【第2話】おひとり様の祝杯は、A5ランクの霜降り和牛で
大型冷蔵庫の冷気の中に手を伸ばし、桐の木箱を引き抜いた瞬間、ずっしりとした確かな重みが両手に伝わってきた。
赤紫色の風呂敷を解くと、蓋の中央には金文字で『松阪牛 特選サーロイン』の焼き印。
恐る恐る白木の蓋をスライドさせると、防湿の経木に包まれた、大判の肉が姿を現した。
「……息を呑むって、こういうことね」
思わず独り言が漏れた。
そこに収まっていたのは、絵の具で描いたかのように美しい、極上の霜降り肉だった。
鮮やかな小豆色の赤身に、まるで細雪を均一に吹き付けたかのような、繊細極まる白いサシがびっしりと走っている。手のひらの温度だけで溶け出してしまいそうなほど融点の低そうな脂は、蛍光灯の光を浴びてしっとりと真珠のような艶を放っていた。
添えられていた個体識別番号のシールと品質証明書、そして消費期限のラベルに視線を落とす。
『消費期限:十月十五日』
「……明日じゃない」
栞は思わず眉をひそめた。
今日が十月十四日の夜九時半過ぎ。ということは、あと二時間半もすれば日付が変わり、この天下の名牛は消費期限を迎えてしまう。
おそらく、数日前に神崎ホールディングスの役員就任祝いか何かの名目で、どこかの財界筋から贈られてきたものだろう。
しかし、この家の主である神崎創は、連日の深夜残業と会食続きで、家の冷蔵庫を開けることすら滅多にない男だ。そしてハウスキーパーの絹代も、主人の指示がなければ勝手に高級贈答品を開封して料理するわけにはいかない。
前世の記憶を辿れば、この肉は誰の胃袋にも収まることなく、数日後に賞味期限切れとして処分されていた可能性が極めて高かった。
「天下の松阪牛を廃棄処分なんて、畜産農家さんにも牛さんにも顔向けができないわ。命をいただくことへの冒涜よ。……ええ、これは正当防衛。食材の緊急避難よ」
自分に都合のいい大義名分を堂々と並べ立てると、栞は軽快な動作でキッチンの戸棚を開け放った。
調理器具を探す。
プロ仕様のシステムキッチンの下段、引き出し式の収納を引くと、重厚な鋳鉄の鍋がいくつか整然と収められていた。その中に、求めていた「それ」を見つける。
「あった……!」
黒く鈍い光を放つ、南部鉄器のすき焼き鍋。
表面には細かな砂目肌が広がり、使い込まれた油の皮膜が美しい黒漆のような光沢を帯びている。熱伝導率が高く、一度温まれば分厚い鉄が均一に熱を蓄え、肉の繊維を硬くすることなく一気に焼き上げることができる、すき焼きのための至高の器だ。
コンロの上に南部鉄器を鎮座させると、栞は再び冷蔵庫の野菜室へと向かった。
引き出しを開けると、案の定、築地の高級青果店から仕入れられたのであろう、青々とした見事な野菜たちが眠っていた。
泥付きの極太の千住葱が三本。
みずみずしく葉先までピンと張った春菊。
表面に綺麗な焼き目のついた、京都産の焼き豆腐。
肉厚で傘の開いていない、丸々とした原木椎茸。
そしてチルド室の卵ケースには、大分県産の濃厚な赤玉卵がずらりと並んでいた。
「役者は完璧に揃ってるわね」
栞の口角が自然とつり上がる。
実家の和菓子舗「佐竹堂」の厨房で、職人たちの賄いを一手に引き受けていた腕前が、筋肉の記憶として身体に蘇ってくる。
包丁スタンドから、研ぎ澄まされた三徳包丁を一本引き抜いた。
まずは野菜の下ごしらえだ。
トントントン、と心地よいリズミカルな刃音が、静まり返った豪邸のキッチンに響き渡る。
千住葱は、火の通りと出汁の染み込みを良くするために、幅一センチ強の斜め切りにする。切り口から滲み出るネギの甘い水分が、刃先を濡らす。
焼き豆腐は、一口大の長方形に六等分。
春菊は冷水でサッと洗って水気を切り、根元の硬い部分を落としてざく切りに。
原木椎茸は、軸の先端を切り落とし、傘の表面に十字の飾り包丁を入れる。白い肉厚の裂け目が現れ、それだけで料亭の小鉢のような風情が漂った。
深皿に盛られた野菜の彩りは、まるで絵画のように鮮やかだった。
そして、すき焼きの命である「割り下」の準備だ。
市販のボトル入りのすき焼きのタレなど、老舗和菓子屋の娘の矜持が許さない。
調味料棚を探ると、本醸造の超特選濃口醤油、三河の本みりん、そして料理用ではなく飲用として置かれていた純米酒のボトルが見つかった。
極め付きは、上段に置かれていた「白双糖」の瓶だった。
「さすが神崎家、ざらめまで常備してあるなんて……!」
和菓子の餡のキレを出すために欠かせない、純度の高いざらめ糖。上白糖のような雑味がなく、すっきりとした力強い甘みと、熱を加えた時の芳醇なカラメル香を生み出す魔法の調味料だ。
計量カップに酒、みりん、濃口醤油を注ぎ、黄金比で合わせる。
準備はすべて整った。
栞はガスコンロの点火つまみを捻った。
パチパチパチ、ボッと青い炎が立ち上がり、南部鉄器の底を包み込む。
木箱の隅に添えられていた、真っ白な松阪牛の牛脂をトングで掴み、熱せられた鉄鍋の中央へ滑らせた。
――ジュウウウウウッ!
