第1話 夜明けまでに勇者を殺せ
「適性がなければ死ぬ」
見知らぬ男に、心臓を刺された。
正確に言うなら、刺されたのは刃物ではない。
鍵だった。
黒く変色した、親指ほどの古い鍵。
男はそれを俺の胸へ押し当て、そのまま肉も骨もないみたいに根元まで突き込んだ。
終電間際の駅だった。
雨に濡れた電車がホームへ滑り込み、酔っ払いを吐き出していく。
発車を告げる電子音。足音。改札へ向かう人の群れ。
その誰も、俺たちを見ていなかった。
「……は?」
「三十秒くらいかな」
「何が」
「死ぬまで」
「いや、待て待て待て」
男の手を振り払おうとした。
触れなかった。
俺の指は、冷たい霧を掻くように男の腕をすり抜けた。
なのに、胸へ埋め込まれた鍵の感触だけは異様なほど鮮明だった。
冷たさが胸骨を抜け、心臓を直接つかんでいる。
「大丈夫だ。たぶん」
「たぶんで人を刺すな!」
声を上げた俺を、通り過ぎた会社員がちらりと見た。
視線はすぐに逸らされた。
深夜の駅で一人騒ぐ男。関わりたくない。
その判断は正しい。
俺だって、反対の立場ならそうする。
男はホームの柱に背を預けていた。
年齢は四十前後に見えた。
長い黒髪は濡れ、頬は痩せこけている。
着ている灰色のコートは泥と血で汚れ、腹のあたりが大きく裂けていた。
そこから零れているものは、赤くなかった。
細かい光の粒だった。
青白い粒子が傷口から溢れ、夜気の中へ消えていく。
「見えてるなら、適性はあるはずだ」
「何の適性だよ」
「渡るための」
「どこに」
男が答えるより先に、胸の奥で鍵が回った。
かちり。
小さな音だった。
けれど、その音を境に世界が変わった。
ホームを歩く人々の動きが止まる。
発車ベルが間延びし、濁った一本の音になる。
到着したばかりの電車は扉を半分開いたまま停止し、窓に映った乗客たちは瞬きすらしない。
俺だけが動いていた。
俺と、目の前の男だけが。
「成功だ」
男がほっと息を吐いた。
「おめでとう」
「何がおめでとうだ。元に戻せ」
「無理だ」
即答だった。
「お前、今なんて」
「無理なんだ。渡界は、渡されたら最後だ」
「ふざけんな」
「ふざけてない。だから謝ってる」
「まだ謝られてねえよ」
「ああ」
男は少し考えてから、頭を下げた。
「悪かった」
「軽いな!」
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
画面には、悠人からのメッセージが表示されていた。
> 今どこ?
> コンビニ寄るなら牛乳お願い
> あと明日の夜、空けといて
時計は二十三時四十七分。
さっきまで普通の金曜日だった。
仕事を終えて、悠人の部屋へ向かう途中だった。
夕飯はもう食べたから、適当に酒でも飲んで、たぶん泊まる。
明日の予定については聞いていない。
どうせ映画か、新しくできた店にでも行くつもりだろう。
ごく普通の週末。
その途中で俺は、半透明の男に心臓へ鍵を突き刺された。
もう一度、スマートフォンが震える。
> 透?
> 寝てる?
