第1話 現世で落ちこぼれの僕
僕――白石悠真は、何をやっても上手くいかない。
朝は目覚まし時計を止めたあと、二度寝してしまう。急いで家を出れば、曲がり角で近所の犬に吠えられ、駅では目の前で電車の扉が閉まる。
どうにか学校へたどり着いても、黒板の文字は途中から暗号に見えてくるし、体育の授業ではボールが僕を避けて飛んでいく。
そして今日も――。
「白石。お前、また赤点だぞ」
数学の小テストを返しながら、担任の先生がため息をついた。
答案用紙の右上に書かれた点数は、二十八点。
クラスの平均点は七十点を超えているらしい。つまり僕は、平均の半分にも届いていない。
「すみません」
とりあえず謝ると、教室の後ろから小さな笑い声が聞こえた。
「白石って、逆にすごくない?」
「何が?」
「毎回、安定して低いじゃん」
悪意のある言葉ではないのかもしれない。けれど、笑い声は胸に小さな石を投げ込むように響いた。
僕は何も言わず、答案用紙を机の中へしまった。
窓の外では、五月の風に揺れた木々の葉が、明るい緑色に輝いている。
同じ景色を見ているはずなのに、僕だけがそこから取り残されているような気がした。
そんな僕の視線の先に、五人の少女がいた。
一ノ瀬朱莉。
一ノ瀬紅葉。
一ノ瀬美桜。
一ノ瀬静香。
一ノ瀬明日香。
五つ子姉妹。
僕たちの学校で、彼女たちを知らない人はいない。
長女の朱莉は、生徒会の副会長を務めるほど真面目で、成績も学年上位。誰に対しても礼儀正しく、先生たちからの信頼も厚い。
紅葉は勝ち気で、テストではいつも朱莉と一位を争っている。口調は少しきついけれど、困っている人を見捨てられない性格だ。
美桜はおっとりしていて、クラスの誰かが怪我をするとすぐに駆けつける。彼女の周りには、いつも穏やかな空気が流れていた。
静香は五人の中で一番無口だ。休み時間も本を読んでいることが多く、必要なこと以外はあまり話さない。
そして明日香は、いつも笑顔で元気いっぱい。廊下を走って先生に注意される姿を、僕は何度も見ている。
顔はよく似ているのに、性格はまるで違う。
それでも五人は、いつも一緒にいた。
明日香
「朱莉、次の委員会って何時からだっけ?」
明日香が朱莉の肩から顔を出して尋ねる。
朱莉
「四時からよ。その前に、先生へ提出する書類を確認しないといけないけれど」
明日香
「えー、今日も忙しいね。終わったらみんなでクレープ食べに行こうよ!」
紅葉
「私は甘いものより、紅茶がいいわ」
明日香
「紅葉はまた難しいこと言ってるー」
紅葉
「難しくないわよ! そもそもクレープだけで夕食を済ませるなんて――」
美桜
「ふふっ。紅葉ちゃんも、きっと一緒に来てくれますよ」
美桜が微笑み、静香が小さくうなずく。
そのやり取りを眺めながら、僕は思った。
きっと彼女たちは、僕とは別の世界に住んでいる。
僕が教室の隅で赤点を隠している間に、彼女たちは周囲の人を笑顔にする。僕が失敗を恐れて何もできない間に、彼女たちは迷わず前へ進んでいく。
同じ学校に通っているのに、まるで住んでいる世界が違った。
だから、彼女たちと僕が直接話すことなど、ほとんどなかった。
――その日の放課後までは。
授業が終わり、クラスメイトたちが帰っていく中、僕は自分の机の横で固まっていた。
「……ない」
数学のノートがない。
家に持ち帰った覚えはないし、机の中にも入っていない。もしかすると、昼休みに図書室へ行ったときに置き忘れたのかもしれない。
僕はため息をつき、もう一度校舎の中を探すことにした。
図書室へ向かう途中、廊下の窓から中庭が見えた。
そこには、朱莉が一人で立っていた。
校舎の壁にもたれ、手にした書類を何度も確認している。普段なら妹たちと一緒にいるはずなのに、今日は一人だった。
表情は真剣だったが、右手がわずかに震えている。
僕は足を止めた。
生徒会の仕事で困っているのだろうか。
そう思ったけれど、僕が声をかけたところで何ができるわけでもない。余計なことをして、また失敗するのが怖かった。
そのまま通り過ぎようとしたとき、朱莉の持っていた書類が風にあおられた。
朱莉
「あっ……!」
数枚の紙が宙に舞い、中庭へ落ちていく。
僕は考えるより先に走り出していた。
一枚は花壇の中へ、もう一枚はベンチの下へ落ちた。残りの紙は風に乗って、校舎脇の排水溝へ向かっている。
僕は花壇に入り、制服のズボンを汚しながら一枚を拾った。ベンチの下の紙には手を伸ばし、最後の一枚には――間に合わない。
そう思った瞬間、僕の足が排水溝のふたを踏んだ。
紙はふたの上に落ち、風で飛ばされることなく止まった。
朱莉
「大丈夫ですか?」
振り返ると、朱莉がこちらを見ていた。
「うん。これ、落ちてたから」
拾った書類を差し出すと、朱莉は目を丸くした。
朱莉
