【第5話】一番出汁の引力。ハウスキーパー・絹代の査問
午前七時五十分。
秋の冷涼な空気が張り詰める中、神崎家の勝手口へと続く敷石を、一人の初老の女性が迷いのない足取りで踏みしめていた。
藤沢絹代、五十四歳。
神崎家の先代――創の祖父の時代から三十年にわたりこの屋敷の家事一切を取り仕切ってきた、筋金入りのベテランハウスキーパーである。
仕立ての良いチャコールグレーのカーディガンに、皺一つない白のエプロンドレス。背筋は定規を当てたように真っ直ぐ伸び、整えられた白髪混じりの髪は後頭部で一分の乱れもなく結い上げられている。その能面のように起伏のない無表情は、出入りの業者や若い使用人たちから「歩く神崎家の家憲」と恐れられていた。
(……さて、どのようなお嬢様が来られたことか)
勝手口の暗証番号キーを押しながら、絹代は心の中で冷徹に思考を巡らせていた。
昨日の婚姻届提出と親族への挨拶を経て、この屋敷に迎え入れられた新しい「若奥様」――佐竹栞。
傾きかけた老舗和菓子舗の令嬢であり、創が遺言条項をクリアするためだけに選んだ、いわば政略結婚の身代わり。
絹代は創がまだ幼い頃からその孤独な生い立ちを見てきた。歪んだ家庭環境、冷酷な父親、親族たちの醜い遺産争い。そんな中で心を閉ざし、仕事だけに没頭するようになった創を、誰よりも不憫に思い、同時に案じていた。
だからこそ、絹代は新しい妻に対して容赦のない査問の目を向けるつもりだった。
家柄に驕り、神崎家の財産に甘え、創の冷淡さに耐えかねてヒステリーを起こすような女なら、容赦なく事務的に隔離し、一年間を無風でやり過ごす。
前世の栞がまさにそうであったように――初対面で絹代の威圧的な無表情に怯え上がり、視線を合わせることすらできず、家事の一切を投げ出して自室に閉じこもるような「臆病なお人形」なら、こちらもそれなりの扱いをするだけだ。
カチャリ、と勝手口の重い金属扉が開いた。
三和土で靴を脱ぎ、室内履きに履き替えたその瞬間――。
「……っ?」
絹代の細い眉が、ピクリと跳ね上がった。
鼻腔をくすぐったのは、いつもなら漂っているはずの、無機質な消臭剤と大理石用ワックスの冷たい空気ではなかった。
澄み切っている。
だが、圧倒的に芳醇で、奥深く、身体の奥底が自然と震えるような「温かな薫煙」。
雑味の一切ない、極限まで研ぎ澄まされた――出汁の香り。
(これは……昆布と、鰹? いや、ただの出汁ではない。この香りの立ち方は……)
絹代は調理師免許を所持し、かつては赤坂の高級料亭で板前修行を積んだ経験すらある。出汁の香り一つで、引いた人間の腕前と素材の素性が手に取るように分かってしまうのだ。
足早に廊下を進む。足音を殺しながら、一階奥の厨房へと向かう。
換気扇の低い唸り声とともに、引き戸の隙間から漏れ出てくる香りは、確信へと変わっていった。
スウッ、と音もなく引き戸を開ける。
そこに広がっていた光景に、絹代は息を呑み、その場に縫い付けられたように静止した。
「――火加減は、このくらいね」
朝の柔らかな光が差し込むステンレスの厨房。
そこに立っていたのは、怯えた令嬢などではなかった。
袖をきっちりと肘までまくり上げ、胸当て付きの生成りの麻エプロンをキュッと締めた栞が、三連ガスコンロの中央に据えられた雪平鍋の前に立っていた。
その手際の良さは、およそ素人のそれではない。
鍋の中では、黄金色に透き通った液体が静かに湯気を立てていた。
昆布の表面の白い粉――マンニトールと呼ばれる旨味成分を傷つけぬよう、固く絞った濡れ布巾で優しく拭き清められた利尻昆布。それを一晩かけて軟水に浸し、極弱火でじっくりと六十度から八十度の間を保ちながら旨味を抽出した形跡が、鍋の脇に引き上げられた艶やかな昆布の姿から見て取れた。
