【第1話】目覚めたら婚姻初夜、正座待機はもうやめました
肺の奥にへばりついていた鉄の味が、すっと消えていく。
耳の奥を狂ったように叩いていた心電図モニターの電子音も、鼻腔を突き刺す消毒液の匂いも、内臓を素手で握り潰されるような焼けつく激痛も――まるで分厚い鉛のカーテンが引かれたかのように、唐突に遠ざかっていった。
(……私、死んだんじゃなかったの?)
薄暗い視界の中で、まばたきを二度、三度と繰り返す。
ぼやけていた焦点が結ばれた先にあったのは、見覚えのない無機質な高い天井だった。
淡いグレーの漆喰壁に、計算され尽くした陰影を落とす間接照明の柔らかな光。背中に触れているのは、安っぽい病院の簡易ベッドの硬いマットではなく、身体の凹凸を吸い込むように受け止める最高級のキングサイズマットレスと、羽毛の掛け布団だった。
栞はゆっくりと上半身を起こした。
痛まない。
あれほど自分を苦しめ、血を吐くほどにえぐられていた胃のあたりに、何の違和感もない。息を吸えば、乾いたカシミアの毛布の匂いと、微かに漂う新品の建材の匂いだけが鼻腔を満たした。
枕元のサイドテーブルに置かれたデジタル時計に視線を走らせる。
『10月14日 21:14』
栞の息が止まった。
日付の横に表示された西暦の数字は、自分が病室で息を引き取ったはずの年から、きっかり一年前に巻き戻っていた。
十月十四日。
この日は、栞の人生が一度目の破滅へと舵を切った、忘れもしない運命の日――神崎創と区役所に婚姻届を提出し、この広大で冷え切った神崎家の本邸へ足を踏み入れた「初夜」の時刻だった。
「……嘘でしょう?」
思わず零れ落ちた自分の声は、掠れてもおらず、若々しい張りを保っていた。
思わず両手を見つめる。抗がん剤や度重なる点滴で青あざだらけになり、骨と皮ばかりになっていた指先は、ふっくらとした健康的な白さを取り戻している。
タイムリープ。あるいは、死に際の脳が見せている都合のいい夢。
だが、肌に触れる冷えた空気の感触も、遠くの幹線道路から微かに届く車の走行音も、あまりに生々しく、現実そのものだった。
栞は掛け布団を跳ね除け、ベッドの端に足を下ろした。
前世の記憶が、濁流のように脳裏を駆け巡る。
創業百二十年を誇る栞の実家、老舗和菓子舗「佐竹堂」。
職人気質の父が騙されて背負い込んだ巨額の負債と、メインバンクからの無情な貸し剥がし。破産寸前だった実家を救うために持ち込まれたのが、都内屈指の巨大コングロマリット「神崎ホールディングス」の若き専務・神崎創との政略結婚だった。
創が結婚を必要としていた理由は、極めて事務的なものだった。
神崎グループ創業者である亡き祖父の遺言状に記された特約条項――『創が二十九歳を迎えるまでに、一年以上の継続した婚姻関係を維持すること』。これを満たさなければ、グループ中核企業の筆頭株主としての権利が他の親族へ分散してしまう。
親族間の骨肉の争いを避けるため、創には「形だけの妻」が必要だった。
一方の佐竹堂には、神崎グループの信用力と融資保証が喉から手が出るほど欲しかった。
利害の一致。ただそれだけの契約。
それなのに――前世の栞は、あまりにも愚かだった。
(私……あの人を、好きになっちゃったのよね)
自嘲の笑みが口元からこぼれる。
初めて顔合わせの料亭で会った神崎創は、仕立てのいいスーツを完璧に着こなし、彫刻のように整った顔立ちをした、怜悧で美しい男だった。
感情を一切表に出さず、冷徹にビジネスを語るその横顔に、世間知らずだった二十五歳の栞は淡い憧れを抱いてしまったのだ。
『形式上の婚姻だ。君に妻としての義務を求めるつもりはないし、俺の私生活に干渉することも望まない』
契約の席でそう告げられた時、大人しく頷きながらも、栞の胸の奥には愚かな期待が芽生えていた。
――いつか、私の真心を尽くせば、この冷たい仮面を解いてくれるんじゃないか。
――本当の夫婦のように、温かい家庭を築ける日が来るんじゃないか。
その勘違いが、地獄の始まりだった。
前世のこの夜、栞は何をしていたか。
