【第3話】深夜0時の遭遇。「お肉、まだありますよ?」
神崎創が乗った黒塗りの役員送迎車が、港区の閑静な高級住宅街に建つ神崎邸の私道へと滑り込んだのは、午後十一時五十分を回った頃だった。
「専務、本日の日程はすべて終了いたしました。お疲れ様でございました」
「ああ、ありがとう。明日も通常通り八時半に頼む」
運転手に短く告げ、創は後部座席から降り立った。
肌を刺す夜の冷気が、一日中オフィスに缶詰めになっていた熱っぽい額を冷やしていく。
だが、その冷気をもってしても、胃のあたりに沈殿した鉛のような重苦しさを吹き飛ばすことはできなかった。
(……帰ってきてしまったな)
見上げる本邸は、広大で、無機質で、要塞のようにそびえ立っている。
いつもなら、会社で深夜二時まで残務処理を続けるか、役員室の仮眠用ソファで夜を明かすのが常だった。仕事中毒と言われようが、冷徹な合理主義者と蔑まれようが、数字と契約書だけに囲まれている時間の方が、この冷え切った生家に帰るより遥かに精神衛生上マシだったからだ。
しかし、今夜だけはそうはいかなかった。
今日――十月十四日は、形式上とはいえ、彼が妻を迎えた初日だった。
佐竹栞。
老舗和菓子舗「佐竹堂」の令嬢であり、今日から一年間、神崎創の「契約上の妻」となる女性。
祖父の遺言条項にある「二十九歳を迎えるまでの婚姻関係の維持」をクリアするため、そして親族たちによる株式の分散を防ぐために、創が選んだ相手だった。
佐竹堂が抱えていた焦げ付き債務の連帯保証と引き換えに、彼女の自由を一年間奪う。
さらに一年後には、手切れ金と生活補償を兼ねた解決金三億円を支払い、綺麗さっぱり離婚する――。
合理的な取引だ。ビジネスとしては完璧なディールだった。
だが、一人の人間としてはどうだ。
(あんな若い娘を、家を守るための生贄のようにこの冷え切った家に閉じ込めて……)
昼間の顔合わせの席で見た栞の姿が、創の脳裏に焼き付いて離れなかった。
サイズの合っていない硬いスーツを着て、指先を膝の上で白くなるほど握りしめ、自分と視線が合うたびに怯えた小動物のように肩を震わせていた。
創が事務的に「私生活に干渉するつもりはない」と告げた時、彼女は泣き出しそうな顔で深く頭を下げた。
どう接すればいいのか、創には皆目見当がつかなかった。
神崎家の歪んだ家庭環境で育ち、家族の情愛というものを知らずに育った男だ。下手に優しく声をかければ「恩着せがましい」と受け取られるかもしれない。かといって放置すれば、政略結婚の重圧に押し潰されてしまうのではないか。
そんな葛藤と罪悪感のあまり、役員会議の間も集中を欠き、結局、前世よりも二時間以上も早くオフィスを飛び出してきてしまったのだった。
(泣いていたらどうする。部屋に閉じこもって食事も喉を通らない状態だったら……)
何か声をかけなければならない。
無理に妻の役目を果たす必要はないと、改めて言葉で伝えなければ。
創はネクタイを少しだけ緩め、意を決して玄関の指紋認証リーダーに親指を押し当てた。
カチャリ、と解錠音が鳴り、重厚な防音扉を引く。
玄関ホールは、予想通り静まり返っていた。
だが――暗闇と静寂の中に漂っていたはずの「家の空気」が、何かがおかしかった。
「……ん?」
創の足が止まった。
鼻腔をくすぐったのは、長年この屋敷を支配していた、磨き上げられた大理石とワックスの冷たい無臭ではなかった。
ふわりと漂ってきたのは――甘く、香ばしく、暴力的なまでに胃袋を刺激する、濃厚な匂い。
醤油が熱せられて焦げた芳香。みりんと砂糖が煮詰まった艶やかなカラメル香。そして、上質な和牛特有の、甘美な脂の薫煙。
(……すき焼き、か……?)