鍋底に針の先ほどの微細な泡が立ち上った瞬間、昆布を一切煮立たせることなく引き抜く。
そして一度沸点まで上げた湯に、ごくわずかな差し水をして温度を九十度前後まで落とし――そこへ、惜しげもなく投入されたのは、血合いを丁寧に取り除いた最高級の本枯節だ。
決して箸でかき混ぜない。
鰹節が自らの重みで、ふわりと鍋底へ沈んでいくのを待つ。
そして、清潔な晒を敷いた万能漉し器の上へ、静かに、優しく流し込まれていく琥珀色の液体。
一滴たりとも雑味を絞り出さぬよう、重力だけに任せて滴り落ちる黄金の雫。
(……完璧だ。温度管理、引き抜く刹那の見極め、漉し方に至るまで……老舗の板前でもここまでの仕事を朝の家庭でこなす者はそういない)
絹代の背筋に、ゾクリとした戦慄が走った。
だが、驚愕はそれだけに留まらなかった。
厨房の作業台には、すでに朝食の役者たちが一分の隙もなく並べられていたのだ。
コンロの脇にある、三重県四日市萬古焼の飴色に光る分厚い土鍋。
二重蓋の小さな穴から、シュウシュウと規則正しいリズムで白い蒸気が吹き出している。米粒がピンと立ち、甘く豊かな穀物の香りが立ち上っているのは、蓋を開けずとも音と匂いだけで明白だった。
グリルの中では、皮目に繊細な格子状の隠し包丁を入れられた極上の紅鮭が、炭火にも似た遠赤外線でじっくりと焼き上げられていた。
皮はパリッと狐色に縮み、その下から滲み出る鮮やかな紅色の脂が、パチパチと小さな爆ぜる音を立てている。身は決して縮こまることなく、ふっくらと指で押せばほろりと崩れそうな絶妙の水分量を保っている。
そして、栞の手元。
彼女が左手に持っていたのは、プロが愛用する長方形の「純銅製玉子焼き器」だった。
使い込まれて黒光りする銅の鍋肌に、油を引いた油引きをトントンと滑らせ、先ほど引いたばかりの極上の一番出汁をたっぷりと含ませた卵液を、ジュワッと流し込む。
ジュウウウッ、という心地よい音。
瞬時に膨らむ黄色い気泡を、菜箸の先で小気味よくトントンと潰し、奥から手前へ、手首のスナップだけで滑らかに巻き込んでいく。
一度、二度、三度。
出汁の割合が限界まで高いため、素人が焼けば一瞬で形が崩れてスクランブルエッグになってしまう難易度の代物だ。
しかし、栞の操る菜箸はまるで生き物のように滑らかで、出来上がった出汁巻き卵は、まるで焼きたてのカステラのようにきめ細かく、黄金色の表面は絹のような滑らかさを湛えていた。
まな板の上へ滑り落ちたそれは、自らの重みと出汁の重みで、フルフルと危うげに震えている。包丁を入れれば、断面からジュワリと透明な出汁が滲み出してきた。
さらに、小さめの雪平鍋で温め直されていたのは、芳醇な香りを放つ赤出汁だった。
愛知県産の三年熟成八丁味噌を一番出汁で丁寧に溶き伸ばし、さいの目に切った滑らかな絹ごし豆腐。仕上げの直前に、氷水にさらして辛味を抜き、しっかりと水気を切ったばかりのみずみずしい茗荷と、三つ葉の小口切りがパラリと落とされる。
一汁三菜。
日本の朝食における、究極にして至高の完成形がそこにあった。
「ふう……よし、完璧!」
栞は満足そうに小さく息を吐き、額に浮いたわずかな汗をエプロンの端で拭った。
そして、二つの木製トレイの上に、有田焼の飯碗、汁椀、平皿を並べ、出来上がった料理を美しく盛り付け始めた。
つやつやの土鍋ご飯、湯気を立てる赤出汁、黄金色の出汁巻き卵、パリッと焼けた紅鮭、そして自家製の青菜の浅漬け。
二膳。
明らかに「二人分」の朝食だった。
「……若奥様」
低く、抑揚のない声が、キッチンの静寂を破った。
栞は肩をビクッと跳ねさせ、手に持っていた菜箸を落としそうになりながら振り返った。