今身につけているのと同じ、窮屈なベージュのシルクスーツに身を包み、足が痺れるのも構わず、冷え切った一階リビングの革張りソファの前で正座して待っていたのだ。
深夜二時過ぎ、酒と煙草の匂いを微かに纏って帰宅した創は、玄関ホールで正座して頭を下げる栞を見るなり、氷のように冷たい目で眉をひそめた。
『……なぜ起きている。言ったはずだ、君に家事や出迎えの義務はない。さっさと自室で寝てくれ』
突き放すようなその一言に、栞は心臓を刃物で抉られたような衝撃を受けた。
それでも諦めきれず、翌朝からも早起きして慣れない朝食を作り、創が手をつけずにブラックコーヒーだけを飲んで出ていく背中を見送り、重厚な屋敷の空気と家政婦の冷ややかな視線に怯えながら、ひたすら「完璧な妻」になろうとすがりつき続けた。
結果はどうだったか。
創は妻の重すぎる気遣いと遠慮に居心地の悪さを感じたのか、帰宅時間をますます遅くし、出張を理由に家を空けるようになった。
一人きりの広すぎる豪邸で、誰とも会話せず、夫の足音だけに怯えて過ごす日々。
やがて過度のストレスから激しい胃痛が始まり、病院へ行くことすら「創の迷惑になるかもしれない」と我慢し続けた末に、吐血して倒れた。
救急車で運ばれた病室で、冷たい天井を見上げながら息を引き取った二十六歳の秋。
臨終の場に、夫である創の姿はなかった。仕事で海外へ飛んでいたからだ。
「……馬鹿馬鹿しい」
栞は静かに、だがはっきりと言葉を吐き出した。
喉の奥がすっと軽くなる感覚があった。
「本当に、馬鹿馬鹿しいわ。誰のために我慢して、誰の顔色を窺って死んだのよ、私」
前世の記憶を反芻すればするほど、湧き上がってくるのは悲しみではなく、底知れない怒りと呆れだった。
尽くしたって無駄だったのだ。
愛されない妻がどれだけ健気に正座して待とうが、冷めた味噌汁を温め直そうが、相手にとっては「重たい居候の自己満足」でしかなかったのだから。
栞は立ち上がり、寝室のドレッサーの脇に置かれた重厚な本革のファイルへと歩み寄った。
表紙を開く。中に入っているのは、昼間に公証役場で作成されたばかりの「婚姻に伴う合意公正証書」の原本控えだった。
栞は指先でページをめくり、前世ではろくに読み込みもしなかった条文を、食い入るように確認していく。
『第3条(実家への支援)
甲(神崎創)は、乙(佐竹栞)の実家である株式会社佐竹堂の債務に関し、極度額五億円の連帯保証を継続し、経営再建に必要な運転資金の融資枠を確保するものとする』
(……よし。これは今日の正午の時点で、神崎グループのメインバンクから佐竹堂の口座へ保証承諾書が届いているはず。実家の不渡りは回避された)
そして、栞の視線は最も重要な第5条へと吸い寄せられた。
『第5条(契約期間および満了時の給付)
本契約に基づく婚姻期間は、婚姻届提出の日より起算して満一年とする。
期間満了時、両名は異議なく円満に協議離婚の届出を行うものとする。
甲は乙に対し、本婚姻期間における協力の対価、解決金および今後の生活保障費として、金三億円を、離婚届提出後三営業日以内に乙の指定する個人口座へ一括して振り込み送金するものとする』
「……三億」
活字として並んだその数字を、栞は声に出して読み上げた。
三億円。非課税措置や税務処理のスキームについては後で弁護士に確認するとしても、紛れもない純資産としての三億円だ。
地方都市なら、海沿いに建つ風情ある古民家を一軒買い取り、理想の厨房機器をフルオーダーで揃え、坪庭を美しく整えた和カフェをオープンさせても、手元に二億五千万円以上が丸々残る。
残りを堅実な国債やインデックスファンドに分散投資しておけば、カフェの利益がゼロだったとしても、利息だけで一生贅沢に暮らしていける金額だ。
契約の条件は、すでに神崎創の直筆署名と実印によって確定している。
創が欲しているのは「一年間の無風の婚姻実績」だけ。親族対策としての形式的な妻の籍さえあれば、彼にとって中身はどうでもいいのだ。
(条件は、もう百点満点で揃ってるじゃないの……!)