寝ているわけがない。
返信しようとして、指が止まった。
画面にノイズが走っていた。
悠人の名前が歪み、見たこともない文字へ変わる。
虫の脚を並べたような黒い記号が、一瞬だけ画面を埋め尽くした。
すぐに元へ戻った。
「今の、何だ」
「始まったんだ」
男は静かに言った。
「何が」
「境界の崩壊が」
ホームの向かい側で、壁が軋んだ。
広告の貼られた白い壁。その中央に、黒い一本の線が走る。
線は縦に伸び、やがて長方形を描いた。
――扉だった。
取っ手も蝶番もない。
ただ、壁に扉の輪郭だけが刻まれている。
周囲の空気が冷えた。
どこからか、草の匂いがした。
雨と油と埃の匂いに満ちていた駅へ、湿った土と、焦げた木と、知らない花の甘い香りが流れ込んでくる。
男は扉を見た。
その顔に、初めて恐怖が浮かんだ。
「早すぎる」
「何がだ」
「最初の渡界だ。本来なら、定着まで数日は――」
黒い輪郭の内側が、音もなく開いた。
そこに駅の壁はなかった。
赤い草原が広がっていた。
夜空には月が二つ浮かび、その下で巨大な城が燃えている。
城壁の上を、何かが這い回っていた。人間より遥かに大きい、翼のある影。
遠くで鐘が鳴った。
こちらの世界には存在しない、低く重い音だった。
「閉じろ」
「俺に言うな」
「閉じるんだ。まだ早い。お前は何も知らない」
「お前が押しつけたんだろうが!」
「そうだ」
男は自嘲するように笑った。
「だから、俺のせいでお前が死ぬのは困る」
「今さら良識を出すな」
男が俺の腕をつかんだ。
今度は触れた。
氷のような指だった。
「よく聞け。向こうへ渡ったら、帰還条件が与えられる。何を命じられても、その言葉をそのまま信じるな」
「帰還条件?」
「達成しなければ帰れない」
「達成したら?」
「扉が開く」
「じゃあ、やればいいんだな」
「できればな」
風が吹いた。
異界から流れ込んだ風が、ホームに散らばった紙くずを舞い上げる。
止まっていた人々の髪やコートだけが、不自然に揺れた。
胸の奥で、黒い鍵がもう一度回った。
男の表情が凍りつく。
「待て」
扉の奥から、何かがこちらを見ていた。
燃える城の上。
二つの月を背に、一人の人間が立っている。
銀色の鎧。
長い剣。
風に翻る白い外套。
顔までは見えない。
だが、そいつが俺を見ていることだけは分かった。
頭の内側へ、直接声が響く。
男でも女でもない。
冷たく、感情のない声。
> 接続を確認。
「透!」
悠人の声が聞こえた。
スマートフォンからではない。
背後からだった。
振り向く。
停止した人の群れの向こうで、悠人がこちらへ走ってきていた。
紺色の傘を放り出し、人を避けながら、必死に俺の名前を呼んでいる。
どうしてここにいる。
悠人の部屋は、この駅から二駅先だ。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「来るな!」
叫んだ瞬間、足元が消えた。
ホームの床が崩れたわけではない。
俺の身体だけが、扉へ向かって引かれた。
見えない何かに胸の鍵をつかまれ、強引に引きずられる。
男が腕を伸ばす。
悠人も手を伸ばす。
どちらにも届かなかった。
「透!」
「帰還条件を疑え!」
二人の声が重なった。
次の瞬間、俺は扉を越えた。
地面へ叩きつけられる。
肺から空気が押し出された。
顔を上げると、赤い草が風に波打っていた。
背後の扉は消えている。
駅も、男も、悠人もいない。
あるのは二つの月と、燃える城。
そして、俺を囲む無数の兵士たちだった。
全員が剣を抜いている。
その切っ先が、一斉に俺へ向けられた。
頭の中で、再び声が響いた。
> 帰還条件を通達します。
喉が鳴る。