「ひゃいっ!? ……あ、絹代さん!」
入り口に立っていたのは、腕を組み、冷徹な眼差しで自分を見つめる藤沢絹代だった。
前世の栞なら、この時点で心臓が縮み上がり、「申し訳ありません、勝手に台所を使ってしまって!」と涙目で平伏していただろう。神崎家のすべてを取り仕切る鉄の女帝の威圧感は、それほどまでに凄まじかった。
だが、今の栞は違った。
一度死んで、生き返ったのだ。
怒られたところで首を絞められるわけでもないし、一年後には三億円を手にして退職する身だ。
栞はすぐに胸元を撫で下ろし、ふわりと人懐っこい笑みを浮かべた。
「おはようございます、絹代さん。驚かせてしまってごめんなさい。鍵の開く音が聞こえなかったので、まだいらっしゃらないかと思っていました」
「……おはようございます、若奥様」
絹代は一歩、厨房の中へと踏み入った。
その視線は、栞の顔を通り越し、カウンターの上に並べられた二膳の朝食へと注がれている。
氷のように冷たい声音で、絹代は問うた。
「これは……一体、何事でございますか? 神崎家の台所仕事は、すべて私どもの管轄となっております。若奥様が自らこのような下回りの作業をなさる必要はございません。それに……」
絹代は整然と並んだ二つの膳を、細めた目で見つめた。
「創様は、朝食を召し上がりません。学生の頃から、朝はブラックコーヒー一杯と決まっております。まして今朝は、先ほど七時半前にすでにハイヤーで会社へ向かわれたはずですが」
「ええ、知っています」
栞はあっけらかんと答えた。
咎められたことに対する動揺など、微塵も感じられない。
「神崎様には先ほど、ちゃんと確認いたしました。『朝食は不要だ』とおっしゃって、颯爽と出勤されましたよ」
「……ならば、なぜ二人分作られたのですか? 食材の無駄遣いは、神崎家では固く禁じられております」
厳しい追及だった。
普通の嫁なら、ここで「夫のために健気に作って待っていたのに振られた哀れな女」の顔をして涙ぐむか、あるいは不機嫌になって言い訳を並べ立てるところだ。
しかし、栞の口から飛び出したのは、絹代の三十年のハウスキーパー人生において、一度も聞いたことのない言葉だった。
「無駄遣いになんてしませんよ。だってこれ、一人分作るのも二人分作るのも、お出汁を引く手間もお魚を焼く手間もほとんど一緒じゃないですか」
「は……?」
眉間に皺を寄せた絹代に対し、栞はトレイの一つを両手で持ち上げ、とことこと足音を立てて絹代の前まで歩み寄ってきた。
そして、湯気の上るその膳を、満面の笑顔とともに絹代の目の前へと差し出したのだ。
「ですから、絹代さん。これ、一緒に召し上がりませんか?」
「…………は?」
絹代の完璧な能面が、ほんのわずかに歪んだ。
今、この小娘は何と言ったのか。
「創様が召し上がらないのは分かりましたけれど、せっかくのお出汁も、脂の乗った紅鮭も、冷めてしまっては可哀想ですもの。捨てるなんて料理人の娘として絶対にできませんし、かといって私一人で二人分食べるのは、さすがにお腹がはち切れてしまいます」
栞は悪戯っぽく笑い、首をかしげた。
「絹代さんも、朝早くから電車に揺られていらして、まだ朝ごはんを召し上がっていらっしゃらないでしょう? 出汁巻き卵、熱々のうちが一番美味しいんですよ。お豆腐も茗荷も、今が最高の状態です」
「め、滅相もございません!」
絹代は反射的に背筋を正し、冷徹な声を取り繕って拒絶した。
「使用人が主人の家の食卓で、同じ膳を囲むなど言語道断。神崎家の服務規程にも、職務倫理にも反いたします。若奥様のお戯れとはいえ、そのような無作法はお受けできません。……速やかに片付け、処分いたしますので、お引き取りを」
ピシャリと言い放つ。
