【第6話】陥落した鉄の門番。「若奥様、昆布の問屋はどこを?」
呼吸の音すら吸い込まれそうな静寂が、神崎家の広大なキッチンを支配していた。
藤沢絹代は、黒塗りの汁椀を持ったまま動かなかった。
固く閉ざされた口元、見開かれたままの瞳。三十年間にわたり、政財界の重鎮たちが集う神崎家の屋敷を取り仕切り、いかなる突発事態にも眉一つ動かさなかった鉄の家政婦が、ただの一口の赤出汁によって完全に機能を停止していた。
「……絹代さん?」
対面でエプロンの紐を直していた栞が、不思議そうに首を傾げた。
その澄んだ声にハッと我に返った絹代は、震える指先で椀をカウンターへと戻した。
だが、その視線はもはや先ほどのような「冷徹な査問官」のそれではない。獲物に狙いを定めた職人のように、ギラリとした熱を帯びていた。
絹代は無言のまま、漆塗りの箸を手に取った。
狙いを定めたのは、長方形の平皿の上で、自身の重みに耐えかねてフルフルと震えている出汁巻き卵。
箸先をそっと沈める。
抵抗らしい抵抗は一切ない。まるで極上の絹豆腐に刃を入れるかのように、すっと刃先が吸い込まれていく。
その瞬間、断面からじゅわりと、黄金色に透き通った出汁のしずくが溢れ出た。
持ち上げる。崩れそうで崩れない、絶妙な火入れの表面張力。
絹代はそれを躊躇うことなく口の中へと運んだ。
「…………っ」
噛むまでもなかった。
舌の上に触れた刹那、閉じ込められていた一番出汁が、ジュワッと音を立てて口腔全体に解き放たれる。
熱い。だが、その熱さすら旨味の輪郭を際立たせるスパイスに過ぎない。
卵本来のまろやかで力強い甘みと、限界まで抱え込まれた昆布と鰹の旨味。塩気は極めて控えめでありながら、出汁の輪郭がしっかりとしているため、物足りなさは微塵もない。
何より驚くべきは、その滑らかさだった。裏ごしを二度、三度と重ねた丁寧な仕事でなければ、これほどまでに気泡のない、滑らかな舌触りは生み出せない。
絹代の手は、もはや止まらなかった。
何かに憑りつかれたかのように茶碗を持ち上げ、土鍋で炊き上げられたばかりの白米を口にかき込む。
米粒の一つ一つがしっかりと立ち、噛み締めるほどに奥深い甘みが広がる。そこへすかさず、香ばしく焼き上げられた紅鮭の身をほぐして乗せる。
パリッとした皮目の香ばしさと、溢れ出る良質な脂。塩の角が綺麗に抜かれ、鮭の持つ野性味ある旨味だけが凝縮されている。
米、鮭、出汁巻き卵、そして再び、茗荷と三つ葉が爽やかに香る赤出汁へ――。
トレイの上にあった料理が、目に見える速度で消えていく。
作法は完璧だった。音を立てず、こぼすこともなく、だがその速度は普段の絹代からは考えられないほどに猛烈だった。
最後の米粒を一粒、箸先で丁寧に拾い上げ、口に運ぶ。
そして赤出汁の最後の一滴を飲み干した時、カウンターの上には、ピカピカに磨かれたかのように美しい空の器だけが残されていた。
絹代は静かに箸を置き、両手を膝の上で重ねた。
そして、ふうぅぅぅぅ……と、長年身体の奥底に溜め込んでいた澱をすべて吐き出すかのような、深い、深い息を吐いた。
「……絹代さん、お口に合いました?」
恐る恐る尋ねる栞に対し、絹代は無言で立ち上がった。
そして、定規で測ったかのように直立不動の姿勢を取ると、腰を九十度に深く折り曲げ、床に頭がつきそうなほどの勢いで深々と一礼した。
「――完敗でございます」
「えっ!?」
低く、震えるような声音だった。
驚いて目を白黒させる栞を見上げることなく、絹代は深々と頭を下げたまま言葉を続けた。
「無礼の段、平にお許しくださいませ。若奥様の腕前が、これほどまでの領域に達していらっしゃるとは露知らず……神崎家の家政婦長として、甚だ浅薄な査問を行いましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「ちょ、ちょっと待ってください絹代さん! 頭を上げてください! ただの朝ごはんですから! そんな大層なことじゃありませんから!」
慌てふためく栞に促され、絹代はようやくゆっくりと顔を上げた。
その表情から、先刻までの氷のような冷徹さは完全に消え去っていた。
代わりに浮かんでいたのは、長年探し求めていた至宝に出会ってしまったかのような、狂気を孕んだ料理人の熱い眼差しだった。
「ただの朝食などではございません」
絹代は身を乗り出し、カウンターの上の空の器を指さした。
「若奥様。不躾ながらお尋ねいたします。……あの一番出汁、昆布はどこの問屋から仕入れられたものでございますか?」
「え? あ、ええと……」
