第2話 勇者は死にたがっている
「今度こそ、私がお前に殺される」
そう言って、勇者は剣の柄を差し出した。
銀色の刀身には黒い血がこびりついている。
人を殺せる道具だった。
当たり前のことなのに、その事実が急に現実味を持って迫ってきた。
「……受け取れるわけないだろ」
「受け取らなければ帰れない」
「だからって、はいそうですかと人を刺せるか」
「人?」
勇者が小さく笑った。
「私はもう、自分を人間だとは思っていない」
遠くで砲撃音が響いた。
城壁の一部が崩れ、炎と土煙が夜空へ噴き上がる。
境界獣はまだ生きていた。
城門前では兵士たちが必死に押し留めている。俺たちがこんな話をしている間にも、人が死んでいる。
「勇者様!」
女性の声が飛んだ。
赤い鎧を着た騎士が、兵士を二人連れて駆けてくる。
年齢は俺と同じくらいだろうか。短く切った赤茶色の髪、額から頬にかけて古い傷がある。
彼女は俺を一瞥すると、勇者の折れた腕を見て顔色を変えた。
「その傷で、なぜ立っているのです!」
「立たなければ皆が不安がる」
「今さら格好をつけないでください!」
騎士は勇者の無事を確認すると、今度は俺へ剣を向けた。
切っ先が鼻先で止まる。
「こいつは何者です」
「客人だ」
「空から落ちてきた不審者が?」
「そういう客もいる」
「いません」
真っ当な意見だった。
「エルナ」
勇者が低い声で名前を呼ぶ。
「彼を傷つけるな。私たちが助かるために必要な人間だ」
「そいつが?」
エルナと呼ばれた騎士は、露骨に疑わしそうな目をした。
俺だって同じ立場なら疑う。
パーカーにスニーカー、武器も防具もなし。戦場で役に立つ要素が一つもない。
「こいつが何をできるというんです」
「私を殺せる」
エルナの剣が動いた。
勇者の喉元へ向く。
俺ではなく、勇者へ。
「今、何と?」
「聞こえただろう」
「冗談にも限度があります」
「冗談ではない」
エルナの顔から表情が消えた。
次の瞬間、彼女は俺の胸ぐらをつかんだ。
「貴様、勇者様に何を吹き込んだ!」
「俺が言ったんじゃない!」
「ならば何者だ!」
「それを俺が一番知りたいんだよ!」
胸元の布が引きつる。
その下で、黒い鍵が熱を持った。
エルナが息を呑む。
服越しでも、何かを感じたらしい。
「その魔力……」
「離せ、エルナ」
「しかし!」
「命令だ」
エルナは数秒間動かなかった。
やがて舌打ちし、乱暴に俺を解放する。
「勇者様を内城へお連れしろ」
彼女が兵士へ命じた。
「治癒術師を集めろ。西門は放棄。第三防壁まで下がる」
「エルナ」
「お話は傷を塞いでから伺います」
「時間がない」
「あなたはいつもそう言う!」
怒鳴り声が戦場の音を裂いた。
エルナは唇を噛み、勇者を睨んでいる。
「あとで話す。次は気をつける。まだ戦える。あなたは、いつもそればかりだ」
勇者は何も答えなかった。
答えられないように見えた。
「……連れていけ」
エルナが背を向ける。
兵士が勇者の身体を支えた。
俺も城内へ向かおうとすると、エルナに腕をつかまれた。
「貴様も来い」
「言われなくても行く」
「逃げれば脚を斬る」
「その注意、本当に必要だったか?」
「必要だと思わせる顔をしている」
ひどい言われようだった。
◇
城の中は、外より酷かった。
広い回廊を負傷者が埋め尽くしている。
壁にもたれて呻く兵士。血に濡れた布を抱えて走る人々。泣きながら家族の名を呼ぶ子供。
ファンタジー世界。
そんな言葉でまとめるには、あまりにも生々しかった。
剣と魔法があっても、人間が傷つけば血が出る。
血は赤い。
悠人の顔が浮かんだ。
駅で伸ばされた手。
俺が消えたあと、あいつはどうしている。
スマートフォンを確認する。
画面は点いた。
時刻は二十三時四十七分。
異界へ落ちる直前から、一分も進んでいない。
圏外。
悠人からの最後のメッセージが残っている。
>透?
