第3話 勇者が世界を壊した夜
アルトは城の奥へ向かった。
五度目の鐘が鳴り終わっても、石壁は低く震え続けていた。
遠くで何かが崩れる音がする。
天井から細かな砂埃が落ち、回廊を走る兵士たちの肩に積もった。
誰も気に留めない。
担架が行き交い、治癒術師が血に濡れた手で次の負傷者を呼ぶ。
世界が滅びかけている。
その中心を、世界を壊したという勇者が歩いている。
「どこへ行くんだ」
「王の間だ」
「王様に会うのか」
「王はもういない」
アルトは振り返らずに答えた。
「三刻目に死んだ」
「……それも毎回?」
「ああ」
「助けられないのか」
「試した」
短い返事だった。
「部屋を変えた。護衛を増やした。城から逃がした。身代わりを立てた。私がそばにいたこともある」
「それでも死ぬ?」
「死に方が変わるだけだ」
聞かなければよかったと思った。
だが、聞かなければ何も分からない。
俺はアルトの隣へ並んだ。
「この夜は、どこまで決まってる」
「分からない」
「でも大きな流れは同じなんだろ」
「王が死ぬ。西門が落ちる。境界獣が現れる。内城へ魔物が侵入する。エルナは夜明け前に死ぬ」
アルトは淡々と数えた。
予定表を読み上げるような声だった。
「そして城が落ちる」
「夜明けは来ないのか」
「来る」
「来るのかよ」
「空は明るくなる。太陽も昇る」
アルトが足を止めた。
窓の外には、まだ二つの月が浮かんでいる。
「その瞬間、すべてが夜の始まりへ戻る」
「じゃあ誰も朝を覚えてない」
「私以外は」
「アルトは?」
「私は毎回、朝を見る」
それは救いではない。
むしろ罰だ。
あと数時間。
城の人々は、自分たちが何度も死んでいることを知らない。
知らないまま戦い、怯え、祈り、死ぬ。
アルトだけが、その全部を見てきた。
「前に来た渡界者たちは、どのくらいここにいた」
「長くて一晩だ」
「一晩ごとに別の人間が来るのか」
「いや」
アルトは再び歩き出した。
「誰も来ない夜もある。百回、千回と夜を繰り返して、ようやく一人現れることもあった」
「そのたびに、勇者を殺せって命じられる」
「ああ」
「誰も成功しなかった」
「一人だけ、私の胸へ剣を刺した者がいる」
俺はアルトを見た。
「死ななかったのか」
「死んだ」
「でも戻った?」
「夜の始まりにな」
アルトは自分の胸に触れた。
「彼の刃は、この世界の鉄だった。私を殺すことはできても、世界から切り離すことはできなかった」
「じゃあ、鍵が必要なのか」
「おそらく」
「おそらくって」
「確かめる方法がない」
また、それだ。
誰も試したことがない。
何が起きるか分からない。
それでも帰還条件は殺せと言う。
門衛の男は殺すなと言った。
どちらも信用できない。
胸の奥に、悠人の声が残っていた。
こっちは俺が見てる。
今も見えているだろうか。
駅の壁にあった扉は消えたのか。
悠人は本当に無事なのか。
確かめる方法はない。
だから今は、こちらでできることをやるしかなかった。
◇
王の間は、思っていたより狭かった。
高い天井と長い絨毯。
壁には歴代の王らしき肖像画が並び、奥に玉座が置かれている。
豪華ではある。
だが天井の一部は崩れ、床には血を拭き取った跡が残っていた。
玉座の横に、白い布をかけられた人影が横たわっている。
「王か」
「ああ」
アルトは近づかなかった。
見慣れているからではない。
見られないのだと思った。
部屋には、エルナがいた。
赤い鎧を脱ぎ、机の上に広げられた地図を睨んでいる。
周囲には数人の騎士と魔術師が集まり、駒を動かしながら話し合っていた。
「第三防壁が破られれば、市街区への退路がなくなります」
「東塔の術式隊を移せ」
「東塔を空ければ飛竜が入ります」
「なら民間人を地下へ」
「地下道は二刻目に崩落しました」
誰かが言うたびに、別の誰かが不可能だと返す。
選択肢が一つずつ潰れていく会議だった。
エルナが俺たちに気づく。
「勇者様。治療が終わっていません」
「終わった」
「終わっていない顔をしています」
「顔は治療できない」
「そういう冗談を言う余裕があるなら横になってください」
アルトが何か返そうとしたが、エルナは先に俺を見た。