静かな空間に、耳朶を震わせるような激しい音が炸裂した。
鉄鍋の熱で、真っ白な牛脂の塊がみるみるうちに透明な液体へと溶け出していく。
同時に立ち上る、和牛特有のあの香り――「和牛香」と呼ばれる、桃やココナッツにも似た甘やかで濃厚な脂の芳香が、キッチンの空気を一瞬で支配した。
前世の自分が嗅いでいた、胃酸の酸っぱい匂いや、病室の埃っぽい空気とは、対極にある匂い。
それだけで胃袋がきゅうと縮み、唾液が口いっぱいに溢れ出す。
「最初は……関西風に、お肉だけを焼き付けるのが正解よね」
鍋肌に満遍なく牛脂の油を馴染ませ、余分な脂を引いた後、栞はざらめ糖を指先で一掴み、熱い鉄板の上へパラパラと撒いた。
チリチリと音を立ててざらめが溶け、わずかに焦げかけた瞬間を見逃さず、木箱から大判のサーロインを一枚、箸で持ち上げた。
赤身と脂のバランスが完璧な、手のひらよりも大きな一枚肉。
それを、熱い鉄鍋のキャンバスへ、一気に滑り込ませる。
――ジュワアアアアッッ!!
煙とともに立ち上る、醤油とざらめと牛脂が融合した極上のカラメル香。
肉の表面がキュッと縮み、美しい焼き色がついていく。すかさず、合わせ調味料の割り下を鍋肌からひと回し。
ジュワッ、と蒸気が弾け、肉全体が甘辛いタレを纏って艶やかに光る。
裏返して、わずか数秒。完全に火を通し切る前、中心がほんのりロゼ色を残した絶妙のタイミングで火を弱めた。
あらかじめ有田焼の小鉢に割り入れておいた、濃紅色の卵。
白身のコシを切りすぎないよう、箸でざっくりと三回だけかき混ぜた黄身の海へ、熱々の大判サーロインをそのままダイブさせる。
ジュッ、と卵の表面が熱でわずかに白濁する。
栞は箸で肉を折りたたみ、たっぷりと絡みついた黄身とともに、大きく口を開けて迎え入れた。
「んんっ……!!」
熱い。
そして、暴力的なまでの旨味が舌の上で爆発した。
噛み締める必要すらなかった。
歯を当てるまでもなく、人肌の温度で融解するサシの甘い脂が、舌の上でふわりとほどけていく。
ざらめのコクのある甘みと、濃口醤油の香ばしさ、そして濃厚な赤玉卵のとろりとしたコクが、肉の繊維の奥深くまで染み渡っていた。
噛むごとに溢れ出す、赤身肉の力強い肉汁。脂っこさは微塵もなく、後味には上品な和牛の香りが鼻腔を抜けていく。
「……溶ける。本当に、噛まなくても溶けちゃう……」
ごくり、と喉を通り過ぎた後も、食道から胃袋にかけてじんわりとした温かい幸福感が広がっていくのが分かった。
全身の細胞が、歓喜の悲鳴を上げている。
「生きてる……。私、ちゃんと生きてるわ……!」
思わず目頭が熱くなった。
前世の栞は、食事の味など感じたことがなかった。
いつ創が帰ってくるか分からない恐怖に怯え、胃薬を水で流し込み、冷えたコンビニのおにぎりを義務のように口に詰め込んでいたあの日々。
あんなものは、生きているとは言えなかった。
だが、今ここにあるのは、本物の命の味だ。
自分の手で作り、自分のためだけに用意した、極上のご馳走。
その一口が、前世で負った心の傷と、胃袋の痛みを、まるで温かい毛布のように包み込んで癒やしていく。
「泣いてる場合じゃないわ。冷めないうちに次よ、次!」
栞は小さく首を振り、再び火を強めた。
今度は、肉の旨味が溶け出した鉄鍋の中に、斜め切りの千住葱、焼き豆腐、椎茸を並べていく。
残りの割り下を注ぎ、グツグツと煮立たせる。
葱が半透明になり、焼き豆腐の表面が出汁を吸って茶色く染まり始めたところで、二枚目の松阪牛をふわりと広げて被せるように投入した。
仕上げに、春菊をどっさりと脇に添える。
鍋の中は、もはや一つの小宇宙だった。
肉から出た脂を吸って甘みを増した葱。出汁を限界まで吸い込んでぷるぷるに震える焼き豆腐。爽やかな苦味で全体の輪郭を引き締める春菊。
すべてが、完璧な調和を保ちながら煮立っている。
そして――この至福の宴に、絶対に欠かせない「最後の相棒」を思い出した。
「お酒……お酒がなきゃ始まらないわよね」
栞は小走りで冷蔵庫へ戻ると、最下段のチルド室をくまなく探った。
野菜室の奥、普段は誰も見ないような冷暗所に、銀色に輝く缶が数本、綺麗に冷やされていた。
『ザ・プレミアム・モルツ マスターズドリーム』
「神崎様、あなた本当にいい趣味をしてらっしゃるわ……!」
