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第一部 第九章 下院の牙

第九章 下院の牙


 南への旅路は、思ったより平穏だった。


 アルヴィナがノルドヴァルの「処理」を命じられた時、命令を出したのは上院の一人——ガロウという男だった。北方から中部にかけての領域を管轄する上院の実力者で、下院の小集団に汚れ仕事を回す元締めだ。


「ガロウの名前を出せば、大抵の検問は通れる。上院の仕事で動いている、と言えばいい」


 実際、検問ではガロウの名前が通行証代わりになった。値踏みの目が消え、事務的な確認だけで通される。


「ただし」


 とアルヴィナは付け加えた。


「ガロウの名前が通じるのは、ガロウの縄張りの中だけだ。上院にはガロウ以外にも何人もいる。縄張りが変われば、別の上院の顔を立てなければならない」


 タロンは隊列の後方を歩きながら、この構造を頭に刻んでいた。


(上院は一枚岩じゃない。複数の実力者がそれぞれの縄張りを持ち、その下に下院の小集団がぶら下がっている。封建制に近いが、血統ではなく暴力で成り立っている)


 五日目の夕方。

 次の宿営地を探している時だった。


   *


 街道の脇、枯れた並木の陰から——武装した集団が現れた。


 十二人。

 装備が揃っている。統一された胸当て。同じ紋様の腕章。組織の人間だ。


 先頭に立っているのは——見覚えのある男だった。


 太い腕。剃り上げた頭。

 駐屯地でアルヴィナの進路を塞ぎ、一発で顎を砕かれた男。


 グルダ。


「よう、アルヴィナ。久しぶりだな」


 顎にはまだ痣が残っていた。だが——空気が違う。

 あの時は一人で粋がっていた。今は十二人の武装集団を背にしている。そして腕章——ルクザールの紋様。


「グルダ。その腕章……ルクザールの配下に入ったか」


「正解。昨日付けでルクザール様の正式な下院戦士だ。お前みたいな最下層じゃねえ」


 ルクザール。

 タロンの頭の中で、書庫で読んだ情報が組み上がる。


(ガロウとは別の上院。北方中部の管轄を巡ってガロウと競合している。グルダはルクザールの傘下に入り、ガロウの配下であるアルヴィナを叩くことでルクザールの覚えを得ようとしている——上院同士の代理戦争だ)


「ガロウの犬を潰せば、ルクザール様の面子が立つ。俺は下院での地位が固まる。いい話だろ?」


「ヴァルグラムらしい話だな」


 アルヴィナが馬を降りた。


「タロン」


 声を落として、タロンに言った。


「お前は後ろに下がっていろ。手を出すな」


「…………」


「子供を戦わせるわけにはいかない。お前は私の庇護下にある。ここは私たちがやる」


 タロンは——何も言わず、数歩後退した。


 アルヴィナにとって、タロンはまだ「正体のわからない子供」だ。ノルドヴァルを焼いた存在かもしれないという疑いは持っているが、確証はない。道中で見せたのは、馬と同速で歩く裸足と、飯をほとんど食わないという奇妙さだけ。それだけでは——化け物とは断定できない。


 だからアルヴィナは、子供を庇護する側として振る舞っている。

 それが建前なのか本心なのか——タロンにはわからなかった。


   *


 戦闘が始まった。


 ドラグが大剣を抜いて正面の三人に突っ込む。シェイラが側面から回り込み、二人の足を払う。オルネスが後方から短剣を投げ、牽制する。ジェーンがアルヴィナの背中を守り、ヴェスカは投石で援護。


