第一部 第八話 鎖と契約
第八章 鎖と契約
ヴァルグラムの北方駐屯地は、タロンが想像していたものとは違った。
歴史書には「力こそ全ての武力国家」と書かれていた。街道を封鎖する検問所があり、通行証のない者は追い返される——そう聞いていた。
実際に見た検問所は——丸太を三本渡しただけの粗末なバリケードと、その横でくたびれた毛皮を纏った男が二人、焚き火を囲んで酒を飲んでいるだけの代物だった。
「よう、アルヴィナ。また貧乏くじでも引いて帰ってきたか」
「まあな。通るぞ」
「そのガキは?」
「拾った。道連れだ」
「ふうん。好きにしろ」
それだけだった。
検問の意味があるのかすら疑わしい。だがタロンは——この光景から、一つのことを読み取った。
(この国は、末端の管理に興味がない。力のある者しか見ていない)
ノルドヴァルの書庫で読んだ歴史書の記述と一致する。ヴァルグラムは中央集権ではなく、無数の小集団が自律的に動いている。上院は全体の方向性を決めるだけで、末端の統治はそれぞれの下院や領主に丸投げだ。
つまり——この国には、隙間がいくらでもある。
バリケードを越えると、駐屯地の全容が見えた。
丘の斜面に張り付くように、テントと木造の小屋が雑然と並んでいる。整備された街並みなどない。あるのは武器庫、酒場、鍛冶場、闘技場。生活のための建物ではなく、戦いのための建物ばかりだ。
人が多い。
人間だけではない。角の生えた大柄な魔族が鎧を磨いている。獣人の集団が空き地で組手をしている。緑の肌のゴブリンたちが荷物を運んでいる。
ノルドヴァルの多種族混在とは雰囲気が違った。あの街では人々は笑い合い、商売をし、日常を営んでいた。ここでは——全員が、戦うために存在している。
(ノルドヴァルは「共存」だった。ここは「競争」だ。種族は関係ない。強いか弱いかだけが問題)
すれ違う者たちの視線が、タロンに向いた。
値踏みの目。「こいつは強いのか弱いのか」を一瞬で判断しようとする目。
子供の体躯を見て、大半が興味を失って目を逸らした。
一人だけ——太い腕の男が、わざとタロンの進路を塞いだ。
「おい、アルヴィナ。また余計なもん拾ってきたのか。子守の仕事でも始めるつもりか?」
背後で笑い声が起きた。下品な、嘲りの笑い。
アルヴィナは歩調を変えなかった。
「退け、グルダ。邪魔だ」
「邪魔? ここは俺の縄張りだぞ。下院最下層の女が偉そうに——」
「退け、と言った」
アルヴィナの声が変わった。
冷たく、低く。
没落しても消えない何か——血の中に刻まれた、上に立つ者の声色。
グルダと呼ばれた男は——一瞬だけ怯んだ。だがすぐに虚勢を取り戻し、唾を吐いた。
「気取ってんじゃねえよ、亡命者が。テメエがどんな名家の出だろうが、ここじゃ拳がモノを言うんだ」
その言葉が終わる前に——アルヴィナの拳が、グルダの顎を捉えていた。
速い。
タロンの目にも速かった。予備動作がない。会話の流れの中で、自然に踏み込み、自然に拳を放った。
グルダの巨体がよろめく。膝をつく前に、アルヴィナの蹴りが脇腹に入った。倒れた。
「次に邪魔したら歯を全部抜く」
アルヴィナは倒れたグルダを跨いで歩き続けた。
周囲の笑い声は——消えていた。代わりに、静かな注視。強い者に向ける、ヴァルグラムの民の目。
タロンは——何も言わず、アルヴィナの後ろを歩いた。
(……強いな、この女)
魔力ではない。身体能力でもない。純粋な技術と度胸。
魔族の力も亜人種の身体能力も使わず、人間の体一つで——この暴力の坩堝を渡り歩いている。
それが、どれほど異常なことか。タロンにはわかった。
*
アルヴィナの拠点は、駐屯地の外れにあった。
「拠点」と呼ぶのも躊躇われる代物だった。廃材で補修された元・家畜小屋。壁には隙間風が入り、屋根は傾いている。入口の扉は蝶番が壊れていて、立てかけてあるだけだ。
「ようこそ、我が栄光の本拠地へ」
アルヴィナが自嘲気味に言った。
中に入ると、五人の人間が——いや、五つの存在が、それぞれの場所にいた。
入口の横で大剣を磨いていたドラグが、タロンを一瞥して鼻を鳴らした。
「帰ったか。で、本当にそのガキを連れてきたのか」
「文句があるなら外で聞く」
「ねえよ。ただ——信用はしてねえ」
ドラグの目は——タロンの体を上から下まで舐めるように見ていた。品定め。「こいつは殴り倒せるか」を計算している目。
(……こいつは単純だ。力で測る。力を見せれば黙る)
奥の壁にもたれていた獣人の女性——シェイラが、金色の瞳を開けた。
何も言わなかった。ただ、タロンを見た。数秒。それから目を閉じた。