あり得ない、と理性が否定する。
専属ハウスキーパーの藤沢絹代は、新婚初夜に配慮して夕方には退勤しているはずだ。
泥棒が侵入してすき焼きを煮ているとでもいうのか?
それとも、精神的に追い詰められた新妻が、何か取り返しのつかない奇行に走っているのか?
カツ、カツ、と革靴の踵を鳴らし、創は早足で廊下の奥へと向かった。
匂いの発生源は、間違いなく一階奥の業務用キッチンだった。
引き戸の曇りガラス越しに、煌々とした明かりが漏れている。
創は息を殺し、そっと引き戸を横に滑らせた。
「…………」
そして、言葉を失った。
視線の先に広がっていたのは、彼がこれまで一度も目にしたことのない光景だった。
プロ仕様のオールステンレスキッチンのカウンターに、黒々とした南部鉄器のすき焼き鍋が置かれ、そこから白い蒸気がもうもうと立ち上っている。
鍋の脇には、見覚えのある桐の木箱――確か取引先の会長から届いていた、手付かずの松阪牛の贈答品が豪快に開け放たれていた。
そして、その中心にいたのは。
昼間の怯えきった令嬢の面影など微塵もない、一人の女だった。
仕立てのいいシルクスーツはどこへ行ったのか、身体が泳ぐほどダボダボの、洗いざらしたネイビーの部屋着に身を包んでいる。髪はラフに後ろで束ねられ、素足にパイル地のスリッパを引っ掛け、カウンターチェアの上で気ままに足をブラブラと揺らしていた。
右手には割り箸。
左手には、黄金色に輝くビールが注がれたうすはりグラス。
そして、ほんのりと赤く染まった艶やかな頬を緩ませ、心底幸せそうに目を細めていた。
張り詰めたビジネスの世界で生きてきた創の脳内処理能力が、完全にオーバーヒートを起こした。
恐怖に震えているはずの妻が、深夜の台所で、一人でA5ランクの和牛を焼き、ビールを煽っている。
あまりの落差に、創は声すら出せず、ただ扉の前に立ち尽くすしかなかった。
ふと、栞が顔を上げた。
二人の視線が、空中で真っ向から衝突する。
(しまった、見られたか……!)
創は反射的に身構えた。
勝手に高級食材を使った気まずさから、彼女が怯えて取り乱すか、あるいは慌てて言い訳を並べ立てて平伏するのではないか。そう身構えた創の予想は、次の瞬間、あっさりと裏切られた。
栞はまばたきを二回ほどパチパチとさせた後、慌てる様子もなく、すっと口元を緩めたのだ。
「あら。おかえりなさいませ、神崎様」
鈴を転がすような、あまりにも屈託のない声だった。
恐縮の色も、罪悪感の欠片もない。まるで、十年以上連れ添ったシェアハウスの同居人に「お疲れ」と声をかけるような、驚くほど自然体の挨拶。
「……き、君は……」
「随分とお早いお帰りですね。お仕事、もう終わられたんですか?」
栞はグラスをトンとカウンターに置くと、立ち上がって冷蔵庫へ向かった。
創は呆然としたまま、ネクタイを緩めることすら忘れて立ち尽くす。
栞が取り出したのは、清潔な有田焼の小鉢と、真新しい割り箸の一膳だった。
「あのな、栞さん。俺は……」
「神崎様、夕飯はまだ召し上がっていらっしゃらないでしょう?」
創の言葉を遮るように、栞が振り返った。
その瞳は澄み渡り、昼間の怯えは嘘のように消え去っていた。
「顔色が優れませんよ。目の下に隈ができていますし、お腹も空いていらっしゃるはずです」
「いや、俺は別に……」
――ぐうぅぅぅぅぅ。
抗おうとした創の腹が、これ以上ないほど雄弁に、情けない音を響かせた。