「ありがとう。でも、どうしてあの紙が飛んでいく方向が分かったの?」
「え?」
朱莉
「風向きよ。最初に落ちた紙と、次の紙の動きを見て、最後の一枚が飛ぶ方向を予測したのでしょう?」
「いや、たまたまだよ」
本当にそう思っていた。
僕はいつも、たまたま失敗している。なら、たまたま上手くいくことだってあるはずだ。
朱莉は書類を受け取り、少しだけ笑った。
朱莉
「たまたまでも、助かったわ。ありがとう、白石くん」
名前を呼ばれたことに驚いて、僕はうまく返事ができなかった。
そのとき、中庭へ紅葉が駆け込んできた。
紅葉
「朱莉! 先生が探して――って、何よその格好」
紅葉の視線が、泥で汚れた僕の制服へ移る。
朱莉
「この人が書類を拾ってくれたのよ」
紅葉
「ふうん。……まあ、役に立つこともあるのね」
美桜
「紅葉ちゃん、そんな言い方はだめですよ」
美桜、静香、明日香も続いてやってきた。
明日香
「悠真くん、制服が汚れてるよ!」
美桜
「白石くん、怪我はない?」
明日香と美桜が同時に声をかけてくる。
「大丈夫。これくらい、いつものことだから」
そう言って笑うと、明日香が少しだけ眉を下げた。
明日香
「いつものことって、よくないと思うけどなあ」
その言葉に、僕は答えられなかった。
朱莉は書類を胸に抱え、僕をまっすぐ見た。
朱莉
「白石くん。もしよかったら、今日の生徒会の仕事を手伝ってくれない?」
「僕が?」
朱莉
「ええ。人手が足りないの。もちろん、無理にとは言わないけれど」
断る理由なら、いくらでもあった。
僕は要領が悪い。きっと迷惑をかける。五つ子姉妹の中に一人で入るなんて、どう考えても場違いだ。
それでも、朱莉の右手がまだ少し震えているのを見てしまった。
「……分かった。僕でよければ」
そう答えると、五人はそれぞれ違う反応を見せた。
朱莉
「助かるわ」
朱莉はほっとしたように笑った。
紅葉
「まあ、足を引っ張らないようにしなさいよ」
紅葉はそっぽを向いた。
美桜
「一緒に頑張りましょうね」
美桜は優しく微笑んだ。
静香は小さく頭を下げた。
明日香
「よろしくね、悠真くん!」
明日香だけは、最初から僕を仲間のように扱っていた。
その日、僕は初めて五つ子姉妹と一緒に、生徒会室で作業をした。
朱莉の指示に従って書類を整理し、紅葉が間違いを見つけ、美桜が全員に飲み物を配り、静香が必要な資料を黙々と集め、明日香が途中で三回もお菓子を持ってきた。
僕は大したことをしていない。
それでも、作業が終わったとき、朱莉は言った。
朱莉
「今日は本当に助かったわ。またお願いしてもいいかしら?」
「うん。僕でよければ」
外はすでに夕暮れだった。
校舎を出る前に、僕は忘れていた数学のノートを図書室で見つけた。どうやら本棚の間に落としていたらしい。
ノートを抱えて昇降口へ戻ると、五つ子姉妹がまだそこにいた。
明日香
「悠真くん、一緒に帰ろうよ!」
「えっ、僕も?」
明日香
「だって、もう仲間でしょ?」
明日香が笑う。
仲間。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
僕には、友達と呼べる相手がほとんどいなかった。ましてや、こんなふうに誰かから必要とされたことなんて、いつ以来だろう。
僕たちは六人で校門へ向かった。
その瞬間だった。
校舎の奥から、低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴゴ――。
美桜
「……今の、何?」
美桜が不安そうに振り返る。
廊下の照明が、一斉に消えた。
次の瞬間、校舎の窓という窓に、青白い光が走る。
床の下から、巨大な何かが目を覚ましたようだった。
朱莉が妹たちの前に立つ。
朱莉
「みんな、動かないで」
僕の足元にも、見たことのない紋様が浮かび上がっていた。
それは円形の魔法陣のように見えた。
中心には、五つの星と、一つの小さな鍵の絵が描かれている。
明日香
「悠真くん……それ、何?」
明日香の声が震えた。
「分からない。僕にも――」
言い終わる前に、魔法陣が強く輝いた。
朱莉
「絶対に離れないで!」
紅葉が妹たちの手を取り、美桜が静香の肩を抱く。明日香は僕の腕にしがみついた。
光が視界を埋め尽くしていく。
最後に見えたのは、教室の窓に映った僕たち六人の姿だった。
そして、どこからともなく声が聞こえた。
> 『五つの力を導く、六人目の鍵よ。こちらへ来い』
僕は叫んだ。
「僕たちは、どこへ行くんだ――!」
答えの代わりに、床が消えた。
僕たち六人は、青白い光の中へ落ちていった。
このときの僕は、まだ知らなかった。
この日を境に、僕の退屈で、何をやっても上手くいかなかった日常が、二度と戻らなくなることを。
そして、五つ子姉妹との長い旅と、少し騒がしい恋が始まることを。