(……この女は違う。力ではなく、匂いで判断している。僕の匂いが——人間のものではないことに、気づいている)
テーブルの前で地図を広げていたオルネスが、顔を上げずに言った。
「アルヴィナ。その子供をどう扱う。食い扶持が増えるだけなら反対だ」
「食い扶持は増えない。こいつは飯をほとんど食わない」
「ほう」
オルネスの目が——初めてタロンに向いた。
薄い笑み。計算する目。情報を集め、利用する目。
(こいつは頭を使う。ドラグとは別の意味で危険だ。裏切る時は——こいつが最初かもしれない)
テーブルの端で干し肉を齧っていたヴェスカが、跳び上がってタロンの前に駆け寄ってきた。
「タロン君でしょ! さっき手を振ったのにシカトされた! あたしヴェスカ! よろしくね!」
小柄な体。尖った耳。琥珀色の瞳。人間に近い外見だが、魔族だ。
その顔に浮かぶのは——純粋な好奇心と人懐っこさ。
タロンは——一瞬だけ、息が詰まった。
この笑顔を、知っている。
リーシャと——同じ種類の笑顔だ。
(…………)
「……よろしく」
声が小さくなった。自分でもわかった。
ヴェスカはそれに気づいたのか気づかなかったのか、にこにこしながらタロンの隣に座った。
最後に——部屋の隅で腕を組んでいた女が、口を開いた。
「ジェーンよ。アルヴィナの……まあ、古い知り合い」
アルヴィナと同じアルディナ系の顔立ち。だが雰囲気が違う。アルヴィナが前に出る人間なら、ジェーンは後ろから見ている人間。観察する目。
その目が——タロンとアルヴィナを交互に見ていた。
(……この女は、アルヴィナを見ている。僕じゃなく)
「さて」
アルヴィナが部屋の中央に立った。
「紹介は済んだ。タロン、お前はしばらくここにいろ。南に行くなら準備がいる。通行証、補給、情報。最低でも数日はかかる」
「……わかった」
「部屋はないが、あの隅に毛布がある。使え」
「眠る必要はほとんどない」
「……は?」
「二、三日に一度、数時間で十分だ」
六つの目が——タロンに向いた。
ドラグが眉を寄せ、オルネスが目を細め、シェイラが薄く目を開け、ヴェスカが「えー、すごい」と呟き、ジェーンが唇を引き結んだ。
アルヴィナだけが——表情を変えなかった。
「そうか。なら好きにしろ」
それだけ言って、自分の寝床に向かった。
*
夜。
全員が眠った後、タロンは拠点を出た。
駐屯地の夜は——昼と変わらなかった。
酒場から怒号と笑い声が漏れている。どこかで剣がぶつかり合う音がする。闘技場の松明が、夜空を赤く染めている。
この国は——眠らない。
タロンはフードを被り、駐屯地の中を歩いた。
観察するために。
闘技場を覗いた。
円形の砂地で、二人の戦士が殴り合っている。一人は人間、一人は角の生えた魔族。周囲では観客が賭けをしている。金が飛び交い、酒が飛び交い、罵声が飛び交う。
決着がついた。魔族の戦士が人間を砂に沈めた。歓声と怒号。金が動く。
(決闘で地位が決まる。武勲で席を得る。出自は関係ない。——歴史書の通りだ)
酒場を覗いた。
下院の連中が集まっている。テーブルを囲んで何かを話している——いや、怒鳴り合っている。領地の境界。交易路の利権。上院への推薦。全てが暴力の延長線上で交渉されている。
(これがヴァルグラムの政治か。議論ではなく恫喝。合意ではなく屈服。だが——機能している。少なくとも、この国は動いている)
鍛冶場を覗いた。
深夜にもかかわらず、火が燃えている。魔族の鍛冶師が、赤熱した金属を叩いている。その隣で人間の若者が指示を受けながら素材を運んでいる。
タロンの目が——素材に吸い寄せられた。
魔獣の骨。鱗。牙。
素材術の加工途中のもの。だが——技術が雑だ。素材の特性を無視した力任せの加工。タロンの目から見れば、あの素材の持つ潜在能力の三割も引き出せていない。
(……雑だな)
そう思った瞬間——自分の中に、懐かしい感覚が走った。
改善したい。
あの素材をもっと効率よく加工する方法を知っている。配合を変えれば強度が倍になる。接合点の角度を変えれば柔軟性が出る。
ハイヴの工廠で、夜な夜な試行錯誤していた頃の衝動。
(……やめろ。今はそれどころじゃない)
衝動を押し殺し、鍛冶場を離れた。
駐屯地の外縁部に出ると、丘の上から周囲の地形が見えた。
南に平原が広がり、その先に——いくつかの都市の灯りが見える。ヴァルグラムの中枢に近い都市群だ。
ノルドヴァルの書庫で見た地図を思い出す。