「それで、その男はまだ生きていたんですね」
「残念そうに言うな」
「残念ではありません」
「脚を斬るって言ってたぞ」
「逃げれば、です。逃げませんでしたね」
「走り回ってたけど」
「では次は斬ります」
冗談か本気か分からない。
たぶん半分は本気だ。
「エルナ」
アルトが地図へ目を向ける。
「皆を外してくれ」
エルナの眉が寄った。
「理由を伺っても?」
「彼に話すことがある」
「私たちには聞かせられない話ですか」
「聞かせれば、君は戦えなくなる」
部屋の空気が変わった。
騎士たちがアルトを見る。
エルナはしばらく黙っていた。
「それは、命令ですか」
「ああ」
「分かりました」
彼女は地図を畳んだ。
「全員、外へ。十分後に西棟で続きを行う」
騎士たちが一礼し、部屋を出ていく。
エルナだけは動かなかった。
「君もだ」
「護衛として残ります」
「必要ない」
「必要です」
「エルナ」
「その男は、あなたを殺せるのでしょう」
アルトの顔が強張った。
俺は思わず彼女を見る。
「聞いてたのか」
「戦場で、勇者様が自分から宣言されましたので」
「そうだった」
「忘れてたのかよ」
「いろいろあった」
エルナが俺へ向き直る。
「貴様が勇者様を殺すというなら、私はここを出ない」
「殺すって決めてない」
「ならば何を話すのです」
「それを今から聞くんだよ」
「信用できません」
「俺もあんたを信用してない」
「結構です」
「話が進まないな」
アルトが額を押さえた。
疲れた人間の仕草だった。
「エルナ。頼む」
その一言で、彼女の表情が変わった。
命令ではない。
勇者ではなく、アルト個人として頼んだのだろう。
エルナは唇を引き結ぶ。
「……五分です」
「十分と言っただろう」
「五分後に戻ります」
「分かった」
「戻ったとき、あなたが傷ついていたら」
彼女は俺を見た。
「殺します」
「分かりやすくて助かる」
扉が閉まる。
足音が遠ざかるまで、アルトは何も言わなかった。
静かになった王の間で、外の戦闘音だけが響いている。
「彼女に話さないのか」
「話したことはある」
「何回?」
「数え切れない」
「じゃあ今回も話せばいいだろ」
「何度聞かせても、彼女は同じ選択をする」
「どんな」
「私を殺させない」
アルトは玉座の横にある壁へ近づいた。
古い旗をめくると、その裏に小さな扉があった。
「また扉か」
「これは普通の扉だ」
「今はその言葉、あんまり信用できないぞ」
アルトが扉を開ける。
狭い階段が地下へ続いていた。
「五分で戻るって言ってたぞ」
「だから急ぐ」
「逃げるのか?」
「彼女は五分後、最初にこの部屋を探す」
「完全に分かっててやってるな」
「何度も経験した」
あまり笑えない冗談だった。
俺たちは階段を下りた。
◇
地下には、小さな礼拝堂があった。
壁一面に、見たことのない文字が刻まれている。
中央には祭壇。
その上に、黒い兜が置かれていた。
表面には二本の角。
額の部分から、縦に亀裂が走っている。
「魔王の兜だ」
アルトが言った。
胸の鍵が、微かに反応した。
「本物?」
「ああ」
「魔王って、どんな奴だった」
「人間だった」
「……は?」
「少なくとも、最初は」
アルトは祭壇の前に立つ。
「名はセレス」
「女性?」
「ああ」
「魔王なのに?」
「魔王が男でなければならない決まりでもあるのか」
「いや、ないけど」
俺の頭の中に、角の生えた巨大な怪物を想像していた。
アルトは兜の亀裂を指でなぞる。
「彼女は、この国の王女だった」
「王女が魔王になった?」
「違う」
アルトの声が低くなる。
「魔王にされた」
地上で爆発音が響いた。
礼拝堂の天井から埃が落ちる。
「この世界には、二つの月がある」
アルトが続ける。
「空に見える白い月と、赤い月」
「両方見た」
「本来、赤い月は存在しない」
「どういう意味だ」
「別の世界だ」
俺は言葉を失った。
「赤い月は、世界そのものなのか」
「正確には、重なりかけた異界だ」
アルトが壁の文字へ目を向ける。
「三百年前、この世界の空に扉が開いた。扉の向こうには、すでに滅びかけた世界があった」
「それが赤い月?」
「ああ。二つの世界は衝突し始めた」