完璧な拒絶の壁。誰もがこの壁の前に縮こまり、すごすごと引き下がるはずだった。
だが、栞はまったく怯まなかった。
むしろ、トレイを胸の高さに掲げたまま、真剣そのものの瞳で絹代を真っ直ぐに見つめ返したのだ。
「絹代さん。神崎家の服務規程よりも大切なことがあります」
「……何でございますか」
「『一番美味しい瞬間の料理を、無駄にしないこと』です」
澄み切った声だった。
「私は神崎家の主人ぶるつもりはありません。ただの一年限定の居候です。だから主客の上下関係なんて関係ありません。……でも、このお出汁は、今朝私が心を込めて、素材に敬意を払って引いたものです。昆布も鰹も、命を削ってこの黄金色の雫になってくれたんです。それを『規則だから』という理由だけで三角コーナーに捨てるなんて、私には絶対にできません」
栞はふっと表情を和らげ、まるで路傍の猫にミルクを差し出すような、どこまでも無防備で優しい声音で囁いた。
「毒味だと思って、一口だけでいいですから。……ね?」
「…………」
沈黙が落ちた。
絹代の鼻腔を、強烈な誘惑が責め立てる。
至近距離から立ち上る、八丁味噌と一番出汁の、暴力的なまでの芳香。
茗荷の清涼感。
箸を入れる前からぷるぷると震え、出汁の涙を滲ませている出汁巻き卵の艶。
そして、土鍋から運ばれてきたばかりの、真っ白な米粒の甘い匂い。
絹代の腹の奥が、ぎゅるりと鳴りかけた。
三十年間、毎朝五時に起き、誰よりも早く神崎家へ駆けつけ、冷え切った屋敷を整えてきた。自分の朝食など、立ったまま流し込むインスタントのパンとコーヒーで済ませるのが常だった。
そんな老いた身体に、目の前の「至高の朝食」が放つ滋養の波動は、あまりにも劇薬だった。
(……一口。一口だけ、形式として口をつければ、このお嬢様も諦めて引き下がるだろう)
自分にそう言い聞かせ、絹代は震える指先を伸ばした。
「……そこまで仰るのなら。毒味として、一口だけ頂戴いたします」
「はい! どうぞどうぞ、お汁が冷めないうちに!」
栞が嬉しそうにトレイをカウンターの上に置き、絹代のために椅子を引いた。
絹代は躊躇しながらも腰を下ろし、黒塗りの汁椀を取り上げた。
漆の器越しに、じんわりとした温もりが手のひらに伝わってくる。
蓋を取る。
ふわりと立ち上る湯気とともに、茗荷と三つ葉の鮮烈な青い香りが鼻腔をくすぐった。
絹代は息を整え、ゆっくりと器に唇を寄せた。
ズッ……。
静かな厨房に、汁を啜る微かな音が響いた。
その瞬間。
「…………っっ!?」
藤沢絹代の背骨を、目に見えない雷撃が貫いた。
舌に乗った刹那、八丁味噌の重厚な渋みとコクが広がる――と同時に、それを下から完璧に支え上げる、圧倒的な出汁の旨味の津波が押し寄せてきた。
昆布のまろやかなグルタミン酸と、本枯節の研ぎ澄まされたイノシン酸が、完璧な黄金比で手を取り合っている。雑味は微塵もない。舌の奥に嫌な酸味も残らない。
ただ、澄み渡るような深い旨味だけが、喉を通って胃の腑へと落ちていき、荒れ果てた内臓の隅々にまで染み渡っていく。
さらに、シャキシャキとした茗荷の小気味よい歯触りと爽やかな香気が、八丁味噌の濃厚さを後味でふわりとリセットしてくれる。
何だ、これは。
ただの赤出汁ではない。
長年、冷徹に生きてきた老いた身体の細胞の一つ一つが、歓喜の産声を上げるような、底知れぬ慈愛の味がした。
「……あ」
絹代の喉から、掠れた吐息が漏れた。
三十年間、鉄の仮面を守り続けてきたハウスキーパーの目が、信じられないものを見るように見開かれ、完全に丸くなっていた。
箸を持ったまま。
黒塗りの椀を口元に掲げたまま。
藤沢絹代は、石像のようにピクリとも動かず、その場で完全にフリーズしていた。