「ただの真昆布ではございません。あの上品で澄み切った清涼感のある香気、そして八丁味噌の強烈な個性に一切負けない芯の通った旨味……あれは、北海道の利尻島、それも仙法志あたりの浜で採れた天然利尻。それも一年や二年の代物ではございませんね? 専用の蔵で三年以上熟成させ、磯臭さを極限まで抜いた『蔵囲い(くらがこい)』の昆布でございましょう!?」
矢継ぎ早に繰り出される専門用語の嵐に、栞は思わず目を丸くした。
「……すごいです、絹代さん。一口でそこまでお分かりになるなんて」
「やはり!」
絹代の鼻息が荒くなった。普段の無表情からは想像もつかないほどの食いつきっぷりだった。
「実は私、神崎家に仕える前は調理師として料亭の厨房に入っておりましたゆえ、舌には些かの自負がございました。ですが、家庭の台所で、朝の一番出汁のためにあれほどの銘品を惜しげもなく使い、あそこまで完璧な温度管理で旨味を引き出せる方がいらっしゃるとは……! 実家の佐竹堂様のお取引先でございますか?」
「はい。佐竹堂では和菓子の小豆を煮る時や、求肥の風味付けにも極上の出汁を使うものですから、昔から京都の老舗乾物問屋さんと直でお付き合いがありまして。実家を出る時に、父が『これだけは持っていけ』と持たせてくれたものなんです」
「やはり老舗の底力……! 素晴らしい。実に素晴らしい仕入れルートでございます……!」
絹代はまるで美術品を鑑定するかのように、コンロの上の雪平鍋をうっとりと見つめた。
それから、話は止まらなくなった。
「それにあの出汁巻き卵! 卵三個に対して、出汁の割合が八割を超えておりましたね? 並のフライパンであれば一瞬で分離して水分が抜け、崩壊いたします。あの純銅の玉子焼き器……熱の回りが恐ろしく均一でした。使い込まれた油の馴染み方を見るに、十年選手でございましょう」
「よく分かりましたね! あれは私が高校生の頃から愛用している相棒なんです。銅がしっかり厚いので、弱火でもふっくら火が入るんですよ」
「ええ、ええ、分かりますとも! テフロンの安物ではあの『ふくふくとした蒸気感』は絶対に出せません! そしてあの萬古焼の土鍋……蓋の重みで圧力をかけ、米の甘みを極限まで引き出しておりました。お米の浸水時間は四十分、炊き上げの初めチョロチョロから中パッパへの移行も完璧でございました……!」
二人の瞳が、キラキラと輝いていた。
先ほどまでの「冷徹な家政婦長」と「政略結婚で入ってきた怯える令嬢」という構図は、完全に崩壊していた。
そこにいたのは、ただの「食と道具を愛してやまない、熱狂的な料理マニア二人」だった。
「絹代さんも、お料理がお好きなんですね」
栞が嬉しそうに微笑むと、絹代はハッと我に返ったように咳払いをし、エプロンを整えた。
だが、その頬には微かに照れくさそうな赤みが差していた。
「……お恥ずかしい限りです。主人の前では決して見せぬ姿をお見せしてしまいました。ですが……若奥様のように、素材と道具に対してこれほど深い敬意を払われる方に出会えたのは、私の長い奉公人生の中でも初めてのことにございます」
そう語る絹代の表情が、ふと陰りを帯びた。
彼女は誰もいない廊下の奥――創の部屋がある二階の方向へと視線を彷徨わせ、重いため息を漏らした。
「……創様は、召し上がらないのです」
「え?」
「創様は、幼少の頃からご家庭の温もりを知らずにお育ちになりました。会長(宗一郎)は仕事一筋で家庭を顧みず、奥様は早くに亡くなられ……屋敷の中は常に親族同士の醜い権力争いばかり。創様はいつしか、食事を『身体を動かすための単なる燃料』としか見なさなくなってしまわれました」
絹代の声には、長年仕えてきた者にしか分からない、深い痛惜が滲んでいた。
「私がいくら栄養バランスを考え、手間暇をかけて料理をご用意しても……創様はお忙しさを理由に口をつけず、深夜にコンビニの栄養ドリンクやゼリー飲料を流し込むばかり。朝はブラックコーヒー一杯で飛び出していかれます。連日の深夜残業で顔色は青白く、胃腸を壊されているのは明白なのに……私の作ったものには、見向きもしてくださらなくて」
絹代は両手をぎゅっと握りしめた。
前世の栞が「冷酷な鉄の女」と恐れていた絹代の正体。
それは、歪んだ環境で孤独に育ち、不摂生を極める若き主人を、心から心配しながらも何もできずに苦悩していた、ただの一人の不器用な庇護者だったのだ。
前世の記憶が、栞の脳裏をよぎる。
前世の自分は、絹代の無表情を「私を監視し、蔑んでいるのだ」と思い込んでいた。
だから台所に入ることも遠慮し、会話を拒み、部屋に閉じこもった。
その結果、創はますます家に寄り付かなくなり、自分も孤独の中で胃を壊して死んだ。
(なーんだ……。みんな、不器用だっただけじゃない)
栞の胸の奥に、ふわりと温かい風が吹き抜けた。
悪人なんて、この家には最初から一人もいなかったのだ。