> 夜明けまでに、勇者を殺してください。
燃え上がる城壁の上で、銀色の勇者がこちらを見下ろしていた。
意味を理解するまで、数秒かかった。
夜明けまでに。
勇者を。
殺せ。
「……は?」
間の抜けた声が出た。
兵士たちは反応しなかった。
誰もが剣を構えたまま、俺を睨んでいる。
甲冑は煤と血で汚れ、何人かは立っているのもやっとだった。
背後では城が燃え、炎に照らされた煙が二つの月を覆っている。
夢ではない。
頬に当たる熱も、焦げた臭いも、地面に食い込む小石の痛みも、嫌になるほど鮮明だった。
「待ってくれ」
俺は両手を上げた。
「俺は敵じゃない。たぶん」
兵士たちの表情が険しくなった。
言葉は通じている。
俺が日本語を話している感覚はあるのに、口から出た音は聞いたことのない言語だった。喉と舌が勝手に動いている。
気持ち悪い。
「天より現れた黒衣の男」
正面の兵士が言った。
聞き覚えのない音が、頭の中では日本語として理解できる。
「勇者様を見つめ、敵ではないと申すか」
「見つめたのは、向こうも同じだ」
「無礼者!」
剣先が喉元へ迫った。
反射的に身を引く。足がもつれ、赤い草の上に尻餅をついた。
腰に下げたスマートフォンが地面に当たり、硬い音を立てる。
兵士たちの視線が集中した。
まずい。
何がまずいかは分からないが、こういう世界でスマートフォンを取り出して良い展開になるとは思えない。
俺は慌ててポケットを押さえた。
「怪しいものじゃない」
「では、何だ」
「……電話」
「デンワ」
「遠くにいる相手と話す道具だ」
自分で言っておいて、説明の雑さに絶望した。
兵士は隣の男と顔を見合わせた。
「魔導具か」
「違う。いや、似たようなものだけど、魔法じゃなくて電気で――」
「術式を使わず、遠方と交信する魔導具」
「だから違うって」
「捕らえろ!」
ですよね。
二人の兵士が飛びかかってきた。
逃げようとしたが、一歩目で足首をつかまれた。
転倒したところへ背中を踏まれ、両腕をねじ上げられる。
「痛い、痛い!」
「動くな!」
「動かしてるのお前らだろ!」
手首に縄が巻きつく。
粗い繊維が皮膚へ食い込んだ。現実味のある痛みだった。
悠人の顔が浮かぶ。
駅のホーム。
こちらへ伸ばされた手。
最後に見えた表情は、怒っていたのか、泣きそうだったのか。
俺が消えたあと、時間は動き出したのだろうか。
悠人は俺が扉に吞まれたところを見た。
警察に何と説明する。
俺は帰れるのか。
帰還条件。
夜明けまでに勇者を殺す。
無理だ。
殺人どころか、殴り合いの喧嘩すらしたことがない。
それ以前に、あの勇者までどうやって近づく。
顔を上げる。
城壁の上にいた銀色の影は、もうそこにいなかった。
「立て!」
兵士に引き起こされる。
「どこへ連れていく気だ」
「尋問する」
「その前に聞きたいことがある」
「黙れ」
「夜明けまで、あとどれくらいだ」
兵士の動きが止まった。
まずかった。
その反応だけで分かった。
「なぜ、それを問う」
「いや、別に」
「奴らの襲撃時刻を知っているのか」
「奴ら?」
兵士が俺の胸ぐらをつかんだ。
「答えろ。貴様は魔王軍の間者か」
「違う。俺はただ――」
城壁の向こうから、獣の咆哮が響いた。
腹の底を揺さぶる音だった。
兵士たちが一斉に振り返る。
城の外、暗闇に沈む草原で、何かが動いている。
最初は小さな影に見えた。
違う。
遠くにいるから小さく見えただけだ。
六本の脚を持つ、巨大な獣。
黒い甲殻に覆われた身体は城門より高く、頭部らしき場所から無数の角が伸びている。
その背中には、人間のようなものが何十体も張りついていた。
獣が一歩進む。
地面が揺れた。
「破城獣だ!」
「西門へ伝令!」