普段は無表情で冷徹な夫の、唯一と言っていいかもしれない隠れた贅沢品。
栞は迷わずその缶を手に取り、食器棚から最も薄く作られた、職人手吹きの「うすはりグラス」を取り出した。
キッチンのカウンターに戻り、プシュッ、と静かな夜気に小気味よい開栓音を響かせる。
グラスを四十五度に傾け、静かに注ぐ。
澄み切った深い黄金色の液体が満ちていき、最後に真っ白でクリーミーな泡が、グラスの縁から盛り上がるように七対三の黄金比を形成した。
湯気を上げるすき焼き鍋の前に座り、栞は一人、グラスを目の高さに掲げた。
「間宮栞、二十六歳。二度目の人生と、一年後の自由と三億円に――乾杯!」
カラン、と氷もないのに澄んだ音が鳴り響くような錯覚を覚えながら、グラスに唇をつけた。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
「……っっっ、ぷはぁぁぁぁぁぁっ!」
冷たい炭酸が喉を刺激し、ホップの華やかな苦味と深いコクが口いっぱいに広がる。
喉を通った瞬間、胃袋に心地よい冷気が染み渡り、先ほど食べた霜降り肉の濃厚な脂の後味を、驚くほど爽やかに洗い流してくれた。
そして、すかさず二口目のすき焼きへ。
今度は、肉の脂をたっぷりと吸い込んでトロトロになった千住葱を、溶き卵にくぐらせて口に放り込む。
甘い。信じられないほど甘い。
外側は香ばしく、内側からは熱々の葱のジュースが溢れ出す。そこにすかさず、よく味の染みた焼き豆腐を頬張り、再びビールを流し込む。
温かい、冷たい。濃厚、爽快。甘辛い、ほろ苦い。
完璧な味覚の無限ループ。
「幸せ……。本当に、死ぬほど幸せ……」
栞は両手を頬に当て、ふにゃりと顔を綻ばせた。
アルコールが全身を巡り、血行が良くなった肌がぽかぽかと温まり、ほんのりと上気して桜色に染まっていく。
前世のあの息苦しさは何だったのか。
誰かの顔色を窺って、愛されたいと願って、一人で縮こまっていた時間が、どれほど無駄だったことか。
この豪邸は、牢獄などではなかった。
一年間、誰も邪魔する者のいない、自分だけのパラダイスだったのだ。
契約書に記された三億円という数字が、頭の中でまぶしく明滅する。
あと三百六十五日、こうして美味いものを食べ、自分の機嫌を取り、快適に過ごすだけで、私の手には誰も奪うことのできない自由と未来が手に入る。
「よし、お肉はあと二枚……。次は白ご飯を炊いて、すき焼き丼にしちゃおうかしら」
完全にリラックスしきった栞は、鼻歌交じりに箸を動かし、鍋の中の肉をひっくり返そうとした。
部屋着の胸元を少し緩め、素足をパタパタと揺らしながら、グラスに残ったビールを煽る。
その時だった。
――カチャリ。
重厚な静寂を切り裂いて、玄関ホールの電子錠が解錠される、無機質な電子音が響いた。
「……え?」
栞の箸が、空中でピタリと止まった。
続いて、カツ、カツ、という硬い革靴の足音が、大理石のエントランスを踏みしめる音が聞こえてくる。
(嘘……でしょ? 時計は……?)
カウンターの上のスマートフォンを見る。
『23:58』
深夜零時前。
前世の記憶では、神崎創が帰宅したのは午前二時を回っていたはずだった。
二時間以上も早い。なぜ?
足音は迷うことなく、一階の廊下を通り抜け、このキッチンへと近づいてくる。
逃げる時間はなかった。
目の前には、湯気をもうもうと上げる南部鉄器のすき焼き鍋。
散らかった葱の皮と、空になった松阪牛の木箱。
そして、うすはりグラスに注がれたプレミアムビールと、頬を赤く染めた、くたくたの部屋着姿の自分。
言い訳のしようがない、完全なる「宴」の現場。
スウッ、と気密性の高いキッチンの引き戸が、音もなく横に滑り開いた。
「…………」
そこに立っていたのは、濃紺のオーダーメイドスーツを纏った男――神崎創だった。
乱れのないネクタイ、整髪料で整えられた黒髪。
彫刻のように整った美貌には、隠しようもない濃い疲労の色が滲み出ており、その怜悧な切れ長の瞳は、激しい困惑と戸惑いに見開かれていた。
まるで、自分の家に宇宙人が不法侵入しているのを目撃してしまったかのように。
深夜の厨房を、濃厚な割り下の甘辛い匂いと、春菊の青い香りが包み込んでいる。
二人の視線が、空中で真っ向から衝突した。