返信欄を開く。
>生きてる。少し遅くなる。
打ってから、送信ボタンを押す。
送れなかった。
当然だ。
「それが先ほどの魔導具か」
声に顔を上げる。
勇者が回廊の入り口に立っていた。
左腕には添え木が当てられ、肩から包帯を巻いている。治療を受けたにしては早すぎる。
「寝てなくていいのか」
「眠る時間はない」
「またそれか」
「何だ」
「いや。あんたの部下が怒る理由、ちょっと分かった」
勇者は困ったように笑った。
「彼女は毎回怒る」
「毎回?」
勇者の表情が固まる。
俺はスマートフォンをポケットへ戻した。
「説明してもらうぞ」
「……そうだな」
「俺が何度もここに来たって、どういう意味だ」
「言葉の通りだ」
「俺は今日初めて、異世界なんてものを見た」
「分かっている」
「分かってないだろ」
「お前ではない」
勇者は静かに言った。
「以前ここへ来た者たちは、お前とは別人だ」
「じゃあ、なぜ俺を知ってると言った」
「お前たちは皆、同じ場所から現れる。同じ印を持ち、同じ命令を与えられる」
「勇者を殺せ」
「ああ」
回廊の奥で、負傷者が呻いた。
治癒術師らしい女性が、その胸へ光る手を当てている。
勇者は彼らから目を逸らした。
「これまで何人来た」
「正確には覚えていない」
「覚えてない?」
「百を超えてから数えるのをやめた」
冗談を言っている顔ではなかった。
「百人以上が、あんたを殺しに来たのか」
「殺しに来た者は少ない」
「帰れないだろ」
「皆、最初はそう言う」
勇者の声には、ひどく疲れた響きがあった。
「だが実際に剣を渡すと、拒む。逃げる。私を救おうとする。あるいは、私を殺す前に魔物に殺される」
「拒んだ奴はどうなった」
「夜明けを迎えた」
「それで?」
勇者は窓の外を見た。
二つの月が、城の尖塔の上に浮かんでいる。
「すべてが戻る」
「戻る?」
「城も、人も、死者も。夜が始まった瞬間へ巻き戻る」
「そんなの……」
「ただし、私だけが覚えている」
喉が乾いた。
「今夜を、何度繰り返した」
「分からない」
「数えてないのか」
「最初の十年は数えた」
勇者は笑った。
笑っているのに、目には何もなかった。
「その先は必要なくなった」
十年。
同じ夜を。
何度も。
「待て。あんたが途中で死んだらどうなる」
「その瞬間に戻る」
「魔物に殺されても?」
「ああ」
「自分で死んだら」
「戻る」
「なら、どうして俺なら――」
胸の奥で鍵が脈打った。
勇者がそこを見つめる。
「その鍵は、この世界のものではない」
彼は右手を伸ばし、俺の胸元に触れた。
「世界の外から来た刃だけが、私を時間の輪から切り離せる」
「俺が殺せば、本当に死ぬ?」
「ああ」
「世界はどうなる」
勇者は答えなかった。
「城の人たちは」
沈黙。
「あの騎士は」
勇者の指が、わずかに震えた。
「知らない」
「知らないって」
「誰も試したことがない」
「じゃあ、あんたを殺したら全員死ぬかもしれないのか」
「救われるかもしれない」
「賭けろって?」
「そうだ」
「ふざけんな」
勇者の手を振り払う。
「自分が死にたいからって、世界ごと巻き込むな」
声が回廊に響いた。
近くにいた者たちが振り返る。
勇者は怒らなかった。
ただ、静かに俺を見ていた。
「同じことを言った者がいた」
「そうかよ」
「彼は私を殺さなかった」
「まともな判断だ」
「夜明けの直前、エルナが死んだ」
勇者の視線が、回廊の先へ向く。
離れた場所で、赤い鎧の騎士が兵士たちへ指示を出している。
「次の夜も死んだ。その次も。その次も」
「……毎回同じことが起きるのか」
「大きな流れは同じだ。だが細部は変わる」
勇者は拳を握った。
「どれほど手を尽くしても、夜明けまでにこの城は落ちる。エルナも、兵士も、子供たちも、全員死ぬ」
「そして戻る」
「ああ」
「なら、生き返るじゃないか」
口にした瞬間、勇者の顔を見て後悔した。
「そうだな」
彼は淡々と答えた。