「弩砲を動かせ!」
兵士たちが叫び、隊列が崩れる。
俺を押さえていた二人も、城の方を見た。
逃げるなら今だ。
そう思った瞬間、破城獣の背中から何かが飛んだ。
黒い点が弧を描き、こちらへ近づいてくる。
槍だ。
いや、太すぎる。
丸太ほどもある黒い杭が、俺たちの真上から降ってきた。
「伏せろ!」
誰かに肩をつかまれた。
身体が横へ引かれる。
直後、黒い杭が地面へ突き刺さった。
爆発したように土と赤い草が舞い上がる。耳鳴り。頬に何かが当たり、熱い筋が走った。
俺を拘束していた兵士の一人が、消えていた。
いや。
少し離れた場所に、鎧の一部が落ちている。
それ以上は見なかった。
「走れ!」
腕を引かれる。
銀色の小手。
白い外套。
城壁の上にいた男だった。
勇者。
帰還条件の標的が、俺の縄を剣で断ち切った。
「立てるか」
顔は思っていたより若かった。
二十代後半か、三十代前半。
淡い金髪は汗と血で額に張りつき、青い目の下には濃い隈があった。
整った顔立ちではある。
だが物語に出てくる勇者のような輝きはなかった。
ひどく疲れている。
それでも、俺よりずっと冷静だった。
「立てる」
「なら城内へ走れ。西門はもう持たない」
「あんたは?」
「時間を稼ぐ」
勇者は俺を背後へ押しやった。
黒い杭の向こうから、魔物の群れが迫っている。
人に似たもの。
犬に似たもの。
どれにも顔がなかった。
銀の剣が抜かれる。
刀身へ白い光が走った。
空気が震え、周囲の赤い草が一斉に伏せる。
「勇者様!」
兵士たちが集まってくる。
「陣形を組め! 負傷者を内側へ!」
勇者の声に、恐怖で乱れていた兵士たちが動き出した。
――こいつを殺せ。
頭の奥で、あの声が繰り返した。
> 帰還条件に変更はありません。
「うるさい」
思わず呟いた。
勇者が振り返る。
「何か言ったか」
「何でもない」
「そうか」
勇者は俺の顔を一瞬見た。
その視線が、胸元で止まる。
黒い鍵は服の中に消えたはずだった。
だが彼には何かが見えている。
青い瞳が大きく見開かれた。
「その印は――」
魔物が跳んだ。
勇者は振り返りざまに剣を振るった。
白い閃光。
先頭の魔物が音もなく両断され、遅れて黒い血が噴き出した。
「城へ行け!」
言われるまでもない。
俺は走った。
燃える城門へ。
耳元を矢が通り過ぎる。足元に魔物の死体が転がる。誰かの悲鳴が聞こえる。
現実では百メートル走っただけで息が切れる。
今も同じだった。
肺が痛い。脚が重い。靴が泥に沈む。
それでも止まれなかった。
門の手前まで来たとき、背後でひときわ大きな轟音が響いた。
振り返る。
勇者が、破城獣の前に一人で立っている。
白い光が夜空へ伸びた。
巨大な剣のような光。
勇者がそれを振り下ろすと、破城獣の角が半分まとめて吹き飛んだ。
歓声が上がった。
「勇者様!」
「勇者様がいるぞ!」
「まだ戦える!」
兵士たちの目に希望が戻る。
誰もが、彼を信じていた。
この人がいれば助かる。
この人が世界を救ってくれる。
俺にも分かった。
あの男は、英雄だ。
そして俺は、あの男を夜明けまでに殺さなければ帰れない。
「無理だろ……」
声が震えた。
そのとき、勇者がこちらを見た。
戦場の向こうから。
炎と魔物と兵士の間を越えて、まっすぐに俺を見た。
彼の唇が動いた。
声は聞こえなかった。
だが、何と言ったのかは分かった。
――やっと来た。
破城獣の脚が勇者を薙ぎ払った。
銀色の身体が宙を舞う。
城壁へ叩きつけられ、瓦礫の中へ消えた。
「勇者様!」
兵士たちが叫ぶ。
俺は考えるより先に、来た道を走り戻っていた。
自分でも、どうかしていると思う。
助けたところで、あの男は俺の帰還条件の標的だ。
