【第4話】朝食ミーティングと、完璧な不干渉協定
翌朝、午前六時四十五分。
遮光カーテンの隙間から差し込む秋の鋭い朝光に打たれ、神崎創は目を覚ました。
普段なら、起床と同時に重い頭痛と胃の不快感に襲われるのが常だった。連日の睡眠不足、空腹をごまかすために流し込んだカフェイン、そして解決の糸口が見えない社内の派閥抗争。それらが毎朝、目覚めた瞬間の創の身体に鉛のような重石を乗せていたはずだった。
しかし――。
(……身体が、軽い?)
ベッドの上に上半身を起こした創は、思わず自分の両手を握りしめ、それから腹のあたりを手のひらで押さえてみた。
痛まない。胸焼けも、吐き気もない。
深夜零時にあれほど豪快にA5ランクの和牛サーロインと葱を平らげ、濃厚な割り下のタレを飲み干したというのに、胃の中はすっきりと落ち着き、むしろ心地よい空腹感と全身を巡る温かな血の巡りを感じていた。
昨夜の光景が、鮮やかに脳裏へ蘇る。
くたくたのネイビーの部屋着に身を包み、ビール片手に足をブラブラと揺らしていた妻。
『お肉、まだありますよ?』と屈託なく笑いかけ、小鉢に山盛りの肉をよそってくれた、あの飾らない横顔。
(夢……ではなかったな)
創は小さく息を吐き、洗面台へ向かった。
鏡に映る自分の顔を見る。いつもなら目の下に濃く落ちている青黒い隈が、今朝はいくぶん薄くなっていた。肌の艶すら違う。
冷水で顔を洗い、歯を磨きながら、創の思考は昨夜の妻――間宮栞の不可解な言動について激しく回転していた。
昼間の顔合わせで見せた、あの消え入りそうな声と怯えた眼差し。
政略結婚の重圧に押し潰され、神崎家の威光に震えていたはずの令嬢が、なぜ夜になった途端、十年連れ添った悪友のような自然体で肉を焼いていられたのか。
昨夜の態度は、一時的なヤケクソだったのか。それとも、極度のパニックが引き起こした奇行の類だったのか。
(今朝、どう顔を合わせればいい……)
仕立てのいいチャコールグレーのスーツに袖を通し、ネクタイをきっちりと結び上げながら、創は胃の奥に別の種類の緊張感を覚えていた。
昨夜、自分は妻の手料理を無言で平らげてしまった。契約結婚の相手に対して、初日から甘え、隙を見せてしまったのだ。
今日からは再び、冷徹で分別あるビジネスマンとしての距離を保たなければならない。彼女に無用な期待を抱かせてもいけないし、かといって恐怖を与えてもいけない。
七時ちょうど。
創は寝室を出て、静まり返った吹き抜けの階段を降り、一階のダイニングルームへと向かった。
引き戸を開けた瞬間、創の足がピタリと止まった。
「……おはようございます、神崎様。よく眠れましたか?」
朝日が燦々と降り注ぐガラス張りのダイニング。
十人掛けの重厚なウォールナットのテーブルの真ん中に、一人の女性が背筋をピンと伸ばして座っていた。
間宮栞だった。
昨夜のダボダボの部屋着姿はどこへやら、糊の効いた清潔感のあるアイボリーのスタンドカラーブラウスに、センタープレスの利いた細身のテーパードパンツ。長い黒髪は後ろで一本の低いシニヨンにきっちりとまとめられ、薄化粧を施した顔には、どこからどう見ても完璧な「有能なビジネスパーソン」の凛とした空気が漂っていた。
テーブルの上には、薄型のタブレット端末が立てかけられ、その脇には几帳面に揃えられた数枚のA4用紙と、高級そうな油性ボールペンが一膳、銀のペントレイに載せられて用意されていた。
「あ、ああ……おはよう」
呆気にとられた創は、喉からかすれた声を絞り出すのが精一杯だった。
昨夜の酔っ払いの気配は微塵もない。かといって、昨日の昼間のような怯えた小動物の面影もどこにもない。
目の前にいるのは、まるで外資系コンサルティングファームのシニアマネージャーのような、隙のない笑顔を湛えた大人の女性だった。
「お早いお目覚めで助かりました。出勤前のお忙しい時間とは存じますが、十五分ほどお時間をいただいてもよろしいでしょうか? 本日からの私たちの共同生活を円滑に進めるため、アジェンダをご用意いたしました」
栞は立ち上がることなく、だが極めて優雅な所作で、対面の椅子を手で示した。