「だから私は、何度でも彼らが死ぬところを見る」
何も言えなかった。
勇者は腰の剣を抜いた。
俺は反射的に身構える。
だが彼は刃を俺へ向けず、自分の首筋へ当てた。
「やめろ!」
「安心しろ」
勇者は剣を引いた。
皮膚が裂け、血が流れる。
深い傷だった。
致命傷に見えた。
けれど次の瞬間、傷口から淡い光が溢れ、肉が繋がっていく。
数秒後には、血の跡しか残っていなかった。
「私自身では、死ぬことすらできない」
「……見せる必要あったか、それ」
「言葉だけでは信じなかっただろう」
「もうちょっと軽い傷でよかっただろ!」
「すまない。加減を忘れた」
この男は、完全に壊れている。
壊れているのに、兵士の前では勇者として立っている。
希望の顔をして。
「名前」
俺は言った。
「何だ」
「あんたの名前を聞いてない」
勇者は少し驚いたようだった。
「殺す相手の名前くらい知っておきたい」
「殺す気になったのか」
「まだだ」
「そうか」
彼は剣を鞘へ戻した。
「アルト・レイヴァン」
「アルト」
「ああ」
「俺は透だ」
「先ほど聞いた」
「どうせ忘れるって言っただろ」
アルトは目を伏せた。
「忘れたくて、そう言った」
城内に鐘が鳴り響いた。
先ほどよりも近く、大きな音。
四度。
アルトが窓の外を見る。
「第四刻だ」
「夜明けまで、あとどれくらいだ」
「三時間ほど」
頭の中へ、冷たい声が響く。
>帰還条件の残り時間を確認
>二時間五十八分四十一秒
秒数が減り始めた。
「三時間もないぞ」
アルトが俺を見る。
「見えるのか」
「ああ」
俺の視界の端に、白い数字が浮かんでいる。
二時間五十八分三十四秒。
三十三秒。
三十二秒。
「透」
アルトの表情が変わった。
「これまで、残り時間が見えた者はいない」
回廊の向こうで悲鳴が上がった。
兵士が駆け込んでくる。
「勇者様! 内城に魔物が!」
「侵入経路は!」
「分かりません! 突然、壁から――」
兵士の背後。
何もなかった石壁に、黒い長方形が浮かんだ。
扉の輪郭。
胸の鍵が、焼けるように熱くなる。
「伏せろ!」
叫ぶより先に、扉が開いた。
向こう側にあったのは、燃える城ではない。
白い照明。
無機質な金属の床。
どこまでも続く、未来的な廊下。
その中央に、一人の男が立っていた。
灰色のコート。
腹から青白い光を流している。
駅で俺に鍵を押しつけた男だった。
男は扉の向こうから俺を見ると、目を見開いた。
「お前、まだ生きていたのか」
そして、アルトを見た。
顔から血の気が引く。
「なぜ勇者が生きている」
アルトが剣を抜く。
その瞳に、初めて明確な憎悪が浮かんだ。
「ようやく見つけたぞ」
男は後ずさった。
扉が閉まり始める。
アルトが叫ぶ。
「そいつを逃がすな!」
俺は閉じていく扉へ手を伸ばした。
指先が、黒い縁に触れる。
冷たい。
駅で胸へ鍵を刺されたときと同じ、骨の内側まで染み込むような冷たさだった。
「待て!」
男が顔を歪めた。
「触るな!」
「どっちだよ!」
閉じかけた扉の隙間へ腕を差し込む。
向こう側の金属製の廊下から、乾いた風が吹きつけた。
薬品と焦げた配線の臭いがする。
男が俺の手首をつかんだ。
その瞬間、胸の鍵が激しく回転した。
かち、かち、かち。
視界が明滅する。
燃える城の回廊。
白い金属の廊下。
雨の駅。
三つの景色が何度も重なった。
「離せ!」
男が叫ぶ。
「だったら戻ってこい!」
「戻ったら殺される!」
「誰に!」
男の視線が、俺の背後へ向いた。
アルトがいた。
折れた腕を吊りながら、右手には剣を握っている。
青い瞳には、さっきまでの疲労も諦めもなかった。
ただ、男を殺すという意思だけがあった。
「お前だ」
アルトが言った。
「私をこの夜へ置き去りにしたのは」
「違う」
男が即座に答える。
「俺は命令に従っただけだ」
「何百年もか」
「時間の流れが違う! 俺にとっては七年だ!」