見捨てればいい。
破城獣が勝手に殺してくれれば、俺は手を汚さずに済むかもしれない。
それなのに、脚は止まらなかった。
「何をしている! 戻れ!」
すれ違った兵士が怒鳴る。
「勇者はどこだ!」
「瓦礫の下だ! だが、もう――」
「まだ死んでない!」
根拠はなかった。
ただ、死んだとは思えなかった。
あの男は俺を見ていた。
俺の胸の鍵を見て、何かを知っていた。
そして確かに、こう言った。
――やっと来た。
聞かなければならない。
なぜ俺を知っているのか。
なぜ、俺が来るのを待っていたのか。
城壁の一部が崩れ、積み重なった石材の隙間から白い外套が見えた。
「そこだ!」
俺は瓦礫へ飛びついた。
一番上の石に手をかける。
動かない。
当たり前だ。人間一人でどうにかできる大きさじゃない。
「誰か手を貸せ!」
近くにいた兵士たちは一瞬、俺を見た。
その背後では魔物の群れが迫っている。
助けに来れば陣形が崩れる。
誰も動けない。
「くそっ」
もう一度、石に指をかける。
爪が割れた。血が滲む。
石はびくともしなかった。
足元で、白い外套がわずかに動いた。
「おい!」
返事はない。
「生きてるなら何か言え!」
瓦礫の下から、掠れた声がした。
「……うるさい男だな」
生きている。
安堵した直後、妙な怒りが込み上げた。
「人が助けに来てやったんだぞ」
「頼んでいない」
「じゃあ勝手に死ね」
「そのつもりだった」
石を持ち上げようとしていた手が止まった。
「何だって?」
返事はなかった。
破城獣が咆哮する。
地面が激しく揺れ、瓦礫の一部が崩れた。俺は慌てて身を引く。
黒い巨体がこちらへ近づいていた。
角を半分失ってなお、その大きさは圧倒的だった。六本の脚が踏み出されるたび、大地が陥没する。
魔物の群れを押し留めていた兵士たちが後退してくる。
「門内へ退け!」
「勇者様を救出する!」
「間に合わない!」
破城獣の頭部が、こちらへ向いた。
目らしきものはない。
それでも、俺を見つけたと分かった。
胸の奥で、鍵が熱を帯びた。
破城獣の身体に、無数の黒い線が浮かび上がる。
亀裂。
いや、扉の輪郭だ。
その一つひとつの向こうから、別の景色が覗いていた。
灰色の海。
金属の廊下。
逆さまに浮かぶ街。
見たことのない世界。
「何だ、あれ……」
破城獣の表面にある扉が、一斉に開いた。
中から腕が伸びる。
人間の腕。
獣の脚。
細長い触手。
互いにまるで違う生き物の一部が、巨体の内側から蠢きながら這い出してくる。
胃がひっくり返りそうになった。
あれは生き物じゃない。
複数の世界から寄せ集められた何かだ。
「境界獣だ!」
瓦礫の下で勇者が叫んだ。
「お前の匂いを嗅ぎつけた!」
「俺のせいかよ!」
「正確には、その鍵のせいだ!」
破城獣――境界獣の背中から、再び黒い杭が放たれた。
こちらへ飛んでくる。
逃げれば、勇者が死ぬ。
避けなければ、俺も死ぬ。
身体が動かなかった。
杭が迫る。
黒い影が視界を埋める。
その瞬間、胸の鍵が回った。
かちり。
世界が止まった。
宙を飛ぶ杭。
舞い上がった土。
口を開けて叫ぶ兵士。
すべてが静止していた。
駅のホームで起きたのと同じだ。
俺だけが動ける。
いや。
「やはり使えたか」
瓦礫の下から、勇者の声がした。
「お前も動けるのか」
「私は境界の外側を知っている」
「意味が分からない」
「今は分からなくていい。右へ三歩動け」
「は?」
「杭の軌道から外れろ。早くしろ。この停止は長く続かない」
俺は言われた通りに動いた。
一歩。
二歩。
三歩。
「次は?」
「瓦礫の隙間に手を入れろ」
「石を持ち上げろって? 無理だ」
「今なら重さがない」