創は言われるがまま、引き寄せられるようにその椅子へ腰を下ろした。
「アジェンダ……?」
「はい。昨日は婚姻届の提出とご挨拶だけで慌ただしく、具体的な運用ルールのすり合わせができておりませんでしたので」
栞は手元のA4用紙を一枚、両手で丁寧に創の前へと滑らせた。
紙の最上段には、美しいフォントでこう印字されていた。
『神崎邸における共同生活ガイドライン(案) 策定日:十月十五日』
創の眉がぴくりと動いた。
企画書の類を見慣れている創の目から見ても、その資料のレイアウトは驚くほど論理的で、無駄がなく、美しかった。
「ご説明いたしますね」
栞は手元のタブレットの画面を指先でタップし、朗らかな、それでいて一切の淀みのない声でプレゼンテーションを開始した。
「目的はただ一つです。『向こう三百六十五日間、甲(神崎様)および乙(私)の双方が、精神的・肉体的なストレスを極限まで排除し、一年後の満了日において円満かつ迅速に協議離婚を成立させること』。そのための基本方針として、私は三つのルールをご提案いたします」
栞は細い人差し指をすっと立てた。
「第一に、『生活リズムおよび家事・食事の完全分離』です」
創は無言で紙面に視線を落とす。そこには詳細な箇条書きが並んでいた。
「神崎様は多忙を極める経営者でいらっしゃいます。深夜の帰宅や急な会食、休日の出勤も日常茶飯事かと存じます。それに合わせる形で私が食事を用意したり、出迎えや見送りを義務化することは、双方にとって著しい負担となります。したがって、食事は原則として各自調達。共有スペースであるキッチンの使用は自由としますが、互いに相手の食事を用意する義務は一切負わないものとします。もちろん、昨夜のように『たまたま余ったから食べる』程度の突発的なシェアは柔軟に行いますが、そこに一切の責任は発生いたしません」
栞は息継ぎも滑らかに、二本目の指を立てた。
「第二に、『プライベートおよび交友関係への完全不干渉』です」
「不干渉……?」
「はい。互いのスケジュール、休日の過ごし方、交友関係、あるいは自室での行動について、理由の如何を問わず詮索・干渉を行わないこととします。私は私の趣味や友人との時間を楽しみますし、神崎様もこれまで通り、仕事やお付き合いに専念していただいて結構です。ただし、対外的な義務――親族への形式的な対応や、グループの公式行事などへの同伴が必要な場合は、事前相談の上で『契約上の公務』として誠心誠意対応させていただきます」
淡々と、だが驚くほど明るいトーンで語られる言葉。
そして栞は、三本目の指を立て、最も重要な項目へと視線を向けた。
「そして第三に、『契約満了日における確定公正証書の機械的履行』です」
栞の瞳が、朝光を浴びてキラリと知的な輝きを放った。
「来年の十月十四日、本契約の満了日を迎えましたら、双方は何らの引き止めや感情論を交えることなく、直ちに協議離婚届を管轄区役所へ提出すること。それに伴い、公正証書第5条に定められた解決金三億円が私の指定口座へ送金されたことを確認した時点で、私は速やかに本邸を退去いたします。退去時の荷物搬出にかかる費用はすべて私が負担し、神崎様には一切の煩わしさを残しません」
一気に捲し立てた栞は、タブレットを置き、テーブルの上で両手を上品に重ねた。
そして、ふわりと完璧な、どこまでも爽やかな営業スマイルを浮かべた。
「以上が、私からのご提案です。神崎様のお立場や生活習慣を最大限尊重しつつ、互いの自立を守るための合理的な取り決めであると確信しておりますが……何か修正や、ご不満な点はございますでしょうか?」
「…………」
ダイニングルームに、水を打ったような静寂が落ちた。
創は資料を見つめたまま、言葉を失っていた。
完璧だった。
法的な瑕疵もなく、互いの権利と義務が明確に線引きされ、何より神崎創という男の都合がこれ以上ないほど配慮されている。
これこそが、彼が望んでいたはずのものだった。
面倒な感情の押し付け合いがなく、泣き落としもなく、後腐れのないビジネスライクな契約関係。
だが――。
(なぜだ……?)