「私にとっては、皆が死ぬ夜を数え切れぬほど繰り返した」
「だから何だ!」
男が怒鳴り返した。
「一つの世界を救うために、ほかの世界を巻き込めとでも言うのか!」
アルトの剣先が、わずかに下がった。
俺の手首をつかむ男の指に力がこもる。
「その世界はもう壊れてる」
「壊したのは誰だ」
「お前だろう!」
言葉が廊下へ響いた。
アルトの顔から表情が消える。
男は息を荒くしながら続けた。
「魔王を殺したのはお前だ。時間の楔を抜いたのもお前だ。俺たちは、その後始末をしに来ただけだ」
「後始末」
「ああ」
男は笑った。
自分を嘲るような、乾いた笑いだった。
「世界を閉じろ。生存者は見捨てろ。鍵を回収しろ。【門衛】の命令はそれだけだった」
門衛。
初めて聞く言葉だった。
だがアルトは知っていたらしい。
「やはり、門衛か」
「知ってたなら話が早い」
「なぜ戻ってきた」
「戻るつもりはなかった」
男が俺を見る。
「こいつが扉を開いた」
「俺が?」
「お前はまだ鍵を制御できていない。近くにある境界を、片端からつないでいる」
「意味が分からない」
「そのままの意味だ。今、この世界だけじゃない。お前が立っていた駅も、俺がいた船も、ほかの異界も、全部一時的に接続されてる」
頭の中で、破城獣の身体に浮かんだ無数の扉が蘇る。
灰色の海。
逆さまの街。
金属の廊下。
「あれも俺のせいか」
「鍵のせいだ」
「押しつけたのはお前だろ」
「だから謝った」
「軽すぎるんだよ!」
扉がさらに閉じる。
俺の腕が挟まれた。
「痛っ」
「透!」
アルトが駆け寄る。
だが男が俺の手首を強く引いた。
身体が扉の向こうへ傾く。
片足が金属の床へ入る。
反対側では、アルトが俺の肩をつかんだ。
「引け!」
「引いてる!」
「そいつをこちらへ!」
「それもやってる!」
「どちらか選べ!」
男が叫んだ。
「このままだと、お前の身体が境界で裂ける!」
「先に言え!」
胸の鍵が焼けるように熱い。
視界の端に浮かぶ残り時間が、激しく乱れた。
二時間五十五分。
十七分。
九十九時間。
数字が意味を失う。
耳の奥で、あの無機質な声が響いた。
>複数世界との重複接続を確認
>帰還経路が不安定です。
「役に立たない通知だな!」
声は答えない。
代わりに、別の声が聞こえた。
「透!」
悠人だった。
雨音。
発車ベル。
ほんの一瞬だけ、駅のホームが見える。
悠人が扉の向こう側に立っていた。
時間は止まっていない。
人々が彼の横を通り過ぎている。
駅員が遠くで笛を吹き、電車の扉が閉まりかけている。
その中で悠人だけが、俺のいる場所を正確に見ていた。
「聞こえるか!」
「悠人!」
名前を呼んだ瞬間、男とアルトの動きが止まった。
「誰だ」
アルトが問う。
「俺の――」
恋人だ。
そう言おうとした。
だが、悠人の背後の壁が黒く染まっていくのが見えた。
扉だ。
駅の壁に、新しい扉が生まれている。
その向こうで、何かが動いた。
「悠人、そこから離れろ!」
悠人は俺の声が聞こえている。
確信があった。
彼はすぐに背後を振り返り、黒い扉を見る。
普通の人間には見えていない。
駅員も、通行人も、誰も反応しない。
悠人だけが見えている。
「透」
悠人がこちらを向く。
「説明できる?」
「今は無理!」
「そう」
驚くほど冷静な返事だった。
こういうとき、悠人は取り乱さない。
怒るのは、全部終わってからだ。
「俺は何をすればいい」
その問いに、言葉が詰まった。
何もするな。
逃げろ。
巻き込まれないでくれ。
本当はそう言うべきだった。
だが、悠人の背後で黒い扉が開き始めている。
もう巻き込まれている。
「扉に触るな」
「分かった」
「俺が消えても、警察には――」
「先の話はいい」
悠人は俺を見たまま言った。
「戻ってくるんだろ」
「分からない」
「じゃあ、戻れるようにする」
「どうやって」
「知らない。今考える」
無茶苦茶だ。
それなのに、少しだけ呼吸が楽になった。