カルディナの記録院——トヴァル家にタリンの血統認定を出した機関。それがあるのは旧王都カルディナ。今はノヴァ・カルディナと呼ばれる学者の都市国家。
そこに行くには、ヴァルグラムの領域を縦断する必要がある。
単独で突っ切ることは——できる。この体なら、障害を力で排除しながら進むことも可能だ。
だが。
(無駄な戦いは避けたい。ノルドヴァルで——学んだ)
あの街を焼いた記憶は、断片しか残っていない。
だが結果は知っている。制御を失い、全てを灰にした。リーシャを——
(考えるな)
拳を握った。
指先から黒い靄が滲みかけて——押し戻した。
(制御だ。力を使うなら、制御しなければならない。暴走すれば——また、同じことになる)
だから——アルヴィナの提案は、実は悪くない。
この女と家臣たちが「通行証」になるなら、無駄な衝突を避けてヴァルグラムを通過できる。アルヴィナはこの国の仕組みを知っている。どこが安全で、どこが危険で、誰が何を握っているか。
それは——タロンが書庫では得られなかった情報だ。
(利用する。この女と、この集団を。目的地に着くまで)
そしてアルヴィナも、タロンを利用するつもりでいる。
互いにそれを隠していない。少なくとも——嘘をつき合う関係よりはましだ。
ヴォルグは、笑顔で心臓を貫いた。
リューヤクは、友情を語りながら殺戮を命じた。
アルヴィナは——少なくとも、嘘はついていない。
「お前を利用する」と言った目は、真っ直ぐだった。
(それだけで十分だ。今は)
丘の上で、灰色の空を見上げた。
星が出ていた。北方の星。五百年前と同じ星座。
この星の下で、父が戦い、兄が笑い、姉が剣を振るっていた。
もうどこにもない。全部。
だが——タリンの名は、まだ残っている。
「記録院」という形で。五百年経っても、タリンの権威を利用して這い上がろうとする者がいる。
トヴァル家は灰にした。
だが根を断っていない。
(根を、断つ)
それが——今、この空っぽの器の中に残った、唯一の方角だった。
復讐。
コーカサスを滅ぼしたタリンの名の、最後の一片まで。
リーシャの前で名乗った言葉が、胸の奥で脈打っている。
——我が名はタロン・コーカサス。復讐者だ。
復讐者。
それ以外の何者でもない。
拠点に戻ると、ヴェスカだけが起きていた。
暗がりの中で、小さな魔石のランプを手元に、何かの道具の手入れをしている。
「あ、タロン君。散歩?」
「……うん」
「眠れない? ああ、二三日に一度でいいんだっけ。便利だなあ。あたし毎日八時間は寝ないとダメなんだよね。魔族のくせにさ」
ヴェスカは笑った。
暗がりの中で、琥珀色の瞳が柔らかく光っている。
「ねえタロン君。ここ、最初はちょっと怖いかもしれないけど——慣れるよ。みんな荒っぽいけど、悪い奴ばっかりじゃないから」
「……そう」
「うん。ドラグは口は悪いけど、一回信用した相手には命がけで戦うし。シェイラは怖い顔してるけど、あたしが熱出した時はずっと看病してくれたし。オルネスは性格悪いけど——いや、あいつは性格悪いな。まあいいや」
タロンは——黙って聞いていた。
ヴェスカの声は、暗い部屋の中で不思議な温度を持っていた。
リーシャとは違う。もっと軽く、もっと気楽で、もっと——雑。
だが、その雑さの中に——嘘がなかった。
「ジェーンはアルヴィナの幼馴染なんだよ。ずっと一緒にいるの。アルヴィナがアルディナから逃げてきた時も、ジェーンが一緒だったんだって。でもさ、ジェーン最近ちょっと——まあ、いいや。これはあたしが言うことじゃないし」
ヴェスカは途中で言葉を切った。
何かに気づいたのか、気を遣ったのか。
「……タロン君は、一人で旅してたの?」
「うん」
「寂しくなかった?」
「…………」
寂しい。
その言葉が——ぼんやりと、胸の奥に触れた。
触れたが——掴めなかった。寂しいという感情の輪郭が、やはりぼやけている。
「……わからない」
「わからない?」
「寂しいかどうか、自分でわからないんだ」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。
ヴェスカの声の温度が、つい口を緩ませたのかもしれない。
ヴェスカは——しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「それはたぶん——すっごく寂しいってことだと思うよ」
タロンは何も答えなかった。
ヴェスカはそれ以上何も言わず、ランプの光を落として毛布に潜り込んだ。
暗い部屋に、六つの寝息と、一つの静寂が残った。
タロンは壁にもたれ、目を開けたまま、朝を待った。