創の胸の奥で、言い知れぬ違和感が急速に膨れ上がっていた。
前世の記憶を持たない創にとって、昨日の昼間まで自分に怯え、消え入りそうな声で「よろしくお願いいたします」と頭を下げていた令嬢と、目の前で淀みなく契約条項をプレゼンしている女性が、どうしても同一人物として結びつかなかった。
怯えていない。
悲しんでもいない。
それどころか、彼女はこの「冷え切った政略結婚」という過酷な状況を、まるで新規事業の立ち上げ案件か何かのように、前向きに楽しんでいるようにすら見える。
創はゆっくりと顔を上げ、栞の瞳を真っ直ぐに見据えた。
鋭い眼光。何百億の商談をまとめる際、相手の真意を抉り出す時に使う、怜悧なビジネスマンの視線。
「……栞さん」
「はい、何でしょう神崎様」
栞は眉一つ動かさず、穏やかに視線を受け止めた。
「一つ、聞かせてくれ」
「どうぞ」
「君にとって、この結婚は……本当に、ただのビジネスなのか?」
重い問いだった。
二十六歳の若い女性が、名家同士の都合で形だけの妻として売られ、一年後には離婚される。普通の感覚なら、人生を奪われたと絶望するか、あるいは少しでも夫の愛情を勝ち取って本当の妻になろうと足掻くのが自然ではないのか。
それに対して、栞は――。
「ええ、もちろんですが?」
あっさりと、何の躊躇もなく肯定した。
まるで「今日の天気は晴れですね」と確認された時に頷くような、あまりにも軽快な口調だった。
「私の実家である佐竹堂は、神崎グループの手厚い融資保証によって倒産の危機を免れました。職人たちの雇用も守られ、伝統ある暖簾に傷をつけることもありませんでした。それだけでも身に余る恩義です。その上、一年間この素晴らしいお屋敷で快適に同居人を務めるだけで、満了時には三億円という莫大な解決金までいただけるのですよ?」
栞は両手を胸の前で合わせ、心底から嬉しそうに目を細めた。
「これほど好条件のビジネス案件が、世の中のどこにあるでしょうか。ですから神崎様、どうぞご安心ください。私は三億円という破格の報酬に見合うよう、ミスのない、快適で、神崎様のプライベートを決して脅かさない『最高峰の同居人』を務め上げるとお約束いたします」
完璧な笑顔だった。
嘘偽りのない、澄み切った本心からの言葉。
悪意も、皮肉も、当てつけのニュアンスすら一ミリも含まれていない。
ただ純粋に、「一年後の三億円と完全な自由」というゴールに向かって、プロフェッショナルとして業務を遂行しようとする人間の、極めて清々しい決意。
「…………」
創の喉の奥が、乾いたように引き攣った。
(そうか……。そう、だったな)
自分は最初から、そう望んでいたはずだった。
彼女に余計な感情を抱かせず、互いに割り切った関係で一年を過ごすこと。
それなのに、なぜだろうか。
彼女の口から語られた「三億円のための完璧な同居人」という言葉を聞いた瞬間、創の胸の奥を、ピューと冷たい隙間風が吹き抜けていった。
まるで、分厚い防弾ガラスの向こう側に彼女が立っていて、こちらの手が二度と届かない場所へ行ってしまったかのような――奇妙な、説明のつかない喪失感。
「神崎様? いかがでしょうか。もし気になる条項がございましたら、修正いたしますが」
小首をかしげる栞の問いかけに、創はハッと我に返った。
「……いや。問題ない」
創は努めて冷静な声を取り繕い、銀のトレイからボールペンを手に取った。
紙面の最下部、署名欄の『甲』の文字の横に、淀みない筆跡で『神崎 創』とサインを走らせる。
「君の提案通りに進めよう。互いに干渉せず、快適な距離を保つ。それが最も合理的だ」
「ありがとうございます! ご理解いただけて光栄です」
栞は満面の笑みでサイン済みの用紙を受け取ると、クリアファイルへと丁寧に収めた。
その仕草は、大口の契約を一本勝ち取った敏腕営業マンそのものだった。
壁の掛け時計が、午前七時二十分を指す。
「では、私はこれで失礼する。朝食は……会社近くのカフェで取るから不要だ」
「かしこまりました。神崎様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
立ち上がった創を、栞は椅子の横に立ち、腰を四十五度折った完璧なお辞儀で見送った。
玄関ホールへ向かい、革靴を履き、重厚な扉を開けて外へ出る。
振り返ると、エントランスの奥で、栞が爽やかに手を振っていた。
バタン、と扉が閉まり、電子錠が施錠される。
朝の澄んだ空気の中、迎えのハイヤーへと歩きながら、創は自分の胸のあたりを右手で押さえた。
胃は快調そのものだった。
だが、そのすぐ上にある心臓のあたりが、なぜかモヤモヤと、釈然としない痛みを訴え続けていた。
(……あいつは、本当に……俺に何も求めていないんだな)
望み通りの結果のはずなのに、苦い毒を飲み下したかのような後味が、口の中にいつまでも残っていた。
* * *
一方その頃。
主人が出勤し、再び静寂を取り戻した神崎邸のエントランス。
「……ふうぅぅぅぅぅぅっ!」
栞は扉に背中を預け、天井を仰ぎながら、肺の中の空気をすべて吐き出すように大きな息を漏らした。
それから、握りしめていたクリアファイルを高く掲げ、小さく跳び跳ねた。
「やった……! 第一関門、完全突破!!」
成功だ。完璧なプレゼンだった。
前世のように「妻として認めてもらおう」と顔色を窺い、オドオドと縮こまる必要など最初からなかったのだ。
ビジネスとして割り切り、相手のメリットを提示し、互いの不可侵条約を結ぶ。
これで、向こう一年間、創が自分に理不尽な干渉をしてくる心配は完全に消滅した。
彼が家に寄り付かなかろうが、何をしていようが、自分には関係ない。
一年後に三億円を受け取って、綺麗な身体でここを出ていくだけだ。
「さーて!」
栞はブラウスの袖をまくり上げ、キッチンの引き出しから、実家から持ってきた使い慣れた麻のエプロンを取り出した。
頭の後ろで紐をキュッと結び直す。
「まずは、この広大な城の『食事環境』を、私好みに快適に整えなくっちゃね!」
時計を見れば、午前七時半。
専属ハウスキーパーの藤沢絹代がやってくる午前八時まで、あと三十分。
栞の瞳は、これからの楽しい暮らしへの期待で、キラキラと輝いていた。