「境界が崩れた」
「当時の王たちは、世界を守るために一人の人間を楔にした」
嫌な予感がした。
「セレスか」
「彼女の身体へ、二つの世界の時間を結びつけた」
「そんなことできるのか」
「できてしまった」
アルトが苦い顔をする。
「彼女が生きている限り、世界は衝突しない。代わりに、異界の力が彼女を変え続けた」
「それで魔王になった」
「人々は、そう呼んだ」
「本人は?」
「最初は国を守るために受け入れた」
最初は。
その言葉が重かった。
「何年生きた」
「二百七十三年」
「……正気でいられるのか」
「いられなかった」
アルトは目を閉じた。
「彼女は何度も自分を殺そうとした。だが楔となった身体は死ねなかった」
アルトと同じだ。
「やがて彼女は城を離れ、北の地へ逃げた。異界の魔物が彼女に引かれ、集まった。それを人々は魔王軍と呼んだ」
「でも攻めてきたんだろ」
「彼女は世界の衝突を止めるため、人間を減らそうとした」
「どういう理屈だ」
「人間の魔力が、二つの世界を引き寄せていると考えた」
「正しかったのか」
「分からない」
また、その答えだ。
「人類を滅ぼせば世界が助かるかもしれない」
「そう信じていた」
「だからアルトが倒した」
「ああ」
アルトは兜から手を離した。
「私は辺境の兵士だった。特別な血筋も、才能もなかった」
「勇者じゃなかったのか」
「最初はな」
「じゃあ、どうして」
「鍵を渡された」
胸が冷たくなった。
「誰に」
「見知らぬ男だ」
礼拝堂が遠くなるような感覚がした。
「灰色のコートを着ていたか」
「ああ」
「腹から光が漏れてた?」
「それは今の傷だろう。あの頃は、もっと若かった」
駅の男。
門衛。
七年前だと言っていた。
だがアルトにとっては、何百年も前。
「何を押しつけられた」
「渡界の鍵ではない」
アルトは剣を抜いた。
刀身が白く輝く。
「勇者の力だ」
「それも鍵なのか」
「世界の内側へ固定する鍵」
アルトは自分の胸を指した。
「渡界の鍵が外へ開くものなら、これは内側へ閉じるものだ」
「だから世界から出られない?」
「おそらく」
「門衛の男が、アルトを勇者にしたのか」
「ああ」
「何のために」
「魔王を殺すためだ」
アルトの声が僅かに震えた。
「彼は言った。セレスを殺せば、世界は救われると」
「帰還条件みたいだな」
「そうだ」
アルトは兜を見つめる。
「私は信じた」
◇
勇者が世界を壊した夜。
その始まりは、雪だった。
アルトの声と同時に、景色が変わった。
一瞬、礼拝堂が消えた。
白い雪原。
黒い城。
無数の死体。
俺はその中に立っていた。
「何だ、これ」
声を出しても、アルトは反応しない。
俺の身体は礼拝堂にいる。
だが視界だけが、過去を見ている。
鍵が見せている。
若いアルトが雪原を歩いていた。
今より髪が短く、顔にも疲労の影がない。
白い鎧は傷だらけだったが、足取りは力強い。
背後には何十人もの兵士。
その先頭に、若いエルナがいた。
今より髪が長い。
頬に傷がない。
「アルト!」
彼女が笑っている。
「城門が開いた! 魔王軍は降伏するそうだ!」
若いアルトも笑った。
「本当か」
「ああ! これで戦争は終わる!」
エルナがアルトの肩を叩く。
「勇者様のおかげだな」
「その呼び方はやめろ」
「民はもうそう呼んでいる」
「私は兵士だ」
「光る剣で竜を真っ二つにする兵士がいるか」
二人は笑い合った。
今の二人からは想像できないくらい、普通の若者だった。
城門が開く。
中から、黒い衣をまとった人々が現れた。
誰も武器を持っていない。
痩せた兵士。
老人。
子供。
魔王軍。
そう呼ばれていた人たち。
彼らは雪の上に膝をついた。
最後に、一人の女性が出てきた。
角のある黒い兜。
長い銀髪。
青白い肌。
だが怪物には見えない。
ひどく疲れた人間に見えた。
「魔王セレス」
若いアルトが剣を構える。
女性は兜を脱いだ。
額から二本の黒い角が伸びている。
「勇者アルト」
セレスは静かに名を呼んだ。
「待っていた」
「降伏するのか」
「ああ」
アルトの背後で兵士たちがざわめく。
「軍を解散させる。捕虜も返す。北部の領地も明け渡す」
