚の初夜に、部屋着の新妻からすき焼きを恵んでもらって『美味しかったです』だと!? なんだそのほのぼの日常系アニメみたいな展開は!」
「笑うな、成瀬! 問題はそこじゃない!」
創は顔をわずかに紅潮させ、机をダンと叩いた。
「今朝だ。今朝、七時にダイニングへ行ったら、あいつが身支度を整えて待っていた。タブレットと資料を広げてな。『神崎邸における共同生活ガイドライン』と題したプレゼンをされたんだ」
「プレゼン……?」
「生活リズムの完全分離、家事や食事の義務化禁止、互いの私生活への完全不干渉。そして……一年後の満了日には、公正証書に基づき、解決金三億円を受け取って即座に退去する。異議や感情論は一切挟まない、とな」
創は引き出しから、先ほどまで何度も見返していたA4の用紙を取り出し、成瀬の前に放り出した。
成瀬は面白半分にその紙を拾い上げ、視線を走らせた。
だが、読み進めるうちに、成瀬の口元のニヤつきが消え、眉がピクリと上がった。
「……おいおい、マジかよこれ。条文の構成もリスクヘッジも完璧じゃねえか。感情的な文言が一つもない。『お互いに余計なコストをかけず、契約期間を全うしましょう』って、絵に描いたようなプロのビジネス文書だぞ」
「そうだろう。俺の都合を百パーセント汲み取った、完璧な提案だ」
「ああ、完璧だな。……でお前、サインしたのか?」
「した。拒否する理由がどこにもないからな」
「だろ? じゃあ、何が問題なんだよ」
成瀬は紙をデスクに戻し、不思議そうに創を見つめた。
「お前が最初から望んでたことそのものだろ。祖父の遺言条項を満たすための一年間の形式婚。実家の負債を保証する代わりに、お前の自由は奪わない。一年経てば三億払って綺麗サッパリお別れ。……相手の娘がこの条件に納得して、文句一つ言わずに『自分の機嫌は自分で取りますから、お気遣いなく!』って自立してくれてるんだぞ? これ以上のボーナス案件が世の中のどこにある?」
「それは……そうだが……」
創は言葉に詰まった。
成瀬の言う通りなのだ。理屈の上では、何一つとして文句をつける余地はない。
自分が望んだ通りの、完璧な政略結婚。
それなのに――。
「あいつは……俺に、何も求めてこないんだ」
創の口から、無意識のうちにその言葉が滑り落ちた。
「俺の金にも、地位にも、名誉にも興味がない。三億円の解決金さえ手に入れば、俺という人間に一ミリの執着もないんだ。今朝のあの笑顔……あれは、取引先への営業スマイルとまったく同じだった。完全に、他人としての線引きをされたんだ」
創の言葉を聞いた瞬間、成瀬の瞳がスッと細くなった。
成瀬は椅子の背もたれに深く体重を預け、冷めた目で親友を見据えた。
そして、呆れ返ったような、だが芯を抉るような鋭い声音で言った。
「……創、お前さ。それ、フラれたんじゃないのか?」
「は……? フラれた……? 何を馬鹿なことを言っている。そもそも俺たちは最初から恋愛関係ですら――」
「言葉通りの意味だよ」
成瀬は創の弁解を遮り、人差し指をピッと創の鼻先へ突きつけた。
「いいか、創。お前はずっと女って生き物を恐れてたろ。『神崎家の金目当てで近寄ってくる』『結婚したら恩着せがましく尽くしてきて、見返りの愛情を求めて重荷になる』『プライベートに土足で踏み込んでくる』……そうやって、最初から心のシャッターをガシャーンと下ろして、無関心って防壁で自分を守ってきた」
痛いところを突かれ、創の喉が引き攣る。
「お前は心のどこかで思ってたはずだ。『可哀想な生贄の令嬢を、俺が救ってやった』『あの子は俺の冷たい態度に傷つき、すがりついてくるかもしれないが、契約だから仕方ない』ってな。そうやって、追われる側の強者気取りで構えてたんだよ」
「俺はそんな傲慢なつもりは――」
「傲慢なんだよ、無自覚にな!」
成瀬は容赦なく畳み掛けた。大学時代からの付き合いだからこそ、創の心の奥底に巣食う臆病さとプライドが、手に取るように分かってしまうのだ。
「ところが蓋を開けてみたらどうだ? 相手のお嬢さんは、お前の金にも愛にも最初から見向きもしてねえ。お前が帰ってこなかろうが寂しがりもせず、一人で美味い肉焼いてビール飲んで人生満喫してる。お前が壁を作ろうとする前に、向こうから笑顔で『はい、ここから先は立ち入り禁止でーす! 一年後に三億円よろしくお願いしまーす!』って、お前以上の超合金の防壁をスコーンと建てられたんだよ!」
「…………っ」
「要するにだ」
成瀬はニヤリと、最高に意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前、あの子が自分にすがりついてこないのが、悔しくてたまらないだけだろ?」
ドスン、と胸の奥に巨大な杭が打ち込まれたような衝撃が走った。
悔しい?