じわじわと、胸の奥から温かい熱が込み上げてきた。
前世の自分は、この契約書を「愛のない冷酷な紙切れ」だと悲観していた。
だが、恋愛感情という色眼鏡を完全に叩き割った今、この紙切れは世界で最も安全で、最も価値のある「完全な自由へのプラチナチケット」にしか見えなかった。
神崎創は自分に無関心?
最高だ。干渉されないということだ。
家に寄り付かない?
願ったり叶ったりだ。この都心の一等地にある何億円もの豪邸を、一人で気兼ねなく使い放題だということだ。
「一年耐えるだけで、家賃ゼロ、光熱費ゼロ、生活費使い放題で、最後に退職金三億円つきの超高級マンスリーマンション……。そんな神物件、世の中のどこを探したってあるわけないじゃない」
ふふっ、と声が漏れた。
一度死んだことで、栞の思考をがんじがらめに縛り付けていた「良い妻でいなければならない」という呪いは、完全に霧散していた。
どうせあと三百六十五日後には、他人になる男だ。
嫌われたって痛くも痒くもない。離婚されるのは「予定調和」なのだから、愛想を尽かされるリスクすら存在しない。
なら、誰のために正座して待つ必要がある?
誰のために息を殺して怯える必要がある?
「決めたわ」
栞は契約書をパチンと閉じ、胸の前で抱きしめた。
「夫の機嫌を取るのは、今日でおしまい。これからの三百六十五日、私は私の機嫌だけを取って、勝手に幸せを満喫してやるわ!」
決意した瞬間、全身から重苦しい疲労感が抜け落ちていくのが分かった。
それと同時に、身体の感覚が急速に現実へと引き戻される。
「……痛い」
足元を見下ろすと、ストッキングの中で親指の付け根が赤く鬱血していた。
昼間の親族顔合わせのために履かされていた、ハイブランドの七センチヒール。足の幅に合っていない革靴で半日歩き回らされたせいで、つま先が悲鳴を上げていたのだ。
さらに、上半身を締め上げるシルクのセットアップスーツ。肩パッドが首の筋を圧迫し、細身のウエストラインが内臓を締め付けている。
(前世の私は、こんな拷問みたいな格好で、深夜二時まで正座して待ってたの? 正気の沙汰じゃないわね……!)
栞は躊躇なくパンプスを蹴り飛ばした。
絨毯の上で転がる高級靴を一瞥もせず、背中のファスナーに手を伸ばす。
ジッパーを引き下げ、窮屈なジャケットを脱ぎ捨てる。タイトスカートを脱ぎ、締め付けのきついストッキングを爪先から一気に引き剥がした。
「ふううぅぅ……っ!」
解放感が全身を駆け巡る。空気が直接肌に触れるだけで、鳥肌が立つほど気持ちがいい。
クローゼットを開けると、実家から持ってきた栞の私物が、部屋の隅に置かれたスーツケースの中に整然と収まっていた。
神崎家の使用人が「お嬢様の荷物」として用意してくれた絹のネグリジェや上品なレースのワンピースには目もくれず、スーツケースの底から、着古した愛用品を引っ張り出す。
綿百パーセントの、ビッグシルエットの長袖Tシャツ。
何度も洗濯してくたくたに柔らかくなった、ネイビーのリラックスイージーパンツ。
それらを身に纏い、きつく結い上げられていた髪のヘアピンをすべて引き抜いて、頭皮を指先でわしゃわしゃと揉みほぐした。
鏡を見る。
そこに映っていたのは、令嬢としての淑やかな仮面を剥ぎ取った、血色のいい二十六歳の「ただの間宮栞」だった。
足元には、ふかふかのパイル地のルームスリッパ。
パタ、パタ、と床を踏み鳴らしてみる。
音が鳴る。