半信半疑で、石材の隙間へ腕を差し込んだ。
押す。
巨大な石が、紙箱のように動いた。
「うおっ」
「そのまま引け」
石をずらす。
勇者の上半身が見えた。
鎧は砕け、左肩が不自然な角度に曲がっている。口元から血が流れていた。
「引っ張れ」
「腕、折れてるぞ」
「右腕は無事だ」
「そういう問題じゃない」
「時間がない」
勇者の右腕をつかむ。
冷たい。
引きずり出した瞬間、胸の鍵がもう一度鳴った。
世界が動き出す。
轟音。
黒い杭が、さっきまで俺たちがいた場所へ突き刺さった。
衝撃で身体が吹き飛ぶ。
勇者を抱えたまま地面を転がった。
耳が聞こえない。
視界が揺れる。
それでも、俺たちは生きていた。
「……今の、何だ」
「渡界者の権能だ」
勇者が息を切らしながら答えた。
「世界と世界の隙間へ、ほんの一瞬だけ退避する」
「そんな説明、聞いてない」
「前任者は教えなかったのか」
「前任者?」
「お前に鍵を渡した男だ」
心臓が跳ねた。
「知ってるのか」
「知っている」
「誰なんだ、あいつは」
「名は知らない」
「知ってるって言っただろ」
「顔を知っている。声も、癖も、死に際の台詞も」
勇者は俺の肩を借りて立ち上がろうとした。
左脚も負傷しているらしい。力が入っていない。
「待て。死に際って何だ」
「後で話す」
「今話せ」
「今は戦場だ」
もっともなことを言われた。
腹が立つ。
城門から兵士たちが駆けてくる。
「勇者様!」
「ご無事ですか!」
「私より先に、西門を閉じろ!」
勇者は俺から離れ、自分の脚で立った。
どう見ても無理をしている。
それでも兵士たちは、彼が立ち上がっただけで息を吹き返した。
「弩砲を境界獣の右脚へ集中させろ! 第三術式隊は門前に氷壁を展開! 負傷兵は内門へ下がれ!」
命令が次々と飛ぶ。
兵士たちが走る。
勇者は折れた左腕を押さえながら、地面に落ちていた剣を拾った。
「お前も城へ入れ」
「俺には名前がある」
「そうか」
「聞かないのか」
「聞いても、どうせ忘れる」
妙な言い方だった。
「真壁透だ」
勇者の動きが止まる。
ゆっくりと、こちらを振り向いた。
「……透?」
「ああ」
「真壁、透」
「なんで復唱する」
勇者の表情が崩れた。
驚きではない。
恐怖でもない。
泣き出しそうに見えた。
「違う」
「何が」
「前回は、そんな名前ではなかった」
風が吹いた。
赤い草が波打つ。
遠くで境界獣が咆哮し、城壁の上から矢の雨が降り注ぐ。
「前回?」
勇者は答えなかった。
俺の胸へ手を伸ばす。
指先が、服の上から黒い鍵の位置に触れた。
「本当に違う」
「おい」
「顔も、声も、何もかも違う」
青い目が俺を見つめる。
その目の奥に、途方もない疲労があった。
「何の話をしてる」
「私は、お前を知っている」
勇者は囁いた。
「お前は何度もここへ来た」
「今日が初めてだ」
「お前にとっては、そうなのだろう」
城内から鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
兵士たちの顔色が変わる。
「勇者様! 第二刻です!」
夜明けが近づいている。
帰還条件が頭をよぎった。
勇者を殺せ。
目の前にいる男は重傷だ。
武器さえあれば、今なら。
そう思った自分に吐き気がした。
勇者は俺の表情を見て、静かに笑った。
「聞こえたか」
「何が」
「命令だ」
呼吸が止まる。
「なぜ分かる」
「毎回、同じだからだ」
勇者は剣を逆手に持ち替えた。
柄を俺へ向ける。
「夜明けまでに、勇者を殺せ」
俺は動けなかった。
勇者の笑みから、感情が消える。
「安心しろ、真壁透」
炎に照らされた顔は、妙に穏やかだった。
「今度こそ、私がお前に殺される」