昼からコーヒーとエナジードリンクしか口にしていなかったエリート専務の胃袋が、目の前で立ち上るすき焼きの暴力的な匂いに、無条件降伏した瞬間だった。
創の顔が、屈辱と恥ずかしさでカッと赤く染まる。
しかし、栞はそれを嘲笑うでもなく、ただ「ふふっ」と優しく目を細めた。
「ちょうど良かったです。冷蔵庫に松阪牛の木箱があったんですけれど、消費期限が明日までだったんですよ。放っておいたら傷んでしまうところでしたから、勝手にお料理させていただきました」
栞は小鉢に赤玉卵を割り入れ、箸で手際よく黄身をほぐす。
そして、南部鉄器の鍋の下のコンロに、再び火を点けた。
ボッ、と青い炎が灯り、煮汁が再びグツグツと沸き立ち始める。
栞はトングを手に取り、木箱の中に残されていた最後の二枚の大判サーロインを持ち上げた。
「お肉、あと二枚ありますよ。召し上がりますか?」
小鉢と割り箸を差し出しながら、小首をかしげる栞。
その佇まいには、夫の歓心を買おうとする媚びも、機嫌を伺う卑屈さも一切なかった。
ただ、「美味しいものが目の前にあるから、お腹が空いているなら一緒に食べましょう」という、極めてシンプルで純粋な好意。
創の理性が、激しく警鐘を鳴らしていた。
駄目だ。契約結婚の相手に、初日から甘えてどうする。
自分は彼女に何も求めないと宣言したはずだ。妻の手料理を食べるなど、一線を越える行為ではないのか。
冷徹に断り、自室へ引き上げるべきだ。
だが――。
鍋の中で、大判の霜降り肉が甘辛い割り下を吸ってジュウジュウと音を立てている。
熱せられた千住葱の甘い香りと、春菊の鮮烈な苦味が、疲弊しきった脳髄を激しく麻痺させていく。
何より、目の前の少女の屈託のない笑顔が、創が何年も張り巡らせてきた心の防壁を、あまりにもあっさりとすり抜けてしまっていた。
「……いただく」
絞り出すように漏れた自分の声に、創自身が一番驚いていた。
言った瞬間、もう後戻りはできなかった。
創は吸い寄せられるようにカウンター席へ歩み寄り、重い革靴を脱ぎ捨ててスリッパに足を滑り込ませた。
「はい、どうぞ。火を通しすぎないうちに召し上がってくださいね」
栞の手によって、溶き卵の海へとダイブさせられた熱々のサーロイン。
黄色い衣をたっぷりと纏った大判の肉が、創の目の前の小鉢へと恭しく鎮座した。
箸を受け取る。指先が、微かに震えていた。
(……俺は一体、何をしているんだ)
自問自答しながらも、箸は止まらなかった。
卵を絡めた肉を一口大に折りたたみ、口の中へと運ぶ。
その瞬間、創の思考が完全に停止した。
「…………っ」
甘い。そして、圧倒的に柔らかい。
舌に乗せた瞬間に、人肌の熱で上質な脂がふわりと解けていき、濃厚な赤身の旨味が津波のように押し寄せてくる。
市販のタレのような角のある塩気は一切ない。ざらめ糖特有のキレのある深い甘みと、芳醇な濃口醤油のコクが、肉の脂を完璧に引き立てていた。
何より、卵のまろやかさが熱を程よく閉じ込め、噛むたびにジュワリと溢れ出す肉汁が、乾ききっていた喉と食道を温かく潤していく。
ごくり、と飲み込んだ後、創の口から無意識に言葉がこぼれ落ちていた。
「……あ、美味しい……」
それは、大企業の専務としての計算高い発言でも、社交辞令の褒め言葉でもなかった。
ただの一人の飢えた男が、心底から漏らした本音の吐露だった。