 アルヴィナ自身はグルダと正面からぶつかっていた。

 グルダは前より動きが良い。ルクザールの下院に入るために鍛え直したのだろう。だがアルヴィナの技術には及ばない。拳と蹴りの組み合わせで、少しずつ押し込んでいく。


 タロンは隊列の後方で、フードを被ったまま立っていた。

 戦闘を観察している。それだけ——のはずだった。


 グルダの部下の一人が——タロンに気づいた。


 後方に立つ、フードの少年。戦闘に参加していない。護衛もついていない。

 無防備な標的。


 男はにやりと笑い、戦闘の混乱に紛れてタロンに近づいた。

 だが——剣ではなく、手のひらを前に突き出している。


 掌に青い光が凝縮していく。

 幾何学魔法。低級だが、人間の子供を吹き飛ばすには十分な威力の衝撃波。


(魔法——)


 タロンの目が、それを捉えた。


 男が魔法を放った。


 青い光がタロンに向かって——


   *


 ——全員が、凍った。


 グルダも。アルヴィナも。ドラグも。シェイラも。オルネスも。ヴェスカも。ジェーンも。

 グルダの部下たちも。

 全員。


 戦闘の音が消えた。

 剣と剣がぶつかる音も、怒号も、足音も——全てが止まった。


 代わりに満ちたのは——静寂ではなかった。


 圧。


 空気そのものが変質したかのような、途方もない圧力が、街道の一帯を覆い尽くしていた。

 息ができない。体が動かない。思考すらも鈍る。


 全員がその場に立ち尽くしたまま——あるいは膝から崩れ落ちたまま——一つの点を見ていた。


 フードの少年。


 タロンは——立っていた。

 ただ立っていた。何もしていない。手を上げてもいない。声を発してもいない。


 だが——少年の周囲の空間が、歪んでいた。

 光の屈折が狂っている。地面の霜が蒸発している。空気が——震えている。


 そして——青い光は消えていた。


 魔法が放たれた瞬間に——消滅していた。

 打ち消されたのではない。発動した魔法そのものが、存在を許されなかったかのように、跡形もなく消えていた。


 魔法を放った男は——立っていた。


 立ったまま——動かなかった。


 手を前に突き出した姿勢のまま。目は見開かれたまま。口は半分開いたまま。


 数秒が経った。


 男の体が——ゆっくりと、前のめりに倒れた。

 地面に倒れた時、砂埃すら立たなかった。


 死んでいた。


 傷はない。血も出ていない。骨も折れていない。

 ただ——死んでいた。

 まるで、生きることを止めたかのように。


 圧が——消えた。


 空気が元に戻る。音が戻る。風が吹く。


 全員の体が——震えていた。


 グルダが膝をついている。歯がガチガチと鳴っている。

 部下たちは——武器を取り落としている者が大半だった。


 ドラグが大剣を握ったまま、石像のように固まっている。

 シェイラの全身の毛が逆立っている。獣人の本能が——逃げろと叫んでいる。

 オルネスの顔から、完全に血の気が引いていた。

 ヴェスカが——座り込んで、両手で自分の体を抱いていた。

 ジェーンがアルヴィナの腕を掴んでいる。指が白い。


 アルヴィナは——立っていた。

 立ってはいたが、足が震えていた。隠しきれないほどに。


 全員の目が——フードの少年に向いていた。


 タロンは——ただ立っていた。

 何事もなかったかのように。

 フードの下の表情は——見えなかった。


   *


 静寂が——長く続いた。


 最初に動いたのは、アルヴィナだった。


「——今だ。全員叩き伏せろ」


 声が震えていた。だが——指示は的確だった。


 グルダの部下たちは恐慌状態にあった。武器を落とし、腰が抜け、逃げることすらできていない。


 ドラグが——我に返った。大剣を振り上げ、棟で男の側頭部を打つ。意識を断つ。殺さない。

 シェイラが次の一人を絞め落とす。

 オルネスが短剣の柄で後頭部を叩く。


 次々と、グルダの部下たちが意識を失っていく。

 戦闘ではなかった。恐慌状態の人間を倒す、それだけの作業だった。


 グルダ自身も——ドラグに組み伏せられ、首を絞められて意識を失った。殺してはいない。


 一分もかからなかった。


 十二人の武装集団が——一人を除いて——全員地面に転がっている。


 一人だけが——倒れたまま、二度と起き上がらない。


 魔法を放った男。

 傷も血もない、綺麗な死体。


   *


 タロンは——自分が何をしたのか、わかっていなかった。


 魔法が飛んできた。

 体が反応した。

 それだけだ。


 意図していない。制御もしていない。

 ノルドヴァルの時と同じ——体が勝手に動いた。

 だがノルドヴァルとは違い、今回は全てを焼き尽くしはしなかった。


 あの男だけが死んだ。


(……殺してしまった)