俺が?
あの佐竹栞に対して?
創の全身の血が逆流するように沸騰した。
否定したかった。そんな下らないプライドで動揺しているわけがないと、論理的に反論したかった。
だが、口を開こうとしても、声が出ない。
成瀬の言葉が、あまりにも正確に、自分自身すら直視することを避けていた「心の急所」を射抜いていたからだ。
今朝、栞に「神崎様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」と完璧なお辞儀で見送られた時、なぜ自分は胸の奥に冷たい風を感じたのか。
昨夜、空になった小鉢を見つめながら、なぜ「あいつ、あんな性格だったか?」と呆然と立ち尽くしたのか。
それは――彼女の視界の中に、自分という男の存在が、最初から「いない」ことに気づいてしまったからだ。
「……成瀬」
創の口から、低く地這うような声が漏れた。
その瞳の奥には、滅多に見せることのない、剥き出しの苛立ちが宿っていた。
「お前、いい加減にしないと……次の役員人事、副社長の椅子から引きずり下ろすぞ」
「うわ、出た! 図星突かれた時の専務特権パワハラ!」
成瀬はゲラゲラと笑いながら両手を上げて立ち上がった。
だが、創の手元にあった分厚い案件資料のファイルが、容赦なく成瀬の胸元を目掛けて投げつけられた。
バシィッ!
「痛ってえ! おい、角が当たっただろ!」
「出ていけ。二度とノックなしで入るな」
「へいへい、退散しますよーだ」
成瀬は放り出されたファイルを拾い上げ、デスクの上にポンと戻すと、扉へ向かって歩き出した。
そして、ドアノブに手をかけたところで、振り返って真顔になった。
「……創」
「まだ何かあるのか」
「あの子、いい女だな」
成瀬の声音から、先ほどの茶化すような響きが完全に消えていた。
「誰にも依存せず、自分の機嫌を自分で取れる女なんて、そうそう巡り会えるもんじゃないぞ。……格好つけて『契約通りの無関心』を貫くのは勝手だがな、ぼやぼやしてると、一年なんてあっという間に過ぎるぞ。あの子が三億持ってさっさと別の男のところへ行く背中を見送る羽目になっても、俺は慰めてやらねえからな」
パタン、と静かに扉が閉まった。
執務室に、再び重厚な静寂が戻ってきた。
「…………」
一人取り残された創は、両手で顔を覆い、深く、長く息を吐き出した。
成瀬の言葉が、耳の奥で何度もリフレインしていた。
『あの子が三億持ってさっさと別の男のところへ行く背中を見送る羽目になっても――』
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
胃痛ではない。
もっと上の、心臓のあたり。
二十八年間、一度も自覚したことのなかった、不条理で、理不尽で、みっともないまでの独占欲の疼き。
「……行くものか」
誰に聞かせるでもなく、創は低く呟いた。
「契約は一年だ。……まだ、三百六十四日残っている」
それが何を意味する言葉なのか、創自身にもまだ、正確な輪郭は見えていなかった。
* * *
その頃。
主が不在の神崎邸の広大な敷地、正面ゲートの前。
ブロロロロ……と、場違いなほど軽快なエンジン音を響かせながら、一台の真っ白な軽トラックが横付けされていた。
助手席のドアが勢いよく開き、飛び降りてきたのは、キャップを後ろ前に被り、オーバーオールにスニーカーというアクティブな出で立ちの若い女性だった。
小山内唯、二十六歳。
インテリア・雑貨のセレクトショップでチーフバイヤーを務める、栞の高校時代からの無二の親友である。
「おーっす、栞! 頼まれてた荷物、実家の倉庫から全部引っ張り出してきたよー!」
唯が軽トラの荷台のシートをバサリと跳ね上げる。
そこには、大量のインテリア雑誌、北欧ヴィンテージの布地、計測用のスチールメジャー、そしてDIY用の工具箱がぎっしりと積み込まれていた。
屋敷の玄関から、麻のエプロンをつけた栞が、満面の笑みでパタパタと駆け寄ってくる。
「唯! 早かったね、ありがとう!」
「へへっ、持つべきものはフットワークの軽いバイヤーの友達でしょ? ……それにしても、すっごい豪邸じゃん! 本当にこの家、好き勝手に弄っていいわけ? 旦那さんに怒られない?」
「大丈夫! 今朝、ちゃんと『不可侵条約』にサインをもらったから!」
栞は誇らしげに胸を張り、親友を手招きした。
「さあ入って唯! まずはあの一階の、日当たりがいいのに死んでる『開かずの客間』……あそこを、私の理想の陽だまり読書スペースに大改造しちゃうわよ!」
「よっしゃあ! 腕が鳴るね、ビフォーアフターの始まりだ!」
二人の朗らかな笑い声が、秋の青空の下、神崎邸の静まり返った庭園へと吸い込まれていった。
冷徹な夫がオフィスで悶々と思い悩んでいることなど、この時の栞は、文字通り一ミリも知る由がなかったのである。