「条件は」
「私を殺さないこと」
若いアルトの表情が固まる。
「できない」
「なぜだ」
「あなたが生きている限り、魔物は増え続ける」
「私が死ねば、もっと酷いことになる」
「そう言って、何万人を殺した」
「だから降伏する」
「遅すぎる」
「遅いからこそ、これ以上間違えるな」
セレスが一歩前へ出る。
兵士たちが剣を構えた。
彼女は両手を上げた。
「私を殺せば、世界をつなぐ楔が消える」
「門衛は、逆だと言った」
セレスの目が細くなる。
「門衛」
「あなたが世界を引き寄せている。殺せば扉は閉じる」
「彼らが、そう言ったのか」
セレスは笑った。
悲しそうな笑みだった。
「ならば、すでに手遅れだ」
「何が」
「門衛は世界を救わない」
風が雪を巻き上げる。
「彼らは、壊れた世界を閉じる」
「同じことだ」
「違う」
セレスの声が強くなった。
「扉を閉じるのではない。世界ごと、外側から切り離すのだ」
若いアルトは黙っていた。
背後のエルナが不安そうに彼を見る。
「アルト」
「惑わされるな」
兵士の一人が叫ぶ。
「魔王の言葉だ!」
「人間を殺した化け物だ!」
「勇者様、早く!」
声が重なる。
セレスはアルトだけを見ていた。
「剣を下ろせ」
「できない」
「ならば、一つだけ聞け」
彼女は自分の胸へ手を当てた。
「その力を渡した男は、殺した後に何が起きるか見せたか?」
アルトの剣が僅かに揺れる。
「世界が救われる」
「見せたのか」
「そう言った」
「言葉ではなく」
セレスがもう一歩近づく。
「未来を見せたのか」
若いアルトは答えられなかった。
「アルト」
エルナが呼ぶ。
その声に焦りが混じっていた。
アルトの胸で、白い光が脈打つ。
俺の胸の鍵と似ている。
勇者の鍵。
頭の中へ、声が響いた。
>討伐条件を確認。
>魔王セレスを殺害してください。
若いアルトが顔を歪める。
今の俺と同じだ。
「聞こえているのだろう」
セレスが言った。
「命令が」
「黙れ」
「それは神の声ではない」
「黙れ!」
「門衛が作った誘導だ」
アルトの剣が白く輝く。
セレスは逃げなかった。
「殺せば、お前が次の楔になる」
剣が振り下ろされた。
白い光が雪原を切り裂く。
音が消えた。
セレスの胸を、光の刃が貫いている。
彼女はアルトの肩へ手を置いた。
「すまない」
なぜ殺された側が謝るのか。
若いアルトも分からなかったらしい。
「何を」
「お前を、一人にする」
セレスの身体から、黒い光が溢れた。
空に浮かぶ赤い月が割れる。
亀裂が走り、月の向こうに無数の世界が見えた。
海。
都市。
星空。
燃える森。
世界と世界を隔てていたものが、すべて開く。
アルトが叫ぶ。
胸へ黒い光が流れ込む。
白い勇者の鍵と、魔王の楔が混ざり合う。
セレスの身体が崩れた。
灰になったのではない。
光の粒となり、アルトの中へ吸い込まれた。
空が赤く染まる。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
世界が終わる音。
そして、朝が来た。
◇
視界が礼拝堂へ戻る。
俺は祭壇へ手をついていた。
息ができない。
自分が刺したわけではない。
それでも、剣が身体を貫く感触が腕に残っている。
「今のは」
「私の記憶だ」
アルトが答えた。
「鍵が見せたのか」
「おそらく」
「便利な言葉だな、それ」
「事実だから仕方ない」
俺は呼吸を整える。
「セレスは知ってた」
「ああ」
「殺されたら、アルトが楔になるって」
「ああ」
「どうして最初に言わなかった」
「信じなかった」
「違う。俺にだ」
アルトは黙った。
「自分が魔王を殺して、代わりに楔になった。そこまで分かってるなら、あんたを殺した後に何が起きるかも予想できるだろ」
「世界をつなぎ止めるものが消える」
「つまり」
「二つの世界が衝突するかもしれない」
「消えるって、そういうことか」
「あるいは」
アルトが俺の胸を見る。
「次の者が楔になる」
冷たい汗が背中を流れた。
「俺が?」
「その可能性がある」
「帰還条件は、あんたを殺せって言ってる」
「ああ」
「殺したら俺がここに残る?」
「分からない」
「門衛の男は知ってるのか」