 その認識が——遅れてやってきた。


 殺した。また。

 今度は——一人だけだが。


(僕は何もしていない。体が勝手に——)


 言い訳だ。

 体が勝手に動いたのは事実だが、死んだのも事実だ。


 リーシャの時と——同じだ。

 制御できない力が、人を殺す。


 フードの下で、タロンの手が震えていた。

 それに気づいた者は——いなかった。

 全員が、自分自身の恐怖と向き合うのに精一杯だったから。


   *


 問題が起きた。


 グルダたちは生きている。意識を取り戻せば、ルクザールの元に戻るだろう。

 だが——一人、死んでいる。


「これはまずい」


 オルネスが死体の前にしゃがみ込んで言った。声はまだ僅かに震えている。


「ルクザールの正式な下院戦士が死んだ。しかも傷がない。毒殺とも暗殺とも説明がつかない。——グルダたちが目覚めて報告すれば、ルクザールは黙っていない」


「向こうが先に仕掛けてきた。正当防衛だ」


 ドラグが言った。


「正当防衛でも、死人が出た以上は話が変わる。下院同士の揉め事なら上院は無視するが——配下が殺されたとなると、面子の問題になる。ルクザールは必ず動く」


 アルヴィナが腕を組んだ。


「……ガロウに先手を打つ。こちらから事情を説明し、ガロウの裁定を仰ぐ。ルクザールが動く前に」


「つまり——中央に出頭するということか。全員で」


「全員でだ。この件に関わった全員が出向かなければ、ガロウも守りようがない」


 ジェーンが声を上げた。


「全員って——タロンもか」


 全員の目が——タロンに向いた。


 あの圧。あの恐怖。あの男の死。

 全員が見ていた。全員が感じていた。


 だが——何が起きたのか、誰も説明できない。


 タロンが何かをしたのか。

 それとも、何か別のことが起きたのか。


 わからない。

 わからないから——余計に怖い。


 アルヴィナは——タロンを見つめた。


 フードの下の白い顔。少年の顔。

 あの圧の中心にいた存在。


 保護下の子供——そう扱ってきた。

 だがもう——「子供」で通すのは無理かもしれなかった。


「……タロン。来れるか」


「行く」


 即答だった。


「……カヴォンの中央拠点だ。ガロウの配下が集まる場所で、上院に近い。お前がそこに行けば——目立つ可能性がある」


「構わない」


 タロンの声には——感情がなかった。

 いつもの、平坦な声。


 だがアルヴィナは——その声の奥に、何かを聞いた気がした。


 覚悟。

 あるいは——諦め。


「……出発は明朝。全員、準備しろ」


 全員が散った。


 残されたのは、焚き火と、一つの死体と、タロンだった。


 タロンは死体を見下ろしていた。


 傷のない、綺麗な死体。

 この男が何者だったか、タロンは知らない。名前も、年齢も、故郷も。


 ただ——死んでいる。

 タロンの体が放った何かによって。


(……また、殺してしまった)


 リーシャの顔が——一瞬だけ、浮かんだ。


 空色の瞳。「あなた、だれ」と問うた、あの目。


 振り払った。


 南の空を見上げた。

 星が出ていた。


 明日から——全てが動き始める。

 カヴォンの中央拠点。上院に近い場所。

 タロンの存在が——この国の権力構造の中に、否応なく組み込まれていく。


(……行くしかない)


 それ以外に、道はなかった。

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