「駅の時計を見てくれ」
俺は言った。
「時間は?」
「二十三時四十八分」
こちらへ来てから、現実では一分しか経っていない。
「俺が消えてから?」
「四十三秒」
異界では、すでに一時間以上経っている。
男が悠人を見て、顔色を変えた。
「なぜあいつにこちらが見える」
「俺が知るか」
「観測者だ」
アルトが呟く。
「何だって?」
「古い記録にあった。鍵を持たず、扉だけを見る者。渡界者を現実へつなぎ止める存在」
「そんな奴、実在したのか」
男の声が震えた。
「門衛は、全員死んだと言っていた」
「悠人は死んでない」
「今はな」
男の言葉に、背筋が冷えた。
「どういう意味だ」
「観測者は扉に引かれる。渡界者の帰還地点として固定されれば、境界の影響を受け続ける」
「簡単に言え」
「お前が渡るたび、あいつも削られる」
悠人には、その会話まで聞こえていないらしい。
彼は駅の壁へ開きつつある扉を見ながら、スマートフォンを取り出した。
「透」
「触るなって言っただろ!」
「触ってない。撮ってる」
「写真?」
「残らないかもしれないから、動画も回す」
こんな状況でも記録を取ろうとしている。
悠人らしい。
いや、呆れている場合じゃない。
「やめろ。危険らしい」
「何が?」
「俺が渡るたびに、お前も影響を受ける」
「それはあとで考える」
「あとでじゃ――」
「透」
声が低くなる。
怒っている。
「勝手に消えた側が、勝手に俺を蚊帳の外に置くな」
何も言えなかった。
「帰ってから話す」
「……分かった」
「約束」
「ああ」
「じゃあ、生きて帰れ」
悠人がスマートフォンをこちらへ向ける。
レンズ越しに目が合った。
「こっちは俺が見てる」
胸の鍵が鳴った。
今までとは違う、澄んだ音だった。
かちり。
三つに重なっていた世界の景色が、一つずつ剥がれていく。
駅。
金属の廊下。
燃える城。
悠人の姿が薄れていく。
「透!」
「必ず戻る!」
言い切った瞬間、駅の景色が消えた。
白い廊下も遠ざかる。
扉の向こうの男が目を見開く。
「観測された……?」
俺の手首をつかんでいた指が外れる。
身体が城側へ引き戻された。
アルトが俺を抱き留める。
扉が閉じる直前、男が叫んだ。
「勇者を殺すな!」
アルトの身体が強張った。
「世界が消えるぞ!」
黒い扉が閉じた。
石壁だけが残る。
静寂。
遠くから、魔物の咆哮と兵士たちの叫びが聞こえてくる。
アルトが俺を支えたまま、閉じた壁を見ていた。
「世界が消える」
俺は呟く。
「知っていたのか」
「可能性は考えていた」
「なら、なぜ黙ってた」
「言えば、お前は私を殺さない」
「当たり前だろ」
「だからだ」
アルトは俺から離れる。
剣を拾い直した。
「透。先ほどの男の言葉を信じるな」
「お前の言葉も信じられない」
「それでいい」
アルトは頷いた。
「帰還条件を疑え。門衛を疑え。私も疑え」
「悠人は」
「彼は、お前を現実へ引き戻した」
アルトの目がわずかに細められる。
「信じてもよいのではないか」
「最初から信じてる」
「そうか」
アルトは、ほんの少しだけ笑った。
視界の端で数字が進む。
二時間五十一分。
夜明けまでに、勇者を殺さなければならない。
殺せば世界が消えるかもしれない。
殺さなければ、この夜はまた繰り返される。
「アルト」
「何だ」
「魔王を殺した夜のことを、全部話してくれ」
勇者は答えなかった。
「殺すかどうかは、そのあと俺が決める」
「時間がない」
「二時間五十一分ある」
「短いぞ」
「俺には十分だ」
本当は、何一つ分かっていなかった。
何を選べば正しいのかも。
どうすれば帰れるのかも。
それでも、もう誰かに言われた通りには動かない。
アルトはしばらく俺を見ていた。
やがて剣を鞘へ収める。
「分かった」
城内に、五度目の鐘が鳴った。
「すべての始まりを話そう」
勇者は歩き出す。
「私が、世界を壊した夜のことを」