すると、カウンターの向こう側で、栞が「ぱあぁっ」と花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「ですよね! 私もさっき一口食べて、あまりの美味しさに感動しちゃったところなんです。やっぱりざらめで作る割り下はコクが違いますよね。葱もすごく甘いんですよ、どうぞ」
栞は嬉しそうに頷き、クツクツと煮える鍋から、タレを吸って飴色になった千住葱と焼き豆腐を、手際よく創の小鉢へ追加していく。
創はもはや何も言えなかった。
ネクタイを緩め、無言で箸を動かし続ける。
トロトロに溶ける葱の甘み、出汁を限界まで含んだ焼き豆腐の滋味。
最後の一枚のサーロインも、瞬く間に創の胃袋の中へと消え去っていった。
ふう、と創が息を吐き出した時、小鉢の中には一滴のタレすら残っていなかった。
一日中続いていた偏頭痛と胃の不快感が、嘘のように消え去っていた。身体の芯からぽかぽかと温かい血が巡り、張り詰めていた肩の力がすとんと抜け落ちている。
「ごちそうさまでした、神崎様」
満足げに空の器を見届けた栞が、パパッと手を叩いた。
「お粗末さまでした。お口に合って何よりです。……では、私はお先に失礼しますね」
栞は自分の分のグラスと小鉢をシンクへ運び、手際よく水につけると、布巾でカウンターをキュッキュと拭き上げた。
その流れるような無駄のない動き。
「あ、お鍋の残りはそのままにしておいて大丈夫です。火は完全に止めてありますから。明日の朝、私が片付けますので。……あ、それとも朝一番で絹代さんがいらっしゃるんでしたっけ? どちらでも構いませんけれど」
栞はあくびを一つ、手元で小さく噛み殺すと、スリッパをパタパタと鳴らしながらキッチンの出口へと向かった。
「お風呂のお湯、まだ温かいはずですから入って温まってくださいね。それでは、おやすみなさいませ」
引き戸の取っ手に手をかけ、一度だけ振り返ってペコリとお辞儀をする。
その顔には、夫を引き止めようとする気配も、夜の営みを期待するような色気も、微塵も存在しなかった。
ただ、美味いものを食って満腹になった人間特有の、極めて健康的で清々しい眠気だけが漂っていた。
ガラガラ、ピシッ。
引き戸が閉まり、廊下を遠ざかっていくスリッパの足音が聞こえなくなる。
静寂が、再びキッチンを包み込んだ。
「…………」
一人、カウンター席に取り残された創は、空になった有田焼の小鉢を見つめたまま、ピクリとも動けずにいた。
静まり返った空間に残る、微かな割り下の匂い。
まだほんのりと熱を帯びている南部鉄器のすき焼き鍋。
そして、胃袋の奥底から込み上げてくる、確かな充足感。
創はゆっくりと自分の手のひらを見つめ、それから先ほど栞が立っていた場所へと視線を移した。
「……あいつ、あんな性格だったか……?」
ぽつりと呟いた声が、誰もいないキッチンに虚しく反響した。
昼間の顔合わせで見せた、あの消え入りそうな声。
今にも泣き出しそうだった、怯えた瞳。
政略結婚に絶望し、神崎家の威光に縮こまっていたはずの、佐竹家の令嬢。
それが、どうだ。
初日の夜に、夫の帰宅を待つでもなく一人ですき焼きを平らげ、酒を飲み、帰ってきた夫に動じることもなく肉を振る舞い、食べ終われば「おやすみなさい」と風のように去っていった。
契約に縛られ、怯え、苦しんでいるのは――一体どちらだったのか。
創はネクタイを乱暴に引き抜き、カウンターの上に放り出した。
胸の奥で、経験したことのない奇妙なざわめきが、波紋のように広がっていくのを止められなかった。