ただ、互いにどう接していいか分からず、勝手に壁を作って傷つけ合っていただけ。
栞はカウンターに肘をつき、いたずらっぽく笑った。
「絹代さん。難しく考えすぎですよ」
「……と、仰いますと?」
「人間、どんなに強がっていても、お腹は空くんです。昨日だって、創様、夜遅くに帰ってきて一人ですき焼きを食べていたら、目をまん丸にして『いただく』っておっしゃって、お肉もお葱も全部平らげていかれましたよ」
「ええっ!? 創様が、夜食を!?」
絹代がこの日一番の驚愕の声を上げた。
何年も夜の食事を拒み続けてきたあの仕事人間が、妻の手料理を夜中に食べたという事実は、絹代にとっては天変地異に等しい衝撃だった。
「ええ。とっても美味しそうに召し上がってました。『美味しい』って、ちゃんとおっしゃいましたよ」
「ま、まさか……あの方が、素直にそのようなことを……」
絹代は胸を押さえ、感極まったように目を潤ませた。
そんな絹代に向かって、栞はカラリとした声で、大人の解決策を提示した。
「だからね、絹代さん。『食べさせよう』なんて気負わなくていいんです。義務にしちゃえば、お互いに息が詰まるだけですから。創様には創様の生活リズムがありますし、食べるか食べないかは、最終的には創様自身の自由です」
栞は人差し指を一本、チチッと振って見せた。
「私たちはただ、自分たちが『あ、これ美味しそう!』『食べたい!』って思う最高の料理を作って、楽しく食べる。そして、余った分を『余っちゃったから置いておきますね。食べるかどうかはお好きにどうぞ〜』って、ラップをして冷蔵庫に置いておくだけでいいんです。食べたらラッキー、食べなかったら明日の朝、私たちが美味しく食べちゃえばいいじゃないですか」
損得のない、押し付けがましさの欠片もない提案。
自分の機嫌は自分で取る。相手の機嫌は相手に任せる。
だが、扉だけはいつでも温かく開けておく。
そのあまりにも軽やかで、精神的に自立した言葉に、絹代は雷に打たれたように目を見開いた。
「……押し付けず、ただそこに、温かいものを置いておくだけ……」
「そうです! 創様だって馬鹿じゃありません。本当に疲れてお腹が空いた時、冷蔵庫に美味しいものがあれば、勝手に手を伸ばしますって。男の人なんて、そんなものですよ」
栞が笑うと、絹代の固く強張っていた肩の力が、ふっと抜け落ちた。
三十年間、神崎家の「義務」と「規律」に縛られ続けてきた老家政婦の心に、栞のカラリとした太陽のような明るさが、じんわりと染み渡っていく。
「……若奥様」
絹代は再び姿勢を正した。
だが、今度の礼は、先ほどの形式的なものではなかった。
心の底からの敬愛と、忠誠を込めた、柔らかな一礼だった。
「私の完敗でございます。……いえ、これからは『若奥様』と呼ばせていただきます。あなた様こそが、この凍りついた神崎家に必要な、真の主でございます」
「あはは、だから主人じゃないですってば。一年限定の同居人ですから!」
手を振って謙遜する栞に、絹代は小さく微笑んだ。その表情は、先刻までの能面とは別人のように温かかった。
「契約のことは存じております。ですが、私にとっての主人は、今日この瞬間から栞様でございます。……つきましては」
絹代はエプロンのポケットから、使い込まれた黒革の手帳を取り出した。
パラパラとページをめくり、栞の前に差し出す。そこには、びっしりと達筆な文字で、全国各地の住所と電話番号が記されていた。
「これは……?」
「神崎家が三代にわたり築き上げてまいりました、全国の極秘・特上食材の直通仕入れルート一覧でございます」
絹代の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「市場には一切出回らない、豊洲の鮪専門問屋の裏口直通番号。岩手県の短角牛を肥育する幻の牧場の当主直筆の受託番号。そして、京都の料亭が門外不出としている、創業二百年の極上削り節問屋の当主の携帯番号……すべて、この手帳にございます」
ごくり、と栞の喉が鳴った。
「絹代さん……これ、私が見ちゃっていいんですか……?」
「もちろんでございます。神崎家のツケで仕入れる権限を、すべて栞様にお預けいたします。……美味しいものをたくさん作って、この屋敷を満たして差し上げてくださいませ。それが、私から栞様への、心からのお願いでございます」
手帳に視線を落とした栞の瞳が、爛々と輝きを帯びた。
最高級の利尻昆布、幻の和牛、朝獲れの鮮魚、産地直送の旬の京野菜――。
世界最高峰の食材たちが、自分の電話一本で、このプロ仕様の厨房へと届けられる。
(一年間の超高級マンスリーマンション生活……想像以上に、天国じゃないの……!)
朝の光が差し込むキッチンで、新たな「最強の同盟」が結ばれた瞬間だった。