「おそらく」
殴りたくなった。
誰をかは分からない。
門衛の男か。
アルトか。
帰還条件を出している何かか。
全部かもしれない。
「だから殺せと言ったのか」
俺はアルトを睨んだ。
「自分の代わりに、俺をここへ縛るために」
「違う」
「何が違う」
「私は、お前に残ってほしくない」
「なら説明しろよ!」
声が礼拝堂に響く。
「世界が消えるかもしれない。俺が楔になるかもしれない。それを黙って剣だけ渡して、殺せって言ったのか!」
「言えば、お前は拒む」
「当たり前だ!」
「だからこそだ」
アルトの声も強くなる。
「私はもう選べない!」
初めて、彼が怒鳴った。
壁の文字が震える。
「世界を救うためにセレスを殺した。人々を救えると信じた。結果、私は彼女の代わりになった」
「だから何だ」
「次に何を選んでも、また誰かを犠牲にする!」
アルトが胸を押さえる。
「私が生きれば、皆は何度も死ぬ。私が死ねば、世界が消えるかもしれない。お前が代わりになるかもしれない」
青い目が揺れていた。
「どれを選べば正しい」
「知らない」
「私もだ!」
沈黙が落ちた。
地上で何かが爆発する。
石の粉が降る。
アルトは俯いた。
「だから私は、来る者に選ばせた」
「押しつけただけだろ」
「ああ」
「門衛の男と同じだ」
アルトの身体が僅かに揺れた。
言いすぎたとは思わなかった。
「自分で選べないから、俺に殺させようとした」
「ああ」
「俺が後悔しても?」
「ああ」
「最低だな」
「ああ」
アルトはすべて認めた。
そのほうが、怒りの行き場がなくなる。
「でも」
俺は祭壇の兜を見る。
「まだ話は終わってない」
「何?」
「セレスは、門衛は世界を閉じると言った」
「ああ」
「でも閉じられてない。何百年もループしてる」
「私が楔になったからだ」
「違う」
頭の中で、何かが引っかかっていた。
記憶の中の声。
討伐条件。
魔王セレスを殺せ。
今の帰還条件。
勇者を殺せ。
「条件が似すぎてる」
「何を言っている」
「どっちも、楔になってる人間を殺せと言ってる」
「そうだ」
「門衛は壊れた世界を切り離したい。なら、アルトを殺せば世界は閉じる」
「その可能性はある」
「でも前回、セレスを殺したときは閉じなかった」
「私が代わりになった」
「どうして?」
アルトが黙る。
「何であんたが代わりになった。勇者の鍵があったから?」
「おそらく」
「なら俺も同じだ。渡界の鍵を持ってる」
胸へ手を当てる。
黒い鍵は静かだった。
「俺がアルトを殺せば、俺が次の楔になる。それなら門衛の目的は達成できない」
「……確かに」
「なのに門衛の男は、あんたを殺すなと言った」
アルトの顔が変わる。
「おかしいだろ」
「あの男が、門衛を裏切っている可能性は」
「ある。でも、もっと単純かもしれない」
「何だ」
「帰還条件を出してるのは、門衛じゃない」
礼拝堂の奥で、何かが鳴った。
小さな金属音。
かちり。
胸の鍵ではない。
祭壇に置かれた魔王の兜から聞こえた。
亀裂の奥に、赤い光が灯る。
「アルト」
「下がれ」
兜が震え始める。
刻まれた壁の文字が、一斉に赤く光った。
頭の中へ声が響く。
いつもの無機質な声ではなかった。
女性の声。
掠れ、遠く、それでも確かに人間の声だった。
『アルト』
勇者が凍りつく。
「セレス……?」
ようやく、聞こえた。
兜の亀裂から、黒い霧が溢れる。
霧は祭壇の上へ集まり、人の輪郭を作った。
二本の角。
長い銀髪。
記憶の中で見た魔王が、半透明の姿で立っている。
彼女はアルトを見た。
それから俺へ視線を移す。
『新しい鍵の持ち主』
胸の奥で、黒い鍵が激しく脈打った。
『勇者を殺してはいけない』
アルトが息を呑む。
「なぜだ」
セレスの幻影が、悲しそうに笑う。
『彼を殺せば、扉が完成する』
地上から、六度目の鐘が鳴った。
同時に、礼拝堂の壁へ無数の黒い輪郭が浮かび上がる。
扉。
一つではない。
十。
百。
壁も床も天井も、すべてが扉で埋め尽くされていく。
その向こうから、無数の世界がこちらを覗いていた。
『門衛が閉じようとしているのは、この世界ではない』
セレスの声が震える。
『お前たちの世界だ』