前世では、使用人や創に「だらしない」と思われるのを恐れて、忍び足でしか歩けなかった廊下。
だが、今はどうだ。ここは自分が一年間契約で滞在する仮住まいだ。誰に遠慮する必要があるというのか。
その時、栞のお腹が「ぐうぅぅ」と情けない音を立てて鳴り響いた。
(そういえば……昼の顔合わせ、緊張しすぎて一口も喉を通らなかったんだっけ)
時計を見れば、夜の九時半を回ったところだった。
前世の創が帰宅したのは深夜二時過ぎ。つまり、あと四時間以上は確実に誰も帰ってこない。
そしてこの屋敷の専属ハウスキーパーである藤沢絹代は、事前の取り決め通り、新婚初夜に配慮して今夜はすでに退出しており、明日の朝まで戻らない手はずになっている。
完全なる空白地帯。
誰の視線もない、広大無辺の城。
「お腹が空いたわね……」
栞の唇が、自然と弧を描いた。
実家の佐竹堂で幼い頃から職人たちの賄い作りを手伝い、祖母から出汁の引き方と季節の味覚の扱いを叩き込まれて育った栞にとって、「料理」は義務ではなく、最大の娯楽であり癒やしだった。
前世では、創に気に入られようとフレンチのレシピ本を必死に読み漁り、慣れない洋食を作っては冷ましていた。
だが、今夜は違う。
誰かに食べさせるためじゃない。
生き返った自分を祝い、二度目の人生の門出を祝うための、完全なおひとり様のご馳走。
パタ、パタ、パタ。
軽やかなスリッパの音を大理石の廊下に響かせながら、栞は二階の寝室を後にした。
吹き抜けの階段を軽快な足取りで降りていく。前世の陰鬱な薄暗がりは、ただの静かな夜の静寂にしか感じられなかった。
一階の奥、引き戸を開けて足を踏み入れた先には、息を呑むほど広大なキッチンが広がっていた。
アイランド型のシステムキッチンは、プロの厨房でも使われるようなヘアライン仕上げのオールステンレス製。
巨大な三連のガスコンロ、火力の強そうな中華バーナー、海外製のビルトインオーブン、そして壁一面を占拠する二扉の業務用大型冷蔵庫。
前世の栞は、そのあまりのプロ仕様の威圧感に気圧され、「私なんかが汚してはいけない」と隅の小さなIHヒーターばかりを使っていた。
だが、今の栞の目には、それが最高峰のアミューズメントパークに見えた。
「素晴らしいわ……。こんな火力、街の小料理屋でもなかなかお目にかかれないじゃない」
ステンレスの天板を愛おしそうに撫で、換気扇のスイッチを入れる。
フォオオ、と静かで力強い吸気音が立ち上がり、キッチンの空気清浄が始まった。
腕まくりをして、栞は銀色に鈍く光る大型冷蔵庫の前に立つ。
神崎家の冷蔵庫だ。
財界の大物や取引先から、毎日のように届けられる高級食材の数々。仕事中毒の創が家で食事を取らないため、前世ではその多くが賞味期限を迎え、絹代の手によって静かに廃棄されていたことを、栞は知っていた。
「食材を腐らせるのは、料理人の娘として万死に値する罪よ。……私が美味しく救済してあげるのが、一番の供養よね?」
誰に言い訳するでもなくそう呟くと、栞は躊躇なく、大型冷蔵庫の重厚なハンドルに手をかけた。
パッキンが外れる小気味よい音とともに、冷気がふわりと吹き出してくる。
眩い庫内灯に照らし出されたその奥――整然と並べられた調味料や保存容器の真ん中に鎮座していた「あるもの」を見た瞬間、栞の瞳が爛々と輝いた。
桐の木箱に収められた、深紅の風呂敷。
そこには、達筆な筆文字でこう記されていた。
『松阪肉 特選サーロイン』
「……見つけた」
今夜の祝杯の主役が、決まった瞬間だった。




